プール
夏の終わり、ひとけの少ない市民プールで、僕はあの出来事に遭った。
まだ残暑が続く九月上旬。仕事帰りに寄ったのは、町はずれの屋外プールだった。
大きな流れるプールに、小さな子供用、スライダーつきの浅いエリア。
夏のピークを過ぎた今、利用客はまばらで、ほとんど貸切状態だった。
監視員が一人、タワーに座っている。笛を口元にくわえたまま、動かない。
無関心なのか、それともなにかをじっと見ているのか。わからない。
僕はロッカーで着替え、プールサイドに足を向けた。水は冷たくて、気持ちよかった。
夕方の空は少し赤みがかっていて、セミの声もまばらになっていた。
30分ほど泳ぎ、ふと気づいた。
監視員が変わっていた。
タワーには、今度は若い女性が座っている。黒い長髪に、白い制服。
少し顔を上げると、彼女と目が合った。
じっと、まっすぐ僕を見ている。
(見られてる……?)
ドキリとした。僕は泳ぐのをやめて、プールサイドに上がった。
タオルで顔をぬぐいながら、ちらりと監視員を見る。
目が、合っている。
やっぱり、こっちを見ている。
表情は無で、笛をくわえたまま。
……どうにも落ち着かない。
その後も、泳いでも、歩いても、ずっと彼女の視線を感じた。
僕は早々に引き上げ、更衣室に戻った。
そのとき、背後から笛の音が聞こえた。
ピーッ、と高く、鋭く。
振り返ると、タワーの上は空だった。
……さっきまで、確かに彼女がいたのに。
気味が悪くなって、僕は急いで着替えて帰った。
その夜はよく眠れなかった。
⸻
翌日。
なぜか、またプールに行った。
自分でも理由はよくわからなかった。ただ、気になっていたのだ。あの視線が。あの女が。
プールには数人の客。監視員は中年の男性に戻っていた。
いつも通りに泳ぎ、歩き、1時間が過ぎた頃。
また、監視員が変わった。
白い制服、黒髪の女。昨日と同じ顔、同じ姿。
やっぱり、こっちを見ている。
気のせいではなかった。僕は確信した。
そして……彼女は、微笑んだ。
ぎこちない、作り物めいた笑顔。
だが、確かに僕に向けられていた。
その瞬間、背筋がぞっとした。
僕はプールを出て、逃げるように施設を後にした。
⸻
三日目。
プールには行かないつもりだった。だが、足が自然と向いていた。
まるで、呼ばれているようだった。
監視塔には誰もいない。だが、プールの反対側に、あの女がいた。
白い制服のまま、プールの縁に腰かけて、水に足を浸している。
僕が近づくと、彼女はゆっくりこちらを見上げた。
「……来てくれたんですね」
初めて、声を聞いた。澄んでいて、冷たい声だった。
「あなた、前にもここで……人を見てたでしょう?」
「え?」
「去年の夏。事故があった日……あなた、ここにいたわよね?」
僕の心臓がドクン、と跳ねた。
思い出したくない記憶だった。
一年前、僕はここで、泳いでいる若い女の子を見ていた。
明らかに溺れかけていた。でも、僕は……
見て見ぬふりをした。
「あの子、死んだの。……知ってるでしょ?」
彼女の声が、氷のように冷たくなった。
「でもね……あなたが誰にも言わなければ、誰も気づかない。そう思ったんでしょ?」
僕の足が震えた。
「あなたが見ていたの。あなたが助けなかったのよ」
彼女は立ち上がり、こちらに一歩近づいた。
「あなたの目が、わたしと同じだったから。だから、わたしは気づいたの」
「同じ……?」
「“見てるくせに、動かない目”。
“眺めるだけで、責任から逃げる目”。
あなたもわたしも……そういう人間だったのよ」
僕は後ずさった。だが、プールの縁に足を取られた。
バシャッ!
水が目と鼻に入り、溺れかけた。水面から顔を出すと、彼女がプールの縁にしゃがんでいた。
「誰も助けてくれないかもね」
彼女は、静かに笛を吹いた。
ピーッと、耳をつんざく音が、プール全体に響いた。
だが、誰も来なかった。