林檎の庭*5
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お喋り、と聞いたネールは困った。
何せ、ネールは声を出せない。……ネールがもっと小さい頃、住んでいた家が焼けた時。あの時に火を吸い込んでしまって、それ以来ずっと、声が出ないのだ。だからネールは、お喋りできない。
だが、ネールが困っていると、ヘルガはにやりと笑って小首を傾げた。
「ネールちゃん、言葉が分からない訳じゃ、ないでしょ?だったら『はい』か『いいえ』か『分からない』くらいならやり取りできるじゃない?」
ヘルガがそんなことを言うので、ネールは驚いた。喋れないネールと『お喋り』しようとしてくれる人なんて、ランヴァルドくらいしか居ないと思ったのに!
「聞きたい話、あるのよ。聞かせたい話も!ほら、ランヴァルドの話とか、気になるでしょ?……っていうことで、どうかな。聞くばっかりになると、退屈かな」
ヘルガがにっこり笑ってそう言うのを聞いて、ネールは少しばかり、迷った。迷ったが……。
「入れてくれるのね?ありがとう!」
ネールはドアを開けてヘルガを招き入れることにした。……やっぱり、ランヴァルドの話はちょっぴり気になるのだ。
ヘルガは部屋の中の椅子に腰かけた。『お隣どうぞ』と示されたもう一つの椅子に、ネールも座ることにする。
もう大丈夫だ、と分かったので、ずっと後ろ手に持っていたナイフはしまった。ナイフをしまうネールを見たヘルガは、ネールがずっとナイフを後ろ手に持っていたことに今、気づいたらしい。
「……成程ね。ネールちゃん、あなた、戦えるってわけか……」
ヘルガは少しばかり、表情に緊張を過らせていた。
……やっぱり、ネールのことが怖いのだろう。ネールが戦うところを見ると、大抵の人は怖がる。ネールが戦えることを知っただけでも、怖がる人は居る。だから、この手の反応は慣れっこだ。
「じゃあ、ランヴァルドはネールちゃんが戦えるから連れてきた、っていうかんじなのかしら」
だがそれでもヘルガはネールとお喋りするつもりらしい。なのでネールは少し考える。
……ランヴァルドがネールと一緒に居てくれるのは、ネールがランヴァルドを雇っているからだ。だが、ランヴァルドがネールに雇われてくれるのは多分、彼が優しいからであって、それと同時に、ネールが多少なりともランヴァルドの役に立つからだろう。
なので、ネールは首を傾げつつ、曖昧に頷いた。『たぶん、そう』というくらいの気持ちで。
「そっかー、ネールちゃんにもあんまりよく分かってないのね?うん……でも、あいつ自身はあんまり戦えないって言ってたし、戦える子が一緒に居てくれるのは嬉しいと思うわよ」
ヘルガはそう言って笑いかけてくれるので、ネールは少し、嬉しくなる。
本当にそうだったら嬉しい。ランヴァルドが、ネールが一緒に居ることで嬉しいと思ってくれているなら、ネールはとても嬉しい。
「ランヴァルドがあんまり戦えないのは、ネールちゃんも知ってる?あいつ、御大層な剣を持ってる割には、大して強くないのよねえ。不意打ちとかは割と得意みたいだけど」
ヘルガがくすくす笑うのを見て、そういえば、とネールは思う。
