嚥下*1
「なあ、オルヴァー。もしかしてお前の部屋に、俺の本が無いか?」
「ああ、それでしたら、確かに。その、兄上が居なくなってしまってから、数冊お借りしておりましたので。……お部屋へお持ちしましょうか」
「いや、ちょっと読ませてもらえればそれでいいんだが……そうだ、お前の部屋に行っていいか?」
「勿論です!ついでに少し、茶でも……いや、酒の方がお好きですか?」
……城の中に入ってからも、ランヴァルドはオルヴァーと如何にも和気藹々とやり取りをしてみせた。
オルヴァーは只々、特に何かを疑うでもなくランヴァルドとの会話を喜んでいる様子であったし、使用人達は兄弟の様子を見て『これで安泰!』とにこにこしていた。
だが当然、この状況が面白くない者が居るはずなのである。
オルヴァーが使用人に『茶と茶菓子を3人分、俺の部屋へ。ああ、英雄ネレイアは蜂蜜入りのミルクがお好きだそうだ。それも用意してくれ』と命じる傍ら、ランヴァルドの見覚えのない使用人が1人、そっ、とこの場を離れて上階へと向かっていく。
大方、母か叔父の子飼いの者なのだろう。ランヴァルドとオルヴァーの様子を報告しに行くに違いない。
大いに結構だ。精々、報告すればいい。『憎い男の息子が愛する男の息子を誑かしている』とでも言えばいいのだ。
その後、ランヴァルドはオルヴァーの部屋にいつのまにやら収まり、ネールとオルヴァーと一緒に茶を飲むことになった。
ネールは蜂蜜入りのミルクを与えられ、ご機嫌であった。……更に、ご機嫌になる要素があったのだが。
「兄上は昔から頭の良い人で……俺が物心ついた頃には、もう領地の運営に携わっていて……」
……ランヴァルドが黙って茶を飲んでいる横で、オルヴァーが在りし日のランヴァルドの話をネールに聞かせている。ネールはご機嫌で、うんうん、と頷きながらそれを聞いているのである。そのため、ネールは大層ご機嫌なのであった。
ランヴァルドとしては『まあ、ネールからしてみりゃ、自分が生まれた頃の俺の話は物珍しいだろうしな……』と思いつつ、ランヴァルド抜きにランヴァルドの話で盛り上がる2人の姿になんとなく釈然としない。
ネールが『かしこい かっこいい おはなしじょうず』と書いて見せ、オルヴァーがそれに頷き、またランヴァルドの話を始め、ネールがまた頷き……まあ、2人が仲良くやっているならそれはそれでいいか、と、ランヴァルドは自分を納得させることにした。
……と、そんな奇妙な茶会であったのだが。
「兄上。こちらは召し上がらないのですか?お口に合いませんか?」
ふと、オルヴァーが心配そうに声を掛けてきた。オルヴァーが言う『こちら』は、用意された茶菓子の類である。
木の実を飴で絡めたものを合わせたバターケーキであったり、ほろりと口の中でとろけるような食感のクッキーであったり、と北部の伝統的な菓子類が並ぶ他、リンゴが並んでいるのが少々不思議だが……ネールがランヴァルドに時折食べさせようとしてくるので、このためかもしれない。
そういうわけで、ランヴァルドはネールが差し出してくるリンゴを時折サクサクと食べるばかりであったのだが、それがオルヴァーには少々不安だったようだ。『そんなに気を遣わなくてもいいんだぞ』と言ってやりたい気もするが、言ったところでオルヴァーの気は休まらないだろう。
「いや、別に菓子類が嫌いなわけじゃないんだ。ただ、どうせ夕食の席には呼ばれるだろうからな。まあ、その前に腹いっぱいになることも無いだろうと思って……」
ランヴァルドは適当な理由を付けて誤魔化そうとするが、オルヴァーはふと、何かに気付いたように目を見開いた。
「……兄上。これらもやはり、その……毒の、影響で?」
「あー……」
悲痛な表情のオルヴァーを、これ以上悲しませたくもないのだが、誤魔化されることを望んでいないであろうオルヴァー、そしてネールを前に、ランヴァルドは一つため息を吐いて諦めた。
「まあ、そうだな。まだ、ものを食べることに抵抗がある。多少な」
なんとか食わねば、とは思う。ランヴァルドは物を食って、生きねばならないので。その理由が、はっきりと見えてしまったので。
……だが、意地と根性で食っているだけだ。元々、食べ物を受け付けなくなっているのは体というよりは心の変調によるものであろうから、意地と根性がある種の特効薬ではあるのだが……未だ、ファルクエーク城の中で作られたものを、ファルクエーク城で食べる、ということには抵抗がある。
