望まれなかった帰郷*2
何を言うか散々考えていたはずなのに、何も言葉が出てこない。
喉が渇いて、声さえ忘れてしまったように思える。
俺はこんなに口下手だったか、とどこか遠く思うものの、それだけだ。ランヴァルドは只々、凍り付いたように動けないままである。
暫し、そのまま見つめ合った。驚愕に目を見開いた義父と母と、ランヴァルドと。
その間に居るイサクとアンネリエ、そしてネールがただならぬ雰囲気に戸惑っていたが、それを気遣う余裕すら無い。
只々、ランヴァルドは『何か言うことがあるだろう、何か』と考え続けていたが、何も思いつかないまま、永遠とも思える時間が流れ……。
「……ランヴァルド、なの、か……?」
「はい」
……凍り付いた時間を動かしたのは、義父……アルビン・ニクラス・ファルクエークであった。
彼は、記憶にあった時より大分老けた。ランヴァルドの父にもよく似た、鳶色の髪には白髪が大分混じっている。それから、やつれてもいるだろうか。これは、ここ数日で魔物の対処に追われているからだろうが。
……少なくとも、ランヴァルドの父より若く、情熱的であった叔父の姿とは、大分変わった。
叔父はランヴァルドを見て、驚いて、青ざめて……そして、じわり、と滲んだ汗を拭いながら、ぎこちなく笑みを浮かべた。
「そうか……いや、驚いた。まさか、王城の使者として、帰ってくるとは……」
歯切れの悪い言葉に、泳ぐ視線に。ランヴァルドはそれらを、擦りガラス越しに眺めるような気分でただ見つめる。
「ま、まあ、何はともあれ、よく帰ってきた。歓迎しよう。さあ、長旅で疲れたことだろうし、中へ……」
「お気遣い、感謝いたします」
只々気まずそうな叔父がうわべだけの歓迎の意を述べるのを聞いて、ランヴァルドはただ、定型句を返すことしかできない。
……ちら、と見た母は、ランヴァルドを見ていなかった。彼女はどこへともなく視線を落として、ただ、じっとしている。
母は、叔父よりは10年前に近いだろうか。北部では珍しい黒髪も、ランヴァルドとはあまり似ていない顔立ちも、記憶にあるものと近しい。
だからこそ、彼女に話しかけてやりたい気持ちは、あった。何なら、ここで詰ってやればよかったのかもしれない。『よくも毒を盛ってくれたな』と、イサクやアンネリエの前で暴き立ててやればよかったのかもしれないのだ。
が、どうにも声が、出ない。
『ネールじゃあるまいに』とランヴァルドは自嘲してみるが、それでもどうすることもできない。
心臓が厭に速く脈打つ。視界が妙に狭くなったような感覚だ。そして、只々、体が冷え切っている。
……結局、ランヴァルドは、母と何の言葉も交わさずに、自分の家であった場所へ踏み入った。
そこからも、一悶着あった。
というのも、『王城からの使者の面々には客間を用意しているが、ランヴァルドを客間に通すのは失礼に当たるのでは』と考えた家臣達が、大慌てでランヴァルドの部屋であった場所を片付けたからである。
ということで、イサクとアンネリエとネールは一部屋ずつ客間を割り当てられ、護衛の兵にも2人に1部屋程度の好待遇で客間が割り当てられ……そして、ランヴァルドは、かつて自分が過ごしていた部屋で寝泊まりすることになった。
……正直なところ、『俺は客間でいいんだが』という思いでいっぱいなのだが、家臣が『ランヴァルド様がお戻りになったのだから』と張り切って準備をしているのを見て、止めることもできなかった。色々と考えていてぼんやりしていた分、家臣達の動きに気付くのが遅れた、ということもある。
そうしてランヴァルドは10年ぶりの、自分の部屋の中で……部屋の中を見回して、ため息を吐く。
部屋は、概ねランヴァルドが出てきた時のままであるように思う。
埃も無いところを見ると、さっきまでの急ごしらえで掃除したものとも思えない。となると、使用人達がこの10年、ずっと掃除してくれていたのかもしれない。