ランヴァルドは綺麗な剣を持っている。複雑な紋章が刻まれた剣。あれを、ランヴァルドはいつも持ち歩いていた。
それから、馬車を運転してきてくれた人が、あの剣を見て『貴族か』と聞いていた。……ランヴァルドはやっぱり、高貴な血筋の人、なのだろう。今はどうであれ……。
「……やっぱりネールちゃん、あいつのこと、気になるでしょ」
ふと気づいたら、ヘルガがネールの顔をじっと覗き込んでいた。なのでネールはヘルガの金褐色の美しい瞳を見つめ返して、こくん、とはっきり頷いた。
「そっか!なら、少しはあなたを退屈させずに済みそう。……あいつとの付き合いは、ちょっとだけ長いのよ。あいつが『林檎の庭』に転がり込んできた時からの付き合いだから」
「……もう、十年近く前のことになるのかな。ランヴァルドがこの宿に来た時には、ボロボロでね。熱が出て、一週間くらいうちで寝込んでたの。その後もしばらくはここを拠点にしていたから、それで私とは顔見知りになった、ってワケ」
ヘルガが話し始めたのを、ネールは真剣に聞く。一言だって、取りこぼさないように。
「北の方から来たんだ、って、言ってたわ。自分の家を出ざるを得ない事情があったみたい。彼、生家のことは話したがらないのよね。弟が居る、っていう話だけ、ちらっと聞いたことがあるけど……まあ、何かあったんでしょうね。熱が出て、ボロボロの状態でも逃げてこなきゃいけなかった事情が、あったんだと思うわ」
熱があって、ボロボロで……その状態で、ランヴァルドはここへ来た、らしい。
その時のランヴァルドのことを思って、ネールは、きゅ、と手を握りしめた。
「……貴族位を買うんだって、酔った時に話してたことがあったし。まあ、元は貴族だったんじゃないかしら。あの性格の割に所作も綺麗だし……」
ネールは、ランヴァルドのことをよく知らない。ネールを助けて、ネールを連れ出してくれた優しい人で、とても賢い人。もしかしたら、高貴な血筋の人。それくらいしか、知らない。
そんなランヴァルドが、自分の家を出て、こちらにまで命からがら逃げてこなければならない事情があったとしたら、とても悲しいことだ。ネールは少し、しょんぼりした。
「まあ……だとしても、あいつは悪徳商人なんだけど!」
が、ヘルガはそう元気よく言うと、拳を握りしめた。
「昨夜も言ったでしょ?あいつ、うちの食堂で賭け事してた連中を片っ端から捕まえて、片っ端からイカサマで勝って、片っ端からお金巻き上げて!」
ヘルガの言葉と拳には力が籠っている。とても力が籠っている。ネールはちょっとびっくりしながらヘルガの話を聞く。
「……まあ、当時、うちには半分ヤクザ者みたいな荒くれが居ついててね。そいつからもお金を巻き上げて、うちから蹴っぽり出してくれたから、それは助かったけど。でもそれが原因で、あいつ、当時ハイゼオーサに跋扈してた良くない連中に絡まれちゃって……」
ヘルガは遠い目をし始めた。ネールは『ランヴァルドが大変だ』とはらはらした。
「でね?これが怖い話なんだけれど……」
はらはらしているネールは、ヘルガの前置きにもっとはらはらしていたが……。
「その連中、消えちゃったのよ……」
……続いた言葉に、ネールはぽかんとしてしまった!
