絶望より性質の悪い*3
氷の刃が飛んでくる。
そのいくつかはランヴァルドを傷つけ、オルヴァーを傷つけ……だが、ネールは傷つけない。
不思議なことに、ネールだけは、この魔力の中で無事だった。ネールだけが、魔力の渦に巻き込まれず……。
……否。ネールは、巻き込まれないのではない。『巻き込んでいる側』なのだ。
ネールが、この遺跡を暴走させている。
「ネール!」
ネールへと伸ばした手が、弾かれる。分厚く渦巻く魔力が、ランヴァルドの手を阻んでいた。
声も届いていないと見える。ネールの反応は、無い。
……ランヴァルドは一瞬で、諸々を考えた。どうやってこの状況を打破すべきか、考えた。
奥に開いた扉が見えている。そこからより強く、吹雪が吹きつけてくるのが分かる。いつもの如く、制御盤はあの奥にあるのだろう。あれを操作すれば、この吹雪を止めることはできそうだが……操作するにしても、ネールが、この状態では……。
「……くそ!」
だが、それでもランヴァルドは走り出す。渦の中心となってしまっているネールも、その足元で動かないオルヴァーも置いて、一人。
……そうするしか、なかった。
部屋の中へ入れば、吹雪は益々酷くなった。魔力も酷い。だが、ランヴァルドは死に物狂いに吹雪を抜けて、部屋の中央、制御盤へと辿り着く。
ここまで来れば、後は慣れたものだ。この手の遺跡の機能を止めるやり方は、分かる。何度も何度もやってきたのだ。その通りに今回もまた、やればいいだけである。
ランヴァルドは制御盤に手をついて、今まで同様にやっていく。
魔法はするすると読み解けた。ところどころ、滲んで掠れていたものの、それでも大きな支障は無かった。
それほどまでに、ランヴァルドは古代魔法の解読に習熟したのである。これでは『古代遺跡の専門家』などと言われてしまっても仕方ないな、と思いつつ……ランヴァルドは早速、読み解いた魔法を動かすべく、制御盤に魔力を流す。
……無論、ランヴァルドだけの魔力で足りないことは分かっている。
ばくばくと鳴る心臓を抑え込みながら、ランヴァルドは魔石の欠片を握りこむ。兵士達の治療に大方使ってしまったそれらだが、砕けた欠片はまだ、残っている。それら全てからなんとか魔力を吸い上げて、注ぎ込む。
……だが、当然のように足りない。
ならば、と、ランヴァルドは床に手を突く。古代遺跡そのものの魔力を、なんとか吸い上げることはできないか、と。
……だが、遺跡は強い抵抗を示す。この遺跡は、ネールに恭順を示すことはあれども、ランヴァルドにそうすることはないのだろう。
顔を挙げた。未だ、室内には吹雪と魔力が荒々しく渦巻いている。
ならば……と、ランヴァルドは宙を見つめる。この場は魔力が濃く渦巻く場だ。これらを操ることができれば、なんとか魔力を補うことができるのではないか、と。
……だが、肌を切り裂かんとする風から魔力を集めるなど、煙を掴むようなものだった。
魔石を握りこんで魔力を吸い出すならともかく、掴めもしない、触れられもしない魔力を操り、集めることは極めて難しく……。
……否。これを操れる者も、居るのだ。魔法に長けた者であれば、きっと、可能だった。
「……ああ、そうだったな」
ランヴァルドは、動かない魔法を前にして、また、思い出す。
……自分には魔法の才覚が無かったのだ、と。
「……ははは。全く、本当に、理不尽なもんで……」
元より無かった望みがいよいよ見えなくなる。ただ、ランヴァルドは力なく笑った。
吹雪がランヴァルドを冷やしていく。結局何もできないランヴァルドを、氷が切り裂いていく。
……ネールならば、古代魔法を止めることなど造作も無かっただろう。彼女はそういう生き物だ。
或いは、オルヴァーならば、上手くやれたのかもしれない。そうだ。実際、彼は上手くやっていた。ランヴァルドにはできなかったことをやってのけていたし、ランヴァルドが持っていない才能を持っていて……。
「神なんて、居ねえな」