……いくらか、部屋から無くなっているものもある。
机の横に小さなキャビネットがあったのだが、それは丸ごと消えていた。元々は父が執務室で使っていたものだったので、義父が持っていったのかもしれない。
それから、亡き父の書斎から持ち出していた本が数冊本棚にあったはずだが、それらは消えている。主に領地経営の為の書であったので、こちらも義父か、或いは母か弟かが持ち出したのだろう。
金目のものは、元々無い。ほとんど、ランヴァルド自身が持ち出したので。
……他にも色々と差異はあるのだろうが、何せ、ランヴァルド自身がこの部屋のことなどもうほとんど忘れかけている。これ以上の変化は思い出せそうにない。
だが……懐かしい。それだけは、思う。
そしてそれと同時に、思い出したくないことばかり思い出されるような心地であった。
このベッドの上で、毎晩少量ずつ毒を摂取していた。あの時の地獄のような苦しみは二度と味わいたくない。毒の分量と自分の体力を見誤った時には、そこのタライに吐き戻しては自分で片付けていたが、あれも惨めな思い出である。
この机に向かって、毎日勉学に励んでいた。それくらいしか、できることが無かった。その間、弟は何をしていたのだったか。
壁に貼った大地図を見て、逃走経路を考えた。これは役に立ったか。なんとかハイゼル方面へ逃げよう、と思っていたのが功を奏して、ランヴァルドは今、こうして生きている。
あの木剣は、幼い頃に剣術の鍛錬用にと使っていたものだ。これは本当に無駄だったな、と今になって思うが。
……思い出すに、どうも、苦しいものばかりである。
こうなるなら客間に泊めてもらうべきだったな、と心底思いながら、ランヴァルドはしばらく、自分の部屋でぼんやりと過ごすことになった。
……こうしているとどうにも、かつての自分のことばかり思い出される。父が死んでから、この部屋がランヴァルドの唯一の領域であったように思う。それでもここに居ると碌なことを思い出さないのは因果なものだが。
「……ここに毒をしまっておいたんだったか」
机の引き出しを開ければ、ごく軽い抵抗のみで、引き出しはさっと開いた。当然だ。以前とは異なり、ここにはもう、毒の類が保存されているわけでもない。
……母の様子を見て、毒を飲むことを決意したあの日以来、ランヴァルドが家を出るまでの間……この引き出しには、種々雑多な毒物がしまわれていた。ここにしまわれていた瓶を毎夜取り出しては、その中身を一滴ずつ水に垂らして飲んだ。
初日は酷いものだった。胃が空っぽになってもまだ吐き気は止まらず、朝になっても眩暈が酷く、結局あの日は一日、寝て過ごしたのだったか。
そして、眠れもせず、ただベッドに体を横たえていただけのランヴァルドの耳には、中庭で無邪気に遊ぶ弟と、母の笑い声が聞こえていた。
……よく覚えている。覚えていたいなどと望んだことはないのに。
旅の疲れもあるのだろうが、ずっとこうしてはいられない。
少しすると、侍従が呼びに来た。……見覚えのない顔なので、この10年で新たに雇われた者なのだろう。それだけに、相手には気まずさのようなものは見当たらない。この方がありがたいな、とランヴァルドは幾分安堵しながら、呼ばれた先……食堂へと赴く。
ランヴァルドが食堂へ向かうと、イサクとアンネリエ、そしてアンネリエと手を繋いでやってきたネールも食堂に現れた。ネールはランヴァルドを見るなり、ぱっ、と表情を明るくするものだから、ランヴァルドとしては苦笑するしかない。
ネールがそっとやってきたのを見て、ランヴァルドは『じゃあ俺の隣の席に着けばいい』と助言してやる。ネールはこくんと頷くと、早速、ランヴァルドの隣の席になるであろう箇所に陣取り始めた。
「お待たせしました。では、報告を……」
