休養3日目
「兄上。お加減はいかがですか」
「ああ。ネールが戻って来たからな。かなりいい。ここ100日で一番の調子の良さだ」
「それはよかった」
オルヴァーが心底ほっとした顔をしているのを見て、ランヴァルドは苦笑する。……こいつには随分と心配をかけたな、と。
ランヴァルドが死者の国の魔力を摂取するようにし始めてから10日程で、ランヴァルドの身体には異変が生じていた。
手に鱗が生じ始めたのだ。……覚悟していたことだったとはいえ、アレは中々に、堪えた。
が、ランヴァルド以上に衝撃を受けたのがオルヴァーだった。『やっぱりこんなことやめましょう兄上!』と大いに慌てふためき、取り乱していた。
『俺がやります!俺がやりますから!兄上はもうおやめください!』と騒ぐオルヴァーをなんとか黙らせて氷を喰らい続けたのも、今となっては遠い思い出である。
氷を食い進めていくごとに、鱗は左腕全体を覆い尽くし、胸や腹、尻に脚に、と次第にその面積を増やしていった。ついに顔にまで出始めたのが、70日目のことだったか。
……ここでまた、オルヴァーが大いに騒いだのも、今となっては遠い思い出である。いや、あの時はオルヴァーのみならず、様子を見に来たイサクも絶句していたか。
何せ、ランヴァルドにはその一時期……角まで生えていたのである!
その時にはイサクも『ああ、これはもう駄目ですね。ここまでにしておきましょう、マグナス殿』とそっとランヴァルドを止めにかかってきたので、ランヴァルドは一旦そこで死者の国の魔力の摂取を止めた。
そのまま、その日はオルヴァーに拉致されて、オルヴァーのベッドに入れられてしまった。
ネールには程遠いが、オルヴァーも魔力が多い性質だ。なので、ランヴァルドはオルヴァーによって少しばかり、死者の国へ傾きすぎた分の変化を回復させられることになった。
……魔物化自体は、単に生者死者関係なく、魔力の過剰摂取によるものである。だから、オルヴァーに抱きすくめられようが、イサクやアンネリエに『わー、すごいですね角ですね』と撫でられようが、すぐには後退しなかったのだが、溶けない氷でできた鱗については、多少、人との触れあいで進行を止められるようであった。要は、鱗については死者の国由来の魔力で生じたものだったのだろう。
が、それ以上に問題だったのは、精神であった。
……その時のランヴァルドは、魔物化と同時に、『死者の国の魔力を摂取しすぎると発狂する』の方に、傾きすぎていたので。
一番酷い時……角が生え、更に、尾まで生えているのもオルヴァーに見つかり、ファルクエーク城総出で休まされてしまったあの時。
なんと。ランヴァルドには、死者の国が見えていた!
