摩耗*4
夕陽が投げかける最後の光の、その一片までもが消え失せた。
雪は淡く闇色に染まりつつあり、もう半刻もすれば辺りは完全に闇の中になるのだろう。
……だが、ランヴァルドはそれでも突き進む。
人の命がかかっているのだ。躊躇はできない。その思いは兵士達も同じであるらしく、『自分達が助かった分、仲間達を助けるのだ』と、士気は極めて高かった。
「ネール。魔物か、人間か……何か気配はあるか?」
ランヴァルドはネールにそう尋ねつつ、只々進む。ネールはネールで、懸命に周囲の気配に意識を集中させては、『あっち』『もうちょっと』『もうすぐ』と教えてくれる。
……気配が近づいてくるにつれ、ランヴァルドにもそれは感じ取れるようになってくる。
そうして、夜闇の向こうから喧噪が聞こえるようになり……。
只々暗い海が向こうに見える。
波の音に混ざって、剣が骨を断つ音が、悲鳴が、聞こえてくる。
だがその中でもひときわ通る音がある。
「右翼!孤立するな!中央に寄れ!手が足りないなら貸す!」
……聞き覚えが無い声だ。当然である。ランヴァルドが最後に聞いた彼の声は、まだ声変わりしていなかった頃のものだ。
だがそれでも、誰が指揮を執って戦っているのかは、分かった。
……ファルクエーク領の最北端。海を見下ろす岬にて、弟のオルヴァーが戦っている。
オルヴァー率いる部隊は、じりじりと消耗している様子であった。
数多、魔物の死体が転がっているところを見ると、相当数を倒したことは確かなのだろう。だが同時に、兵士も相当数が倒れている。
魔物は際限なく湧き出していて、兵士には限界がある。……当然、このままでは持ち堪えられないのであろう、ということも、分かった。
だがそれでも、オルヴァーの戦いぶりは見事であった。
「……すごいな」
ランヴァルドはどこか現実味がないように思いながら、オルヴァーを遠く、見つめた。
ランヴァルドの記憶にあったオルヴァーは、幼い子供であった。だが今の彼は、もう立派な青年である。
叔父譲りの鳶色の髪に、母譲りの濃いグレーの瞳。叔父に似た体躯は、北部生まれらしい精悍さと力強さに満ち、母譲りの整った顔立ちは、まあ、よく人目を引く。
そして何より……その戦い方が、華々しく人目を引くのだ。
身体を強化する類の魔法を使っているのだろうが、長剣を鋭く一振りしたそれだけで魔物の首を斬り落とす。この華やかな剣技には目を瞠るしかない。
オルヴァーの剣が翻れば、次々に魔物が屠られていく。ランヴァルドは、『ああ、英雄と呼ぶに相応しい姿だ』と思った。
そして、魔法だ。オルヴァーが放つ魔法の残滓が宵闇の中に尾を引いて、まるで、流星のように見える。炎が氷雪を融かしながら魔物へ迫り、大いに怯ませ、そして兵士達を守る。光が魔物達の目を晦ませ、その隙にオルヴァーの剣が魔物の心臓を刺し貫いている。
……これほどの戦いができる人間は、そうは居ない。
やはり、オルヴァーは……弟は、天才的な剣と魔法の名手に成長していた。ランヴァルドとは、違って。
だがそんなオルヴァーも、劣勢に追い込まれているわけだ。彼自身の消耗もあるのだろう。時折、精彩を欠く動きが目立つ。
ランヴァルドは瞬時に判断し……自分が連れてきた兵士達を、押しとどめた。
「援軍が入って統率を乱すわけにはいかない。少し、魔物が減って落ち着いたところで加勢に入るぞ」
そう告げれば、兵士達は困惑した様子であったが……ランヴァルドは、ネールを見つめた。
「ネール。やってくれるか」
ネールはランヴァルドを見つめて、『任せろ』と言わんばかりにこっくり頷いた。そして黄金色の光を纏い、雪を蹴って、駆けていく。
……そうして黄金色の強い光がオルヴァー達の元へ届いた直後、魔物が一気に数を減らしたのだった。
「よし!今だ!英雄ネレイアに続け!」
オルヴァー達の部隊に近い位置の魔物はネールが片付けた。その機を見計らって、ランヴァルドと兵士達はオルヴァー達の元へと向かった。
……オルヴァーの兵士達は、急な増援に困惑しつつも、歓喜の声を上げる。『助かった!』と心から安堵したような声を聞いて、ランヴァルドは『よし、間に合った』と、やはり安堵する。
途端に余裕が生まれて、兵士達は負傷した者の保護を始めた。ランヴァルドも、自分に近しい位置で血を吐いていた兵士に声を掛け、さっさと治癒の魔法を使い始める。
「よし、ひとまず血はすぐに止められそうだ。その後で内臓の方も治すから、ちょっとばかり時間はかかるが。頑張れよ」
イサクから譲り受けた魔石を握り、魔力を吸い出しては魔法の形にして、負傷兵へと注ぎ込む。すると、兵士はひとまず、致命的な状況からは脱することができた。無論、完治と言う訳にはいかない。ランヴァルドにはそんな技量も、魔力も、そして余裕も無いのだ。
ランヴァルドが『次の者を』と呼びかける前に、統率の取れた兵士達が、負傷者を連れてきてくれる。おかげでランヴァルドは、次々に治癒の魔法を使うことができた。
幸い、イサクから譲り受けた魔石は上等なものだった。おかげで随分と楽である。少なくとも、雪から僅かな魔力を掻き集めるよりは、余程。
「……よし、大方、治せたか……」
そうして、ひとまず治すべき兵士達を治すことができた。雪の上に座り込んで立ち上がることもできないまま、ランヴァルドは顔を上げて……。
