蘇る町*3
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ネールはこの地に吹いていた風の匂いを知っている。
かつてここにあった麦畑も、そのお隣にあったキャベツ畑も知っている。
家の窓から眺めたお祭の様子も知っているし、人々が楽しそうに笑い合っていた様子だって知っている。
だが、目の前に広がる廃墟は知らない。
壊れた橋の石の色は見覚えがあるのに。崩れた井戸の位置も、石垣の様子も、よく知ったものなのに。崩れた煉瓦壁の表面から剥がれた漆喰の色だって、一目で教会の壁の色だったと思い出せるのに。
「……随分と酷いもんだな」
ランヴァルドが小さく呟くのに、ネールも小さく頷いた。
……ここは旧ジレネロスト領の小さな村。
かつてネールが暮らしていた場所であったが……今はもう、滅びた村だ。
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村の跡は、酷いものだった。
家屋の残骸には焼け焦げた痕があったり、魔物の爪の跡であろうと思われるものがあったり。
崩れた井戸も、荒れ果てた畑も、全てが『ここにかつてあり、そして今はもう無いもの』を思わせる。
……平穏で、幸せな暮らし。
ここでネールが享受していたのであろう穏やかな日々は、もうここに残っていない。
ランヴァルドは黙って、隣のネールの頭を撫でた。自分がそうするべきかは分からなかったが、今のネールにはこうしてやる誰かが必要な気がしたので。
ネールはとぼとぼと歩く。ランヴァルドは黙ってそれに付いていった。
畑であったのだろう場所の横の小道を抜け、崩れた井戸の横を通り、坂道を上っていって……幾分、山に近付いたところ。
そこにあった廃屋の前で、ネールは足を止めた。
廃屋は比較的マシな状態だった。屋根は多少の葺き材が燃え落ちていたが、それくらいか。壁も焼けて焦げているが、崩れて中が見えているような状態ではない。横手にある納屋らしいものは酷く燃えてしまっていたようだが、家自体はかなり良い状態だと言える。
……そして、ネールは玄関前で躊躇うように視線を彷徨わせていた。
こんなネールを見ていれば、この家が誰の家だったのか、想像に難くない。
ここが、ネールの家だったのだろう。
だからこそ、今、ネールの目の前にある古いドアも、蔦が這うようになった壁も、ネールにとってあまりにも残酷だろうと思われた。
「入るぞ」
だから、ランヴァルドがそのドアを開けた。……ドアには鍵が掛かっていなかった。少し力を入れれば、朽ちていたドア枠を崩しながらドアが開く。
ぎ、と軋みながら開いていったドアの向こうは、ネールより先にランヴァルドが確認した。そこに残酷な何かが無いとも限らなかったので。
……だが、まあ、ひとまず酷いもの……死体であるとか、骨であるとか、まあ、そういったものは無かった。ただ、自然に浸食されるがままになった屋内があるだけだ。
苔が生えているが、テーブルがある。流し台の上には、まな板と錆びたナイフ。壁にかけてあるものは、乾いて砕けてしまっているものの、ドライフラワーかハーブかを束ねたものだったのだろうか。
……ランヴァルドがそんな室内を見ていると、ネールがそっと、部屋の中に入ってきた。
ネールは室内を見回して、どこか茫然としている。自分の家が朽ちている様子は、幼い少女にはあまりに残酷だろう。
「あー、ネール。その、辛いようなら外に出ていてもいいぞ」
ランヴァルドはそっと、ネールに声をかけてみたが、ネールはふるふる、と首を横に振った。
……これからやることを考えると、ランヴァルドとしてはネールが外に出ていてくれた方がいいような気もしたのだが……ネールのしたいようにさせておいた方がいいだろう、と割り切ることにした。
