効率重視で無駄を嫌う婚約者にとって、私は全てにおいて足りないそうです
私の婚約者は無駄を嫌う。
効率を重視し、感情を厭うから、私はいつも気付かれないように1人でそっと動くしかなかった。
「どうされましたか?」
夜会で母からもらった大切な髪飾りを落としてしまい、探しに行った。
歩いた場所を戻り、必死で地面に目を凝らしながら歩く私に声をかけて下さった人がいた。
澄んだ青空のような瞳をした優し気な青年だった。
少し癖のあるフワフワの薄茶色の髪に低く穏やかな声。
それが彼との初めての出会いだった。
「いえ…何でもないのです。おかしな行動をしていて申し訳ございません…。少し落とし物をしてしまって。」
落とし物をしたことを婚約者が知れば、彼の言動は予想できる。
いえ、以前に、同じ失敗をした時に実際に言われたのだ。
「落としたことに気付かないなんてどれだけ愚鈍なのだ。そもそも落とし物をした時点で褒められたことではないが、それを自分で探すなど非効率的なことを行うその神経が理解できない。その辺の侍女や侍従にでも託けて探させればいいだけの事。見つからなくても死ぬわけでもないのだから、それなら運命だと理解して諦めればいいだけのことだ。君の行動はいつも無駄が多い。」
彼の言う事は間違ってはいないし、私が愚鈍なこともわかっている。
だから彼に詳しい内容は伝えずに一人で探しに出たのだ。
死んだ母がくれた大切なものだからこそ、焦燥感が溢れて探さないという選択肢が選べなかった。
もちろん、侍女や侍従にも声はかけた。
でも見つかると決まったわけではないし、私が歩いた場所は私が一番わかっているのだから…。
そんなことを考えながら優しく声をかけてくれたその青年に、その気遣いへの感謝をこめて、小さく笑った。
「落とし物?それは何でもない事ではないでしょう。大切な物なのですね。私も一緒に探します。どんなものですか?」
“大切な物”
彼の言葉にハッと息を飲んだ。
初めて会った人が私の行動だけでわかってくれた。
そして見ず知らずの私に一緒に探すと言ってくれた。
それだけのことが泣きそうに心に響いた。
「でも…せっかくの夜会ですので…。」
震える声で遠慮すると、その青年は明るい瞳を真っすぐにこちらに向けて安心させるように笑ってくれた。
「夜会は苦手で、実はこっそり逃げ出してきたのですよ。だから、私に抜けてきた大義名分を与えて下さい。落とし物はなんですか?」
私が気を遣わないように明るく返事をしてくれた彼の優しさに心が温かくなる。
「ありがとうございます。実は亡くなった母からもらった髪飾りを落としてしまって…。青い宝石がついた銀色の髪飾りで…。」
私の説明を聞くと、私が歩いた場所を一緒に辿ってくれた。
そして会場の下の庭園の端で、それを見つけてくれたのだ。
「これです!あ、ありがとうございます!!」
涙が溢れそうになるのを必死で耐えながら、御礼を伝えると、自分の大切な物を見つけたみたいに嬉しそうに笑ってくれた。
「良かった。傷もついていないようですね。」
「はい、夜会が始まる少し前に、花が綺麗だから思わず立ち止まって見ていたのです。きっとその時に落としたのですね。」
ギュッと抱きしめるように、大切な髪飾りを両手で包み込んだ。
「きっと花の妖精が悪戯をしたのですね。」
悪戯っぽく笑って優し気な瞳を細めた彼に、そういえば名前を聞いていなかったと気付いた。
「あの、失礼いたしました。私はアネットと申します。アネット・フェンネル。貴方のお名前を教えて頂けますか?ぜひお礼をさせて下さい。」
「ああ、失礼しました。私はジェフリー・スコット。フェンネル子爵家のご令嬢でしたか。お父上にはお世話になっております。」
ジェフリー・スコット様…。
スコット伯爵家の方ね。
スコット伯爵家の嫡男のエバート様とはご挨拶させて頂いたことがあるけど、ジェフリー様とは初めてだわ。
