雪解け*1
結局、そのまま遺跡の中で野営することになった。
ランヴァルドは手紙を書いてネールに託し、ネールが身軽にぴょこぴょこと岩場を飛んで崖上へ戻るのを見送ると、しばらくの後、ネールが手紙を渡した兵士達が寝袋に食料に、と物資を崖上から吊るして下ろしてくれるのを受け取った。
……荷運びくらいはネールよりランヴァルドの方が向いているだろう、と思っていたが、どうも、ランヴァルドはあまりにも傷つきすぎたらしい。切り傷だらけで酷い有様の体は上手く動かず、更に、治癒の魔法を使おうにも、限界まで魔力を使い切った直後なので上手くいかない。
仕方なく、ランヴァルドは荷運びすらネールにやらせて、1人、さっさと座り込んで休むことになったのであった。
……ランヴァルドはひしひしと罪悪感に苛まれていたが、ネールは非常に張り切って働いていたので、それだけは救いである。
そうして遺跡の中の適当な箇所で火を熾し、寝袋を用意して、そこにオルヴァーを寝かせる。
……あのまま置いておくことを、ちら、と考ないでもなかったが、ネールがオルヴァーを殺さなかった以上、ランヴァルドもまた、そうしなければならないだろう、と思った。
……やはり、ランヴァルドはランヴァルドのやり方で、きちんと復讐を果たさねばならない。全てを諦めて消極的に復讐を果たすなど、悪徳商人の名折れである。
ネールはそんなランヴァルドを案ずるように、ずっとランヴァルドの服の裾を握りしめていた。
実際、体調はすこぶる悪かった。傷も痛む。魔力の浴び過ぎに使い過ぎに、と、体の内側も滅茶苦茶だ。だが、気分はさほど悪くない。
今日はよく眠れる気がした。
ぱち、ぱち、と焚火が爆ぜる音を聞きながら、ランヴァルドはネールのために食事を用意した。干し肉と根菜を煮ただけのスープだったが、まあ、こんなものでも無いよりはマシなのである。寒い場所での野営には、温かな食事が何よりなのだ。
少し迷ったが、作った分量は3人分だ。オルヴァーが起きたら、彼が多く食べるだろうと想定した分量だが……ランヴァルドも多少、食べるつもりである。
ランヴァルドは、少し緊張しながらスープの椀に口を付けて、飲む。
ネールが緊張気味にじっと見つめてくるのを少しばかり申し訳なく思いつつも、一口飲んで……『氷よりはマシだな』と思った。
吐き気はある。だが、食わねばならない。そして、生きねばならない。ランヴァルドは多少無理をしつつ、なんとか椀の中によそい入れた分は全て、胃に流し込む。
そうしてランヴァルドは、一人前には満たないにせよ……ネールよりも少ない分量だとしても、まあ、一応は、完食した。氷よりは、マシなので。
胃の中で暴れる吐き気を『もう疲れてるんだ。吐くなら寝て起きてからにしてくれ』などと適当に宥めて押さえ込みつつ、休んでいると……。
「お、おい、ネール。なんでお前が泣くんだ」
そんなランヴァルドを見ていたネールが唐突に涙を零し始めたものだから、ランヴァルドはぎょっとする。
『どうしたんだ』と声を掛けてみても、ネールはふる、ふる、と首を横に振るばかりだ。だが……ネールは涙を零しながらも、嬉しそうであった。
「……あー、うん。その、心配かけたな」
これは俺のせいだな、という自覚はあるランヴァルドは、ネールの頭を撫でてやることで埋め合わせとする。そうしていると、ネールも次第に落ち着いてきたようで、撫でられては嬉しそうにするばかりとなった。
そうしてネールは落ち着いてくると、じっ、とランヴァルドを見つめて……ふや、と笑って、満足気に頷くのである。
「お前が芋だの林檎だの、食わせてくれたからな。お前のおかげだぞ、ネール」
更に、ネールはもそもそとやってきて、ランヴァルドの隣にぴったりとくっついて座る。それをまた撫でてやれば、ますますきゅうきゅうくっついてきて、何ともぬくい。
……心地よい。ランヴァルドはそのまましばらく、ネールにくっつかれるがままになる。かき混ぜられて濁っていた自分自身の中で疲労の滓が沈んでいくような、そんな気分を味わう。
少しすると、ネールがうつらうつらと舟を漕ぎ始めた。安心して、温まって、眠くなってきたらしい。疲労もあるのだろう。無理もない。彼女は魔物をとんでもない数、屠っているのだから。
ならば寝かしつけてやろう、と、ランヴァルドはネールを寝袋にそっと突っ込む。ネールは『まだ眠くない!』というように抵抗を示していたが、それでも、寝袋に入って横になってしまえば睡魔に抗えなかったらしい。そのままネールはすやすやと眠ってしまった。
