大きすぎた功績*2
「そういうことでしたら、療養のため、もうしばらく部屋をお借りしたい」
ランヴァルドはそう言って、穏やかに笑って見せた。しっかりと『他意はない』と表明しておくに限る。
「それから、荷物を一式、あの洞窟の中で捨ててきてしまいました。それを取りに行く許可を。後は、金貨数枚で黙りますよ」
「ああ……ならば、遺跡の調査を行う際、同行してもらいたい。だが、本当にいいのか」
「ええ。領主とは、民の為、領地の為に、時に自らの心すら裏切らねばならぬものだと、分かっております」
ここで敵対するのは馬鹿馬鹿しい。何故なら、領主は最悪の場合、ランヴァルドとネールをここで『見捨てる』……つまり、口封じのために殺しかねないからである。
領主とはそういうものだ。
ああ、そういうものなのだ。良き領主であるならば、千を救うために一を殺すことを躊躇ってはいけない。それをランヴァルドはよく知っている。
……それでも、領主バルトサールには良心があるようだ。約束を反故にする代わりに、こちらを殺しはしないでくれるだろう。
むしろ今、ランヴァルドが生きていること自体がその証明であった。倒れたランヴァルドを寝台に運び込むより先に殺しておけば、このようなことにはなっていないのだから。だからランヴァルドは、あくまでも物分かりの良いふりをしておくことにする。
今回、大損した分は貸しとしておけばいい。
領主バルトサールの弱味として、いずれ、ここに付け込んでこちらに有利な取引を成立させてやればいい。まあ、ランヴァルドの体調がいい時にでも。
ランヴァルドがまるで反論せず、文句も言わなかったことについて……ついでに、ランヴァルドの表情に諦めと疲労ばかりが色濃いことについて、領主バルトサールは何とも戸惑った様子であった。
罵倒の一つや二つは飛んでくるものだとでも思ったのかもしれない。そのために今、彼の脇には近衛の兵が控えているのだろうから。
「では失礼します。体調が未だ、思わしくなくて……」
だが何より、ランヴァルドは体調不良である。失意も徒労感も上乗せされた体は、酷く重く煩わしく感じられた。ランヴァルドは今すぐにでも、眠ってしまいたかったのだ。
相手も後ろめたいことがあるのだ。敵意さえ無ければ多少の無礼は咎められないだろう、とさっさと席を立つ。腰に佩いた剣が重く感じられたが、それを感じさせない所作でランヴァルドは一礼して……。
「待て」
そこで、領主バルトサールはランヴァルドを呼び止めた。
「その剣を……紋を、よく見せてくれ……」
ランヴァルドはちら、と逡巡した。
できれば、見せたくなかった。……だが、ここでわざわざ領主の不信を買いたくはない。今後の取引に関わる。
そして何より……『気にしている』と、思われたくなかった。
「……お察しの通り、ファルクエーク家の紋ですよ」
至って平静に。何でもないという顔をして、ランヴァルドは剣に刻まれた紋を見せた。
……樫の木に鷹。ランヴァルドの生家の……北部を治める貴族、ファルクエーク家の紋である。
ランヴァルドはかつて、北部ファルクエークの領主の長子として生まれた。
ファルクエーク領は北部の中でも北に位置する場所である。作物が豊かに実るような土地ではなく、一年の大半を寒さに震えながら過ごすような土地ではあったが、ランヴァルドの父は、その土地を善く治めていた。
ランヴァルドは北部の寒さと家庭の暖かさに育てられながら、父の後について次期領主として学んだ。
いずれ自分がファルクエークを治めるのだ、と、強く使命感に燃えていた。
……だが、そんなある日、父が死んだ。
ランヴァルドはまだ、八歳だった。優秀な子供であったランヴァルドだったが、父に代わって領地を治めるにはまだ、あまりに幼すぎた。
そうして、父の代わりに父の弟……ランヴァルドから見ての叔父が領主となり、ファルクエークを治めることになった。『いずれランヴァルドが大きくなって領主になるまでの間、領地を預かる』と叔父は言っていた。