理不尽なことに……皆に、神に愛されたオルヴァーさえもまた、死ぬだろう。ランヴァルドに魔法の才能が無いせいで。この遺跡を、止められないせいで。
そして皮肉なことに、こうしてランヴァルドが諦めることによって、ランヴァルドの復讐は成立してしまう。
ああ、実に皮肉なことだ。ランヴァルドが与えられなかったものを全て持っていたはずのオルヴァーが、ランヴァルド同様惨めたらしく死ぬことになる。そしてオルヴァーが死んだなら、ファルクエークを継ぐ者は誰も居なくなる。
そう。ランヴァルドを殺そうとしたせいで、叔父と母親が一番大切にしていたオルヴァーは死ぬのだ。そして彼らが愛するこのファルクエークは滅ぶだろう。
……ならば、これはこれでいいのかもしれない。何せ、ランヴァルドはずっと望んでいた復讐をやり遂げるのだ。奪われたものを奪い、傷つけられた分、傷つけるのだ。悪くない。悪くないではないか。
ランヴァルドは今更、自分の命などに未練は無い。元々、死んだらそれまでだと思っていた。その時が来たなら、その時は潔く死んでやろう、と。
……ファルクエーク全土を巻き込むことについては……少しばかり、悔いになる、だろうか。
だが今更、貴族としての矜持などクソ食らえだ。かつて教えられ、そしてランヴァルドが今まで『そう在れ』と生きてきたそれに、果たして意味などあっただろうか。
そう考えるランヴァルドを支配するのは、強い諦念である。
ずっとずっと、目の前にあったものだ。『諦めろ』とずっと、自分の内から聞こえていた声そのものだ。
……何もかも凍り付いてしまえばいい。マシな未来など、ランヴァルドには望むことができない。
望む理由も、無い。こんな世界、道連れにして全て、丸ごと凍り付かせてしまえば……。
……ふと、ランヴァルドの脳裏に浮かんだのは、雪原に一人取り残されて、ぽつん、と佇むネールの姿だ。
「……ああ、クソが!」
叫んで、ランヴァルドは目を見開く。そうしなければ、何か、溢れてきそうだったので。
嗚呼、そうだった。ランヴァルドは死ねない。死ねないのだ。死ねなくなってしまった。愚かしくも……自分自身のせいで!
ランヴァルドは、ネールと約束した。
……だから死ねない。彼女が、ランヴァルドに死ねと望むまでは。
そしてネールがそうは望まないことを、ランヴァルドはよく知っている。
「死ね、ない……ああ、くそ……恨む、ぞ……!」
ランヴァルドは最早理性など失いつつ、それでも意識を保とうとする。
だから、『思い出せ』とランヴァルドは必死に思考を御した。憎悪を。憎悪を思い出すのだ。自分をずっと支えてきた、強い感情を。氷すら燃やし尽くすが如く、強い感情を!
憎悪だけで、ここまで来たのだ。殺すまで死ねない、と、這い蹲って生きてきたのだ。だから今……死ねなくなった今、ランヴァルドは自らの憎悪を抉り出す。
さあ、父が死んですぐに再婚した母に対して、何を思った?
結局自分に家督を譲らず母と2人で領地経営を続けた叔父には、何を思った?
何もかも自分より優れ、それ故に何も思い悩むことなく愛されて育った弟には?
理不尽に投げかけられた言葉も、足りない魔力も、吐き出した血も、全て、全て、火にくべる。
憎悪を燃え上がらせるため、くべる薪を探して、探して、探して……。
……そうしてふと思い出すのは、家族の姿だ。
書庫から本を数冊見繕って、自室へ持ち帰る途中。回廊の柱の間から見たのは、中庭の光景。
あの時は確か、初夏だった。陽の当たる美しい庭には、花が咲き乱れていた。
何も知らないオルヴァーが駆けていて、それを抱きとめる叔父と、微笑んで見守る母の姿があって……。
そんな家族を見て佇んでいた自分は、まるで、脳裏に浮かぶネールのようではなかったか。
1人、取り残されて。剣の一振りだけが、縁であって。
それを、寂しい、などと。
「ああああああああああああああああああああ!」
叫ぶ。ただ、思い浮かぶものを掻き消さんと、叫ぶ。
足りない。足りない。足りなかった。嗚呼、足りないものばかりだった。才能も居場所も家族も、手に入らなかった!