「あの…。」
「アネット様、バーナード伯爵子息様がお探しです。」
ふいに侍女に呼ばれ、振り返ると、少し離れた所で不機嫌そうに立つ婚約者の姿が見えた。
会場から抜けた私にお怒りなのだわ。
この距離でさえ、直接私を迎えに来るのではなく、侍女を使うあたり彼らしい。
小さくため息をつくと、侍女に返事をする。
「あれは執務官のマルク殿…、あなたがマルク・バーナード伯爵令息殿の婚約者でしたか。どうぞ、行って下さい。」
気遣うように笑って小さく頷く彼に、もう一度お礼を伝えて頭を下げると、侍女について彼の元へ戻る。
「外交で参加されていたケルン公国の方に挨拶しようと君を探したらいないから非常に困った。近くでキャサリンが控えてくれていたから良かったが、君は私の婚約者としての自覚が足りない。夜会の最中に会場を抜け出すなど何を考えているのだ。」
「申し訳ございません…。」
「私は謝ってほしいのではない。改めて欲しいだけだ。」
そう言って探したというわりに、振り向きもせずに歩いていく彼に半ば小走りで付いていく。
「会場を抜けることは伝言で残したのですが、お聞きになっておりませんでしたか?」
少し息を切らすように話しかけるが、彼からの返事はない。
いつものことだ。
彼は話したいときは話すが、こちらが聞いたことには気分が乗らないと返事をしない。
一度だけ、私も同じことをしたことがある。
ただ、それは考え事をしていた時に話かけられた事に気付かなかっただけだったが、人の問いを無視するなど、婚約者としても人としてもあるまじき所業だと軽蔑のこもった目で睨まれた。
「君の時間と執務官として働く私の時間が同じだけの価値があるとは思わない事だ。」
そう言ってしばらくの間、私のことはいないもののように扱われたのだ。
マルク・バーナード。
バーナード伯爵家の嫡男である彼は、この国の執務官として働く優秀な方だ。
六才年上の彼から婚姻の申し込みが我が家にあったのは、単に私の亡くなった母が大国ケルン公国の伯爵令嬢だからだ。
この国の子爵令息だった父が若い頃、外遊先のケルン公国で運命の出会いをしたのだ。
聡明な母は幼い時から私にケルン公国語をしっかりと教えてくれた。
そのため、自国語と同じようにケルン公国の言葉を話せる。
子爵家が経営する商会は諸外国からの珍しい商品を扱うため、アネットは弟と共に、諸外国の言語や歴史、扱っている商品についても幼い時から学んでいた。
マルク様は、この国の頭脳と呼ばれる宰相であるヴェルデモンド侯爵に憧れていて、彼に近付くため必死で勉強をしてきたそうだ。
若くして執務官として抜擢された彼は、優秀な妻を求めた。
それが…私…。
でも、彼はいざ婚約した私が、思っていたよりも普通でガッカリしたのだそうだ。
聞いていた話と違うと何度も言われた。
ケルン公国の言葉を話せて、諸外国に詳しく優秀。
決して間違いではないが、それはあくまで母のお陰だったし、詳しいのは我が子爵家の商会に必要なため勉強していたに過ぎない。
政治を行うために勉強していたわけではない私の知識は、彼にとっては足りないものだったようだ。
「こんなことなら、キャサリンと婚約すればよかった。」
この言葉は婚約してからのニ年間、常に聞かされた言葉だ。
キャサリン様は男爵家のご令嬢でありながら難関と言われる文官試験に受かった優秀なご令嬢だ。
今はマルク様の執務補佐官をされている。
ケルン公国語も話せるし、政治の話も出来る上にとても美しい令嬢だ。
金色の巻き毛を一つにまとめて、颯爽と歩く姿は男性だけでなく女性からも憧れの目で見られている。
ご挨拶の折に、理知的な焦げ茶色の切れ長の瞳を細めた飾りのない笑顔に、アネットも、素敵な方だと好印象を持った。
キャサリンのように努力しろ…
キャサリンのように全体に気を配れ…
