摩耗*1
「マグナス殿?」
イサクの声が遠く聞こえる。だが、ランヴァルドはもう席を立っていた。
「……すみません。少し、気分が……優れず……」
声が碌に出ないながらもなんとか最低限、退席の旨だけ伝える。最早礼儀作法どころではなかった。
さっさと退室し、足早に廊下を突き進む。使用人とすれ違うこともあったが、それらに気を遣う余裕も無いまま歩き続け……そして部屋に戻って、胃の中身を全て吐き出す。それこそ、かつて毒に体を慣らしていた頃のように。
荒く呼吸しながら、ランヴァルドはぼんやりと思う。
……毒を、盛られたのだろうか。二度も。
だが……それにしては、違和感がある。
「あまり、考えたく、ないな……」
ランヴァルドは掠れた声を吐き出して、しばらくそのまま、蹲っていた。
……只々、嫌な予感を覚えながら。
そのまま、どれくらい経ったのだろうか。それすらも曖昧なほど、ランヴァルドはただ、ぼんやりとしていた。
「あー、マグナス殿。よろしいですかな」
だが、イサクの声とドアを叩く音が聞こえれば、そのままではいられない。
……幸い、手の震えは収まっていた。吐き気ももう、問題ない。
適当にイサクを部屋に入れても問題ない程度にあれこれを整えてから、ランヴァルドはドアを開けた。
……すると。
ぴょこん。
「お、おい、ネール。こら、どうしたんだ」
……ネールが真っ先に飛び込んできて、ランヴァルドにくっつくのだ。これにはランヴァルドも、戸惑うしかない。
ランヴァルドが困惑していても、ネールはまるで離れる気配が無い。
「あー……その、心配かけたな」
まあそうだろうな、と思いつつ、自分の腹のあたりにぐりぐりやっているネールの頭を見下ろして、ため息を吐く。
ネールはさぞかし驚いたことだろう。否、ネールのみならず……ネールの後ろで心配そうにしているイサクとアンネリエも。
悪いことをしたな、と思いつつネールの頭を撫でてやると、ネールがぐりぐりやってくる勢いが弱まり、ネールはただ、ぽす、と大人しくランヴァルドの腹に埋もれるだけとなる。……若干苦しいが、これは仕方ないものとして諦める。
「イサクさんとアンネリエさんも。ご心配をおかけしました」
「いえ……その、大丈夫ですか?お加減は……」
「ええ。今は大丈夫です。少し、疲れが出たようで……」
曖昧に笑って誤魔化せば、アンネリエは『そうですか』と引き下がる。誤魔化されてくれる、ということだろう。彼女とて、ランヴァルドが明らかにおかしいことは分かるはずだ。
これは非常にありがたい。何せ……ランヴァルドは、『自分がどのようにおかしいのか』、未だに分かっていない。
「では、アンネリエ。ネールさんをお部屋へお届けしてください。私はちょっと、マグナス殿と明日の打ち合わせを」
イサクがそう言って笑えば、ネールは『まだ眠くない』というような、少々不服そうな顔をした。だが、ランヴァルドが『明日は早いぞ。今日はしっかり寝ておくんだ』と言ってやれば、『成程そういうことか』とばかり、頷いた。
「畏まりました。……では、おやすみなさい」
「ええ。ごゆっくり。……ネールも。しっかり毛布被って寝るんだぞ」
アンネリエがネールの手を引いて部屋を出ていく。ランヴァルドとイサクはそれをのんびりと見送って……さて。
「では、簡単に料理を調べた結果ですが……」
「はい……え?」
イサクが声を潜めるのを聞きながら、『ああ、本当に優秀な御仁だな』と心底平服するしかない。
イサクはどうやら、ランヴァルドが食事に毒を盛られたのではないか、ということを真っ先に疑い、その調査をしてくれたらしい。
「ははは。調べたと言っても、大したものではありませんよ。ただ、私自身が食べてみたというだけで」
「えっ!?」
しかも、調査の方法がかなり命知らずである。ランヴァルドは思わず青ざめたが、イサクは穏やかに笑うばかりである。
「ご心配なく。料理自体というよりは、私がマグナス殿の分を食べようとした時の領主様の反応を見たのです」
「ああ、そういうことでしたか……」
成程、そういうことなら納得がいく。要は、もし本当に毒が盛られているのならば、アルビンが止めに入るはずだ、と。流石に、王城の使者を、自分が開いた会食の場で死なせるわけにはいかないのだから。
「まあ、実際に食べもしましたが」
「あああああ……」
ランヴァルドは『アンネリエさんの胃に穴が開きそうだ』と思った。つくづく、イサクはとんでもない御仁である!
