嚥下*2
ランヴァルドは晩餐で出た食事を完食した。
……少々、無理をしたことは否めない。吐き気は酷かったし、最後の方は眩暈とも戦う羽目になっていた。
だがそれでも、食べきった。
全てを咀嚼し、飲み込んで、腹に収めた。
……これでようやく、前に進めるような気がする。
晩餐の後、ランヴァルドは部屋で1人、休んでいた。
見栄のために無理して食事を摂った訳だが、そのせいで体調は芳しくない。
……元々、ほぼ絶食状態であったところに麦粥を入れられるようになり、それから旅食のパンやハムを食べ……とやった直後の、晩餐の食事だ。体に無理をさせたのは間違いないのである。
だがランヴァルドは、吐き戻すことはしなかった。意地でも吐かないからな、と思いつつも、『一応、念のため……』と、吐き戻す時のための水盆は確保しておいた。ランヴァルドは、現実的な性分なので……。
さて。
そうしてランヴァルドが少しばかり落ち着いてきた頃。
ドアが静かにノックされた。
……ネールではない。オルヴァーでもないだろう。相手は分かり切っている。
「どうぞ」
ランヴァルドがにやりと笑ってドアを開ければ、そこにはやはり、アデラの姿があった。
「どういうつもりなの」
ドアを閉めて2人きりになったところで、アデラは開口一番にそう言った。
「どういうつもり、とは?一体何のことです?」
「とぼけないで。約束を反故にするという話よ」
「ああ、あれですか」
アデラの様子を見て、ランヴァルドは『ああ、これなら猶更余裕たっぷりにい振る舞ってやった方がいいな』と判断し、大仰に両腕を広げてみせる。
「何故、と言われましてもねえ。……愛する故郷、愛する生家に二度と帰れないというのは寂しい、と。そういう話ですよ。それに、オルヴァーにせがまれましたのでね」
ついでににやにやと笑いかけてやれば、アデラはいよいよ、表情を凍り付かせる。
「……オルヴァーに?」
「可愛い弟にせがまれたら、兄としては『もう二度とお前には会わない』などとは言えませんよ」
ランヴァルドの言葉を、アデラはどう捉えただろうか。
……そんなことは、確認するまでもない。
「……オルヴァーに、何をしたの」
アデラは努めて静かな声で……しかしそれでも震える声で、そう問いかけてきた。ランヴァルドはそれをただ見下ろして、にやりと笑ってやるばかりだ。
「……何をしたの!」
そうしていよいよ激高したアデラの表情には、何処か怯えのようなものも見られる。自分の大切なものが奪われるのでは、という怯えだ。
「何も?……逆にお伺いしますがね、母上。俺が何をしたとお考えなのですか?童話の悪しき魔女のように、俺が心変わりの呪いを使った、とでもお考えで?」
だからこそ、ランヴァルドは丁寧に、それでいて胡散臭く、そして裏に残忍さをちらりと見せて……実に悪徳商人らしく振る舞うのだ。
「俺は何もしていませんよ。ただ少し、オルヴァーと話しはしましたがね。ああ、そこで俺とオルヴァーの間にあった誤解が解けたんですよ。それで晴れて、俺達はまた、仲良く兄弟としてやっていこう、と約束したというわけです」
言葉に裏は無い。だが、相手は勝手にランヴァルドの裏を見て、怯える。ランヴァルドはただ、それをせせら笑っていればいい。
「……オルヴァーは本当に素直でいい奴だ。俺が『この剣は返さなくていいか』と聞いたら、あいつは『それは兄上のものだ』と言いましたよ。ついでに……『兄上がファルクエークを治めてくださいませんか』とも、ね」
……そうして、相手の一線を踏み越える真実を、明かしてやればそれでいいのだ。
「……オルヴァーが?」
「ええ。まあ……当然ですが、俺がファルクエークの領主になるかどうか、などということは、俺には決められないことですのでね。まあ、明日にはここを発って王都へ向かいます。そこで、国王陛下のご判断を仰ごうかと」
青ざめていくアデラに向けて、ランヴァルドは嘘でもないが真実の全てでもないことを言ってやる。
ランヴァルドがジレネロストの領主になる予定だということを、アデラは知らないのだ。
「ああ……でも陛下のことだ。今までの俺の功績をお認め下さっているなら、何か褒賞を出そうとお考えになるでしょう。それが何になるかは、俺には到底分かりませんが……」
そうして、如何にも勿体ぶってそう言ってやれば……いよいよ、アデラは顔面蒼白になった。
アデラが部屋を出ていく時、けたたましく閉められたドアの音を最後に、部屋には静寂が残った。
……その中に取り残されたランヴァルドは、ただ、笑う。けらけらと。実に、楽しく。
「ああ……傑作だったな」
そうしてランヴァルドは、のんびりと欠伸をして……早速、ネールを拾いに行くことにした。
……『ランヴァルドは明日発つ』。そして、『王都へ到着したら、国王はランヴァルドに出す褒賞を決定してしまう』。
これらの情報を手に入れたアデラは……もう、ただ1つの道を突き進むしかできないのである。
翌朝。
ランヴァルドは元気にイサクとアンネリエに挨拶し、ネールがアンネリエから離れてぴょこぴょことやってくるのを撫でてやって、朝食の席へと向かう。
……ここで朝食を摂ったら、ランヴァルド達は王都へと発つ、ということになっている。
だがどうせ、そうはならないだろう。
朝食のスープを少し眺めて、ランヴァルドはそれを躊躇いなく口にした。そんなランヴァルドの様子をアデラがじっと見ているが……。
……彼女が見るべきは、そちらではない。
「……っ!?」