だから忘れようとしたのだ。決して手に入らないものへの憧れを憎悪で塗りつぶして、なんとか忘れて生きてきたというのにこのザマだ!
どうして今、こんなことを思い出してしまったのだろう。思い出したところで手に入らないのだと、より深く絶望を思い知るだけだというのに。
……そして、その絶望に沈み切ることも、もう、できないのに。
「もう、許……誰か、ああ、違う……違……くそ、どうして、俺は……」
ランヴァルドは半ば朦朧としながら、目の前に落ちた氷を掴んだ。……魔力に、呼ばれるように。
不思議なことに、荒れ狂い吹き荒れる魔力は、今、ランヴァルドに共鳴するようでさえあった。
ならば、と氷を握りしめる。掌が切れる感覚があったが、強く、強く握りしめる。魔石から魔力を取り出すべく、集中し……しかし、足りない。これでは、足りない。
だから、口を開く。
食らう。
硬く冷たいだけの氷を、バキバキと噛み砕いて、飲み込んでいく。
魔力を多分に含んだ氷はランヴァルドの胃の腑を存分に冷やし、そして、確かに魔力を与えてくれる。
同時に、ランヴァルドの体はそれに耐えられない。ブラブローマで水を飲んだあの時同様、魔力に敏感なランヴァルドの体はすぐにでも胃の中身を吐き出そうと暴れ出す。
それを、捩じ伏せる。
本能も理性も激情で捩じ伏せて、ランヴァルドはまた1つ、更に1つ、と氷を噛み砕き、飲み込む。
氷を食らう。
ランヴァルドはこんなことをしなければ何もできないから。そして、こうしてでも生きなければならないから。
最悪なことに、クソッタレなことに、ランヴァルドは……いっそ滅びた方がマシだと思われるようなこの最悪の世界を、生きなければならないのだ。自分が拾ってしまった、小さな小さな、一欠片の希望のために。
……ネールが、居るから。
嗚呼、全てを塗り潰すような絶望よりも、一欠片の温かな希望の方が、余程、性質が悪い。
気づけば、吹雪は止んでいた。
ランヴァルドは静まり返った天井を見上げて、ただ何も考えられないまま歩き出す。
歩いて、歩いて、通路を戻っていけば……そこにはネールとオルヴァーが居た。
……ネールはオルヴァーを見下ろしながら、涙を零していた。オルヴァーは意識を失っている様子だったが、ネールのナイフはもう、力なく床に落ちていた。
ネールは結局、オルヴァーを殺さなかったらしい。
「ネール」
ランヴァルドが呼べば、ネールは振り返った。吹き荒れる魔力に揺れていた髪は落ち着いていて、ただ、ネールの瞳がより雄弁に語っている。
……『悲しい』と。
先程、ランヴァルドに共鳴した魔力が語っていたのと同じように。
「よし。よくやったな。殺さなかったのは偉いぞ」
だから、ランヴァルドはネールを褒めてやった。『殺す以外のやり方をネールに教えてきた成果は確実に実ったぞ』と……自分が成し遂げたことを1つ、見出しながら。そうして、ネールを抱きしめて、頭を撫でてやる。遠い昔に自分がそうされたように。
「上出来だ。何もかも、上手くいった。お前が居たからだ」
ランヴァルドはネールに向けているのかそうでないのか、あやふやな言葉を吐き出し続ける。卑怯者の自覚は、ある。
「お前が誇らしいよ。ちゃんと、教わった通り……壊すんじゃなく、守っ……」
ふと、ネールの手が動いた。ずっと抱きしめられていただけのネールが、動いて……ランヴァルドの頭を、なで、なで、と撫でていく。
……言葉が、出てこない。何か、言いたいことが……否、言ってほしいことが、あったように思うのだが。何一つ、出てこない。
だからしばらく、そのままでいた。ネールの手はそのまま、なで、なで、とランヴァルドの頭を撫で続けていた。