「少し、家の中を調べさせてもらうが、いいか。ほら、朽ち方とかから、ここらに魔物が出るかどうかが分かるから……」
その代わり、適当な嘘を吐いてネールの了承を得れば、ネールはこくんと頷いた。
……ランヴァルドはそれを見て、『よし』と自分を奮い立たせる。
この、悲劇の少女を前にして家探しするのは躊躇われるが……それでも、やらねばならないのだ。
……ネールの生まれについて、もしかしたら、ここになら、何か情報が残っているかもしれないので。
ネールが居ると、あまり行儀の悪いことはできない。だが、ネールは少し台所を見ていたと思ったら、外へ出ていった。
少々心配になったランヴァルドだったが、窓からネールの様子を見てみれば、ネールはどうやら、家の横にある納屋へと向かっていったらしい。尤も、そのドアには閂が掛けられていて開けられない様子であったが……焼けて崩れた壁の間から、ネールは納屋の中へ入ることにしたらしい。
納屋に何の用か、とは思うが、まあ、ネールが居ない方がやりやすい。ランヴァルドはありがたく、家探しを始めることにした。
……ひとまず、この家には魔物が入った形跡が無い。この浸食ぶりは、雨風と植物によるものだ。
このあたりは遺跡が近かったせいで、ずっと、魔力が濃かった。それ故に小動物の類は寄り付かず、かつ、それなりに体の大きな魔物の類には踏み入る利点が無かったということだろうか。
何はともあれ、家の中の状態はかなり良い。玄関から入ってすぐの居間は屋根が焼けていたために雨風による朽ち方が大きかったが、そこから続く部屋を覗いてみたところ、そちらはほとんど朽ちてもおらず、実に状態が良かったのである。
『野営するならここを間借りしたいくらいだな』と思いつつ、早速、ランヴァルドは寝室を見ていく。
……ネールの両親の寝室であったのだろうその部屋は、夫婦のためのベッドとクローゼット、小さな引き出し付きのサイドテーブルがある程度の慎ましやかな部屋であった。否、他に部屋がある様子は無いので、となると、このベッドでネール含めた親子3人が寝ていたのかもしれない。
クローゼットの中には質素ながらきちんとした衣類が入っていたし、壁には弓を掛けておいたり矢筒を掛けておいたりするためのものであろう場所があったり、サイドテーブルの上には本が置いてあったり……それなりにきちんとした家だったのだろうな、と思わされる。
だが。
「……金目の物は無いな」
つい、職業柄というか、人柄というか……ランヴァルドは無意識に、『金目の物』を探していたのだが、それらしいものは見当たらない。
この家に、元々一切貨幣の類が無かったとは思えない。何せ、本を買うような家だ。ジレネロストないしはハイゼルの大きめの町に出て、そこで本を買っていたのだろうと思われるし、そうならば間違いなく貨幣を使っていたはずだ。
村での物々交換では賄えないようなものを手に入れるには、貨幣が必要だ。それは当然のことである。だというのに……これは少々、不自然である。
「誰か盗みに入った、ってことか……?」
……呟いてはみたものの、それも現実味が無い。何せ、ここは魔物の巣窟だったのだ。並の人間が立ち入れる場所ではなかったはず。盗人如きがここまで来られたとは思えないのだが……。
「持ち出した、のか?だが、ネールは……うーん、ネールが持ち出した、とも思えないんだが……なら、ネールの両親が持っていったのか。で、家を出た後で、魔物に……?」
諸々、釈然としないものはあるものの、これ以上の情報を手にすることはできないだろう。
ランヴァルドは諦めつつ、サイドテーブルの上の本を一冊、手に取った。
……すると。
「ん?」
中に書かれていた文字の並びは、日付から始まっている。そしてその内容は……。
物音がしたので、ランヴァルドはさりげなく本を閉じ、自分の荷物袋にしまった。それから少しして、ネールが部屋に入ってくる。