「……兄、上……?」
そこで、愕然と自分を見下ろす目を見つけた。
母によく似た濃いグレーの瞳は、驚愕に見開かれており……。
……その目に、ランヴァルドは一瞬、どきり、とさせられた。
彼の目元が、あまりに、母に似ているから。
「ああ。ランヴァルド・マグナス……うん。まあ、その本人だ」
ランヴァルドは嫌な汗を滲ませながら、ぎこちなく笑う。
「オルヴァー……その、本当に大きくなったな。立派になった。俺とは比べ物にならないくらいに」
弟に、何と言えばいいのか分からない。何せ、10年ぶりだ。
オルヴァーはかわいい弟だ。少なくとも、ランヴァルドにとってはそうだった。10年が経って、恐らくランヴァルドより身長が高くなって、それでも……それでも彼は、ランヴァルドにとって、弟なのだ。
だが、だからこそ、何を言えばいいのか分からない。
……だが、そこからはオルヴァーが先に口を開いた。
「いいえ。俺などまだまだ未熟者ですよ」
オルヴァーは微笑み、親愛の情を滲ませた目でランヴァルドを見つめ、手を差し出してくる。
「兄上こそ、よくぞご無事で。またお会いできて嬉しいです」
「……そう思ってくれているなら、嬉しいよ」
差し出された手を握って、ランヴァルドは立ち上がる。が、立ち上がった途端に酷い眩暈が襲い掛かってくる。ぐるん、と地面が回転するような感覚を覚え、そして気づけば、雪の上に倒れていた。
「兄上?兄上、あの、これは……」
「あ、ああ……大丈夫だ。少し、眩暈がしただけで……少し休めば、それで済むはずだ」
ランヴァルドはそう言って笑ってみせるが、体はそろそろ限界だろう。ぶっ倒れて眠ってしまいたいところである。だが、そういうわけにもいかない。
「少しばかり、兵士の治療を行ったんだ。それで、魔力を使い過ぎた。だが、俺の魔法如きじゃ効果はたかが知れてるからな。ちょっと、彼らの様子を見てやってほしい」
「ええ……分かりました。彼らのことは、俺が必ず」
オルヴァーに負傷兵のことを引き継げたので、これでひとまずランヴァルドの仕事は終わっただろうか。無論、まだ負傷兵が居るなら、そちらに回らねばならないが……ネールのおかげで魔物は相当数を減らしている。この分なら、ランヴァルドが少々ここで座り込んでいても問題は無いだろう。
「その、兄上は……ここへは、あの兵達を、率いて?」
「ああ。拠点には王城の使者の方も居られる。そこの負傷兵も多少は治療できたから……兵の数を減らしても十分持ち堪えられるだろうと判断した。一方で、こっちは急を要するだろう、と」
オルヴァーは戸惑いながらもランヴァルドに問いかけてくる。ランヴァルドはそれに答えてやってから……ふと、思う。
「……指揮官に命を受けたわけでもなく兵を動かしたことについては、謝る。俺のことは如何様にもしてくれていい。だが、お前の兵達は皆、お前に何かあったなら助けねば、とここまで来たんだ。士気も高かった。勇敢な、良い兵士達だ。だから、待機の命令に背いた彼らを処罰することは、どうかしないでくれ」
……指揮官、というものは、その兵士達の命を預かり、同時に、彼らの命よりも遥かに重いものを守らねばならない者である。
よって、兵士は指揮官の指先となって動く必要がある。統率を乱すことは許されないし、指揮官の命令も無く動くことも許されない。
そんなところでランヴァルドが兵を率いたのは、まあ……緊急事態だったとはいえ、オルヴァーに対する不義理であった、とも言える。よって、ランヴァルドはオルヴァーにそう、伝えたわけなのだが……。
「ああ……いえ、お気になさらないでください。そもそも兄上には、この兵を率いる権利が、あるのですから……」
……オルヴァーがどこか歯切れ悪くそう言うのを聞いて、ランヴァルドは『やっぱり失敗だったか』と、申し訳なく思う。
だが。
「その……先程見えた、あの戦士は、その、兄上の……?」
更に続いた言葉に、ランヴァルドはそれどころではなくなった!
「……ん!?いや、ネールは、その、違う。違うからな?彼女は、その、縁あって拾った子だ。俺の子じゃない」
慌てて訂正すれば、オルヴァーは『そ、そうでしたか……てっきり、その、うん……』と、なんともバツの悪そうな顔をした。……こういう顔をすると、幼い頃の面影が色濃い。
「今は叙勲されて、国王直々に命を受けて動いてる。龍殺しの英雄ネレイア、というと、聞いたことがあるだろ?」
「え、ああ、彼女が……?」
オルヴァーは何とも言えない顔をしながら、ちら、とネールが居るのであろう方を見る。
ネールの姿は見えないが、彼女が纏う黄金色の光は力強く輝いて、まるで太陽か何かのように辺りを照らしている。あそこでネールが戦っていることは、よく分かった。
「……凄まじい強さですね」
「ああ。小さいのに立派な奴だよ」
ネールが放つ黄金色の光を見ていると、なんとなく心が安らぐような心地がした。陽だまりの色の光は、こんな北部には珍しく、そしてあまりに温かい。
……だが、ネールの方を見やるオルヴァーの表情が硬いのが気にかかる。
「彼女さえ居れば……何もせずとも、ファルクエークは安泰でしょうね」
そしてオルヴァーの目が、ちら、とランヴァルドを見る。
……否。
ランヴァルドのベルトに吊るされた、剣を。
……母が、見ていたような、そんな目で。




