氷晶の洞窟*6
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「ネール!」
ネールを呼ぶ声がする。力強い声が、途切れかけていたネールの意識を繋ぎ留めた。
暖を取るために包まっていた外套と被っていた冒険者の人の死体の隙間でうっすらと目を開けば、分厚い氷の壁越しにランヴァルドが呼びかけているのが見えた。
ガキン、バキン、とけたたましい音を立てながら、氷の壁が割れ砕けていく。
ランヴァルドが剣を振り下ろす度、さっきまで硬く硬く凍り付いていたはずの氷の壁は砕けていった。
そうして氷の壁に穴が開くと同時、ふわ、と少し温い空気が流れ込んでくる。……さっきまで吹き荒んでいた吹雪はいつの間にか止んでいた。
だから、すこしだけ、ぬくい。これを温く感じられるくらいには、ネールの体は冷え切っていた。
「ネール!しっかりしろ!」
氷の壁を破って入ってきたランヴァルドは、酷い状態だった。
寒さにがたがたと震えていたし、その髪や睫毛までもが凍り付いていた。更に、氷で切ってしまったのか、あちこちに酷い切り傷がある。
特に酷いのは右手で、掌と手の甲からぼたぼたと血が流れていた。
あれではまともに動かないだろうに、その手で剣を振って、ネールを氷の中から救い出してくれたのだ。
自分は大丈夫だ、と伝えたくて、ネールは必死に笑顔を作った。顔が上手く動いたかは分からない。何せ、今まで寒すぎたから、体が全部凍り付いたように強張ってしまっているのだ。
だがランヴァルドはすぐさまネールに近づくと、ネールをその腕の中に抱きかかえた。
……温かい、と思えなかった。それはそうだ。ランヴァルドの体もまた、冷え切っていた。むしろ、ネールより余程酷かった。だというのに、ランヴァルドはまだ、動く。
「ここを出……くそ、邪魔だ!」
ネールを抱きかかえたランヴァルドは小さく舌打ちすると、ネールの背嚢を外して、その場に置いた。ランヴァルド自身の背嚢も、放り捨てた。
荷物を捨てていってしまうのか、と、ネールは驚く。あそこには金貨だって入っているはずなのに。
脱出するのに邪魔だというのなら、ネールを置いていけばいいのだ。なのにランヴァルドはネールを抱きかかえて、一心不乱に元来た道を戻り始めた。
……そもそも、ランヴァルドは、ここまで残っている必要はなかったのだ。吹雪が渦巻き始めたところで、ネールを置いていけばよかったのだ。それくらい、幼いネールにも理解できていた。
彼一人なら、いくらでも脱出できただろう。ネールを置いていけば、こんな風にならなかった。凍えて、傷だらけになって、こんな風になってしまうことなんて、なかったはずなのに。
「ああ、くそ……本当に、本当にどうかしてる……」
ネールは小さな体をしているが、それだって、子供一人を抱きかかえて遺跡と洞窟を進んでいくのは厳しいはずだ。ましてや、ランヴァルドは傷ついて、血を流して、凍えて、何もかも使い果たしてしまっているのに!
それでも、ランヴァルドはネールを離さなかった。
声が出るなら『おいていっていいよ』と言いたかったのに、ネールの喉は相変わらず、ひゅう、と掠れた音を漏らすばかりだった。
……そうして抱えられて、運ばれていく内に、ネールの体力が先に尽きてしまう。
小さな体は寒さに耐えて、命を吹き消されないように足掻くだけで精一杯だったのだ。
それに何より……緊張の糸が、ふつり、と切れてしまっていた。もうだいじょうぶだ、と、ネールはそう、安心してしまったのである。
……ランヴァルドに触れているところが、じわ、と温もる。互いの体温は、徐々に戻りつつあるようだった。その夢のような温もりに抱かれて、ネールは遂に、意識を失った。
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ランヴァルドは真っ先に、火を熾した。
幸いにして、洞窟の入口付近には、かつて兵士達がここで野営した時に使ったと思しき焚火の跡があったのである。そこの燃えさしや、
集めたものの使われずそのままになっていたのであろう薪を使って火を熾して、火の傍でネールを抱きかかえ直す。
「ネール……生きてるか」
呼びかけても、ネールは微かに睫毛を震わせ、もそ、とランヴァルドの胸にすり寄ってくるだけである。その動作にもまた、力が無い。
ランヴァルド自身の魔力は最早、底を尽きている。だがそれでも治癒の魔法を使ってみれば、なんと、多少は魔力が残っていたらしい。或いは、あの水晶に蓄えられていた魔力が予想以上に多かったのか。
……なんと、ランヴァルドはネールの凍傷を治療しきることができた。
「よし、傷は無いな」
一通り、ネールの傷が癒えていることを確認して、ようやくランヴァルドは安堵の息を吐き出した。
ネールは脱出してくるまでに力尽きたらしく、今はすうすうと寝息を立てている。寝息を立てつつ穏やかな顔でむにゃむにゃやっているネールを見ていると、いっそ安堵を通り越して呆れさえする。
……あれだけ人を殺しながらもけろりとしている少女が、こうもふにゃふにゃしているとは。
「ったく、商売道具の手入れも骨だな」
まあとにかく、ネールが無事ならそれでいい。ランヴァルドが命を懸けた甲斐があったということだ。
ランヴァルドに傷が残ろうが腕が一本駄目になろうが、ネールさえ五体満足で、かつランヴァルドに懐いていればいい。そうすればまた、稼げるのだ。ランヴァルドは改めてそう考え直して、納得する。
