摩耗*2
そうして。
「……ネール。こっちも食うか?」
一度馬車を降りて再び戻ってきたランヴァルドは、自分の分をネールに渡すことになった。が、ネールはきょとんとしている。当然である。
「食欲があんまり無いもんで……あ、そうだよな、食べかけ嫌だったな。うん、悪い……」
ネールの困惑ぶりをみて、そろり、とパンを引っ込める。『俺は一体何をしているんだ?』とようやく思うが、今はそれどころではない。
どうにも、吐き気が収まらない。まるで異物か何か……毒でも口にしてしまったかのような状態だ。
だがどうせ、これも毒など入っていないのだろう。問題があるのはランヴァルドの方だ。それは分かっている。分かっているのだが……。
……どうも、ランヴァルドは自分で思っていたよりも、駄目になっているらしい。
人間はものを食って生きる。食べたもので血肉を作り、体を動かすのだ。
ものを食わねば、体は弱る。特にこれから寒さも魔物もある北端へ向かうというのにこの有様では、まずい。
だがどうにも、ものを食うのが難しい。毒を盛られて血を吐き、食堂の床に倒れたあの日が脳裏を過ぎって……あの時の苦しみを、体が勝手に思い出す。
「……くそ」
分かってはいる。『いつまで引きずってるんだ?』とも思う。だがままならない。
仕方なしに、ランヴァルドはパンを食うことは諦めた。その間、ネールが黙々とパンを食べている様子を見守ることにする。
……ネールも時々、ちら、とランヴァルドを見ては、どこかしょんぼりとした様子を見せていた。……このパン、不味いのだろうか。生憎、今のランヴァルドには味がよく分からないので何とも言えないが……。
そうしてネールを見守っていると、ネールはやがてパンを食べ終え、水筒から水を飲み……そして、小ぶりな林檎を取り出した。そういえば、パンと一緒に林檎も入っていたのだったか。
……眺めているだけではどうしようもない。ランヴァルドも自分の分の包みに入っていた林檎を取り出して、何とかこれだけでも食べてみることにする。……人の手の入っていない丸のままの果物は、多少、食べるのがマシに思えるので。
しゃり、と林檎に歯を立てて一口分、齧り取る。……咀嚼している内に吐き気がこみあげてきたが、無理矢理押さえて飲み込んだ。
……そのまま少し、落ち着くまで待つ。そうしていると、口内に残る林檎の味が少し、分かってきた。
味は薄い。酸味が強い。だが、まあ、悪くない。
「よし……いける」
ひとまず、これなら腹に収めることができるだろう。最悪の事態はなんとか免れた、だろうか。
小ぶりな林檎1つでは足りないだろうが、それでも何も腹に入れないよりはマシに決まっている。意気込んだランヴァルドは、また一口、林檎を齧り……。
「……ん?どうした、ネール」
また林檎を飲み込んだ後。ネールが目を輝かせてこちらを見ていることに気づいた。妙に、嬉しそうである。何かあったのだろうか。
不思議に思っていると、ネールが動く。ネールは、ネールの分の林檎を差し出してきていた。
「いや、それはお前の分だぞ、ネール」
気を遣わせたか、と思いつつ、努めていつも通りにそう言ってやれば、ネールは少しばかり考え……そして、身を乗り出して、ランヴァルドが脇に置いておいたパンを手に取ると、代わりに、そっ、と林檎を置いていった。
「……交換か?」
尋ねてみれば、ネールは『その通り!』と言わんばかりに頷いて、そして、さっさとパンを食べ始めてしまった。
ネールは一口が小さい。一生懸命にパンを食べていても、ちび、ちび、としか減っていかない。だが、ネールは食べる。食べる。……とても元気だ。
「まあ、お前がいいなら……うん」
ネールを見ていたら多少、吐き気がマシになってきたような気もする。ランヴァルドは『気を遣わせたか』と申し訳なく思いつつも、林檎を2つ、なんとか腹に収めるべく奮闘するのだった。
馬車は進む。そして、途中の宿場で橇に乗り換えた。
「ああ、ネール。橇は初めてか?」
雪の上を滑る橇に目を輝かせるネールを見て、ランヴァルドは『まあ、初めてだろうなあ』と思う。ジレネロストの方では、移動のために橇を使うほどの雪は降らないだろうから。
「こっちの方じゃ、一年の三分の一は雪、ってところだからな。雪が積もって馬車の車輪が動かないくらい雪が積もったら、こうやって橇を使うんだ」
橇を牽くのは、狼の血を引く犬である。橇を牽くために掛け合わせた品種で、彼らは雪の上でもよく走るのだ。ネールはこの犬にも夢中なようである。休憩になったら、少し触らせてやってもいいかもしれない。