だがどうにも上手くいかないものである。父のように学んでいたわけではない叔父は、領地の経営に不慣れであった。ランヴァルドの母は夫の死を悼む暇も無く、夫の弟を補佐することになった。
……忙しさと、それを共に乗り越えるという状況。そんなこんなで、二人の間には新たな愛が芽生えてしまったのである。
母が再婚すると聞いた時には耳を疑った。
『こうした方がファルクエーク領の地盤が安定する。ランヴァルドのためにもこの方がいい』と説明されたが、ランヴァルドは母と叔父がファルクエーク領やランヴァルドのことを考えてそうするわけではないのだろう、ということくらいは分かっていた。
何せ、幼いランヴァルドの目にも分かるほど、母は叔父に惚れていた。叔父も、母を気に入っていた。
二人は気づかれていないと思ったかもしれないが、ランヴァルドはこっそり覗いた執務室や、窓から眺めた中庭で、仲睦まじく見つめ合い、寄り添う二人の姿を何度も見ていたのだ。
……幼いランヴァルドは裏切られたような気持ちではあったが、母が幸せそうにしているのを見て、ただ祝福の言葉を述べた。
ランヴァルドは幼くも聡かった。若くしてファルクエークへ嫁いできた母のことを思えば、こういうこともあるだろうと割り切ることができた。
それからもランヴァルドは次期領主として勉学に励んだ。義父となった叔父と共に領内を回ったり、各地への挨拶に出たり。
義父はぎこちないながらもランヴァルドを愛そうとしてくれたし、次期領主として学ぶランヴァルドを褒めてくれた。ランヴァルドも、早く新しい父親に慣れようとしていた。
……だが、義父と母との間に弟が生まれたことで、状況は徐々に変わっていった。
十歳年下の弟は、義父と母の愛を一身に受けてすくすくと育った。その一方で、ランヴァルドは弟を可愛がる兄でありながら、次期領主として勉学に励んでいたが……弟が七歳、ランヴァルドが十七歳になる頃には、ランヴァルドが剣にも魔法にも才が無いことははっきりしていた。
そして弟は、小さいながらもそれなりに筋がいいと教育係の評であった。
領主であるために、剣も魔法も必要ない。だが、優れるか劣るかという評判は、どうにも十七歳のランヴァルドにとって、煩わしかった。使用人達、義父、母……彼らが囁き合う声から遠ざかろうと、今まで以上に必死に勉学に打ち込んだ。
ランヴァルドが二十歳になったら領主を交代しよう、と義父は話していたが、義父の目は常々、弟に向けられていた。
『お前がせめてあと五歳くらい大きければ』と義父が弟に言っているのを、ランヴァルドは何度か聞いた。
……義父にとっての初めての実子だ。ランヴァルドより実子を次期領主に、と思うのは、当然のことだったろうと思われる。ただ、それがランヴァルドには少々残酷だった、というだけで。
幼い弟自身は、自分とランヴァルドが置かれた状況をよく分かっていない様子だった。ただ元気に過ごしていた。ランヴァルドは無邪気に居られる弟を少しばかり恨めしく思ったが、それでも、良き兄であろうとしていたし、弟も、ランヴァルドに懐いていた、ように思う。
そして……母は。
ランヴァルドが十九歳になった、ある日の晩。
……ランヴァルドは毒を盛られた。
血を吐き、床に蹲るランヴァルドを、母はただ静かに見ていた。
……結局、ランヴァルドはその毒で死なず、現在に至る。
毒で死ななかった理屈は簡単だ。ただ単に、毒殺されることを予想して、使われそうな毒を予想して、予め少量ずつ摂取して毒に慣れておくだけ。
毒で意識を失って、部屋のベッドに運ばれて、本来ならただ死を待つばかり、となったところで……毒の回った体に鞭打って、荷物を持って、窓から脱出して行方を晦ませた。それだけのことだ。
それだけのことだ。ランヴァルドは全て、首尾よくやりおおせた。
剣も魔法も不得手だが、ランヴァルドはその頃から頭の回る男だった。人の悪意に敏く、実の親であっても自分を殺そうとしているのではないかと疑うことができた。