キャサリンのように効率的に動け…
何か失敗をするたびに、彼の期待を裏切るたびに、彼女と比べられる。
アネットは正直疲れてもいた。子爵家よりも高位貴族の彼に婚約の解消を願い出ることは出来ない。
彼はアネットの足りないところを、何度も改善するよう厳しく指摘する。軽蔑のこもったあのオレンジの瞳で睨まれると、体が萎縮してしまうのだ。
彼と婚約が決まるまでは明るく朗らかで素直な性格だったアネットはどんどん笑顔を失っていった。
子爵家は弟が継ぐことになっている。アネットはどこかへ嫁ぐしかない。
父はアネットを大切に思ってくれているが、貴族として性格の不一致が原因の婚約解消は受け入れてくれないだろう。
婚約者として、マルク様は最低限務めてくれている。
ただ、共にいる時間が苦痛なだけだ…。
顔色を窺って、機嫌を見て、黙るか話すか考える。
話しても答えを期待しない。返答がない時は質問や話の内容が彼にとって気に食わない時だ。私が悪い…。ずっとそう思っていた。
あの夜会の後、アネットは髪飾りを見つけてくれたジェフリー様にお礼の手紙と少しばかりの品を送った。
するとすぐに返事が届いた。
『ご丁寧に、お手紙をありがとう。髪飾りが無事に見つかってよかった。そして素晴らしい贈り物をありがとう。ケルン公国の令嬢の間で人気の、果実を使った紅茶だよね。実は最近お茶の時間がとても楽しみになったんだ。これほど爽やかな後味の良いお茶を飲んだのは初めてだった。お茶を飲みたくて休憩ばかり取るせいで、兄に怒られてしまったよ。
アネット嬢はケルン公国の本が好きだと聞いた。最近まで留学していたから、沢山本を買って帰ってきたのだけれど、もしよければこの本を読んで感想を聞かせて欲しい。』
そして一冊の本を手紙と共に送って下さった。
誰に聞いたのかしら…?私は幼い時から冒険小説が大好きで、送って下さったこの本は大好きな作家さんの最新本だ。
国を跨いでいるため、商会を通じてもなかなか手元に届くまで時間のかかるものだが、持ち帰ったものだからか、こんなに早く最新刊が読めるなんて嬉しい。
マルク様と婚約してからは冒険小説など何の知識の足しにもならないと一蹴され、彼の前では本の話はしないようにしていた。
無難な物、必要な物…、マルク様から貰う贈り物はそういったものばかりだった。
今日はマルク様の家に向かい、伯爵夫人としての勉強を夫人から教わる予定だったため、帰ったらこの本を読む事を楽しみに頑張ろうと、明るい気持ちで立ち上がった。
―――
「アネット嬢?」
その日は王都で侍女と護衛と共に買い物に来ていた。
もうすぐ弟の誕生日で、何か素敵な物が見つからないかとブラブラと歩いていたのだ。
「…ジェフリー様…?」
「やぁ、偶然だね。私は祖父に頼まれて本を取りに来たんだ。」
「そうなのですね。お一人ですか?」
「うん。一応護衛はついて来ているけどね。アネット嬢は?」
明るい空と同じ色の瞳を真っすぐにこちらに向けられて、心臓がトクンと鳴った。
この方は真っすぐに人を見るのね。
「私は弟の誕生日の贈り物を見に来ました。でも、なかなか良いものが見つからなくて…。」
「良かったら、一緒に見てもいいかい?知り合いの店があって、そこは面白いものを置いているんだ。」
「まぁ、良いのですか?ぜひ紹介してください。」
婚約者がいる身で、他の男性と王都を歩くのは…と思ったが、護衛も侍女も一緒にいて、二人きりではないし、偶然会っただけだもの。
それにもう少しだけこの方と話してみたい…。
ジェフリー様との時間は想像以上に楽しかった。
ゆっくり歩幅を合わせて歩いて下さる。興味を持ってキョロキョロする私の視線を感じると立ち止まって一緒にお店に入ってくれる。
面白いものを見つけると、これなんてどう?と私に聞いてくれる。
沢山話をした。