「……まあ、こっちの方の景色は、お前には珍しいよな」
橇の上から少しばかり周囲を見回せば、北部特有の景色がある。
白銀の雪に覆われた大地。立ち並ぶ針葉樹にも雪が降り積もり、葉を落とした木には吹き付けた雪風によって樹氷が生じている。そしてそれらがきらきらと煌めいて、眩しい。
「お気に召したんならよかった。ま、楽しんでってくれ」
ネールが頬を上気させながらこくこくと頷くのを撫でてやりつつ、ランヴァルドも久しぶりの景色に多少、気持ちが落ち着くような、そんな心地であった。
……なんだかんだ、この土地は、嫌いではないのだ。嫌な思い出もあるが、良い思い出も沢山あるので。
太陽が傾き、木々の影が長くなる。
その中を走る橇の上、ランヴァルドは、確実に近づいている『何か』の気配を感じ取っていた。
「……近いな」
ランヴァルドがそう呟けば、隣でネールがこくりと頷く。ネールにも分かるのだろう。この、濃い魔力の気配が。
「魔物の大量発生、となると……まあ、古代遺跡があるんだろうからな。気合入れていくぞ、ネール」
ネールが再びこくんと頷いたのを見て、ランヴァルドは改めて、前方を見据える。
白い雪の上、夕暮れて黄金色に色づいた光が眩しい。木々の影は青く見え、時折吹き荒ぶ風に舞い上げられた雪が、ちらちらと輝いて宙を彩る。
……そして、そんな雪の向こう側。
喧騒が、近づいてくる。
いよいよ、前線だ。
「ネール!行け!」
ランヴァルドがそう声を掛ければ、ネールはこくりと頷いて、走る橇のその勢いのままに宙へ跳んだ。
ネールが跳んだ先には、魔物が居る。白銀の毛皮と鋼のような牙を持つ……銀狼と呼ばれる魔物だ。その群れが、ファルクエークの兵士達を襲っていた。
兵士達は、見るからに劣勢だった。だが……ネールが鳥のように宙をやってきた途端、戦況がぐるりと一変する。
銀狼がまとめて3体ほど、倒れる。
目にもとまらぬ、まるで風のような所業だ。だが、3体やって、4体目を片付けても、尚、ネールは止まらない。
兵士達が唖然とする中、ネールは次々に銀狼を屠っていき、遂には、兵士達を襲っていたそれらを全て、片付けてしまった。……その間、ほんの1分程度の出来事である。
「よし、よくやったな、ネール。……さて、負傷者は出てきてくれ!こっちは治癒の魔法を使える!腕は良くないがな!」
ランヴァルドが声を上げれば、銀狼と戦っていた兵士達の中から数名、おずおずと出てくる者がある。銀狼に噛みつかれたと見えて、手足に酷い咬み傷があった。中には、千切れかけたそれらもあり、ランヴァルドは『惨いもんだ』と顔を顰める。
ランヴァルドの腕では、すぐさま彼らを全快させてやることはできないだろう。流石に、ここまでの重傷を治すには、腕も魔力も足りないのだ。
だが、だからといって怯むわけにはいかない。
「痛みも酷いだろうから、順番に少しずつ治すぞ。悪いが、完治はできないものと思ってくれ。だが、絶対に死なせない。それは約束する」
ランヴァルドは負傷兵らにそう声を掛けると、彼らと目を合わせて笑いかけた。できる限り、自信を見せてやれるように。彼らを、安心させてやれるように。
「ネール!お前は近くの魔物を片付けてきてくれ!奴らが今こっちに襲ってきても、逃げることすらままならないんでな!」
そしてネールに声を掛ければ、ネールは『任せろ!』というかのように堂々と胸を張って笑い、ぴょこ、と跳ねていってしまった。……数秒置いて魔物の叫び声が聞こえたところを見ると、早速1匹仕留めたらしい。大した英雄様である。
「さて……じゃ、こっちもやるか」
ネールの奮闘ぶりに励まされるようにしながら、ランヴァルドは早速、治癒の魔法を使い始める。『どこまでやれるかは分からないが全力は尽くすぞ』という覚悟で。
ランヴァルドはそれからしばらく、ひたすらに治癒の魔法を使い続けることになった。
……何せ、負傷兵は多い。治療されて動けるようになった者達がまた別の負傷者を運んでくるものだから、負傷者の列が途絶えることが無いのだ。
何度目になるか分からない治癒の魔法を終えた後、ふと顔を上げれば、兵士達の怒号や悲鳴に混ざって、剣戟めいた音が聞こえる。剣や槍と、魔物の牙や爪がぶつかり合う音なのだろう。銀狼をはじめとして、爪や牙が並大抵の生き物のそれではない魔物が多いと見える。つまり、厄介だ。
人も魔物も相当に血を流しているらしく、ふと風が吹けば血生臭さが濃く感じられた。この臭気にも、もう少しすれば慣れてしまうのだろう。