全ては、ランヴァルドが抜け目なく、頭が回り、機転が利いたからこそ。愛する家族からの殺意を疑うことができたからこそ。だからこそ、ランヴァルドは自分の生家の陰謀から逃れ、ハイゼオーサの『林檎の庭』まで逃げ延び、そうして生き残ることができたのだ。
……だが。
自分が巻き込まれた世継ぎ争いの状況にも、自分へ向けられた様々な評価にも、実親からの殺意にも気づかず……ただ気づかないが故に幸福に生き、そして何も知らぬまま死んでいた方が良かったのではないか、と。そう思うことが無いでも、ない。
「成程……!どこかで見た顔のように思ったのだ。そうか、貴殿、ファルクエーク家の……ランヴァルド・マグナス・ファルクエーク殿では!」
領主バルトサールは、がたり、と席を立つ。その瞳に浮かぶ困惑と疑問を向けられながら、ランヴァルドは只々苦笑する。
「しかし、その名はもう、捨てました」
随分と久しぶりに、自分の本名を呼ばれて、ランヴァルドは妙な気分になる。
『ランヴァルド・マグナス・ファルクエーク』。
それがランヴァルドの本名だ。……だが、自分の名だと、どうにも思えない。
今のランヴァルドはあくまでも、悪徳商人『ランヴァルド・マグナス』なのだ。もう、それに慣れてしまった。
「この剣にしても、今の私の手元にあるには不相応な品です。だが、しかし……亡き父から受け継いだ唯一の品でもありますので。弟には悪いが、持ち出してきてしまった」
ランヴァルドはさっさと剣を剣帯へ戻す。あまり見ていたいものでも、見せたいものでもない。自分の復讐心の表れなど。
「……その、貴殿は長子であったであろう。なら、ファルクエーク家は……」
「弟が継ぐでしょう。義父も母も、そう望んでいます」
努めて平静を装って、ランヴァルドはそう口にして微笑んだ。なんてことはない。なんてことはないのだ。もう済んだことで、もう諦めたことなのだから。
……追いかけてくる記憶の切れ端を振り払うように、ランヴァルドは剣を外套に隠した。
「……もう、よろしいでしょうか。あまり、話すべきことでもないので」
「あ、ああ……不躾なことを聞いたな。すまない」
領主バルトサールはそう言いつつ、ちら、とランヴァルドを見てくる。
やはり、ランヴァルドが北部の貴族の出だと知って、余計にやきもきしているのだろう。きっと、『冷夏の原因かもしれない古代遺跡のことを、よりによって北の貴族に知られてしまった』とでも思っている。
「私は家を逃げ出した身です。今更告げ口なんてしませんよ」
「そ、そうか……勲章を求めたのは、生家に戻るためではないのか?」
「ええ。ファルクエークに戻るつもりはありません。あそこはもう、私の家ではない。もし貴族位を賜れることがあったとしても、その時にファルクエークの名を継ぐつもりはありませんし、与するつもりも無い」
ランヴァルドは苦笑しながらそう答えて領主を安心させてやる。実際、ランヴァルドはあの家に帰るつもりは無い。
……ただ、家とは無関係に貴族になって、そして、滅びかけたファルクエーク領を嘲笑ってやりたい、と。そうは、思っている。
そのためにランヴァルドは、貴族位を欲している。全てを諦めたからこそ、地を這って、泥を啜って、復讐を、と。そう、思っている。
そうしてランヴァルドは領主バルトサールの御前を辞し、客間へと戻った。
……思っていた以上に体調は悪く、階段を上る途中でへばった。このまま階段の途中に倒れ伏して眠ってしまいたかったが、なんとか体を引きずるようにして客間までは戻る。
「……疲れた。少し、寝る」
心配そうに付いてきたネールにそうとだけ言って、ランヴァルドは寝台へ潜り込んだ。潜り込んでから、剣を帯びたままだったことに気づいて、上手く動かない手でなんとか剣を外す。剣は、ごとり、と音を立ててベッドの下に落ちた。
そうして全てがどうでもいいような気分で、ランヴァルドはただ、あっさりと意識を手放して眠りに就くのだった。