……そうだ。ランヴァルドは、ネールを使ってこれからも稼ぐために、あんな分の悪い賭けをした。そういうことだ。そうに違いない。そうでなかったとしたら……一体、何だというのだろう。
自身の内に、損得を覆すような良心でも存在しているというのだろうか。この荒み切った自分の中に。
馬鹿なことをしたもんだ。ランヴァルドは自嘲めいて笑みを浮かべると、そのまままた、治癒の魔法を使い始める。
正直なところ、このまま眠ってしまいたかった。が、そういうわけにはいかない。怪我を負ったのはネールだけではない。むしろ、ランヴァルドの方が余程重症である。
……そう。ネールの凍傷も酷かったが、ランヴァルドはそれ以上に酷いものだった。
手足の凍傷は勿論のこと、目も見え方が悪くなっていた。内臓も幾らかおかしくなっている気がする。氷の刃を孕んで吹き荒ぶ冷気は、ランヴァルドのあちこちに切り傷を作ってくれた。
……また、右手が特に酷い。
自分の手とは思えないような有様で、直視するのも躊躇われるほどだった。
掌の皮膚は制御盤で凍り付いて持っていかれた部分があったし、何より、水晶を叩きつけたせいで手の甲も駄目になっていた。だが、あれのおかげでなんとか魔力が足りたのだから文句は言えない。
一度見て自覚してしまえば、右手は酷く痛んだ。ついでに、よくよく確かめてみるとそもそも右手が動かない。碌でもない状態である。よくもまあ、この状態でネールを抱えて出てきたものだ。自分でもびっくりするしかない。
こんな状態なので、治せるなら、早く治した方がいい。その方が……まだ、後遺症が少なくて済む。利き手が今後動かないとなると、流石に生きていくのが厳しい。
そして余裕があれば、傷も治したい。人とやり取りする商売なので、特に、顔面は。
……多少の傷は名誉の負傷と割り切れるが、それにしても、わざわざ強面になって人に警戒心を与えたくはない。
ということで、まずは手から治し始めた。……すると、思いの外するすると治る。
自分にはこんなに魔力があっただろうか、と首を傾げつつ、何かの間違いならうっかりその間違いが訂正されない内に治し切っちまえ、と、ランヴァルドはそのまま、足も治し始めた。
恐らく靴の中で酷い状態になっていたのであろう足も、無事、治った。感覚が戻ってきて、自由に動くようになる。
……そうして一通り、後遺症が残らない程度にあちこちを治し、切り傷の類もいくらか治したところで……ようやく魔力が尽きた感覚があった。
おかしい。何かがおかしい。
「……まだ背嚢に水晶、入ってたか?いや、背嚢は捨ててきたんだったか……」
ランヴァルドは訝しみながらもポケットなどを探るが、魔石が入っているようなことも、当然、無い。……だが。
「ああ……これか」
ランヴァルドの腕の中、すやすや穏やかにやっているネールを見てみれば、ポケットに水晶が詰め込まれていた。ゴーレムの体から採ったものだろう。
……秋になると、子供達は森でどんぐりを拾うものだ。生家の近くの村でも、子供達のポケットもよくこうなっていたのを思い出す。どんぐりと魔力の籠った水晶を同じく扱うのもおかしな話ではあるが、実際のところ、ネールにはどんぐりも水晶も、大して違わないのだろう。
「全く。これの魔力まで使い切っちまったとなると、いよいよ何のために潜ったんだか……」
魔石を全て駄目にしてしまったのなら、洞窟にわざわざ入っておきながら金を失ったのも同然だ。だが何にせよ、最早ランヴァルドには考える余力など無い。今はもう、只々、眠りたい。
今ここを誰かに襲われたら死ぬことになろうが、最早それを考える余力すら無い。
……そうしてランヴァルドは、ネールを腹に乗せたまま、ごろり、とその場に横たわって眠ることにしたのであった。
ふさ、と何かが頬に触れて、ランヴァルドは目を覚ました。
見てみれば、ネールがランヴァルドをじっと覗き込んでいた。如何にも心配そうな顔をしている。……ランヴァルドの頬に触れたのは、ネールの髪であったらしい。
「ああ……起きたのか」
海色の瞳に見つめられて、ランヴァルドはひとまず安堵した。ネールが生きていて、動いている。自分がしたことは、無駄ではなかった。
そして、ランヴァルド自身も、まあ、生きている。体を少し動かしてみると、多少、治し切れなかった傷が痛んだ。更に、身の丈に合わない魔法を使った反動で頭痛や吐き気がある。そして何より、疲労が色濃い。
「戻るか……」
立ち上がってみると、体はふらついた。体の節々が痛い。声も掠れている。そんな状態だったのでネールは心配そうにおろおろしていたが、こんな体調なら余計に屋外に居られない。
「まずは、宿に……いや、その前に、領主様への報告が先か……」
気力を振り絞れば、なんとかハイゼオーサまで戻ることはできそうだった。
そしてネールはあんな目に遭ったというのに、今は平気な顔で動いて、心配そうにランヴァルドの周りをくるくる回っている。どうやらしっかり回復しているようだ。ネールは戦闘能力も化け物じみていれば、回復力まで化け物じみているらしい。
これならなんとかなるか、と、ランヴァルドは歩き出す。今すぐにでも倒れてしまいたい気分だったが……ひとまず、道中の護衛が居る内に、と、ランヴァルドは歩き出す。
ネールもまた、そんなランヴァルドに寄り添うようにして歩き出した。
その海色の瞳には、ランヴァルドへの不安と心配と……そして、色濃い疑問が、渦巻いていた。