「どうやったのかは分からないわ。でも、半分ヤクザ者みたいな連中がハイゼオーサから出ていっちゃったの!残った奴らもいたけれど、そいつらもすっかり大人しくなって……ランヴァルドが何かしたんだとは思うけれど、何をどうやったのかは分からないのよ。本人に聞いても『さあな』としか言わないし……」
ネールは実に興味深く、頭の上に疑問符を浮かべながら聞いていた。
ところで、ヘルガが『さあな』とランヴァルドの真似をして言ったのだが、それが中々上手かった。ネールも真似してみたい。
「でも一つ確かに言えるのは、あいつは頭はいいんだろう、ってことよね。ついでに度胸もあるわ。それから……多分、完璧に悪徳商人、ってわけじゃ、ないのよ」
うんうん、とネールが頷けば、ヘルガはそんなネールを見て、嬉しそうに笑った。
「お金が必要だったっていうのは、本当。そのために、商売の元手が必要だったとも聞いてる。性格が悪いのも本当よね。そうじゃなきゃ、イカサマがバレた時、あんな煽り方できないわよ……」
……どういう煽り方をしたのだろうか。ネールは、その時のランヴァルドを見てみたい気持ちになった。
「でもね、多分、それだけじゃないのよ。それだけじゃなくて……お金を巻き上げる相手は選んでたし、選んだ結果、よくない連中に絡まれることも分かってた。分かってて、そうしたのよ」
そうだろうなあ、と、ネールは思う。
ランヴァルドは、賢くて優しい人だ。悪い人を懲らしめてくれる人だ。多分、そういうことだったのだと思う。
この町に巣食う悪い奴を、賢くやっつけた。そのためにランヴァルドは、イカサマ、とやらをしたのだろう。
「ま、おかげでうちは助かったわ。賭け事全面禁止を『ランヴァルドのせいで』っていう風に打ち出せれば波風も立たなかったし。おかげで父さんはランヴァルドのこと大好きなのよね……」
ヘルガはそう言って笑って、それから、ぽふ、とネールの頭を撫でた。とても優しい手つきで。
「だから……まあ、あいつ、いい奴じゃないけど、そんなに悪い奴でもないわ。悪徳商人を自称してるし、実際、性格が悪いところ、沢山見てきてるけど……でも、良心が無い訳じゃ、ないの」
金褐色の目が優しく細められて、ヘルガは少し遠いところを見るように微笑んだ。それから。
「まあ、でももしランヴァルドに酷いことされたら、うちにいらっしゃい。あなた可愛いし、賢そうだわ。うちで雇ってあげる!……なんなら、今日からうちの子になってもいいけど」
静かな表情から一転、ヘルガは悪戯っぽく笑って、ネールの顔を覗き込んでくる。
一方のネールは固まっていた。『うちの子になってもいいけど』という言葉にびっくりしたのだ!
ネールはびっくりしたまま言葉の意味を考えて、考えて……そうして。
「あら、駄目?そっかぁ、残念……」
ネールは首を横に振った。首を横に振ってしまってから、『ここの子になったってよかったんじゃないだろうか』とも思ったが、それでもやっぱり、ネールの答えは変わらない。
……ネールは、父さんと母さんの子だ。ヘルガは優しいし、ネールにたくさん話しかけてくれるし、とてもいい人だけれど……やっぱり、ここの子にはなれない。
「あなた、よっぽどランヴァルドのこと、気に入ったのねえ……」
……それに。やっぱり、ネールはランヴァルドと一緒に居たい。ネールをあの町から連れ出してくれたランヴァルドと、一緒に居たいのだ。
明日もちゃんと、彼を雇おうと思う。金貨はまだある。ネールは笑顔で、ヘルガに頷いてみせた。
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ランヴァルドが宿の部屋へ戻ろうとした時、丁度、階段を下りてきたヘルガと行き会った。
「あら、帰ってきたのね。ネールちゃんなら部屋に居るわよ」
「そうか。世話になったな」
ネールのことは一応、ヘルガに言っておいた。しばらく一人にしておくから気にかけてやってくれ、と。
今、ヘルガが階段を下りてきたのもついさっきまでネールと一緒に部屋に居たからかもしれない。
挨拶をしてそのまま部屋へ向かおうとしたランヴァルドだが、ヘルガに腕を掴まれる。そしてそのまま、階段の下まで引っ張って行かれてしまった。ヘルガはそのまま少々強引に、ランヴァルドをホールの端まで連れていく。
