悪徳商人と野良の英雄*5
「いいか?汚れを落とすんだったら、まずは湯を沸かせ」
ということで。ランヴァルドは早速、部屋の中で湯を沸かし始めた。
部屋の暖炉の傍には、たらいと大鍋が置いてある。それをありがたく使わせてもらって、宿の裏の井戸から水を汲んできて……それで湯を沸かして、汚れを落とす。公衆浴場があるような大都市でもなければ、こうして汚れを落とすのが旅人の常である。
「ほら。良い温度になった。これで汚れを落とすんだ。後は分かるな?」
ついでに宿の主人から頂戴してきた手布と石鹸とを渡してやれば、少女は戸惑いつつも頷いた。
「俺は部屋の外に出てるから。何かあったらドアを叩け。いいな?」
そうしてランヴァルドは一応、少女を気遣って部屋の外へ出る。……ついでに、宿の主人に頼んだ服を取りに行く。彼女にはランヴァルドと少女のために服を一着ずつ、工面してもらったのだ。
先程の手布や石鹸の代金、それに『迷惑料』も込みで銀貨を2枚出せば、女主人は機嫌よく諸々を用意してくれた。金払いのいい客が大切にされるのは世の常である。ランヴァルドはケチるところではとことんケチるが、それ以外ではできるだけ、『よい客』であることにしている。
そうして、自分と少女の分の服を手に入れて戻ったランヴァルドは、ドアをノックした。すると、きい、とドアが開いて、少女がそっと顔を覗かせた。なので服を押し付けて、『着ておけ。着替え終わったらドアを開けるように』と伝えてまたドアを閉める。
すると、ほどなくしてドアが開いたので、ランヴァルドは部屋の中に入って、湯の片付けなどを教えてやる。
それから、少女の濡れたままの髪を暖炉の傍で乾かさせておいて、その間にランヴァルド自身も、ざっと自分の汚れを落とした。流石に、ランヴァルドは慣れている分、手早い。
そうしてサッパリしたところで、ランヴァルドは改めて、少女を観察した。
「……お前、多少磨くだけで十分に光る性質か……」
美しい金髪に、幼いながら整った顔立ち。海の色をした大きな瞳も、長い睫毛も、白く滑らかな肌も……総合して、中々の美少女である。泥や返り血、そして垢や脂もすっきりと落として、ちゃんとした服を着せてみれば、中々どうして見栄えがするではないか。
一方のランヴァルドは、北部人らしいそれなりの体躯に黒い髪と藍色の目、商人として旅する中で日に焼けた肌……そして『黙っていればそれなりに男前』の相貌だ。まあ、悪徳商人をやるにあたって不自由のない容姿ではある、と自負している。が、流石にこの野生の美少女ほどのものではない。
そもそも、ランヴァルドは大人の男である。見目がどうであれ、問題が起こることは無いが……。
「……余計に心配が増えるかもな」
ランヴァルドは改めて少女を見て、ため息を吐いた。
見目麗しい少女というものは、まあ、厄介ごとの種である。特に、目の前に居る彼女のように無知であるならば、猶更。
が、今はそれは考えないこととして……ランヴァルドは早速、食事を摂りに、宿の1階の酒場へ向かう。
まあ、もし今後、『厄介ごと』が来たとしても、その時はそれで一儲けしてやればいいか……と開き直りながら。
食事は、焼き立てのパンに、野菜をよく煮込んだスープ。それに水で薄めたワインだ。
南部では安定して葡萄が収穫できるためワインも多いが、この国全体で見れば、ワインは高級品である。よって、南部でもこうした場では基本的に、古いワインを更に水で薄めたものしか出てこないのが常だ。
だが、ランヴァルドに出されたワインは、それなりに質の良いものだった。
これにランヴァルドは少々、気を良くした。美味い酒というものは、いつだってよいものだ。特に、全財産を失った日の夜には殊更良い。
……そして、少女の目の前にはワインの代わりにミルクのカップが置かれた。温めたミルクには蜂蜜が溶かしこんであるらしく、甘い香りがする。それを一口飲んだ途端、少女の表情がぱっと明るくなった。美味しかったらしい。
こういうところに、『金払いのいい客』が得られる恩恵があるのだ。ランヴァルドは給仕してくれた女主人に、軽く手を挙げて礼を示しておいた。すると女主人はぱちり、とウインクして、それから少女の頭を撫でて、『綺麗になったら中々可愛いじゃないか』と上機嫌にカウンターへ戻っていった。……ランヴァルドの金払いの良さ以上に、この少女が美しいことが手厚いサービスの理由かもしれない。
「他に何か、頼みたいものはあるか?ほら」
まあ、それはさておき、ランヴァルドは少女に問う。
蜂蜜入りのホットミルクでこんなに目を輝かせるとは慎ましやかなことだが、本来は食べ盛りのはずの子供のことだ。もっと食事が必要だろう、と、少女にメニュー表を指し示してやった。メニュー表には、山鳥のグリルや鹿のシチュー、それにリンゴのパイなどの品目が並んでいる。
……が。
少女はメニュー表を見て、困ったように首を傾げている。
「……食べたいものは、特に無いのか?」
ランヴァルドは一抹の不安を感じつつそう聞いてみる。すると、少女は困ったように、曖昧に頷くような、首を傾げるような仕草をしてみせる。と、いうことは……。
「……お前、もしかして、字が、読めないのか……?」
まさか、と思いつつランヴァルドがそう尋ねれば、少女はいよいよ申し訳なさそうに、こく、と頷いたのだった。
……この少女は、喋れない上に文字も読めないらしい。確かに、野生同然の暮らしをしている少女に文字が読めるなど、期待すべきではなかったが……それにしても、だ。こんな奴と、どうやって意思疎通すればよいのだろうか!