好きな色は、好きな花は?送ってくれた果実の紅茶で他にどんなものがあって、アネットはどんな果物がすきなのか。本の感想や他にどんな本が好きなのか。
甘いものが好きだと言った彼に、予約していた美味しいタルトが食べられるお店に休憩がてら一緒に行きませんかと誘うと、喜んでくれて、そのお礼に、私が好きだと言った花をいつ買ったのか、帰り際に渡された。
―その一月後―
珍しくマルク様に友人の誕生日パーティに、婚約者として同伴して欲しいと言われ、初めて訪れるヘイルズ侯爵家の屋敷に訪れていた。
「せっかく贈ったドレスが似合ってないな。君は背が低いから、スッキリと体に沿ったデザインを着ると貧相に見える。こういう形はキャサリンのようなスタイルの良い女性にしか似合わないのだな。そもそも着て見て似合わないとわかったら、別のドレスにすればいいのに…。全く気が利かない…。」
仕事場から直接向かうから現地で落ち合おうと言われ、贈られたドレスを着て参加したアネットは、開口一番にマルク様に言われたその言葉に溜息を飲み込んだ。
贈ったドレスを着ていなかったらそれはそれで常識がないのかと不機嫌になることは間違いないのに…。
職場から一緒に来たらしいキャサリン様は紺色のシンプルなドレスを綺麗に着こなしていて相変わらず美しかった。
しかし、キャサリン様もその言葉を聞くと唖然とした顔をマルク様に向けたあと、こちらを気遣うように見つめるが、上司で高位貴族であるマルク様には何も言えなくて申し訳なさそうにしている。
気にしなくて大丈夫だというように、アネットは小さく笑顔を見せて頷いた。
「至らなくて申し訳ございません…。」
静かに頭を下げたアネットに苛立ちが収まったのか、小さくため息をついた後エスコートするように腕を出した。
そっと彼の腕に手を添えると、中に入る。キャサリン様は友人を見つけたのか静かに挨拶をして私たちから離れた。
その後ろ姿を名残惜しそうに見つめるマルク様に、アネットは心の中が冷えていく感覚がした。
今日のアネットは一週間前にマルク様から贈られたシンプルなオレンジ色のドレスを着ている。この色はマルク様の瞳の色なのだが、銀色の髪に、グレーの瞳の少し幼い顔立ちのアネットには形の前に色が似合っていない。自分では絶対に選ばない色だが、彼は婚約者には自分の色のドレスという定番に従って、似合う、似合わない関係なく選んでいるようだ。
婚約者が決まる前までは大好きな水色やラベンダー色のドレスを着ることが多かった。
小柄で幼い顔立ちのアネットには、本来は少しふんわりした形のドレスが似合う。
マルク様が私に似合うものを選んでくれることはない…。
きっと参考にされているのはキャサリン様なのだ。
彼女は背が高く金色の美しい巻き毛なので、はっきりした色が似合うのだ。
今日の紺色のシンプルだが品の良いドレスは良く似合っていた。
会場に入ると、マルク様について挨拶に回る。
隣で佇む冴えない婚約者の私を、気の毒そうに見つめる彼らの視線に耐えながら、必死で笑顔を張り付ける。
そのうち、私という存在が恥ずかしくなったのか、マルク様は明らかに不機嫌になっていった。
「執務官として努力している私に釣り合わない君のせいで、とんだ恥をかいた。本当に君は私の期待を裏切る天才だよね。一緒にいると恥ずかしい。この婚約は間違いだったよ。」
「…申し訳ありません…。」
「だから、謝ってほしいわけじゃないよ。改めて欲しいだけだって何度も言っているだろう。いや、もう、こんな不毛な時間は無駄だな。アネット、悪いが君との婚約は解消したい。」
「……!!」
「…何を驚いているんだ。当たり前だろう。私は婚約者として努力したが、君がなんの努力もしないのだからこうなるのは当たり前のことだろう。」
底冷えするような冷たい視線をこちらに向けて睨みつけるマルク様に、アネットは小さく喉を鳴らした。
