演技*3
+
「ええと……ネール、さん?痛いことがあったら言って……ああ、声が出ないのでしたね。ええと、ならば、痛かったら手を挙げてお知らせください」
ネールは、メイドのウルリカによってお風呂に入れられていた。
……びっくりしている。ネールは、びっくりしている!
だってこのお風呂は……大きい!
ネールの知っているお風呂とは、大きな木のタライのことである。そこにお湯を張って、体を拭いたり、髪を洗ったりするのだ。
だが……今、ネールが入れられているお風呂は、白い大理石でできた大きな湯舟に、たっぷりのお湯が入っていて……全身がお湯に浸かるのだ!
ネールはびっくりしている。繰り返すが、ネールはびっくりしている!
ふわふわいい匂いのする泡で髪も体も洗われて、やはりいい匂いがする湯舟でほこほこ温まっている間に、髪が綺麗に切り揃えられたり、爪が整えられたり。
……まるで、物語のお姫様になったようである。
最初のびっくりが行き過ぎてくると、ネールは次第に、この状況にそわそわし始めた。だって、あまりにも自分に不釣り合いだということは分かるのだ。どうにも、落ち着かない。
「……ネールさん、緊張していますか?」
だが、そんなネールに、メイドのウルリカは少し気まずげに笑いかけてきた。……この人はあまり笑わない人なのだと思っていたが、そうでもないのかもしれない。
「いいですか?ネールさん。これから、ネールさんにはエヴェリーナお嬢様のふりをしていただくことになります。ですから、こうした入浴やお手入れの類にも、慣れて頂かなくては。『やってもらって当たり前』という心持ちでいてくださいね」
……ネールは状況がよく分からないが、ひとまず、ランヴァルドから『お前はここのお嬢様のふりをして、降りかかる危険からお嬢様をお守りすることになる。俺も一緒に居るから、頑張るんだぞ』と言われているので、やるべきことは分かっている。
そうだ。ネールはここのお姫様のために、お姫様のふりをするのだ。
……なので、お姫様扱いされることにも、慣れなければならないのだ。
がんばるぞ、という気分になったネールは強く頷いた。メイドのウルリカは、ネールを見てまた少し、笑った。笑うと、優しいかんじのする人だな、とネールは思った。
「では、お着換えをしましょう。お嬢様のドレスの中から、体に合うものを選びましょう。ええと、そうですね。ネールさんはお嬢様より幾分細くていらっしゃるので……外出の際には先程までのように、コートで如何様にも……あとは多少、調節、裾上げをいくらか……」
続いて、ネールはお着換えすることになった。
これにもネールはびっくりした。だって、ネールは既に、とても綺麗な服を着ているのに、ここから更に着替えるというのだ!
今、湯上りのネールが着ているのは、絹でできた、すとん、とした形のドレスだ。繊細なレースがついていて、とても綺麗。……だがメイドのウルリカ曰く、これは下着なのだそうだ!
「ううん……これはいかがでしょう。違和感なく着られると思います」
そして、ウルリカが選んでくれたドレスはまた何とも綺麗なものだった。
濃い赤のドレスだ。厚めの、しかしどこまでも滑らかな生地でできていて、ふんわりとした裾には金の刺繍が入っている。
こんなに綺麗な布をこんなに贅沢に使ったドレス、ネールは今まで見たことすらなかった。それを、まさか自分が着るなんて!
「うーん……首回りにやはり少し、細さが目立ちますね」
ウルリカが何か悩む横で、ネールはちょっとだけ、体を動かしてみた。
ふり、ふり、とたっぷりとした裾が揺れる。その度にさらさらと肌に触れる絹が心地よくて、ふんわり広がる裾が綺麗で、ネールはしばらく夢中になって、ふり、ふり、とやっていた。……初めての経験だ!
やがて、ウルリカは綺麗な布と小箱を持ってやってきた。ネールは大人しくする。ネールはこういう時も、できるだけ手がかからない子で居たいのだ。
「首回りはスカーフで誤魔化しましょう。スカーフ留めはネールさんのお好きなものをお選びください」
だが、ウルリカがネールの目の前で小箱を開いた時、ネールはいい子で居ることを忘れそうになった。だって……小箱の中には、あんまりにも綺麗なものが沢山詰まっていたから!