何故なら、彼女の横で、オルヴァーがスープを口に含んで……その直後、盛大に咳き込み始めたからである。
「オルヴァー!?」
オルヴァーが尚も咳き込む横で、アデラは青ざめ、すぐに動いた。
彼女は席を立って走り去ると、やがて、薬瓶を持って戻ってきた。
「オルヴァー!これは……」
……だが。
「ああ、母上。ご安心ください。オルヴァーは毒なんか食っていませんよ」
アデラが戻ってきた頃には、オルヴァーの咳き込み方は大分収まっており、時折、『けほ』とやるのみとなっていた。
というのも……。
「……ただ、とてつもなく大量の胡椒を食いましたが」
……これは、ランヴァルドが仕組んだ狂言であったので。
「あ、兄上……けほ、中々、刺激的な味、でしたよ……」
噎せながらも笑うオルヴァーに、ランヴァルドは『すまん』と謝っておいた。……オルヴァーのスープの皿に大量の胡椒を入れるよう仕組んだのはランヴァルドであったので。
「な、何故……」
「まあ、折角だ。しばらく会えなくなる弟にちょっとした悪戯を、ということでね」
ランヴァルドが笑う一方、アデラは只々、青ざめている。……そして。
「しかし……母上?一体、何をお持ちになったんですか?この瓶は、一体?」
アデラの手には、瓶がある。
決定的な証拠となり得る、解毒剤の瓶が。
アデラは瓶を隠そうとしたが、もう遅い。ランヴァルドはさっと瓶を掠め取って、瓶を観察する。
「うーん、何でしょうね、これは。酒かな?いや、酒に薬草を漬け込んだものでしょうかね?ああ、この香りには覚えがある。南部で使われるものだ。心臓を強く脈打たせるもんだから、あまりにも多く飲むと死ぬが……心臓が弱った時には、丁度いい薬になる」
ランヴァルドが朗々と語るのを、食堂中の皆が聞いていた。……否、アデラにだけは、何も聞こえていなかったかもしれないが。
「しかし……不思議だ。どうして母上が、特定の症状の治療薬……或いは『特定の毒に対抗するものになり得る薬』とでも言うべきコレをお持ちになったのか、さっぱり分かりません。これではまるで、誰かが毒に倒れると思っておいでだったかのようだ」
ランヴァルドがそう語り掛けてやれば、いよいよ、アデラの呼吸がおかしくなってくる。
「実に、不思議ですね。……ねえ、母上?」
ランヴァルドはそんなアデラを隣から見下ろして、微笑みかけた。その目には、まるきり優しさも親しみも、滲ませずに。
そしてランヴァルドは、自らの席の前に置かれたスープ皿を指し示す。
「……ねえ、母上。俺がこのスープを飲み干した時、俺はどうなる予定だったんですか?ご存じでしょう?」
ランヴァルドがそう言えば、アデラはただ黙って唇を引き結んだ。
……もう、言い逃れはできない。『使用人が勝手にやったことだ』とも、言えない。何故なら彼女は、オルヴァーを思いやるあまり、自ら解毒剤を持ってくるような真似をしたのだ。彼女が『誰かが毒に倒れる』と知っていなければ、起こし得なかった行動だ。
……それを存分に見せつけながら、ランヴァルドは、『やれやれ』と肩を竦めて見せた。
「お答えいただけないなら……証明して頂くしかありませんね」
ランヴァルドは笑って、スープ皿をアデラの前に差し出した。
「さあ。どうぞ、母上」
アデラは動かない。すっかり紙のように白くなった顔の中、目が揺れている。
「おや、母上。どうしてお飲みにならないのです?これを飲めない理由があるとでも?」
ランヴァルドがただ薄く笑いながらそう詰め寄るも、アデラはスープ皿を前にして、動かない。
……これでは、『ランヴァルドのスープに毒が入っていると知っている』と言っているようなものだが。
どうやら彼女も、ここまでのようだ。
「母上。このスープをお飲みにならないということは、ここに何かが入っていることを母上はご存じなのですね?」
ランヴァルドがそう柔らかく詰め寄れば、アデラは震えながらもじっと俯き、考え……。
「……あなたが、入れたんでしょう?」
……そう、地獄の亡者めいて掠れた声で、言った。
「あなたが、仕組んだのでしょう、これは」
「ああ……それはそれは……悲しい誤解だ!」
ランヴァルドは笑ってアデラの言葉を遮った。下手な言い訳は面白くはあるが、時間の無駄である。
「まあ、ではいいでしょう。仮に、俺が自らのスープに毒を入れた、としましょう。ですが……それで、どうしてこの薬を持ってこられたのです?」
「……何でもいいから、とにかく持ってこようと思って……」
「成程。では、母上は『何の毒が入っているかは知らずに解毒剤を選んだ』と。そういう訳ですね?俺が毒を入れたというのならば、どのような作用をもたらす毒が入っているかなど、母上はご存じないはずですから。当然のことだ」
ランヴァルドは笑って……席に着いた。白いテーブルクロスが掛けられたテーブルの上、自分のスープ皿を前に。
「ならやはり、証明してみるしかないでしょうね。イサクさん、アンネリエさん。後のことはお願いしても?」
「……まあ、マグナス殿がそうされるというのであれば、あなたの勇気ある行動に敬意を表し、我々は止めません。そして、後のことはお任せください。しかと、証人になりましょう」
「ありがたい。ではよろしくお願いしますね」
イサクに解毒剤の瓶を渡すと……ランヴァルドはスープ皿の中身を、一気に呷った。
ランヴァルドは口元を手の甲で拭いつつ、ぎょっとした顔でランヴァルドを見つめているアデラを見返して、にやりと笑う。
「さて……毒に中った俺が、母上の薬で回復するかどうか。これは見ものですね」