そうしていると、アルビンがやってくる。アルビンはそう前置きすると、貴族らしく一礼して、席に着いた。同じく、アルビンの後ろについてやってきた母もまた、合わせて一礼して、席に着く。
「まずはご紹介を。私はファルクエーク領主、アルビン・ニクラス・ファルクエークです。そしてこちらは、妻のアデラ・エレン・ファルクエーク。息子のオルヴァーは現在、兵を率いて北端の地に赴き、魔物の制圧指揮にあたっています」
知っている名前を聞きながら、ランヴァルドは『ああ、オルヴァーが前線に出ているのか』と納得する。
……かつて幼かった弟の姿は、少しばかり気になっていた。10年を経て弟は、かつて家を出た時のランヴァルドと同い年になっているはずだ。あの頃は無邪気に懐いてくれていたように思うが、今もそうであってくれるだろうか。
同時に、母が落ち着かな気にしている様子を見て、ああそうだろうな、と納得する。大事な息子が魔物の異常発生のため、前線に出ているのだ。心配にもなるだろう。
「成程。北端の……。北端の状況はいかほどでしょうかな」
イサクが尋ねると、アルビンはうかない面持ちで小さくため息を吐いた。
「先程届いた情報によれば、小康状態にある、と。しかし……消耗戦である、とも、ありました。こちらは兵の負傷もありますが、魔物が途絶える様子が無いのだ、と……」
……成程。どうやら、状況は最悪ではないにしろ、決して良くはないようだ。
「魔物が途絶えない、と?」
「ええ」
イサクの問いに頷き、アルビンは卓の上に視線を落とす。
「……オルヴァーは、親の贔屓目を抜きにしても、優秀な指揮官であり、優秀な戦士です。剣も魔法も、彼以上の者はファルクエークには居ないでしょう」
アルビンはそう言って……そう言ってから、はた、と、ランヴァルドの存在を思い出したらしい。そう。剣も魔法も弟に劣ったランヴァルドのことを。
アルビンはさっと青ざめて、『いや、まあ、その』と意味のない声を漏らす。ランヴァルドを気にしているのだろうが、これでは報告が満足に進まない。ランヴァルドは苦笑しつつ、イサクに向けて話す。
「彼が居ても尚『消耗戦』なのだとすれば、魔物が際限なく湧き出しているからだということは確かでしょう。それこそ、ジレネロストの再来、というのも頷けますよ」
オルヴァーの肩を持ち、アルビンの失言に気付かせないよう言葉を選べば、イサクは『成程、オルヴァー殿はそういう御仁にあらせられる、と』と納得したように頷いた。
「……まあ、そのような状況ですので、至急、王城にご報告した次第です」
アルビンがほっとしたように締め括り、それにイサクは頷いてみせる。
「成程。そういうことでしたら、我々が大いに力になれそうです。……何せここには、竜殺しの英雄、ネレイア・リンドが居ますのでな」
イサクに名を呼ばれて、ネールはきょとん、としながらも、見慣れぬ面々の顔を見て……それから、不安そうにランヴァルドを見た。
ランヴァルドが『ほら、お辞儀』と促してやると、ネールは戸惑いながらも、着座のまま、ぺこん、と可愛らしくお辞儀をしてみせた。
「そ、その子供が……英雄、なのですか?」
「ええ。彼女の功績は国王陛下もお認めになっているところでして……彼女の胸に輝く勲章こそが、その証明です」
イサクの言葉については、ネールも意図が分かったらしく、いつものように胸を張って勲章を見せつけた。これにはアルビンもアデラも、目を瞠る。
「まさか……いや、失礼いたしました。まさか『竜殺しのネレイア・リンド』がこのような人物だとは、思いもよらなかったもので……」
アルビンがなんとも気まずそうにそう言うものだから、ランヴァルドは『ああ、もしかしてアンネリエさんの方をネレイアだと思ってたのか』と納得した。……同時に、『じゃあネールのことは何だと思ってたんだ?まさか俺の子とか……いや、無いな……』と、考えに蓋をした。
