出立
朝が来た。
ランヴァルドは、結局一睡もできないままに朝を迎えた。
腕の中ですやすやと眠っているネールの姿が、可愛らしく、そしてどうにも痛ましい。
……ネールはこれから、死にに行く。
本人はそれを知った上で、死者の国へ行くことを自ら決めた。
ランヴァルド達には、何も告げないまま。
ネールが何か隠していることは、すぐに分かった。当然である。子供の拙い隠し事程度、見抜けないランヴァルドではない。
だが、その内容については分からずじまいだった。こちらも当然である。あの魔法が飛び交う会話を聞き取れる者など、この世界にはもう、誰も居やしない。
……だから、もう一度話させることにしたのだ。ティナを呼び出したのは、そのために他ならない。
そうしてランヴァルドは、『死者の国』のこととネールの決断について、全てを知ることになったのである。
ティナは、ランヴァルドを気遣いながらも話してくれた。
死んだ者が溶け、混ざり合い、そして還っていく場所。それが『死者の国』であるのだ、と。
『死者の国』では多くの魂、多くの魔力が混ざりあって、時も空間も繋がりあって、混沌として、しかし、静謐である、と。
……冬のファルクエークに少し似ている、と、ティナは言っていた。雪が降り積もり、吹雪に視界を閉ざされた、冷え切った世界。だが、静かで、雄大で、美しいのだと。
そんな『死者の国』の冷気をこの世界で浴びていたかつての古代人達は、生きながらにして『死者の国』へ到達し、そこで、生きも死にもせず、残り続けるのだそうだ。
そうでない者が『死者の国』に辿り着いたならば、魔力の奔流に呑まれて、その存在ごと消えていき、やがて、『死者の国』を吹き荒れる魔力の一部へと変わっていくらしい。
……ティナの表現は独特で、難解であった。だが、それでもランヴァルドは根気強く尋ね続け、ティナもそれに根気強く付き合ってくれて……そうしてランヴァルドはようやく、理解したのだ。
『死者の国』で溶け残る(……とティナは表現した)者達を正常な形に戻せば、彼らを消滅させ、同時に救うことが可能である。
溶け残る者達を正常な形に戻すためには、『死者の国』の冷気を含まない、血の通った魔力が必要である。
『死者の国』へ向かうには、古代遺跡のように『死者の国』と繋がった場所から『門』を開いて入る必要がある。
だが、『門』を開きっぱなしにすることはできないし、すぐに開き直すこともできない。すぐ開き直したら溶け残った者達がこちらに押し寄せてきてしまうからだ。そして、向こうからこちらへの『門』を開くことは、できない。
……そして、現状、ネールだけが適する魔力を有しており、そして、『死者の国』ですぐに消滅する運命から逃れることができ……そんなネールもまた、いずれは『死者の国』の魔力に呑まれて、消えてしまう。
だが、ネールがそうしなければ、この世界は死者の国から這い上がってきた者達によって征服される可能性が高い。
つまり、現実的に考えるならば……ネールを犠牲にすることでこの世界は生き永らえることができる。そう、ランヴァルドは理解した。
そして、世界とネールとを天秤にかけた時、ネールを取ることなどできなかった。
貴族とは、そういうものである。領民に、全体に対しての責務を負うものである。
同時に、商人とはそういうものである。現実的に考え、利益を求めるものである。
明確な『正解』を前にして、ランヴァルドはただ絶望しながらもそれを受け入れることにした。
……ネールがそうしたように。
だからランヴァルドは祭りを開くことにした。
元々、秋の中頃に予定していたものを無理に前倒しした。それに伴い、かなり規模を小さくし、方々に頭を下げ、かなりの無理をする羽目になったが……それでも祭りを開けたことはよかったと思っている。
ネールにしてやれることが、それくらいしか無かったから。
……否。
ランヴァルドが祭りを開いたのは、ネールのために何かした、と、自分で思いたかったからだ。『何かした』と思えるように、そうしただけだ。自分の罪悪感から逃れたかっただけなのだ。
祭りの名前を『ジレネユース祭』としたのも、ランヴァルドの自己満足だ。『お前が死んだ後もお前の名前が残るぞ』などと言われて、ネールは嬉しいだろうか?……そんなわけは、無い。これは、ランヴァルドの自己満足でしかない。そんなことはとっくに、分かり切っているのに。