「いや、食ったら吐きそうだ、って程でもない。大分良くなってる。ほら、茶は飲めるようになってるしな。だからそんなに気にするな」
手に持ったティーカップをもう片方の手で指し示して笑ってみせると、オルヴァーは『兄上……』と余計に悲しそうな顔になってしまった。隣でネールも同じような顔をしているものだから、ランヴァルドは『ああ、2倍に増えた……』と何とも言えない気持ちになる。
「兄上……その、何か俺にできることは……」
更にオルヴァーはネールと違って、喋る。心優しく兄になんとか埋め合わせをしようと頑張る弟が、喋る。……これほど気まずく申し訳ないものもない。
「いや、大丈夫だ。多分、ほっときゃ治るもんだし……無理矢理食ってりゃ、それでその内慣れるもんだ。だから何も心配しなくていい」
ランヴァルドはそう言って誤魔化しつつ、手を伸ばしてオルヴァーの頭を撫でた。もそ、とやってから、『ちょっと待て。オルヴァーはもういい加減大人だ!』と気づいた。ネールの頭を撫で慣れてしまったランヴァルドは気づくのが遅れたわけである。仕方がない。
尚、オルヴァーは、嬉しそうにしていたし、ネールはランヴァルドのもう片方の手の下に潜り込んで撫でられようとしてきた。
……なのでランヴァルドの両手はその後、もそ、もそ、と2人分の頭を撫でるために使われることになったのである。まあ、気まずさを誤魔化せたので、これでよしとするしかない。また別の気まずさがあるが、それはそれとして……。
そうしてオルヴァーの部屋での茶会も終わり、オルヴァーの部屋の本をいくらか読ませてもらって、『ああ、懐かしいな』と思い出しつつ、自分が案外、本の内容をきちんと覚えていたことに驚きつつ……。
「じゃ、また夕食の席で」
さて、部屋を辞すか、となったところで、オルヴァーがふと、不安そうな顔をした。
「兄上……晩餐に出席なさるのですか?」
……オルヴァーの言いたいことは、分かる。ランヴァルドが再び毒を盛られないか、と……或いは、そもそも食べ物を口にすることに抵抗がある今のランヴァルドが晩餐に出席して大丈夫なのか、と、心配なのだろう。
「ああ。出る」
だがランヴァルドはさらりと答えて、笑う。
「……ま、見てろ。俺はファルクエークに居ない間に色々なやり方を学んじまったんでな。今回は俺のやり方でやらせてもらうぞ、オルヴァー」
さて。
それからランヴァルドはようやく、イサクとアンネリエに事の次第を説明した。
……己の心境の整理については、まあ、割愛した。そんなものをわざわざ人に説明するのも馬鹿らしい。
だが、オルヴァーとの和解がひとまず済んだことや、オルヴァーが両親の告発を望んでいたことなどには、触れた。それから、ファルクエークの領主の座を勧められたことも、ランヴァルドはファルクエークよりジレネロストを選ぶと答えたことについても。
イサクもアンネリエも、ほっとした顔でこれを聞いていた。ランヴァルドは『この人達にも要らん心配を掛けさせちまったな』と少々反省しつつ、へらりと笑ってみせる。
「まあ、そういう訳で今日の晩餐に招待されようと思います。そして、出発は恐らく……あー、明後日になるかと。その、申し訳ないのですが、イサクさん方にはできれば、それまで滞在していていただきたく……」
「ええ、ええ。構いませんとも!王城としては、ファルクエーク領に1つ貸しが作れるというのであれば、十分すぎる程の見返りです。1日でも2日でも、いくらでも待ちますよ」
イサクがにこにこと頷いてくれるのをありがたく思いつつ、ランヴァルドは頭の中で計画を詰めていく。
……晩餐から、今宵にかけてが勝負どころだ。
やはりと言うべきか、晩餐に招待された。
『どうせ辞退するんだろう』とでも思われていたら面白いな、と思いながら、ランヴァルドはネールと共に、食堂へ向かう。
「……ああ、ランヴァルド。もう、加減はいいのか?」
「ええ。勿論です」
やはり『辞退しなかったのか』とばかり、驚愕を隠しきれていない叔父に笑って答えると、叔父はどこか気まずそうに曖昧に笑って、目を逸らした。
その様子をオルヴァーは静かな憎悪を目に湛えて見つめていた。……だが、オルヴァーとて、すぐに割り切れるものでもないだろう。