美しい金細工の花も、翡翠の彫り物も、柘榴石の星も……あらゆる宝石や金銀の細工物が、その小箱に詰められていた。
『お気に召すものはありますか?』と言って、ウルリカが微笑む。ネールを見ていると楽しい、というかのように。
……だが、ネールはウルリカどころではない。真剣に、小箱の中を吟味する。
柘榴石は、好きだ。前、ランヴァルドが持っているのを見た。
でも、こっちの金色の石も綺麗だ。これが何なのかは、ネールは分からないけれど。
虹色の美しい彫り物を見て首を傾げていれば、ウルリカが『それは貝を削って磨いたものですよ』と教えてくれた。が、そもそもネールは『貝』というものをよく知らないので、そういう宝石があるのだな、と思った。
……そうしてネールは1つ1つ順番に、じっくり真剣に見て……そして、それを見つけて、『ああ、これだ!』と思った。
「ああ、こちらの藍玉ですね。ではこれにしましょう」
ネールが選んだのは、少し暗い青の宝石が美しいものだった。
「マグナスさん。ネールさんのお支度が終わりました」
それから、ネールはウルリカに連れられてランヴァルドの元へ戻る。少しだけ、どきどきする。
「ああ……っと」
ランヴァルドはネールを見て、目をぱちり、と瞬かせた。ネールはじっとランヴァルドを見つめ返して、彼の沙汰を待つ。
……すると。
「……こいつは驚いたな。やっぱりお前、磨いたら光る性質だったか」
そう言って、ランヴァルドはにやりと笑った。どうやら、ネールは上手くやれたらしい!
「すごいぞ、ネール。これなら誰もが、お前がお姫様だって信じるだろうよ」
ランヴァルドが笑みに細めた目を見て、ネールは、ぽやりと笑みを浮かべた。
……やっぱり、ネールが選んだ宝石の色はランヴァルドの瞳の色だった!ネールの、大好きな色だ!
+
ランヴァルドは、ネールを見て『こいつは予想以上だった』と笑みを深める。
……ネールは、元々美しい少女であった。だが、それをきちんと、貴族のやり方で手入れして仕上げれば、これほどまでに『お姫様』に相応しい姿になるのだ。
「じゃあ、次は中身だな」
ネールの姿に大いに満足したランヴァルドは、珍しくも微笑むウルリカを横目に、ネールにそう告げる。ネールは、きょとん、としていたが……。
「礼節を一通り身に付けないとな。すぐにボロが出るだろ」
……お姫様というものは、見目麗しいだけでは務まらない。酷なようだが、ネールは美しくとも、元が浮浪児である。これを『お姫様』にするには、付け焼刃でもなんでも、一通り礼儀作法を学ばせなければならないのだ。
「そうですね。初日から、とは考えていませんでしたが、ネールさんがそれでもいいなら……」
「いや、俺が教えますよ」
そして、この手のことなら、ウルリカよりランヴァルドが適任だろう。ウルリカは驚いていたが。また、ネールは、ぱっ、と表情を明るくしていたが。
「……まあこれでも、一般的な教養はあるんでね」
ランヴァルドは、貴族としての礼節を一通り身に付けている。
そして……悪徳商人として、人を騙すやり方もまた、一通り身に付けているのだ。
「じゃあ、ネール。俺の真似をしてみろ。どうだ?俺とそっくりに動くんだ。できるだろ?」
そうしてランヴァルドは、ネールの向かいに座って食事を始めることにした。
食事は、ウルリカが上手く手配してくれて、エヴェリーナは1人、エヴェリーナの部屋で食事を摂ることが許された。ついでにランヴァルドの分もこちらに運んでもらったので、ランヴァルドはネールと向かい合いながら、一緒に食事をすることになる。
……こうした食事は久しぶりだ。きちんと並べられた銀のカトラリーを手に取り、美しく、洗練されて見えるように振る舞う。スープの豆1粒を掬うことにも集中を絶やさない。……こうしていると、かつてのことを思い出す。
だが、思い出に浸っている場合ではない。ランヴァルドは自らが手本となって食事を進める一方、ネールを見ていた。
「おい、ネール。動かないと覚えないぞ」
……何せ、ネールはぽかん、としながらランヴァルドを見ていたので。
ランヴァルドが指摘すると、ネールは頬を紅潮させて、何やらもじもじしながらもやがて、やる気を出したらしい。決意に満ちた表情でこくんと頷くと、一生懸命、不慣れな道具を使って食事を進めていく。
……ネールはやはり、今までこうした作法を学んだことが無いのだろう。手つきが非常にたどたどしい。もしかしたら、親に教えられたことがあったかもしれないが、それも浮浪児として生きている間に忘れてしまった部分があるのだろうし、そして何より、貴族の礼節と平民のそれは全く異なるものだ。
だが……。
「よし、いいぞ、ネール。少しずつそれらしくなってきたな」
