大きすぎた功績*3
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ネールは、ランヴァルドが眠りに就いてからもずっと、ランヴァルドを見つめていた。
眠ってしまうと、この人はどうにも、静かだ。起きている時にはよく喋る人だが、眠ってしまうと、どうにも静かで……死んでしまったのではないか、と少し怖くなる。
あまりにランヴァルドが静かだから、ネールはそっと近づいて様子を見た。せめて寝息の一つくらいは確認したくて。
……すると、ランヴァルドが小さく呻くのが聞こえた。
起こしてしまっただろうか、とネールは慌てて後退ったが、ランヴァルドが目を覚ます気配は無い。
ネールは心配しながら、そっと、再びランヴァルドの様子を窺う。……すると。
「……は、うえ」
小さく掠れた声が、苦し気に聞こえる。荒い呼吸と共に吐き出されたそれは、呪詛のようにも懇願のようにも聞こえた。
ネールは戸惑いながらもランヴァルドを見つめる。見つめることしかできない。何かしてあげたいのに、どうしていいか分からない。
……だが、ふと、ネールの中で記憶が蘇る。
昔、昔、ネールがまだ幼く、記憶も碌に残っていないような、そんな頃……体調を崩して寝込むネールの横で、母がネールの手を握り、寄り添っていてくれた。
だからネールも、そうすることにした。
ランヴァルドの手をそっと握り、母がそうしてくれたように、ぽふ、ぽふ、と胸のあたりを軽く叩く。ゆったりとした拍子でそうしていれば、やがて、ランヴァルドの呼吸は少しばかり、穏やかになった。
ほ、と安堵の息を吐きだして、ネールは微笑む。
……ランヴァルドと領主の話は、難しくてネールにはよく分からなかった。だが、ランヴァルドが不当な目に遭ったことだけは、なんとなく理解できていた。
だからネールは悲しい。ランヴァルドを……身を切り裂く寒さの中、ネールを救うために必死になってくれた、この優しく美しい人を、理不尽な目に遭わせる奴らが許せない。
そして、そんな目に遭わされながらも文句一つ言わずに諦めたような顔をしているランヴァルドが、悲しくて悲しくて仕方なかった。
……だから、せめて、いい夢でも見られるように。
ネールはそんな、ちっぽけな願いを胸に祈りながら、ただじっと、ランヴァルドの手を握り、ランヴァルドに寄り添っていた。
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……ランヴァルドは目を覚ました。
夢見が悪かったような記憶がぼんやりと残っているが、それだけだ。体調は大分、マシになった。本調子とは言えないが、まあ、多少は動けるだろう。
「……ん?」
そんなランヴァルドは、自分のベッドの中がもそもそしていることに気づく。ついでに、何やら、柔らかく、温い。
……まさかな、と思いながら毛布を捲って見てみると、やはり、というべきか……。
「……ネール。なんでここに入ってるんだ」
ネールがベッドの中に潜り込んでいたのだった!
「道理で妙にぬくいと思ったぜ。ったく……」
毛布を除けて、ネールを捕獲する。ネールは『もはやこれまで』というような神妙な顔をしていた。それが妙におかしい。
「行儀が悪いぞ」
うっかり笑ってしまわないように気を付けながら、しかしそれでも若干の笑いを漏らしてしまいつつ……ランヴァルドはネールをベッドの外へ下ろした。
「あと、風邪がうつる。俺に近づくな」
あっち行け、と追い払う手振りを見せれば、ネールは頷いて、ぱたぱたと部屋を出ていった。
……ネールは既に、この領主の館で可愛がられているようだ。元々が美少女なこと以上に、喋らないながら妙に愛嬌があって、健気な性質だからだろう。
ドアの外からは早速、『あらお嬢ちゃん、ここに居たのね。朝食の準備ができたから呼びに行くところだったのだけれど、どう?』と女中の声がしていた。……ランヴァルドが寝ている間に、ネールはここの使用人達を全員篭絡しそうである。
それはそれとして、ランヴァルドは未だ、体調が然程よろしくない。
やはり、無理をした代償は重かった。治癒の魔法で傷は癒えているように思えたが、やはり、深い所までは治り切らなかったのだろう。あちこちに風邪由来ではない痛みが残っている。尤も、痛むだけで動きはするので、やはり治癒の効果は十分あったと言えるのだが。
「……くそ」
体が重く怠い。だが、今はそれ以上に気が重い。
何せ、逃した勲章は大きい。ランヴァルドの積年の夢である貴族位に向かう階段の一段を、上り損ねたのだ。これをやり直すために、次はどんな手を打てばいいだろうか。
……そう考え始めると、次第に頭痛がしてきた。
やはり、風邪ひきである。何かを考えようにも、まともに頭が働かない。
ランヴァルドはまた悪態を吐くと、もそもそ、と毛布に埋もれる。こういう時はさっさと眠って、可能な限り早く、体調を戻すに限るのだ。
次にランヴァルドが目を覚ました時、部屋には誰もいなかった。窓の外の様子を見る限り、恐らく昼前、といったところだろう。
少し眠ったからか、幾分、体調は良くなっていた。起きたままもうしばらくしていると風邪がぶりかえしてくるのだろうが。
ふと見れば、ベッドサイドに呼び鈴が置いてあった。……平民であれば使用を少々躊躇うものだが、ランヴァルドはかつての自分を思い出しつつ、躊躇なく呼び鈴を鳴らす。
水を飲みたい。少し熱が出ているのか、喉が妙に渇いて仕方がない。だが幾分、食欲はあった。ならば食べられる時に食べておいた方が、体力を回復する役に立つだろう。食事を持ってきてもらえればありがたい。
……だが。
「……なんでお前が来るんだ」
呼び鈴を鳴らして最初にぱたぱたやってきたのは、ネールであった!
