7.最悪の目覚め
翌朝
……おかしい。
いつもの時間になっても、ミーナが来ない。
普段なら「寝起きのちゅ〜!」とかふざけたことを言いながら俺の顔に突進してくるのを、適当に押しのけて起きるのが、6年間の朝のルーティンだった。
しかし、今日は来ない。
……まさか本当にいなくなったのか!?
嫌な予感がして、寝癖もそのままに、慌てて6年3組の扉を開けた。
「ミーナはいるか!?」
教室が一瞬静まり、すぐにクスクスと笑い声が広がる。
その中で、のんびり手を振る生徒が一人。
「先生、おはよ~。ミーナ、先生が迎えに来たよ~!」
……よかった、いるのか。
ホッとして教室の奥を見ると、ミーナが不機嫌そうに頬杖をつき、窓の外を睨んでいた。
俺と目が合うと、ふいっとそっぽを向く。
そして――
「先生と私は今、倦怠期なの!!」
……は?
教室内が笑いに包まれる。
「お前な……」
それは違うだろ、とツッコみたかったが、否定するのも面倒くさい。
俺は小さくため息をついて、「いるならよかった。邪魔したな」とだけ言い、扉を閉めた。
とりあえず、いなくなったわけじゃなかった。
でも、なんだろう。
昨日から続くこの違和感。
どっと疲れが押し寄せる。
外は土砂降りで、空もどんより暗い。
……最悪な天気だ。
できればもうひと眠りしたいが、このまま職員会議に行くとしよう。
**********
「おはようございます。今日は雷でも落ちそうな天気ですね……。さて、お知らせがあります」
静まり返る職員室で、教頭の声が響く。
「6年3組のミーナですが、卒業後に理事長の息子さんと結婚が正式に決定しました」
……は?
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
ミーナが、結婚?理事長の息子と?
そんなこと、一言も聞いてないぞ。
最近の様子がおかしかったのは……このせいだったのか?
ズキン——胸の奥が痛む。
周囲の先生たちの視線が一斉に俺に向けられるのを感じた。いかん、冷静にならないと。
理事長の息子と結婚すれば、生活が保障される。
いいことじゃないか。
ミーナは戦争孤児だ。今までずっと苦労してきたんだから、幸せになれるのならそれに越したことはない。
……はずなのに。
なんだ、この嫌な感じは。
「ユーリ先生」
不意に名前を呼ばれ、ハッと我に返る。
「とっくに職員会議終わってますよ。早く自分の教室に行きなさい」
ラウル先生が苦笑しながら俺を見ていた。
——俺、そんなに呆けてたのか。
周りを見渡すと、職員室にはもう誰もいなかった。
「……すみません、驚いてしまって」
「まぁ、無理もない。私も驚きましたからね」
ラウル先生は椅子に腰掛けながら、俺をじっと見つめた。
「ですが、ミーナはずっとユーリ先生のことが好きだったはず……何か事情があるのかもしれません。探ってみてもいいのでは?」
「……そうでしょうか」
ミーナが俺を好き?
いや、最近の態度を思い出せ。
俺は避けられていた。明らかに距離を取られていた。
「たぶん、本当に嫌われてしまったんですよ」
乾いた笑いが口をつく。
それなら、それでいいじゃないか。俺は教師だ。
教師として、生徒の幸せを願うのが仕事だろう?
なのに——
なのに、どうしてこんなにも、胸が痛い?
「ユーリ先生」
ラウル先生の声が真剣なものに変わった。
「今から言うことは、貴方の元担任としての言葉だ」
「……?」
「お前は真面目で優しい。だから生徒からも慕われているし、教師として一緒に働くことができて、本当に嬉しいよ。だがな、お前は少々融通が利かなすぎる。」
「……」
「お前は今でも私の大事な元生徒だ。教師である前に、一人の人間として、お前自身も幸せになってほしい」
ラウル先生は俺の目をまっすぐ見据えた。
「お前自身は、本当はどう思っているのか。よく考えて、ミーナの卒業までに答えを出しなさい。これは私からの特別課題だ。」
「……また俺だけ補修ですか?」
冗談めかして言うと、ラウル先生は「このやり取り、懐かしいな」と笑った。
俺もつられて、少しだけ笑う。
——ありがとうございます、ラウル先生。
また、あなたに導かれた。
俺は教師という立場に縛られて、ずっと心に蓋をしてきた。
だが、本当の答えは——
とっくの昔に出ている。
——今日の授業が終わったら、ミーナに伝えよう。
ここで伝えなかったら一生後悔する。
俺は少し軽やかな足取りで2年1組に向かった。
「おはよう、みんな。少し遅れて悪かった。席に着け~授業を始めるぞ」
「先生、大変です!」
教室に入った途端、慌てた生徒が駆け寄ってきた。
「男子が裏山に行っちゃったんです!雷が落ちたみたいだから見に行こうって言って……そしたら帰ってこなくて!」
「……何だって!?」
視線を窓に向ける。
空は黒く、重たい雲に覆われている。
ゴロゴロ……!
遠くで雷鳴が響いた。
——嫌な予感がする。
「みんなは教室にいなさい!様子を見てくる!」
叫ぶと同時に、俺は教室を飛び出した。