雪解け*2
「あ、こが……れ?」
「はい」
「俺に……?」
「そうです。俺は、ランヴァルド・マグナス・ファルクエークという……10も年上の兄に、憧れていたんです」
ランヴァルドが、ぽかん、とする中、オルヴァーは今にも泣きだしそうな顔で小さく息を吐き出した。
「兄上は、何でもご存じでした。庭で遊んでくださった時、庭の花の名前を全てご存じだったし、庭に訪れる小鳥の名前も全てご存じだったし……吹く風と浮かぶ雲から天候を読み……まるで、物語に出てくる賢者のようだった」
そう言ってぎこちなく笑うオルヴァーに、『そんな憧れはまやかしだぞ』と、言ってやりたい気持ちであった。
当時の幼いオルヴァーには、ランヴァルドは素晴らしく出来の良い人物に見えていたのかもしれない。まあ仕方がない。ランヴァルドとオルヴァーは、10も齢が離れている。幼い子供から見れば、大人は大人であるというただそれだけで、何でもできる存在に見えてしまうものなのだ。
「何でもできて、何でも知っていて……憧れないわけが、無いじゃないですか」
……だが、オルヴァーに手酷いことを言ってやることもできないまま、ランヴァルドはただ、自分が立っていた地面が揺れるような、ふわ、と浮かぶような、そんな気分で居心地の悪さを味わっていた。
「それに、兄上は俺に優しかった。お忙しかっただろうに、俺が勉強を教えてくれと言えば文句も言わずに教えてくれましたよね」
「ああ……そんなこともあったか」
ランヴァルドはそう言いつつも、はっきりと覚えている。
オルヴァーはよく、教本片手にランヴァルドの元へとやってきていた。叔父と母は、俺を見て少し困ったような顔をしていたし、『ランヴァルドは忙しいのだから』とオルヴァーを諫めてもいたが……オルヴァーはそれでも、ランヴァルドの元へやってきていた。
そしてランヴァルドは思ったものだ。『俺より魔法ができる奴に魔法を教えるってのも、馬鹿らしいもんだな』と。
……オルヴァー自身には悪気など無かったわけだし、それはランヴァルドにも分かっていたが。それでもオルヴァーの無邪気さと才能が、当時のランヴァルドには、少しばかり辛かった。まあ、今となってはただの昔話だが。
「その上、それが兄上のような美男であるならば猶更でしょう」
そして、トドメとばかり唐突に降って湧いた誉め言葉に、ランヴァルドは、慄く。慄いた。ここ最近で一番、慄いた。
「……おま、お前……うん……そりゃ、その、どうも……お前もお世辞が上手くなったな……」
「お世辞じゃありませんよ。メイド達が騒いでいたのをご存じなかったんですか?」
「知る訳無いだろそんなの……聞いたこともないぞ」
「えっ……本当に……?いや、でも俺はそちらこちらで聞いたことが……。そんなメイド達と一緒に話したこともありましたし……」
オルヴァーが何とも言えない顔で『どうしたら信じてもらえるだろう』と考え始めたのを見て、ランヴァルドは自分の自信が揺らいでいくのを感じた。『まさか、俺ってものすごく鈍い……のか?』と。もしここでネールが起きていたら大きく頷いていたことであろうが、ネールは寝ているのであった!