……そして、父の姿をそこに見て、『ランヴァルド。ぼちぼち踏み留まれ』『はい』という会話までしていた。まあ、幻覚であったのであろう。幻覚でなくとも一向に構わないが。
他にも、聞こえるはずの無いものが聞こえ、手足……特に、鱗に覆われた左半身の感覚は失せて、磨り減った精神がすっかり動かなくなってしまい……まあ、まずかった。振り返ってみると、あれはまずかった。
何故か希死念慮が生じてしまい、うっかり城の塔から身投げしかけたこともあった。その直前、自分ではたと気づいて思い留まったものの、流石にアレにはぞっとした。
あれ以来、そのようなことは無くなったが……念のため、ファルクエークの兵に自分の見張りを頼むことになった。オルヴァーはまた泣いていた。
希死念慮はさておき、食欲もすっかり失せてしまった。そのせいで物を食うことにもまた難儀するようになったランヴァルドの元には……なんと、ヘルガが連れてこられた。イサクが色々と覚えていて、動いてくれたらしい。
ヘルガは『ランヴァルド、本当の本当に貴族様だったのねぇ……』などと気の抜けたことを言いながら、ファルクエーク城にしばらく留まり、林檎を剥いてはランヴァルドに食わせ、スープを煮てはランヴァルドに食わせ、なんとかランヴァルドの命を繋いでくれた。
……食事の用意はファルクエークの使用人達にも十分にこなせるのだが、『ほら食べなさいよ人が折角用意したんだから!』と遠慮なくランヴァルドの口にスプーンを突っ込むことは、ヘルガにしかできなかったのである。
まあ、ヘルガにはまた借りができてしまったことになる。後で埋め合わせしないとな、と、ランヴァルドはぼんやり思った。
……と、まあ、そんな調子だったのだ。
魔物化が進みすぎた70日目あたりで魔力の摂取を止めたため、一応、そこからは徐々に魔力が抜けて、魔物化は徐々に後退していった。
生えた角については、そこで抜け落ちたのでランヴァルドはひとまず、ほっとした。額から角が生えている状態というのは、どうにも、心地が悪かったので。……角って、案外、邪魔なのである。
尻尾については今も残っているが……その内元に戻るだろう、と思われる。早く戻ってほしい。ズボンを履いて歩いていると、擦れて妙な心地になってくるのだ。それでいて、尻を出して歩いているわけにもいかないので……。
だが精神については、一度あそこで魔力が馴染んだのか、あれ以降は安定していて、酷く取り乱すことも、酷く沈むことも無かったように思う。
そして何より……精神については、一貫して『絶対にネールを連れ戻す』という目標だけは保ち続けていたので……その執念深さ故に、正気を保っていられたのかもしれない。
「鱗、減りましたね」
「ああ……その、ネールに、撫でられまくってるんでな。うん……」
オルヴァーがランヴァルドの頬に触れて『おお、鱗が減った!』と喜んでいる横で、ネールがこくこくと満足気に頷いている。『私がやりました』という顔であろう。
……死者の国から戻ってきてから今日で3日になるが、その間、ネールもランヴァルドも、療養のためひたすらベッドの中に居る生活を送っている。
そしてその間、ネールは暇を持て余すとすぐランヴァルドにきゅうきゅうとくっつき、頬に口づけて、そしてまたきゅうきゅうとランヴァルドの胸にすり寄って……と、何かとランヴァルドに触れたがった。
そのおかげか、ランヴァルドの顔の左半分程度を覆っていた鱗は、随分と減った。これならばもう1週間もすれば、人前には出られるようになるだろう。服に隠れる部分についてはこれからだろうが、そこは幾らでも誤魔化しが効く。
「ネール、兄上を戻してくれてありがとう!やっぱり君は最高だ!」
オルヴァーはネールを抱き上げて、くるくると回っている。ネールは回りながら誇らしげであった。自分が触っているとランヴァルドが回復する、と分かっている顔であろう。
「あー、ネール。だが、その、俺に触るのはそんなに頑張らなくてもいいんだぞ。特に尻尾とかは、その……」
「何を仰います兄上!この際、休暇中にしっかり治してもらってください!」
「だが、死者の国の分はともかく、ただ魔力を抜くだけならネール無しでも」
「ネールがくっついてたって問題は無いわけでしょう?……そうだよな、ネール。お前だって兄上にくっついていたいよな。うんうん。是非くっついていてくれ!」