「そしてその結果ですが……まあ、毒は特に無かったようです。この通り、私は今、非常に元気ですので」
「そうですか。あー……」
そして、ランヴァルドの分を食べてみたイサクがピンピンしている以上、食事に毒など盛られていなかった、ということになる。
少なくとも、『一口目ですぐに吐き気を覚えるほどの毒』はどこにもなかった、と言えるだろう。
そう。毒ではなかった。ということは……。
「……単に、俺自身が食事を受け付けなかっただけ、ということですね」
やはり、おかしいのは食事ではなく、ランヴァルドであるらしい。
+
ネールは1人、ベッドの中で思い出す。
それは、ここへ来る途中……王都からファルクエーク領までの道中で立ち寄った、『林檎の庭』でのことだ。
『林檎の庭』で食事を摂って、ヘルガに『今のファルクエークの状況について、何か情報は入っているか?』とランヴァルドが尋ねて、特に何も情報は無くて……その後。
ネールはアンネリエと同じ部屋になったのだけれど、ちょっぴり落ち着かなくて、ヘルガにご挨拶してこようかな、と、1人、食堂へ向かったのだ。
するとそこでヘルガがネールを見つけて、『ちょっといい?』と手招きしてくれた。ネールは素直についていき……厨房の中に入れてもらって、そこでお茶とビスケットを『ランヴァルドにはナイショね!』と、ご馳走になって……そして。
「ネールちゃん。これから、ファルクエークに行くんでしょ?」
ヘルガはそう、ネールに話しかけてきた。なのでネールは、『その通り』と頷く。するとヘルガは少し迷ったような顔をして……曖昧に笑った。
「なら、ランヴァルドのこと、気を付けて見ててあげてほしいの」
ネールが首を傾げていると、ヘルガは『どこまで言っていいかな』というように悩んでいた。なのでネールは、『全部どうぞ』と堂々と頷く。それを見てきょとんとしたヘルガは、やがて笑いだして……。
「……あいつ、ファルクエークの出身なんでしょ?」
そう言った。
そこでネールは思い出す。『そういえば、ランヴァルドはヘルガには故郷のことも、お家のことも内緒だったんじゃないだろうか!』と。
「あいつの顔見てれば分かるわ。なんだか浮かない顔してたし……うん」
が、ヘルガはそんなネールの横で何とも言えない顔をして、頷いている。成程、ヘルガは素晴らしい観察眼の持ち主だ。これなら仕方ないね、とネールは納得した。
「それでね、ネールちゃん。……あいつ、10年前に家を出て、ここまで逃げてきた訳なんだけれど……その後、高熱が出てずっと寝込んでたのよね」
うん、と頷いてネールは聞く。ランヴァルドがファルクエークの家で毒を盛られて、それから逃げてきて……それで、ここでお世話になっていたことは、聞いている。
「……その間、寝てる時はずっと魘されてたし、起きたら起きたで、全然、物が食べられなかったの」
……うん、とネールは頷いて、少ししょんぼりする。当時のランヴァルドはどんなにか辛かっただろう、と思って。
それから……今も、ランヴァルドは時々、魘されている。最近はあんまり見ないけれど。
「水はなんとか飲めてたんだけど、スープは駄目でね。お茶も駄目で……丸のままの果物とか野菜とか、そういうのだけはなんとか食べられたから、ひたすら林檎食べさせてたんだけど……それじゃ体が弱る一方でしょう?」
ネールは聞いていて、ちょっと辛くなってきた。ああ、その時のランヴァルドを助けられたらいいのに……。
「ランヴァルドもそれは分かってたみたいでね……あいつ、何て言ったと思う?」
が、ヘルガがそう聞いてきたので、ネールはしょんぼりしていられない。ちょっと考えて……首を傾げた。すると。
「『酒をくれ』よ。……信じられる?」
……ヘルガがとんでもないことを言うものだから、ネールはびっくりした!
お酒!スープも飲めないくらい弱ってた時に、お酒!びっくりである!