「…至らぬ婚約者で…申し訳ありませんでした…。婚約の解消、謹んで承ります…。」
会場の端で話していたとしても周りには人もいる。
二人の会話が聞こえた人達は驚いたように二人の様子を見ていた。
「今…婚約解消って…。」
「こんなところで…?」
コソコソと話す周囲の声が聞こえて、苛立つようにマルク様はアネットを残して離れた。
残されたアネットはそっと顔を上げた。
すると、心配そうにこちらに近付く、ジェフリー様と目が合った。
「ジェフリー様…。いらしたのですね…。」
心配そうにアネットを見つめて目の前で立ち止まったジェフリー様に、小さく笑顔を見せると、不意に傷ついたような表情を見せた。
「顔色が悪い。帰ろう。送っていく。」
「…ありがとう…ございます…。」
帰りはマルク様に送ってもらうつもりで馬車を帰していたアネットは、スコット伯爵家の馬車に乗せられ、送ってもらった。
「近くにいたから…聞こえていたんだ。大丈夫…じゃないよね。」
「お恥ずかしいところを…。でも、大丈夫です。私、婚約解消とマルク様に言われて……ホッとしたんです…。ようやく解放されるって…。」
両手をギュッと握ったまま、小さく言葉を繋ぐ。
「ジェフリー様と出会った夜会で…貴方が私の気持ちを察して一緒に髪飾りを探してくださった時に気付いたのです…。今まで一度もマルク様に私の気持ちを考えて頂いたことはないなって。」
顔を上げて心配そうにこちらを見つめるジェフリー様を見て笑顔を見せた。
「それまでは私は至らない婚約者で…、効率を重視して、無駄を嫌うマルク様の期待に答えられない私を恥じていたのですが…、それは違うって気付いたのです。ジェフリー様は手紙の返事に、私が贈ったお茶の感想を下さり、私の好きなものを誰かに聞いて下さり、好みの本を送って下さった。偶然出会った王都では、同じ歩幅で歩いて下さった。話を聞いて笑って下さった。私の好みを聞いて、私の好きな色を聞いて、私の好きな色の花を贈ってくれた。2年間の婚約期間の間に、マルク様が私に私の事を聞いてくれたことは無かった…。きっと彼は私の好きな色も花も知らないと思います。似合わないドレスを贈っておいて、似合わない私を至らないという…。ずっと婚約を解消したかった。子爵家である私からはいえなかったから、ホッとしたのです。ようやく解放される…って…。」
落ち着いて話すアネットに、確かめるように真っ直ぐにアネットの瞳を見つめるジェフリーに、もう一度安心させるように笑う。
「そうか…。解消は望んでいることなんだね?だったら、私が証人になる。今から君の父上に私から話そう。彼の気持ちが変わる前に、さっさと手続きをしてもらおう。」
そういうと本当にすぐに父に話をしてくれて、あれよあれよという間にバーナード伯爵の元へ婚約解消の手続きの書面を作成して送ることになった。
高位貴族の集まる侯爵家の誕生日パーティの場での婚約解消。
目立たない場だとしても証人までいるのだから、無かったことには出来ないと判断したバーナード伯爵は、穏便に婚約解消の手続きを進めた。
そしてアネットの婚約は無事に解消されたのだ。
「すまんな、アネット。日に日にお前の笑顔が無くなっていく様子が気になっていたが、特に責めるような行動があるわけではないマルク殿と、解消するのは難しいと考えていた。ジェフリー殿のおかげですんなり解消できてよかった。」
アネットは18歳だ。執務官を担う将来有望な婚約者だったマルク様との婚約が解消されたとなれば、アネットに原因があると考えられて次の婚約は難しくなると思っていた。
しかし解消してから少しして、アネットはジェフリー様にプロポーズされた。