「あの、本当に揶揄ってるわけじゃないんですよ、兄上。本当なんですよ。兄上は、所作も立ち居振る舞いも言葉の1つ1つも、とにかく格好良かったから……俺が兄上を真似しようとしていたの、覚えておいでですか?」
「ああ、それは覚えてる。うん……あああああ……そうか、あれ、そういうことだったのか……」
……当時は、幼い弟は大人の真似をしたいんだな、と理解していたのだが。……まさかあれが、『ランヴァルドの真似』をしたかったのだとは思わなかった。
少し恥ずかしそうにぎこちなく笑うオルヴァーを見て、ランヴァルドはどこか気が遠くなるような感覚を味わいつつも、思う。
……俺は、もう少しこの弟をちゃんと見ていればよかったな、と。向けられる好意に気付けるほどの余裕があればよかったんだろうな、とも。
だが、そうできなかった。仕方がない。あの時はオルヴァーは幼かったし、ランヴァルドもまた、若かったから。
「ずっと、自慢の兄でした。俺は将来、この人の補佐をしながら暮らすんだな、と、ずっと……思って、いて……」
オルヴァーは少し震える声でそう言うと、俯いた。
「だから、兄上が城を出ていったのが……許せなかったんです。何も知らなかった癖に、勝手に憧れて、勝手に裏切られたように感じて……勝手に失望したんです」
ひゅ、と息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出して……オルヴァーが意識して呼吸を整えているのを聞きながら、ランヴァルドはそっと、意味も無く焚火をつつく。ぱち、と爆ぜる薪の音が温かく、心地よかった。オルヴァーにとっても、そうであればいいと思う。
「その……俺が出ていったことは、どういう風に聞かされてた?」
聞くのは申し訳ないようなことだが、聞いておかねばなるまい。そして、オルヴァーにとっても、吐き出しておきたいことだろう。そっと水を向ければ、オルヴァーは目を伏せたままに話し始めた。
「俺は、兄上が毒に倒れたということも知りませんでした。後から、『仮病で倒れて見せて晩餐を抜け出した直後、城を抜け出してそのまま逃げた』と聞いただけです。その動機については……ファルクエークの責任を負うのが嫌になったのだろう、と……勝手に……」
「そうか。うん。まあ、そうだろうなあ……」
……まあ、大方想像が付いたことではある。
母はオルヴァーに真実を告げることはしなかっただろうし、叔父も、母が言わないことを敢えて言うことは無かったのだろう。
そうして3人はランヴァルドという異分子を失って、結束を強め、家族水入らずで過ごしてきた、ということであるらしい。
「……あの時のことは、あまり覚えていないんです。父上も母上も忙しそうで、家臣が噂し合うのを聞いて、『ああ、大変なことが起きているんだ』と思っただけで……母上から『あなたの兄は逃げ出したのだ』と聞かされた時も、ずっと、信じられなくて……それを、この10年間で飲み込んで、なんとか納得して、次期領主としての勉学を、ようやく初めて……」
オルヴァーがこの10年、どのように過ごしてきたかはなんとなく、分かる。
唐突に『領地を捨てて』逃げ出した兄の代わりに自分が領主になることになったのだ、ということは、彼にもよく分かっていただろう。
そしてそれ故に苦労があったはずで……それらの苦労を飲み込むために、彼は納得したのだ。
『ランヴァルドは領地を捨てて逃げたのだ』と。
「だというのに、戻ってきた兄上は、10年前から変わっていなかった。聡明で、誠実で……身を削ってでも民に尽くす姿に、『ああ、兄上だ』とすぐ分かりました」
オルヴァーは隙あらばランヴァルドを褒め称えようとするので、ランヴァルドとしては居心地が悪い。とても居心地が悪いが、オルヴァー自身に『褒めている』という自覚はあまり無いのだろう。……この、無邪気に人に懐くようなところは、10年前から変わっていない様子である。
「あなたが、変わっていなかったから……ならばどうしてファルクエークを捨てたのか、と、ずっと、思っていました。俺に勉強を教えてくださった時も、中庭で遊んでくださった時も、あの頃から既に、ファルクエークのことなどどうでもよいと思っていたのか、と……」
ひゅ、と息を吸い込んで、オルヴァーは吐き出すように零す。
「……それが、許せなかった」
……ランヴァルドはようやく、オルヴァーの今までの言動に納得がいく心地であった。
結局のところ、彼は彼の言う通り、『勝手に憧れて、勝手に失望した』のだろう。
オルヴァーはランヴァルドが思っていたよりもランヴァルドのことを慕ってくれていたようであるし、その上でランヴァルドがファルクエークを捨てて逃げたと思っていたのなら、まあ……到底、許せないだろうな、と思う。
「まあ……そんな奴が今のファルクエークにぽっと帰ってきて、功績を上げようとしていて、それでいて、捨てた故郷への愛なんざ語ったら、胡散臭いな」
ランヴァルドが苦笑する一方、オルヴァーは唇を引き結び、青ざめた顔でただ、頭を下げた。
「俺は愚かにも、もういっそファルクエークごとあなたを滅ぼそうと、思ったのです。あの時、衝動的に……本当に、愚かでした」