「でね?病人にお酒なんて飲ませられるわけないじゃない、って言ったら、『前後不覚になるまで酔えば、多分食べられるから』って……うん……」
ネールがびっくりしていると、ヘルガは少し言葉を濁らせて、少し考えて……。
「……まあ、つまり、ランヴァルドが食べ物を受け付けなかったのって、体調が悪かったからじゃなかったみたいなのよね」
「今でこそあいつ、普通にものを食べるようになったけど、しばらくの間はずっと、お酒で誤魔化しながら食べてたわ。或いは、あいつが高熱か寝起きでむにゃむにゃしてて、かつ魘されてない間にスープだけ飲ませちゃうとか。熱が下がってもしばらくはそんな調子で……やっと、お酒抜きでパンとスープが食べられるようになって……お肉は最後だったな」
ヘルガは思い出すようにそう言って、お茶のカップを手で包んで……でも、お茶を飲まずに、ただ手をあっためるだけ。
「聞いても、あいつは何も話さなかったけれど……えーと、例えば、こう、ものを食べるのが怖くなるようなことが何か、故郷であったんじゃないかしら」
少し悩むようにそう言って、ヘルガはようやく、思い出したようにお茶を飲んだ。ネールも飲む。ちょっぴり甘い香りのする美味しいお茶だ。リンゴの皮が入ったお茶なのだと、ヘルガが前に教えてくえた。
……そして、ネールは知っている。
ランヴァルドが、家を出る前……毒を盛られたことを、知っている。
「だから、まあ……ちょっと気にしてあげてほしいの。……ごめんね、こんなお願いして。何も無かったらこんな話、忘れていいわ」
ヘルガがそう、申し訳なさそうに言うのを聞いて、ネールは『任せて!』と堂々と胸を張る。するとヘルガは安心したように笑顔になってくれた。
「そうね。ネールちゃんなら頼りになるわ。よろしくね!」
ネールは、うんうん、と大きく頷く。頼りにされます!
……と、まあ。
ネールはヘルガから、そんなお願いをされたのである。
そして今日……ランヴァルドはやっぱり、ものを食べられなかった。
ヘルガが言っていたことを思い出す。『ランヴァルドが食べ物を受け付けなかったのって、体調が悪かったからじゃなかったみたいなのよね』と。
……ランヴァルドはこっちに来てから、様子がおかしい。ネールの前では大丈夫なふりをしてみせてくれるけれど、きっと、大丈夫じゃない。
当然だと思う。ここはランヴァルドにとって……殺されかけた場所で、裏切られた場所だ。
そして、ランヴァルドを裏切った人達が、ここに居る。
……家族に裏切られる気持ちは、ネールもちょっと、分かる。最近、体験したばっかり。
勿論、ネールはそんなには辛くなかった。だって、ランヴァルドがいたから。だから、辛かったことより、その後の幸せだったことの方が強かった、と思う。
でも、ランヴァルドがここで殺されかけた時……ランヴァルドは、一人ぼっちだったのだ。ずっとずっと、一人ぼっちだったのだ。
……辛かっただろうな、と思う。だから、今も辛いんだろうな、とも、思う。
ああ、その時のランヴァルドを助けてあげられたら、よかったのに。
過去には戻れない。一度、深く傷ついてしまったものは、もう、元には戻らない。
……ネールは、己の無力を嘆きながら、毛布にしっかり包まって体を丸める。
せめて、ランヴァルドが今晩、ぬくぬく過ごしてくれていれば、いいのだけれど……。
+
翌朝。
ランヴァルド達は、早速出発した。
目指す場所はファルクエーク領の北端……今、魔物が発生しているという、その場所である。
朝一番に出ても、到着は昼を過ぎ、夕方に差し掛かった頃になる見込みだ。だからこそ、さっさと出発できたのはありがたい。……ランヴァルドは、あの家にあまり長居したくなかったので。
そのため、朝食も包んで持ってきた。あの家で食べるよりはマシだろう、と思われたので、こうなったのはありがたい。
「マグナスさん。お食事です。ネールさんの分も」
「あー……ありがとうございます」
休憩中、馬車を停めていると、アンネリエがやってきて包みを2つ置いていった。ランヴァルドの隣からネールがひょこ、と乗り出して、包みを1つ持っていく。
簡素な紙包みを開けば、パンにハムやチーズを挟んだものだった。それに、小さめの林檎が1つついている。
……ランヴァルドは少し迷いつつ、パンに齧りつく。
咀嚼する。
……咀嚼する。
そして、飲み込めない。
……これは、厄介なことになった。