「実はね…、留学先のケルン公国でお世話になっていたのが、君の母上の実家であるジャイネット伯爵家だったんだ。そこで飾られた君の肖像画を見てなんて可愛い人だと思っていたんだ。亡くした娘の産んだ孫だと聞いて、いつか会ってみたいと思っていた。だから、あの夜会で会った時にすぐに気付いた。実物は肖像画よりずっと可愛かったけど。婚約者がいることは聞いていたけど…実際に二人が並んだ姿を見たら納得出来なくなった。全然大事にされてない。小柄な君に合わせることなく歩いていく後姿と、必死で追いかける君の後姿に腹が立った。」
あぁ…私の事を思って…怒って下さっていたのだ。
「もしかして…私が冒険小説が好きな事を聞いたのは…。」
「うん。君のおじい様だよ。小さい時から手紙に沢山本の話を書いていたと聞いた。冒険小説が好きなようで、時々本を贈っているのだと…。だから最新本は喜ぶかなと思って…。」
種明かしをするように照れ笑いをしたジェフリー様の優しい青空みたいな瞳が好きだなと思った。
「ありがとうございます。私で良いのでしょうか?」
「もちろんだよ。君はとても可愛くて礼儀正しくて大切な物を大切に出来る人だ。手紙の美しい字も、美しい銀色の髪も、冬の空のような瞳も私は好きだよ。周りを気遣って辛くても笑うその健気さも…守りたいと思った。アネット嬢、私は君を生涯大切にすると誓う。どうか私と結婚して欲しい。」
「…はい…、喜んで…。」
最近マルクは悉くついていない。
苛立つ婚約者だったアネットとの婚約を解消して、自分の理想の妻になるであろうキャサリン嬢に婚約を申し込んだ。
いつも傍で支えてくれていたから、きっと私を愛しているのだと思っていたのに…。
信じられない事に、まさかのお断りの言葉が返ってきたのだ。
「申し訳ございませんが、私には騎士をしている恋人がいます。お互い家を継ぐ立場ではないので彼を支えられるようにと、文官の道を選びました。最近彼は実力を認められて騎士爵を賜ってようやく結婚の日取りも決まりました。バーナード執務官からのお申し出をお受けすることは出来ません。」
静かに返ってきた言葉に頭が回らなかった。
たかが男爵令嬢である部下に婚約を断られるだなんて、プライドが許さなかった。
そんなことなら、足りないが自分を弁えたアネットを婚約者として残していたのに…!
執務官として仕事をするうえで、大国であるケルン公国との関係は大事で、将来憧れのヴェルデモンド侯爵のいる宰相府で働きたいマルクには、ケルン語を自国語のように話せる妻の存在は必須だと考えていた。マルクもケルン公国語は学んでいたが、言い回しが難しく、どうしても微妙なニュアンスが上手く伝わらないのだ。
アネットは見た目は幼いが、従順で素直で、小動物のように可愛らしいと人気があった。実家の子爵家は商会を営んでいて、諸外国の珍しい品を扱い堅実な実績を積み重ね、広い交易の窓口を持っていた。母親がケルン公国の伯爵家の出身だという事も評価点だった。
だがいざ婚約者になってみると、足りない。
考え方も行動も無駄が多く、知識は偏っていて、必要のない本を好み、有用でない友人達と過ごすことを好んだ。外交を兼ねた公式の場での通訳や、私的なケルン公国の貴族からの手紙の翻訳と代筆には便利だったが、それだけだ。
決定打はあのみっともないドレス姿だ。婚約者である私がせっかく贈ったドレスを着こなすことも出来ず、私の友人達が彼女を哀れんだように見つめる様子に隣に立つ彼女に腹が立った。
勢いで婚約解消などと言ってしまったが、本気で思っていたわけではなかった。執務官の妻としては少し足りないが、従順でちょうど良い妻だと思っていたのに。
先に帰った彼女はすぐに解消の手続きを進めたようで、偶然話を聞いていた証人がいたせいですぐに解消になった。
それでも自分が認めていたキャサリン嬢がいるから良いかと思っていたのだが、まさか彼女に婚約を断られる屈辱を味わわされるとは思わなかった。
最近は仕事でも失敗が続いていて、上手くいかない。
私は絶対に宰相府で…宰相であるヴェルデモンド侯爵の下で働きたいのに…!