……そのまま、ネールをぼんやり眺めて、ランヴァルドは焚火に照らされていた。疲労と消耗で、考えは何もまとまらない。
だが、こうしてただぼんやりしているのが、なんとなく心地よかった。只々、穏やかで。……そもそも、こうして何も考えずにいられるということ自体が、ここ最近では珍しいことだったか。
そうして、『俺ももう寝るか』と、ようやく寝袋に入ろうとした、その時。
「う……」
オルヴァーが小さく呻いて、目を開く。
「ああ、起きたか」
ランヴァルドが声を掛けると、オルヴァーはすぐ、覚醒した。飛び起きて、そして、ランヴァルドを見つけて、一瞬、怯えと憎悪をその目に過ぎらせて……。
「悪いが、小さい声で頼む。ネールがさっき寝たところなんだ」
……ランヴァルドがそう小さな声で続ければ、オルヴァーは勢いを削がれたように、ただネールを見下ろすことになる。
「で、お前が俺に斬りかかってくれた件についてなんだが……」
が、一方のランヴァルドは、穏やかに潜めた声でありながらも、容赦しない。オルヴァーは青ざめて自分自身の剣を探したようだったが……少し離れたところに、オルヴァーの剣の残骸がある。ネールが真っ二つに切断してしまったその剣は、あれではもう、使い物にならないだろう。
オルヴァーの表情に緊張が走る。どのようにしてこの状況を脱するか、と必死に思索を巡らせているらしかったが……。
「ああ、安心してくれ。お前を殺すつもりは無い。だがまあ、ネールが起きたらちょっと覚悟しておけ。殺されはしないだろうが、ぽこぽこ殴られはするぞ、間違いなく」
ランヴァルドが先にそう言ってしまえば、オルヴァーは拍子抜けした様子であった。
……そうして少々落ち着いたらしいオルヴァーの表情には、なんとも言えない、後悔のような、憐憫のようなものがある。まあ、大方、今ボロボロの状態のランヴァルドを見てのことなのだろう。オルヴァーも大概お人よしだな、とランヴァルドは苦笑する。
「……兄上」
そうしていると、ふと、オルヴァーが顔を上げた。
「もう一度……改めて、お答えください。あなたはどうして、この領地へ戻ってきたのか……いや、それよりも……」
オルヴァーは、何か迷いながら言葉を探している様子だった。だが、それもほんの二呼吸ほどのこと。
「何故、ファルクエークを出ていったのか。……あなたの言葉で、聞かせてください」
……ランヴァルドを真っ直ぐに見つめる濃いグレーの瞳は確かに母譲りで……だが、今は、あまり母に似ているようには感じられなかった。
「……そうだな。お前が、聞きたいなら。少し、話そうか」
ランヴァルドもまた、オルヴァーと同じくらい緊張しながらそう答える。オルヴァーもまた、緊張に強張った表情で、こく、と頷く。
……こうした仕草が、どことなく、幼い日の弟らしさを残している。ランヴァルドはまた苦笑して、話し始めた。
「まず、俺がファルクエークを出ていった理由についてだが……簡単に言っちまえば、『死にたくなかったから』だな」
ランヴァルドがそう言うと、オルヴァーは不審げに眉根を寄せ、目を細める。やはり、知らないのだ。オルヴァーは。
……何も知らない弟を、何も知らないままにしておいてやった方がいいような気は、した。少なくとも、今後のオルヴァーとアデラの関係を思えば、口を噤んでおいてやった方が親切だ。今からランヴァルドは、1つの家族に罅を入れることになる。
だが……弟はランヴァルドが見ていなかった10年の間に随分と大きくなった。かつて、ランヴァルドが家を出た、あの年頃になっているのである。ならば……一人前の男を子供扱いして、無知の天蓋の中、大事に柔らかく囲っておいてやるのは却って無礼というものだろう。
少なくとも、ランヴァルドに斬りかかる気概がある男だ。この極寒のファルクエークの領主になろうという男なのだ。ならば、多少の衝撃は、受け止めてくれるはずである。……ランヴァルドはそんな気持ちで、早速切り出した。
「まあ、母上が俺に毒を盛ってくださったもんだから、出ていかざるを得なくなったのさ」
「……毒?」
オルヴァーは唖然としていた。ただ、『何を言っているんだ?』と、その顔に書いてあるかのようであった。
「知らなかっただろ。……うん。あの頃のお前は、まだ小さかったからな」
