ここから光は見えるのか
最初からか、気づいた時からか、気づいちゃいけなかったのか
積み上げているつもりが、何も積み上がっていなくて、詰んでいる自分がいる。
全てにおいて、タイミングが違う遅い
だからやる気などという物は湧いてこず、あるわけもなく、そして惰性という食した物のカロリーで生きている。
たまに他責がエネルギーになり、そしてアレルギーとなって過度に自分を攻撃してくる。
そのアレルギーは、繰り返し自分を蝕みそれを和らげるために、また他責を求める。
そんな日々を過ごしアレルギーはいつか欠かせない物になり、逃げ道となりいつも隣にいる友になっている。
生きてくうえで他責は欠かせない物に、中毒になり自分の人生が空虚なものになっているのすら気づかせない。
中毒は治せない
それにすがって依存して生きてきているからだ。
すがって生きているはずなのに、孤独を感じる。
他責という名の他人にすがって生きてるからだ。
そう、自分じゃない他人に依存しているんだ。
自分の人生を歩んでいるはずが、どこか他人に合わせた人生になりつつある。
いつからか主人公は誰かで、自分ではなく誰かに合わせた人生の横を平行して歩いている。
望んで歩いてるわけではないが、それすら受けれいて歩かなきゃ生きていけなくて
だからこそ孤独をいっそう感じる。
もがいていても孤独が絡みつき、溺れているだけだ。
脱け出し方はわかっているが、それは中毒者にとってはとても選択しづらい恐怖でしかない。
それは自責という恐怖だ。
それを選択すれば、逃げ道はなくなり自分を傷つけ立ち直れなくなる。
立ち直ったとしても、癒せない傷は残る。
恐怖から逃げて孤独を感じ他人の人生を歩むか、
立ち向かって傷を負いながら自分の人生を歩むか。
まだ答えを出したくない。
今歩るいているのが苦しくても歩けているからだ。
また違う苦しみを味わいたくない。傷つきたくない。
やはり自分は他責の中毒者だ。
脱け出したいが、留まっていたい。
間違っているが、間違っていない。
変わりたいが、変わりたくない。
2つの答えの荷物を持ちながら歩いているが、1つはとても軽くて、もう1つはとても重い。
重い方を捨てたい、軽くなり歩きやすくなるはずだが、捨ててしまったら取り返しがつかなくなってしまう気がしてならない。
だから捨てられない。
捨てられない自分がいるから気を保っていられるのか、重さを感じるから気を保っているのか
微妙なバランスを感じながらそのバランスも苦痛である。
そして答えがでず、その重さで深く深く下に下に降りていく。
周りを見渡せば暗闇に包まれていく。
自分じゃ答えなどでず、光を見いだしたく、
「ここから光は見えるのか」を無意識に検索していた。
はい、場所によっては見えますが、
と出てきたが、
結局今いる場所なんだ。と
下にスクロールしいくと、
確認方法が出てきて
きぼうを見よう!
と皮肉にも国際宇宙ステーションのきぼうが出てきた。
結果 今いる場所を変えてきぼうを持てと言われているような。