ランヴァルドは何食わぬ顔で少し笑って、ネールを迎え入れた。
「この部屋は調べ終えた。まあ、特に何かがある訳でもなかったが……うん。俺はもう少し、さっきの部屋を見てくる。お前はどうする?」
ネールは少し考えて、それから、こくん、と頷く。どうやら、ランヴァルドに付いてくるつもりらしい。
ランヴァルドは『どうしたもんかな』と思いつつ、荷物袋にしまった本のことを思う。
……その本は、恐らく日記であった。
ネールの目もあるので、日記を読むのは憚られる。そして何より、少々暗くなってきたので探索が難しくなってきたのである。
太陽は傾いて久しい。そろそろ、真剣に野営の準備を始めなければならないだろう。
最初の部屋……台所と食堂を兼ねた居間なのであろうそこをざっと確認し終えたら、ランヴァルドは一旦外に出て、他の家屋を見ていた兵士達に『そっちはどうだ?』と尋ねてみる。すると、いくらか状態の良さそうな家が見つかったようなので、彼らにはそれぞれ、野営場所を探してもらうことにした。
そしてランヴァルドはネールと一緒に、この家を野営場所にすることに決める。ここなら状態も悪くないし、多少、居心地が良いだろう。
食事だけは全員まとめて摂ってしまった方がいいので、村の井戸跡地のあたりで大鍋を出してきて簡単に煮炊きした。干し肉と野草と押し麦を煮込んだ粥のようなものだったが、まあ、それなりに美味い。
……ネールはやはり思うところがあるのか、ちびちび、と食べ進めている。
自分の家が朽ち果てた様子を見るのは堪えるだろう。ましてや……喪った両親との思い出がある場所であるなら、尚更だ。
だが、今のネールに何と言ってやればいいのやら分からない。薄っぺらいことは幾らでも言えるだろうが、それも何故だか躊躇われた。
……結局、陽が落ちてしまってもそのままだった。今まで舌先三寸だけで窮地を切り抜けてきた悪徳商人にしては珍しいことに、ランヴァルドはネールに掛ける言葉を思いつかないまま、ただ黙っている羽目になったのである。
夜が来て、見張りの兵を残して他は皆、就寝する。
明日は明日でまた、魔物狩りが始まる。さっさとジレネロストから魔物を狩り尽くしてしまわねば、人を呼び寄せることもできないのだから。
……そういうわけで、ランヴァルドはネールの家の、寝室に寝袋を置いてそこで寝ることにした。ネールも隣に寝袋を敷いて寝ているのだが……魔石のランプの小さな明かりが照らすだけの暗がりの中、ネールの目は開かれたままである。
眠れないのだろう。何を考えているのだろうか。
……そしてランヴァルドはどうするべきか、と考えて……一つ、ため息を吐いた。
「ネール。ほら」
ランヴァルドは、自分の寝袋の端を少し持ち上げて、ネールに手招きする。
それを見たネールは、ぽかん、としている。半開きの口がなんとも間抜けであった。
「寒いだろ。入るなら早く入れ。入りたくないなら無理にとは言わないが……」
俺も十分に間抜けか、と思いつつ、ランヴァルドがそろり、とネールから視線を逸らせば……途端、ネールの表情が綻んだ。
こくん、と頷いて、ネールはランヴァルドの寝袋の中にもそもそと潜り込んでくる。
「本当は良くないんだからな?こういう風に一緒の寝床で寝るのは。……だが、うん、まあ、今日は……特別ってことでいい」
狭い寝袋の中、ネールを腕の中に抱き込むようにしてなんとか収まりの良い姿勢を探せば、ネールは嬉しそうにもそもそと動いて、ランヴァルドの胸にすり寄ってきた。
そうして他人の体温でぬくぬくとしたら、少し落ち着いてきたのかもしれない。ネールはやがて、すやすやと眠り始めてしまった。
ネールの寝顔をぼんやりと眺めて、ランヴァルドもまた、目を閉じる。どうにも、直視したくないものばかり、脳裏にちらつくので。