まあ、つまり、ここは戦場なのだ。四の五の言っていられない状況が、ここにある。
「よし……次。ああ、これは酷いな。まあ、命は助かるようにする。傷痕は諦めてくれ。悪いな」
ランヴァルドはまた目の前の負傷兵へと意識を戻し、治癒の魔法を使うべく集中し始める。
……尽きそうな魔力を無理矢理搾るようにして、何とか魔法を形にしていく。そうしないわけにはいかない。何せ、ここにはランヴァルドが諦めた途端、命を落とすファルクエークの民が数多居るのだから。
それに……ランヴァルドが諦めさえしなければ、なんとかなるのだ。
「魔力が溢れてて助かるぜ。全く……」
……魔物が大量発生しているということは、魔力が濃いということである。即ち、ここにある空気も、積もった雪も……全てが、低品質の魔石のようなものであると言える。
それらから魔力を搾り取るようにすれば、まあなんとか、魔法を使い続けることができる。
無論、効率はすこぶる悪い。そして何より、限界はある。この素晴らしい無限にもなり得るはずの魔法の代償となるものは、ランヴァルド自身の疲労……精神の摩耗だ。
「まだ痛むだろうがこれで勘弁してくれ。じゃあ、次」
ランヴァルドは霞む視界を元に戻すべく目を瞬かせて、また、魔法を使う。
じわり、と精神が摩耗するような感覚を覚えながらも、まだ、魔法を使う。
……大して得意でもない魔法を、使い続けた。
負傷者の列は途切れない。
先は、見えない。
ゆさ、と揺すられて、ランヴァルドは意識を取り戻した。
「っ……と、悪い。ちょっと寝てたみたいだ。ええと、次の負傷者は……」
飛び起きて、そしてすぐ、ぐわり、と回る視界に顔を顰めつつ辺りを見回す。……だが、そこにある光景は、負傷兵の列ではなく、軽症にまで治癒された負傷兵達が休憩している様子であった。
「ああ……全員一通り治したんだったか……」
そうして現実を理解したところで、ランヴァルドは再び倒れ込んだ。
まあ、分かり切ったことである。魔法の使い過ぎだ。どうも、最後の負傷兵を治療したところで限界が来て、ぶっ倒れたらしい。ランヴァルドは『意識を飛ばすなんてな』と苦く思うが、一方で『まあ、俺にしちゃ上出来だ』とも思う。
ランヴァルドの技量と魔力……そして少々の小細工だけでこれだけの数の兵士をなんとか治すことができた。快挙だ。紛れもなく、快挙である。
そして、兵士達が助かった一因として……間違いなく、ランヴァルドを今揺すり起こした英雄の存在があるだろう。
「悪いな、ネール。そっちは大丈夫だったか?」
ランヴァルドが倒れていたせいで、ネールは酷く心配していたらしい。ランヴァルドは『どうも、心配させてばっかりだな』と苦笑しつつ、ネールに怪我が無いことを一通り確認した。
「ああ、うん、無事か。そうだろうな。まあ、お前だもんな。よしよし、偉いぞ」
そうしてネールの頭を撫でてやれば、ネールはようやく安堵したように笑みを浮かべた。……ふと唐突に、『父上によく頭を撫でられていたな』と思い出す。だからといって、何があるわけでも、ないのだが。
「……少し寝たら多少魔力が戻ったな。よし、確か目立つところに負傷した奴が居たと思うが……ああ、そこの君だ。もう少し傷痕をマシにできると思う。来てくれ」
さて、とランヴァルドは立ち上がり、先程治した記憶が朧げにある負傷兵の1人に声を掛けた。彼は顔面に大きく魔物の爪痕が残ってしまっている。目や鼻の機能は何とかしたが、形まではどうにもできていない。だが、もう少しばかりランヴァルドが気力を振り絞れば、もう少しばかりはマシにできるだろう。
寝ていた時間は大した長さではなかったのか、魔力は然程回復していないように思えた。だが、全く回復していないというわけではないはずである。ランヴァルドは『とりあえずこれが終わったらぶっ倒れていいんだから』と自分に言い聞かせて、治癒の魔法を使う。
そうして負傷兵の顔面の傷を、『傷が残っている』という程度にまでなんとかしたところで……いよいよ、気力が尽きた。もう何もできそうにない。
「またちょっとぶっ倒れるから……負傷兵が来たら、起こしてくれ……」
ランヴァルドはそう言い残して、負傷兵を寝かせるのに使われていた粗末な敷物の上に倒れる。すると。
「貴方は一体、何者なのですか?」
「あー……」
治したばかりの負傷兵にそう問われるのを聞いて、ランヴァルドはどう答えたものか、と少しばかり考える。
だが結局は、イサクの言葉を思い出して、苦笑交じりにそれを使わせてもらうことにした。
「……王城からの使者だ」