それでも何か、せずにはいられなかった。無駄なことだと、無意味なことだと、分かってはいても。
ネールが『最期の』7日だと割り切っているのであろう休暇を、精一杯楽しませてやりたかった。
ネールが笑うに、笑い返してやった。
それだけだった。
……ランヴァルドは無力であり、この世界もネールもどちらも救う力など、持ってはいなかった。
だが。
ランヴァルドはどうしようもなく無力ながらにして、どうにも諦めが悪く……悪足掻きをしてしまう性質でもあった。
分の悪い賭けでも、そこに望みがあるなら身を投じてしまう。求めるものが先に在るなら、危ない橋をわたることも躊躇わない。
……つまり、まあ、貴族に戻ろうが領主になろうが、性根は悪徳商人のままなのである。
+
ネールは、古代遺跡の奥に居た。
遺跡の、奥の部屋。古代魔法の装置の、前。……ネールはここから、『死者の国』へ行くのだ。
「じゃあ……ネール。気を付けて行ってこい」
ランヴァルドがネールを送り出してくれる。ネールは背負った荷物を背負い直して、にこ、と笑った。
……これが、最後になる。ランヴァルドに会えるのは、これが、最後。
最後に精一杯、ランヴァルドの姿を目に焼き付けておこうと、瞬きする間も惜しんで、ネールはランヴァルドを見つめた。
そうしていると、目が乾いてきて、涙が出てきそうになってしまう。だからネールは慌てて瞬きした。……ネールが泣いたら、ランヴァルドはきっと、心配してしまう。だから笑顔でお別れするのだと、ネールは決めているのだ。
ランヴァルドには、『終わったら帰ってくる』と伝えてある。……『死者の国』への道が、向こうからは開けない片道切符であることを、ネールはランヴァルドに言わなかった。だから、ランヴァルドは何も知らない。
ネールがもう帰ってこないことを、ランヴァルドは知らないのだ。だからネールは、笑顔でお別れするのだ。
「じゃ、確認だが……俺とお前の長期契約は一旦休止。お前が戻ってき次第、再開だな」
それから、ランヴァルドと交わした契約を改めて確認する。……ランヴァルドは律儀である!でもランヴァルドのこういうところもネールは好きなのだ。
「で、俺は1日金貨5枚でお前の家の留守番をする。つまり100日間だ」
ネールは頷いた。……ランヴァルドにこの契約を持ちかけたのは、ネールの我儘だ。
待っていてほしかった。
ネールが消えてしまっても、ネールのことを、忘れないでいてほしかった。
……でも、それが我儘だということは、よく分かっている。ランヴァルドの人生を、消えてしまった後もネールに縛り付けておくなんて、そんなことをするわけにはいかない。
だからネールは、100日、と決めた。
100日だ。ネールが『もういいよ』と言うまでじゃなくて、100日。100日だけ、ランヴァルドの人生を買わせてもらうことにした。
……それくらいはいいよね、と、ネールはちょっと我儘になってみることにしたのだ。100日の間だけ、ランヴァルドに忘れずにいてほしいし、ネールのお家に居てほしい。100日経ってその後は、もう、いいから。
「100日経っても帰ってこなかったら、担保になってるあの家は俺のものだ。で、俺ももうお前を待ちはしないぞ。いいな?」
ネールは頷いた。……あのお家がランヴァルドのものになるなら、それは嬉しい。それに、ランヴァルドにはネールを待って時間を無駄にしないでほしいから、それも嬉しい。……ちょっぴり、寂しいけれど。
でも、しょうがない。ネールはランヴァルドには幸せになってほしいし……ネールが『死者の国』へ行かない訳にもいかないのだ。
ティナは教えてくれた。『死者の国』の古代人達は、今にもこちら側へ出てきてしまいそうなのだ、と。
だからネールは、『死者の国』へ行かなくてはならない。ネールは、ランヴァルドが教えてくれたこの世界のことが、大好きだから。
「……じゃあ、ネール。最後に1つ、約束だ」
そうして、ランヴァルドはネールの前に屈んで、ネールと視線を合わせて……そして、そっと、小指を差し出した。
「これは契約じゃない。法的拘束力を何も持たない。ただ、俺とお前との間で約束するだけだ」
ネールもこれは、知っている。約束する時に、小指と小指を絡めるのだ。
ネールが少し躊躇っていると……ランヴァルドはまるで躊躇うところの無い様子で、真っ直ぐにネールを見つめて、言った。