『このガキのおもりは確かに金貨1枚分の値段になるな!』と、ランヴァルドは内心で頭を抱える。
仕方が無いので、メニュー表はランヴァルドが読み上げてやった。すると少女は、嬉しそうにリンゴのパイを注文した。
ランヴァルドは山鳥のグリルを注文した。やがて運ばれてきたそれらを思い思いに食べる。
……この少女は、甘いものが好きなのだろう。蜂蜜入りのホットミルク然り、リンゴのパイ然り。実に、実に幸せそうにリンゴのパイを食べている姿を見て、ランヴァルドはぼんやり、そう思った。
そうして食事を終えた二人は部屋に戻って……さて。
「お前、名前くらいは書けるか?」
ランヴァルドはそう、尋ねてみた。
……何せ、ランヴァルドは未だにこの少女の名前すら知らないのである!
だが、幸いにして、少女は元気よく頷いた。どうやら、自分の名前くらいは書ける、ということらしい。となると、恐らくは親が居た頃にそのくらいは教えてもらえた、ということだろう。そういうことならば納得がいく。……同時に、両親に愛されていたのだろうに今、孤児になってしまっているこの少女がより哀れにも思えてくるが。
少女はランヴァルドの服の裾をついついと引っ張って呼び寄せつつ、暖炉の前に座った。そして、暖炉の灰の上に、燃えさしを使って文字を書く。
「……ネール、か」
書かれた文字を読み上げれば、ネールというらしいその少女は、なんとも嬉しそうに、何度も頷いてみせるのだ。
もしかしたら本名ではなく、愛称かもしれない。ネリス、とか、エレオノーラ、とか、そのあたりの。だが、ひとまずこれで呼び方が分かった。
「明日は俺の荷物をある程度購入して……ああ、お前の着替えもなんとかするか。お前もその一着きりじゃ、不便だろうし……後は、背嚢はちゃんとした奴を用意した方がいいだろうな」
ランヴァルドは独り言を言いつつ指折り数えて……メモを取ろうにも、手帳すら失ったことを思い出してため息を吐いた。
「……まあ、諸々は明日の朝考えよう。さっさと寝るぞ。明日に差し支える」
こんな時には眠るに限る。丁度、ワインの酒精が回ってきて体も温まってきたことだ。さっさとベッドに入ってしまった方がいいだろう。
……と、いうことで、ランヴァルドはベッドに入ったのだが。
「おい、待て待て待て。お前は一体どこで寝ようとしてるんだ」
少女がもそもそ、と床の上に丸まり始めたのを見て、慌ててベッドから出る。
「ここにベッドがあるだろうが。ほら」
ちゃんとベッドが二つある部屋をとったというのに、これである。少女は今までホールの隅っこで丸くなって寝ていたのだろうが、これからはちゃんと、真っ当に人間らしい暮らしを覚えさせなければならない。
「ったく、世話の焼ける……ほら、ちゃんと毛布被れよ」
仕方が無いので、ランヴァルドは少女をひょいと抱え上げて、よっこいしょ、とベッドの中に入れた。ついでに毛布を掛けて、ぽふぽふ、と胸のあたりを軽く叩いてやれば、少女はぱちぱちと目を瞬かせて、それから、ふや、と笑った。……ベッドはお気に召したらしい。
「……じゃ、おやすみ。ネール」
そうしてランヴァルドが挨拶してやれば、少女……ネールは、笑顔で頷いて毛布の中へともそもそ潜っていく。
ランヴァルドもまた、自分のベッドに潜り……そこで小さくため息を吐いた。
ああ、先が思いやられる!