……オルヴァーも、ネールの後押しをしてくれるものだから、ランヴァルドは今後もネールにくっつかれ続けるのであろう。嗚呼。
ランヴァルドは少しばかり、『本当に……出来の良い弟で……』と、遠い目をする羽目になった。
「ところで……その、オルヴァー。お前、部屋に俺の角、飾ってないか……?」
さて。そんな折だが、ランヴァルドが気になるのは角の話である。
そう。ランヴァルドに生えてしまって、抜け落ちた例のアレである。
……溶けない氷、というよりは水晶と雪花石膏でできたようなそれは、緩く湾曲しながら鋭く伸びた、曲刀めいた形をしていた。
まあ、化け物の角であるが……どうも、それをオルヴァーは気に入ったらしい。オルヴァーの部屋に飾ってあるのをランヴァルドは発見している。
発見当時は精神状態が良くなくて、『ああ、飾ってあるな』としか思わなかったのだが……健康を取り戻しつつある今になって、少々気になってきたのだ。
「あ……はい。その、まずかったですか?」
「うん、まあ、別にいいが……金になるもんじゃないと思うぞ、あれは」
「いえ、売るつもりはありません。ただ、あまりに美しいので、折角ならと思いまして……」
「……そういえばお前、角の蒐集してたな……」
実は、オルヴァーの部屋にはいくつか他にも角が飾ってある。
北部の戦士達は、自分が仕留めた獲物の鱗や牙や角、時には首の剥製などを飾っておくものだが、御多分に漏れず、この弟もその手の趣味があるらしい。
まあ、つまり……角の蒐集が趣味なのだろう。オルヴァーは。彼の部屋には既に、ドラゴンの角が飾ってあることだし、ランヴァルドに生えていた角もその蒐集品の1つとなったわけだ。
「それに、アレを見ると気が引き締まりますので」
「……ああ、うん。お前がいいなら、いいんだが……」
……ランヴァルドは複雑な気持ちになりつつ、『あんまり弟の世話にならないようにしよう』と気を引き締めることになったのだった。
さて。
その日の夜も、ネールはいそいそと、ランヴァルドのベッドに入りに来た。最早、ネールは自分の客間をほぼ使っていない。着替えのために使うくらいである。寝泊りは全て、ここのベッドだ。
ランヴァルドは『俺の治療のためとはいえ、良くはないよな……』と思うのだが、少なくとももうしばらくの間は治療のためにネールをベッドに入れておきたいので、今は何も言えないのである!
「お前が居るベッドは100日ぶりだった訳だからな……まだ慣れないかんじがする」
そしてどうも、人のぬくもりにまだ、慣れないような感覚があるのだ。100日の隔たりは、思っていたより大きかったようである。
不思議なものだ。ネールと出会って、1年程度だというのに。ネール無しで生きていた時間の方が、ずっとずっと長いというのに。
……ランヴァルドはぼんやりと、『あたたかさを知ってしまったら、寒さが堪えるようになる』と、ティナの言葉を思い出す。まさにその通りだ。知ってしまったから、ランヴァルドはもう、戻れない。
『あったかい』
ネールが文字を書いて見せてくれたのに笑い返して、ランヴァルドはその腕にネールを抱きしめる。
「うん。そうだな。お前が入ってるとあったかいよ」
ランヴァルドの左腕に頬擦りするようにして、ネールがもそもそ動く。……氷の鱗に覆われたランヴァルドの左腕と左脚は、動きこそすれども、未だ感覚は戻ってこない。まあ、この程度なら安いものだな、とランヴァルドは思っている。
……同時に、ネールやオルヴァーに知られると厄介そうだなとも思っているので、イサクとアンネリエにしか伝えていないが。
「ほら、鱗に頬擦りするもんじゃない。鱗は硬いんだぞ。頬を切ったらどうするんだ」
やんわりとネールを引き剥がしたものの、ネールはやはり、ランヴァルドの左腕を治そうとしているらしい。一生懸命、健気にすりすりやってくる。
「……もう寝るぞ、ネール。お前だって休養が必要なんだからな。分かってるのか?」
だが、ネールにそう声をかけると、流石にネールもこくりと頷いた。ランヴァルドはネールの額に口づけを落とすと、『おやすみ』と、ネールを寝かしつけにかかる。ネールもまた、ランヴァルドの頬に口づけて、もそもそと眠る体勢に入っていく。
……やがて、ネールの寝息が聞こえてくるようになって、ランヴァルドも目を閉じる。
温くて、とろりとして、眠い。……時間がゆっくりと流れていくような、漠然とした幸福感の中、ランヴァルドもまた、眠りに就くのだった。