オルヴァーにとって、領主アルビンは実父であり、この10年間、ずっと信頼して共に過ごしてきた家族なのだから。彼が妻の罪を見逃していたからといって、すぐに憎悪をぶつけられるものではあるまい。
……ランヴァルド自身も、それは望んでいない。オルヴァーには、汚れ役は担わせたくなかった。
だから、ランヴァルドはその人が食堂にやって来た時、満面の笑みで迎え入れる。
「ああ、母上!おいでになったんですね?よかった!」
ランヴァルドの笑顔に、アデラは少々、表情を引き攣らせた。
「折角だ、母上と食事を共にしてからファルクエークを去りたいと思っていたんですよ。前回の晩餐の時には欠席してしまいましたのでね。二度も機会を失うわけにはいきませんから」
少々大仰な言葉でアデラを歓迎し、彼女のために椅子を引く。アデラはそんなランヴァルドをただ黙って見て、動かない。
「あー……その、皆、席に着こう。折角の、めでたい席だ」
それを取りなすように領主アルビンがそっと言葉を添えれば、イサクがにこにこと着席し、アンネリエもそれに倣った。ランヴァルドもネールを椅子に座らせてやって、自分もまた、堂々と座る。
そうしてオルヴァーが堂々とファルクエーク側の席に着席すれば、アデラもまた、着席しないわけにはいかない。
……こうして役者は揃った。ランヴァルドは、『さあ、来い』と、ドラゴンを前にした戦士のように、決意を漲らせる。
食事が運ばれてくる。
北部によくある、鹿肉の煮込みだ。先日のものとはまた、趣きが異なるように見受けられる。
……ランヴァルドが毒を盛られた日のそれに、より近い。
ランヴァルドは微かに震える手を心の内で叱咤しながら、カトラリーを手にする。来客用のカトラリーだ。あの日も、これを手にしていた。
……目の前の料理に、怯みそうになる。気づけば呼吸が浅く、速くなっていく。
体が冷たい。だが、それでもランヴァルドはカトラリーを握り直し、食事の皿へと向き直り……。
「兄上」
途端、オルヴァーが席から立ち上がった。
「席を、交換していただけませんか?」
「……オルヴァー」
少し硬い笑みを浮かべるオルヴァーの意図するところは、ただ1つ。彼は、再びランヴァルドの食事に毒が盛られたことを警戒している。そして……身を挺してでも、ランヴァルドを守ろうとしているのである。
弟の健気な献身に、ランヴァルドの緊張が解けていく。
……同時に、ランヴァルドは『全く、とんだ弟だ』と苦笑した。
もし本当にランヴァルドの食事が毒入りだったとしたら、オルヴァーにそれを食べさせるわけにはいかない。
それに、まあ、問題は無いだろう。今、オルヴァーの発言に慄いている叔父と母の様子を見る限り……彼らは、『オルヴァーが毒を食うことになる』と恐れているのではなく、『オルヴァーがランヴァルドの毒殺未遂のことを知っている』ということに、そして、オルヴァーがそれを警戒していることに、恐怖しているのだ。
「気持ちは嬉しいけどな。そこはお前の席だ。俺が座る訳にはいかないさ」
「しかし……」
オルヴァーが険しい表情でランヴァルドの皿を見つめている。……それを見ていたら、ランヴァルドはふと、気が楽になったような、そんな風に感じられた。
蘇りそうになる記憶に蓋をして、意識して呼吸する。気づけば、呼吸は落ち着いてきていた。
フォークとナイフを、手に取る。
冷えた指先を叱咤して、動かす。
煮込みを切り分ける。前回同様、肉は柔らかく、ナイフを入れればすぐに解れた。
……前回は、これが酷く恐ろしかった。今も恐ろしくはあるが……これを食らって、乗り越えてやる気概もまた、ある。
肉を口に運ぶ。味は良い。恐らくは。……多少は緊張しているらしく、味はやはり、分からない。
咀嚼する。
……飲み込む。
「ああ……そうだ、母上。一つ、謝罪しなければならないことがございまして」
そうして、美しい所作で皿を空にしたランヴァルドは、アデラに向かって微笑みかけた。
「先日のお約束ですが、やはり、あれは無かったことにさせていただきたい」
アデラが、氷のように冷たい目でランヴァルドを睨む。
「……お分かりいただけますね?」
ランヴァルドはにやりと笑って、アデラを睨み返した。
……もう、以前のランヴァルドではないので。