それから諸々、北端の状況や支援についての協議が行われ、概ねのところが決定した。
結局のところ、ネールが現地に赴いて、そこで魔物を討伐することになる。
……まあ、心配は無い。『ジレネロストの再来』だというのならば、ネール1人でカタがつくだろう。
ついでに、『どんな魔物もあっさりと屠ることができる英雄と一緒なら補給の馬車も狙われまい!』ということで、補給を少し早めることになったらしい。
まあ、これについても異論は無い。物資の補給や兵の移送のための馬車が魔物に襲われることは、最も避けたい事態の1つだ。安全が確保できるなら、それに越したことは無い。
そして……。
「しかし、貴殿らも北端へ行かれるのですか?」
「ええ、ええ。勿論です。陛下に報告しなければならないものを、どうして自分の目で見ずに報告できましょうか」
「私も、ネールさんほどではありませんが、自分の身を守る程度のことはできます。ご心配なさらず」
アルビンは戸惑っていたが、イサクもアンネリエも、現地へ赴くつもりらしい。ランヴァルドは、『まあそうだろうな』と納得する。ドラクスローガにも直接赴いた人達だ。今回も当然、そうなるだろうと思っていた。
「それに、マグナス殿も行かれるということでしたら多少の負傷の心配は無いでしょうしなあ。彼の治癒の魔法は一角のものですから」
そしてイサクは、そう言って笑う。
……一方のアルビンとアデラは、イサクの言葉に凍り付いていた。
「尤も、マグナス殿のお世話にならないよう、気を付けるに越したことは無いですがな。彼の魔法を待つ負傷兵も大勢居ることでしょうし……」
更にイサクが続ければ、アルビンは気まずげに目を逸らした。
……自分達が追い出した義理の息子に掛けられる期待など、聞きたくはないのだろう。
そして、アデラは。
アルビンとは反対に、ランヴァルドを見ていた。
あの日、ランヴァルドを見下ろしていた目……ランヴァルドが日々悪夢に見るものと、同じ目で。
母の目を見て、堰を切ったように記憶が蘇る。
血の気が引く。
だが、ランヴァルドはなんとか自分を誤魔化した。記憶に蓋をして、何も考えないようにする。
悪夢に魘されて目覚めた時と同じことだ。もう慣れている。
「ま、まあ、何はともあれ、長旅でお疲れになったことでしょう。夜の雪原は移動には不向きです。今夜は是非、ごゆっくりと」
アルビンがそう話を切り上げるのをどこか遠く聞きながら、昂った心臓をなんとか宥める。いつも、これで何とかなるのだ。ランヴァルドはいつものように、徐々に平常心を取り戻し……。
「不作の影響もあり、南部のようにはおもてなしできませんが……北部の伝統的な食事をご用意しました。お楽しみいただければ幸いです」
食事が運ばれてくる。
見覚えのある食器だ。
並べられたカトラリーも皿も、銀でできた上等なものだ。客人用に使う他、祝い事の食卓ではこれを使っていた。
……ランヴァルドの19の誕生日も、この食器を使っていた。
あの時は既に、ランヴァルドは準備を進めていたのだったか。
そして、あの日。
記憶に蓋をするよう努め、意識して呼吸する。気づけば、呼吸は随分と浅く、速かった。
卓の上に並ぶ料理は、北部によく見られるヘラジカの肉の煮込み料理や豆のスープ。ランヴァルドもかつて、これが好きだった。
フォークとナイフを、手に取る。かつて教わったように。
だが、指先が冷えて、感覚が無い。
煮込みを切り分ける。あの時と同じだ。肉は柔らかく、ナイフを入れればすぐに解れた。
焦点が合わない。手が震える。
震える手で、肉を口に運ぶ。味は良い。良いはずだ。毒は入っていないはずだ。だが味が分からない。
咀嚼する。
……飲み込む。
「っ!」
途端、こみ上げる吐き気に口元を押さえ、ランヴァルドは理解する。
……『これはいよいよ、駄目だ』と。