ランヴァルドが何でもないことのように苦笑して言う一方、オルヴァーの血の気が引いていく。それを哀れに思いもするが、少しばかり、気分が良くもある。……そんな自分自身の性格が悪い自覚はあるが、仕方がない。ランヴァルドはこういう人間なので。
「毒……毒を、飲んだ、のですか?一体、どのような、その……」
「ああ、母上が俺に盛ってくださった毒はな、食ってすぐはちょっとした違和感すら無い。だが、晩餐も中頃になった頃、突然、喉から臓腑までが焼けるように痛むんだ。それで血を吐いて……同時に、その時にはもう、体が動かなくなっているんだ。そのままいずれは心臓も、って具合だな」
自分自身の記憶を反芻する。乾きかけた傷痕を再び抉って確認するかのように。
「……その後、しばらくは飯をまともに食えなくなったな。何を食っても、あの時吐き出した自分の血の味がするような気がして……」
思い出す記憶は鮮明だ。いつだって、そうだ。幾度となく夢に出て繰り返すそれを、ランヴァルドは生涯忘れないだろう。
……だが、それを人に話すのは、新鮮な気分だった。
「あー……余計なことまで話したな。うん。まあ、そういうやつだった。数種類の毒を調合した奴だな。ちゃんと食ったかどうかを確認するために、血を吐くような奴を入れてあって、ちゃんと殺せるように心臓を止める毒を入れてあって、っていう……うん、その、そんな顔しなくていいんだぞ、お前は」
ランヴァルドの目の前でオルヴァーがどんどん青ざめていくのを見れば、『こいつに毒を食った体験談なんざじっくり聞かせなくてよかっただろ』と気づく。
……マティアスや他の悪徳商人連中には、『今までに自分が飲んだ毒の話』はそこそこ受けのいい話なのだが。まあ、真っ当な感性を持っている人間には、ただ気持ちが悪いだけの話だろう。オルヴァーには少々、可哀そうなことをした。
「……兄上は……自らの意思で、ファルクエークを捨てたのでは、なかったの、ですか……?」
可哀そうなオルヴァーは、自らが立っていた地面が全て崩れ落ちたかのような顔をしている。
……ランヴァルドが、彼の立っている地面を崩している。オルヴァーが居た場所が元々薄氷の上だったとしても、それをわざわざ割り砕くのは、ランヴァルドだ。
「……そうだな。できることなら、父上の跡を、俺が継ぎたかった」
そして、ランヴァルドはそう、零した。これがオルヴァーにとって残酷なことだとは、分かっていたが。
……だが同時に、ランヴァルドにとってもまた、残酷なことだ。わざわざ、自分の傷痕を抉るようにして、自分があの時から今に至るまで、何を感じていたのかを確かめている。
ずっと直視せずにいた自分自身を、ようやく、ランヴァルドは直視している。
「そんな……なら、母上は、何故……」
オルヴァーは青ざめていた。只々、自分が信じていたものが脆く消え去っていく中で、迷子のような顔で、ランヴァルドを茫然と見つめ返してくる。
「……兄上、は……本当にそうなら、どうして……」
そうしてオルヴァーはわなわなと震え……そして、堰を切ったかのように感情と言葉とを溢れさせた。
「どうしてお戻りになったのですか!?自分を裏切り、殺そうとした者が、居る場所に!本当にただ、助けるために!?」
ランヴァルドがオルヴァーの勢いに慄けば、オルヴァーは、はた、と気づいてその勢いを収め……だが、収まったのは勢いだけで、彼の中で感情は溢れて溢れて、どうしようもなかったらしい。
「……俺達が、憎い、でしょうに……何故」
零れ落ちた言葉を改めて確かめて、ランヴァルドは『どうしてだろうな』と、自問自答する。
……まあ、王命だから、だ。王命だったから、ランヴァルドはここへ来た。
だが……こうまで身を削って、ファルクエークのために、と行動してきたのは……実に醜く稚拙な動機だ。
ただ、『認められたかった』。それだけ。
愚かしさの自覚はあるので、ランヴァルドはただ苦笑しながら、オルヴァーと同じように視線を床へ落とした。
「憎いだろう、と言われるとな。……実のところ、お前への恨みは特に無いんだ」
そうして改めて、確認するようにそう言葉にする。
この、実に優秀で性格も真っ直ぐな弟のことを、ランヴァルドはどうも……『憎い』とは思えないのである。
「お前のことは、可愛い弟だって思ってたさ。いや……今も、思ってる」
「兄上……」
ランヴァルドの言葉を聞いたオルヴァーは、喜びよりもただ、困惑と後悔が滲む表情で唇を噛む。