耳がよく、ついでに足の速い彼女は女中達より先に到着してしまったらしい。ネールは、呼ばれたか、と期待に満ちた目でランヴァルドを見つめている。
「お前は部屋の外に出てろ。いい子だから」
ランヴァルドは苦笑しながら、またネールを追い払った。風邪ひきの部屋に小さな子供を置いておくわけにはいかないのだ。
女中に水と軽食を頼んで少しすると、望みのものが運ばれてきた。野菜を細かく刻んで柔らかく煮たスープに、柔らかなパン。そして黄金林檎が三切れほど。そして陶器の水差しにはなみなみと水が入っている。
領主の都合で勲章の授与を翻した領主からランヴァルドへの『埋め合わせ』なのだろうから、遠慮なくそれらを頂くことにした。
……女中はベッドの上で食べられるように支度しようとしてくれたのだが、ランヴァルドはそれを断って、客間にあったテーブルの上で食事を摂った。
卓に着いているだけでも少々辛いような状態ではあったが、無理にでも体を動かさなければ、体が酷く鈍るだろう。
風邪が治ったらすぐ領主の館を辞して、氷晶の洞窟に置き去りにしてきた荷物を回収しなければならない。そしてまた、別の機会を探さなければ。
「……白刃勲章を逃したのは痛かったなあ、ああくそ」
女中が退室してすぐ、ランヴァルドはまたぼやき、またため息を吐いて、それから考える。
領主バルトサールを強請ってもいいが、あまりやりすぎると自分の首を絞めることになる。文字通り。絞首刑という意味で。まあ実際にやられる時は夜道でさっくりと暗殺される可能性の方が高いだろうが。
「一旦、ハイゼオーサは出た方がいいか……。あんまり長居すると暗殺されかねない……」
領主バルトサールは義に従ってランヴァルドを殺さずにいてくれるだろう。だが、彼の側近はそうは思わないはずだ。敬愛する領主の名誉のため、勲章を取り下げられた上に古代遺跡のことを知るランヴァルドに『永遠に』口を噤んでもらおうと考える者も、きっと居る。
……全く、厄介なことになった。
勲章を手に入れようとしたのに勲章は手に入らず、しかも、ハイゼオーサの一部の民から命を狙われかねないとは!
しかも氷晶の洞窟で手に入れたものといったら、風邪と怪我だけだ。魔力をすっかり失った水晶がいくらかあるが、あんなものは大した値段にならない。子供の小遣い程度なものだろう。
嗚呼、本当に、本当に大損である。ランヴァルドはまたため息を吐いて、のろのろと食事の手を進めた。
そうして食事を終えたランヴァルドは眠り、眠っては魘されて起きて、水を飲んで、また眠って……そうして夕方には大分回復していた。これなら、明日の朝、ここを発つことができるだろう。
ならば、今日の内に領主バルトサールに挨拶しておきたい。ランヴァルドは身支度を整えるための諸々を用意してもらうべく、呼び鈴を鳴らす。
……すると、すぐさまネールがやってきた。
「いや、呼んだのはお前じゃないんだが」
どうしてこう、ネールは一度で学習しないのか。ランヴァルドは何とも言えない気持ちになりつつ、『ほら、出てけ』と手振りする。だがネールは出ていかず……。
「……ん?」
もじもじ、としながらやってきたネールは、後ろ手に持っていたらしいそれを、そっ、と出す。
「……お前」
それは、紙切れだ。そしてそこに書いてあったのは、拙いながらも丁寧に並ぶ、文字。
『たすけてくれてありがとう』
「書いたのか」
信じられないような気持ちで尋ねれば、ネールは嬉しそうに頷いた。
どうやらネールは、ランヴァルドが寝込んでいた間に文字を書けるようになったらしい!
ランヴァルドが驚いていると、ネールはもじもじと躊躇いながら、もう一枚、紙を出してきた。
『わたしはネレイア・リンドです。あなたはランヴァルド・マグナス・ファ……?』
「ネレイア……か」
ランヴァルドはようやく、ネールの本名を知った。
リンド、という姓は、まあ、貴族ではないだろう。少なくともランヴァルドは聞いたことが無い。
『菩提樹』を意味する姓であり、まあ、よくある姓の内の一つだ。どちらかというと南部に多い姓だが、それだけでネールの出身地がどこかを考えるのは難しいかもしれない。
それから……ネレイア。それが、ネールの本当の名前、であるらしい。やはり『ネール』は愛称だったようだ。
ネレイア。ネレイア。ランヴァルドが何度かそう呟いていると、ネールがにこにこと嬉しそうにしていた。
だが、にこにこしていたネールは、はた、と気づいたように再びさっきの紙をもう一度指差し、『ランヴァルド・マグナス・ファ……?』のところをなぞった。
「あー、俺の名前だったな。えーと……」
ネールは恐らく、昨日の領主との会話の中で出てきたことが気になっていたのだろう。純粋な好奇心故に思える。
……だが、ランヴァルドはどう説明したものか、と少々迷う。
……それでも結局のところは、全部説明してやるしかないのだろう。
今後のことを考えても、ネールには『貴族とはどういうものか』分かっておいてもらった方がいい。商売の邪魔になるような行動は慎んでもらわねばならないし、何よりも、いずれランヴァルドは貴族になってやるのだから。
ということでランヴァルドは諦めると、丁度来た女中に身支度のあれこれを頼み……それが届くまでの間、ネールに自分の生い立ちを少しばかり話してやることにした。