やはり覚えが早い。
ネールは真剣な表情でランヴァルドを見つめては同じように自分の体を動かして、上手に真似をする。
そして、真似ができればまあそれなりに、形だけはそれらしく整ってくる。動作の意味も何も分かっていないだろうが、それでも、見た目だけは多少良くなってくる。
「まあ、何度か俺の真似をしながら食事をしてみろ。その内慣れてくるだろ」
言葉はなんともざっくばらんながら、その間もランヴァルドは1つの乱れもなく、完璧な所作で食事を進める。……かつて、自分が作法の講師に教えられたことを思い出しながら。
ランヴァルド自身、もう何年も貴族らしく食事を摂ったことなど無い。だが、不思議なもので、いざそうしようと思えば体が自然と動いた。
体が覚えている、ということは有り得るのだな、と思いながら、ランヴァルドはネールを観察しつつ食事を進めた。
……ちら、と見てみると、ウルリカが部屋の端に控えながら、ランヴァルドの所作を見て驚いた顔をしていた。
まあ、そういう顔になるよな、と内心で苦笑しつつ、ランヴァルドは『ネール。そこで持つのはそっちじゃなくてこっちだ』と教えてやるのだった。
「よし、ネール。お前の声が出ないのは、まあ、運が良かったな。喋らなくていいなら、お前が覚えなきゃいけないことは半分以下だ」
食事が終わったら、また別の礼節を叩きこむ。……が、ネールは喋らなくていいので、言葉遣いや応対、挨拶、話題の振り方……といったことは一切覚えなくていい。まさか、ネールが口を利けないことがここで役に立つとは!
……ということで、ネールが身に付けるべきは……言葉を必要としない種々の振る舞い、そして、態度だ。
「さて、じゃあまずは……そうだな。お姫様扱いされることに慣れろ。俺は使用人だ。そしてお前はお姫様だ。いいな?」
ネールはぽかんとしていたが、ランヴァルドは真剣である。
……平民が貴族の振りをするにあたって一番の難関。それは、『貴族扱いされることにあまりにも不慣れである』というところにある。
「ネール。ここで遠慮するな。ご令嬢は自分で靴を脱ぎ履きしないんだ」
……ということで、もじもじ、まごまご、とするネール相手に、ランヴァルドはひたすら世話を焼いている。
貴族であったランヴァルドは、貴族のご令嬢がどのように扱われているかも承知している。よって、使用人の役を演じることもまた、できるのである。
……否。普通の貴族であれば、使用人がどのように動いているかなど逐一把握していない者も多いだろう。だが、そこは流石の悪徳商人だ。誰かのふりをしたり、誰かの真似をしたりすることは得意だし、そしてなにより、誰かを騙すということにおいては、他の追随を許さぬ勢いなのである。
「ほら、貸してみろ。俺の太腿に足を置いていい」
ランヴァルドはネールの小さな足をそっと取って、その足からまた小さな室内履きを脱がせて、外履きに履き替えさせる。その間、こうしたことに慣れないネールが、おろおろ、もじもじ、としているのがなんとも可笑しい。
「堂々としていろ。さも当たり前だ、って風に振る舞え。そのための練習だからな」
ランヴァルドがそう告げれば、ネールはもじもじしながらも、こくん、と頷いた。
……少々、いじらしすぎる。貴族のふりをするからには、もっと横柄であってもいいくらいなのだが。残念ながらネールは、根っからの平民、そして浮浪児だ。誰かの手を借りて何かをする、ということ自体にあまりに不慣れであった。
「ま……少しずつ慣れていこうな、『お嬢様』」
ランヴァルドはネールを励ましつつ、『まあ、多少はオドオドしてた方が、賊の襲撃に遭ったお嬢様、ってことで通りがいいか』などと考えつつ……ネールの教育を進めていくのだった。
そうしてその日が終わり……ネールは無事、就寝した。
こうしてそこそこちゃんとした寝間着を着て、ちゃんとしたベッドで眠っているのを見ると、本当に貴族のご令嬢にしか見えない。……尚、所作の方は、まだまだである。まだまだだが、まあ、物覚えのよいネールのことだ。明日明後日頃にはもう少し、まともになっているだろう。
となると、次にランヴァルドがすべきことは……。
……と、ランヴァルドが考えていると。
「マグナスさん。少し、よろしいでしょうか?」
メイドのウルリカがやってきた。その手には、ティーポットとカップを乗せた盆がある。
どうやら、休憩の誘いであるらしい。
……まあ、休憩目的というよりは、情報収集の目的なのだろうが。
「ええ、いいですよ」
ならばそれに乗らない訳にはいかない。何せランヴァルドも、確認したいことがある。
……領主夫人の補佐官をやっている者が元々商人だった、という先程の話の続きを、聞かなくてはなるまい。