「ねえ。ネールちゃん、どういう子なの?」
そうしてヘルガは、声を潜めてそう、問いかけてきた。彼女にしては酷く真剣な顔で。
「どう、って……」
「私が部屋のドアをノックしたら、彼女、後ろ手に抜いたナイフを持った状態で警戒しながらドアを開けたわ」
……それは、と、ランヴァルドは背筋が冷たくなる。
もし何か間違っていたら、ネールは……ヘルガを殺していたかもしれない。
すっかり忘れていた。ネールは健気で、人に騙されてばかりいるような無知な生き物だが……同時に、魔物が蠢く魔獣の森で暮らして生き延びてきた程度に警戒心の強い生き物でもあったのだ。
「ヘルガ、お前、怪我は……」
「何ともないわ。ネールちゃん、私を攻撃することなんてしなかったから」
……ヘルガの無事を聞いて、ランヴァルドはようやく、詰めていた息を吐く。何かあってからでは遅いが、何も無かったなら、ひとまずはそれでいい。
「彼女、少なくとも、普通の暮らしをしてきたようには見えないわ。ねえ、あの子、どういう子なのよ。どういう子だったら、宿の部屋のドアをノックされた時にナイフを隠し持つようになるの?」
だが、ヘルガは『何も無かったからいい』とはならないようだ。それはヘルガ自身の為ではなく……ネールの為に。
実に、ヘルガらしい。彼女は愛想が良く、善良で、人を気遣うことを忘れない。だからネールのことが気になるのだろう。
「……そうだな。俺が見つけた時には、『魔獣の森』に居た」
だからランヴァルドは話すことにした。ヘルガは善人であることだし、何より、このままはぐらかされてくれそうにはないので。
「え?『魔獣の森』、って……カルカウッドの東の?」
「ああそうだ。カルカウッドと魔獣の森とを行き来して、浮浪児と野生児の間ぐらいの暮らしをしていたらしい」
「どうしてそんなことに……」
「分からない。あいつは喋れないからな」
そう答えれば、ヘルガは『そんなことって』と、少々非難がましい目を向けてくる。
……ヘルガには見透かされているような気がする。ランヴァルドはネール自身に興味が無く、ただ、ネールが有用であるから連れてきたのだ、と。
実際、そうだ。ランヴァルドはネールの素性などどうでもいい。彼女が人間ではなく、魔物の子だったとしても構わないとすら思っている。
「文字は教えてる。いつか、あいつが喋りたくなったら喋るだろ」
そんなランヴァルドはヘルガから目を逸らしながら、無責任だろうか、と、思う。
何も知らない幼い少女を利用するためにこんな風に連れ出しておいて、彼女の人生に責任を持とうとしているわけでもない。
与えるものは与えているし、あのままカルカウッドに居るよりはマシだろうと思う。ネールにとっても悪いことではないだろう、とも、思うが……。
「……まあ、そういうことなら、いつか話してくれそうね」
だが、ヘルガはそう言って笑った。
「ネールちゃん、あなたのことが大好きみたい」
「え」
思いがけない言葉をぶつけられて、ランヴァルドはたじろぐ。下手に棘のある言葉をぶつけられるより余程、堪えた。
「気づいてない訳じゃないでしょ?」
「……そりゃあな。その程度も分からないようじゃ、商人はやっていけない」
……知ってはいる。ネールは何故だか、ランヴァルドに懐いている。それくらいは分かる。分かっているから、ランヴァルドはネールを利用している。
「うちの父さんがあなたのこと大層お気に入りなのも知ってる?」
「知ってる。うっかりするとここの婿養子にされそうだってこともな」
「大丈夫よ。あなた、私の好みじゃないから!私はもっと真面目な人が好み!」
「ああそうかよ」
ヘルガと軽口を叩き合いつつ、ランヴァルドはため息を吐いた。……どうも、ヘルガには敵わない。
「ま、そういうことで、あの子のこと、しっかり気にかけてあげてよね」
「分かってる」
「ほんとに分かってる?あなたがいい加減なことをするようなら、あの子はうちで貰うから!看板娘、兼用心棒に丁度いいもの」
「まあ……そうだな……」
……ランヴァルドは、思う。ネールには案外、宿屋の看板娘が合うだろうな、と……。
ついでに……本当なら、そうしてやった方がいいんだろうな、とも、思う。だがランヴァルドはやはり、ネールを手放すつもりは無い。少なくとも……貴族位を買える額の金を稼ぐまでは。