そのために努力をしてきたのだ。
「バーナード執務官、今度の大夜会では誰をエスコートされるのですか?」
部下の言葉にアネットが頭に浮かんだが、解消した相手をエスコートするのはおかしいだろうと、頭を振る。彼女は私という有望な者に婚約を解消されたから、恥ずかしくて参加出来ないのではないかと、苛立った気持ちを慰めるように考える。
仕方ない…。条件を下げた上で、もう少し若い令嬢を探すか…。
そして王国内の貴族がこぞって参加する大夜会の会場で、マルクは愕然とすることになった。
「まぁ、なんて素敵な二人…。あの方、ヴェルデモンド侯爵家の養子になったジェフリー様と婚約者の方だわ。」
は…?
どういうことだ…?
「スコット伯爵の奥様はヴェルデモンド侯爵家のご令嬢ですもの。五年前の事故で後継の長男夫婦を亡くされたヴェルデモンド侯爵は、娘の次男であるジェフリー様を養子に迎えて後継にすることにしたのよ。とても優秀な方で、ケルン公国に留学していて、半年前に戻ってきたそうよ。」
「あの隣の可愛らしいご令嬢は、バーナード伯爵子息と婚約解消したアネット様よね。見て、とても幸せそう。相手が違うだけであれほど変わるのね。」
「お似合いの二人ね。アネット様はとてもお優しくて聡明な方だし、明るい笑顔が素敵な方だもの。バーナード伯爵子息と婚約してから雰囲気が変わられてどうしたのかしらと思っていたけど…。相性が悪かったのかしら。ジェフリー様と婚約されてから元に戻られたみたいで良かった。」
「いいえ、前よりもっと輝いていらっしゃるわ。愛のなせる業かしら…。」
「まぁ…フフ…。」
マルクは呆然とその光景を見つめる。
冴えない足りない婚約者だったアネットは、輝く銀色の髪に青い宝石のついた髪飾りをつけてハーフアップにしている。地味に見えていた俯きがちの顔を上げて、笑顔を乗せた表情は輝くように美しく、信頼のこもった目を隣の男に向けている。
纏うドレスは隣の男の瞳と同じ澄んだ空のような青色で、銀色の刺繍と重ねられたシフォンがふんわりと広がるドレスは小柄な彼女に良く似合っていて、まるで別人のようだった。
アネット…なのか…?
まるで詐欺じゃないか…。
私といる時と全然違う。あれほど可愛いのならいくら足りなくても婚約なんて解消しなかった…!
「マルク様…?」
エスコートをしていた父の紹介で知り合った子爵家の令嬢の声で我に返るが、アネットから目を離すことなど出来ない。
その時、彼らに親し気に近付く人物が見えてハッとする。
ヴェルデモンド侯爵…。
そうだ…、今、彼女の隣いる男は…ヴェルデモンド侯爵の孫であり、後継として養子になった男だ…。
彼女は私の憧れのヴェルデモンド侯爵の義娘になるのか…!!