ランヴァルドに斬りかかったオルヴァーの心情は、如何ばかりだったか。
この10年にわたって徐々に衰退していくファルクエークに焦燥を感じながら今までずっと生きてきたオルヴァーは、もしかしたら、ランヴァルドと同じくらいに自暴自棄になっていたのかもしれない。
「まあ……うん、そうだな。一応、俺は王城の使者ってことになってるもんだから……その、俺を斬ったら、お前もファルクエークも処罰されていたと思う。その点については、本当に愚かな行いだったぞ」
だが、これは言っておいてやらなきゃな、とランヴァルドがため息交じりに言えば、『はい』とオルヴァーは頷いた。項垂れた首が、『斬り落としてくれ』と言わんばかりの様子で、非常に気まずい。
「まあ、その、なんだ。もしそうなっていたとしても、その時はその時でイサクさんが上手くやってくれたと思うが……うん」
「……そうならなくて、本当によかったです。その、処罰は甘んじて受けます。あなたに剣を向けたことに変わりはない。英雄ネレイアが止めてくれなかったら、俺は……兄上を……」
「ああ、うん、大丈夫だから落ち着け。ああそうだ、スープ飲むか?お前の分も一応作ったんだが……」
青ざめて震えるオルヴァーの背をぽすぽすと叩いてやりつつ、ランヴァルドは焚火の傍に置いておいた鍋を示す。オルヴァーは困惑していたが、『いただきます』とぎこちなく笑った。
……ランヴァルドも、ぎこちなくオルヴァーにスープをよそって椀を渡してやった。両者ともに、ぎこちない。
それからしばらく、ランヴァルドはオルヴァーがスープを一匙ずつ口に運ぶのを眺めていた。途中で、『あんまり見つめてたらオルヴァーも食いにくいか』と気づいて、焚火の世話を始めた。
「……もっと早く、兄上を探せばよかった」
そうしていると、ぽつり、とオルヴァーが零した。
「やろうと思えば、できたはずなんです。兄上は王家の使者にまでなっていらっしゃったわけですし……俺が、もっと、探していれば、きっと」
ランヴァルドは、『いや、多分見つからなかっただろうな』と思う。……まさか、この半年弱でランヴァルドがこの地位に上り詰めてしまった、などとは、オルヴァーも思っていないらしい。
だが……まあ、そう思ってくれることについては、嬉しく思う。
「……勝手に裏切られた気持ちになって、あなたを恨んで納得してきた10年でした。恨まれるべきは、こちら側だったっていうのに」
……そして、そう言われることで、何か、ランヴァルドの中で何かが片付いたような、そんな気分にも、なる。
この10年間が、多少、報われたような気がする。
「なあ、オルヴァー。この剣についてだが」
今にも死にそうな顔をしているオルヴァーに、『もうこの機会に全部ぶちまけておこう』と、ランヴァルドは苦笑を向ける。
「……この剣は、父上から譲り受けた、唯一の形見だ。これだけ、なんだ。だから……これは俺の墓に一緒に埋めたとでも思って、諦めてくれないか」
……随分と酷いことを言っている、という自覚はある。だが、オルヴァーなら許してくれるだろうな、とも、思う。
剣に、触れる。ランヴァルドが、父から譲り受けたものだ。
そして本来なら、オルヴァーが持っているべきであったものだ。
ファルクエークの血を証明する紋章が入ったこの剣は、本来ならば、ファルクエークの領主が持つものである。それを今までランヴァルドが持っていたのは……ランヴァルドがどうしても、これを手放したくなかったからだ。
ランヴァルドはこの剣に執着していた。この剣が証明してくれる血筋に執着していた。この剣をくれた父との繋がりに執着していた。
……どろどろと執着ばかりのこの剣は、ランヴァルドにとって、ある種最も直視したくないものだった。
そうだ。ランヴァルドとて、こんなもの、直視したくなかった。
……唯一、自分があの家で誰かに愛されていたことを証明するものを、手放せなかった、などとは。
云わば……この剣は、ランヴァルドの墓だ。
あの日死んだランヴァルドの、墓なのだ。
「ええ、勿論です。それは、兄上がお持ちください」
「いいのか?」
「……俺がその剣を返せと言ったのは、『ファルクエークを捨てて逃げた奴になど、この剣は相応しくない』と思ったからです。……だが、兄上は、ファルクエークに追われた身であって、ファルクエークを捨てたのでは、なかったのですから」
オルヴァーは少しばかり寂しげにそう言って、ふ、と目を伏せる。
「……埋め合わせには、あまりにも、足りないでしょうが」
「いや、いい。十分だ。……ありがとう、オルヴァー」
ランヴァルドは少し笑って、剣に触れる。
……ようやく、この剣が自分のものになったような、そんな気がした。
それからランヴァルドとオルヴァーもまた、眠ることにした。
それぞれに寝袋の中に入って、さて、寝るか、と目を閉じる。
……だが、色々な考えが頭の中で渦巻いて、ランヴァルドはどうにも、眠れそうになかった。
ちら、と隣の小さな寝袋を見つめてみるが、ネールは眠っているばかりである。
……ランヴァルドは、何とも言えない気分になりつつ、『ちょっと寒いな……』ともぞもぞしつつ、なんとか眠りに就くべく努力するのだった。