……オルヴァーは実に優秀だ。剣も魔法もランヴァルドを遥かに凌駕する腕前。兵士達を統率する様子を見ていても、実に優れた視野を持ち、多くの人に信頼されていることは明らかだ。その上、素直で責任感もある。オルヴァーは誰からも愛されるような善い性質の男だ。……ランヴァルドより、遥かに優秀である。
そんな彼だから、ランヴァルドのことはさぞかし気に食わなかったに違いない。彼はきっと、ランヴァルドのことを『故郷を治める責任を負うのが嫌で逃げ出したくせに故郷への愛などを語るろくでなし』だと思ったのだろう。まあ、斬りかかるのも無理は無い。
「まあ……羨ましくは、あったけれどな。だが、憎んでなんか、ない」
だから、羨ましかった。優れた才能も、その真っ直ぐな気質も……真っ直ぐであれる、環境も。
羨ましかった。だが、それだけだ。
「……俺は領主には向いていません。兄上とは、違って」
ふと、オルヴァーが突然そんなことを言い出すので、ランヴァルドはぎょっとした。
「いや……そんなことはないだろう。剣も魔法も大したものだ。兵を統率する様子も、見事なものだった。それに何より、お前は皆から愛されてる。少なくとも、俺より向いていないなんてことは思えない」
ランヴァルドはお世辞など一切無く、そうオルヴァーを断じた。
……この北部において、領主が持つべき一番大切なものは、領民を惹きつける力。つまるところ……オルヴァーが持っているような、そんな能力である。
オルヴァーは間違いなく、ファルクエークの領主に向いている。そう、ランヴァルドは確信しているのだ。……だが。
「俺は狭量です。視野が狭いんですよ、兄上」
オルヴァーはそう言って、自嘲気味に笑った。
「……兄上が領地経営を手伝っておられた時には、ファルクエークのみならず、国全体の情勢に気を配っておいでだったと聞いております。だが、俺にはどうも、それができません」
「それは……」
……ランヴァルドは、10年以上も昔のことをかすかに、思い出す。
叔父を母が手伝って、領主業をなんとかやっていた頃。……叔父は『次期領主』であるランヴァルドを気遣って、時々、意見を聞きに来てくれた。そして、その度にランヴァルドは、父に教えられたことをなんとかそれらしく整えて、叔父に伝えていたように思う。
……父は、よく言っていた。『ファルクエークだけが生き残るということはあり得ない』と。
領地の情勢は、隣り合った領地の情勢に大きく左右される。そして隣の領地は、隣の隣の領地に影響されるのだ。……こうして、全てのものが関わりながら回っている以上、『ファルクエークだけ』のことを考えても上手くはいくまい、と。
領地経営するなら、領地のことだけを見ていてはいけない。領地は1つだけでは生き延びられないのだ。人が、1人では生きていけないのと同じように。
「……恥ずかしい話ですが、金勘定も苦手です。利益を出すどころか、収支をなんとか赤字にしないためだけに全力を尽くして、それも上手くいかないまま、ここ数年はずっと、領民に苦しい思いをさせています。彼らもまた、俺に大した能力が無いことには、もう気づいているんです」
オルヴァーの言葉を聞いたランヴァルドは、思い出す。ランヴァルドが生家に戻った時、使用人達が『これでファルクエークも安定するだろうか』と噂していたのを。
……ファルクエークが今、不安定だということは、彼らも既に、知っているのだ。
そして、この敏い弟が、それに気づかない訳はない。『ああ、自分は領民に失望されている』と、自分を責めないはずがなかったのだ。
……さぞ、苦しかったことだろう。
ランヴァルドがずっと苦しかったのと同じように……或いは、それ以上に。
オルヴァーもまた、ランヴァルドとの比較に苦しんでいたのだ。
「兄上が領主になっていたのならば、こうはならなかったのだろう、と……何度も何度も、思いました。優秀な兄上であるならば、この状況も、改善に向かわせることができるのだろうと。だが、兄上ならどうやっていただろう、と考えても……この目には、何も、見えてこないのです」
オルヴァーの声が、滲む。
「挙句、ずっとあなたのことを誤解していました。……まさか、母上が、兄上に、毒を盛ったなど、とは、思わない、まま……あなたを恨んで……」
途切れ途切れになる言葉の隙間で息を吸い、唇を噛み、オルヴァーは……ようやく、血を吐くかの如く、言葉を吐き出した。
「……俺はずっと、あなたに憧れていました。だからこそ、許せなかった」