「嘘だろう…。」
いつも厳しい顔しか見せないヴェルデモンド侯爵が、アネットに優しい笑顔を向けている。
朗らかな笑顔で侯爵に何かを話しながら、アネットは、時折隣の男を愛し気に見上げて目を合わせて笑う。その男も隠すつもりがないほどの愛情のこもった優しい目をアネットに向けている。
なぜだ…。
あれは私の物だった…。
「バーナード執務官。」
ふと目の前に金色に輝く巻き毛を結い上げたキャサリンが背の高い黒髪の男と共に立ち止まった。
「キャサリン嬢…。」
あの婚約を断られた後も何もなかったように補佐官として共に仕事をしている彼女は、いつも通りの凛とした美しい姿勢のまま、マルクに挨拶をする。
「あ、こちらは私の婚約者のヴェントレー子爵令息です。」
となりの男性を紹介すると、精悍なその男がマルクに挨拶をする。
「いつも彼女がお世話になっております。」
信頼し合っている様子を見せる二人が、ふとマルクの視線を追ってアネットを見つけた。
「まぁ…あれはアネット・フェンネル子爵令嬢…。スコット伯爵の次男のジェフリー様と婚約されたと聞いていたけど、先日彼は正式にヴェルデモンド侯爵の養子に入られたそうですね。お幸せそうで良かった。」
優し気に彼女を見つめるキャサリンの様子に、不機嫌さを隠しもせずマルクは口を開いた。
「アネットはなぜ、私といる時に努力しなかったのだろうな。たかが子爵家の令嬢が伯爵夫人になれるという僥倖に与ったのに。捨てられて初めて努力するなら、私といる時に努力してくれていればよかったものの…。」
その言葉に、マルクの隣に立っていた令嬢はヒュッと息を飲んだ。
キャサリンがフフっと笑うと、冷たい目をマルクに向ける。
「それは無理でしょう。私がバーナード執務官の元で補佐官として働いて2年、貴方が彼女を尊重しているのを見たことがありませんもの。褒めたことも感謝したこともありませんよね。自由に扱える道具のように、苛立ちをぶつけ、彼女の好みも意見も聞かず、一方的に命令するだけ。ご自身は彼女を自分の都合で放っておくのに、彼女の事情で必要な時に傍にいなかったというだけで罵倒したり無視したり。政略で決まった婚約者とはいえ、一人の人間ですもの。人として尊重してくれない方といて、心が壊れないわけありません。似合わないドレスを贈っておいて着こなせない、恥をかかすななんて言う婚約者に対してどう、努力しろと?似合わないドレスを贈った時点で彼女を知ろうとも尊重もしていないことに気付くべきでしたね。アネット様は令嬢達からは優しくて穏やかで可愛らしいと愛される令嬢なのです。バーナード執務官と婚約してからは目に見えて暗く自信を失っていく様子に心を痛めていたのですが、解消出来てよかったと、心から思いました。」
いつもは礼儀正しいキャサリンの辛辣な言葉の応酬に、驚きで目を見開き、次第に腹が立ってきた。
「なんて無礼な…!」
拳を握り締めたのに気付いたキャサリンの婚約者の男が、そっと守るように彼女の前に立つ。
「それと、お忘れかもしれませんが、バーナード執務官がエスコートしていらっしゃるご令嬢、お顔が真っ青ですわよ。私達が挨拶をした時も、彼女を紹介することもなく、平然と子爵令嬢ごときと彼女の前でおっしゃるからどんどん顔色を無くしていらっしゃって…。これだけでも、貴方が女性を尊重していないことがよくわかりますこと。あ、申し遅れましたが私、配属が異動になりました。明日から宰相府の事務補佐官になりました。今までお世話になりました。」
「は?」
言うだけ言うと、キャサリンは婚約者とともにさっさと離れていく。
なぜだ。
なぜ、私の願うものが零れ落ちていくのだ。
なぜ誰も私の言うとおりに動かない。
私は若くして執務官に任命された優秀な次期伯爵だぞ。
ブツブツと苛立ちの言葉を吐くマルクの様子に、顔から色を失った隣に立っていた令嬢は静かに退出の挨拶をして、彼から離れて行った。
その後、ジェフリーと結婚したアネットは良き妻、良き母となり夫を支え、ジェフリーもまた優秀な頭脳で頭角を現し、宰相補佐官として取り立てられた。
生涯二人は仲睦まじく理想の夫婦と言われた。
一方で、その後なかなか婚約者の決まらなかったマルクは年若い令嬢を妻に迎えたが、結婚後たった二年で妻に逃げられたそうだ。家庭さえ管理できないのは問題だと、宰相府に呼ばれることは生涯無かった。自分の周りから人がいなくなっていく理由を彼が知ることは無かったそうだ。