「必ず、無事に帰ってこい。もし万一、危険な目に遭って、死にそうになっても……足掻けるだけ、足掻け。いいな?」
……約束、したくないなあ、と思った。
ネールは無事に帰れない。それが分かっているから……守れないと分かっているから、約束、したくない。
でも……今、ランヴァルドを心配させたくも、ない。
だからネールは、ランヴァルドの小指に自分の小指を絡めて、ふり、ふり、とやった。
「よし。約束だぞ、ネール」
……ランヴァルドはそう言って、満足そうに笑っていた。
ところでこれを、契約じゃなくて、約束にしたのはなんでだろう。ネールはちょっと考えて……『そもそも、守れるかどうか本人にも分からないことは契約にできないのでは?』と気づいた。成程、ランヴァルドはしっかりしている。
……それでも、ランヴァルドは約束してくれた。
優しい人だ。とても。優しくて、かっこよくて、大好き。
大好き。……死んでも。
そうしていると、ティナが、ふわ、とやってくる。……時間だ。
「じゃあ、ネール!気を付けていくんだぞ!」
ランヴァルドはそう言って、部屋を出ていく。ネールはランヴァルドに手を振り返して……そして、ティナと2人、古代魔法の装置へと向き合った。
……この部屋はこれから、『死者の国』と繋がる。だから、ここにランヴァルドは居られないのだ。居たら、溶けて消えちゃうから。
ティナがネールを見つめて、問いかけてくる。ネールはそれに頷き返す。
……すると、ティナが何かを操作して……魔法が動く。
『門』が、開く。
開いた『門』の向こう側を見て、これが死者の国かあ、と、ネールは思った。ほわ、と感嘆の息を吐いて……ネールはその景色に見惚れた。
少しだけ、ファルクエークに似ている。降り積もる雪、吹き荒ぶ吹雪……。体の芯まで凍り付きそうに寒いところも、一緒。
でも……何より違うのは、降り積もり、降りしきるそれが雪ではなくて、小さな光の粒であること。
これが死者の魂なんだな、と、ネールは理解した。強く、儚く、うつくしいもの。いずれ、ネールもこれらに混ざって、この世界を漂うことになるのだ。
……そして、いつか。いつか……100年後ぐらいに、ランヴァルドが死んでしまったら、きっとその時、ランヴァルドもこうなる。
また、会えるのだ。
……だから寂しくない。怖くない。
ネールは、『門』の向こうへ、足を踏み出した。
+
がらん、として静かな古代魔法装置の部屋の中、ランヴァルドは静かにそこに佇んでいた。
もう、ネールは居ない。ティナは『門』を閉じて、静かに佇んでいる。
絶望的なまでに静かな部屋の中、ランヴァルドは静かに、祈る。
「……神よ。随分と久しぶりに感謝しますよ」
祈る、など、本当に久しぶりだった。……父が死んでから一度たりともまともに祈ったことなどなかった。祈っても祈っても、神は父を、そしてランヴァルドを救いはしなかったのだから。
「俺を、魔力の少ない体に……『生者の国』の魔力の少ない体に創って頂いたこと、決して無駄にはしない」
だが、きっと、祈りすら届かぬ日々も、無駄ではなかったのだろう。
そうだ。無駄ではなかった。ランヴァルドが貴族の生まれでありながらほんの少しの魔力しか持たず、魔法の才にも恵まれず、劣等感に苛まれながら生きてきたことは……無駄ではなかったのだ。
全てはこのためだった。ランヴァルドが『これから』変わっていくための。……ネールのためだったのだ。
「父上から譲り受けた魔力の器はありましょう。そして、碌すっぽ魔力を持っていない俺であるならば、そこに『死者の国』の魔力を注ぎ足すこともまた、できるはず」
ランヴァルドは既に、柔軟な子供ではない。既に擦り切れ、あちこち傷つき、すっかり硬くなってしまった。今、このランヴァルドは、かつてジレネロストの古代遺跡で魔力を浴びたネールのような変化は期待できまい。
だがそれでも、きっと、全くの無意味でもないはずだ。少なくとも……ネールが平穏を粗方取り戻した後の『死者の国』に行くくらいのことは、できるはずだ。
「ネールの無事は、祈らない。あいつはあいつの力で上手くやる。俺については……まあ、気長にやればいい。100日、あるんだからな」
ランヴァルドは古代魔法装置を見上げて、にやりと笑った。
「さあ神よ、御覧じろ」
次回、最終回です。