望まれなかった帰郷*1
南部で春の気配が漂っていたというのに、ここでは空が鉛色だ。
吹き荒ぶ風は冷たい。雪は降ってこそいないものの、積もったものに足を取られて歩きにくい。
「……こういう場所だったな」
ランヴァルドは白い息を吐き出して、故郷の空を見上げた。
ファルクエークへ戻ってきたのは、10年ぶりである。
第六章:氷を喰らい生きる者
ファルクエーク領は、この国の最北東に位置する土地である。
当然ながら、この国のどこよりも寒く、どこよりも春の訪れが遅い。
降り積もった雪が完全に融け切るのは、南部が春真っ盛りを過ぎた後。それまでファルクエークに春は訪れない。それでいて、秋、そして冬の到来はどこよりも早い。
……とはいえ、そうして訪れた短い春と夏は美しく、穏やかだ。短い命を謳歌するかのように花が咲き乱れ、森には獣が走り回る。
蒔く時期を工夫してやれば、麦も栽培できる。秋にはあちこちで金色の麦畑が風に揺れる。
領地の北は海に面しており、よく荒れる海にも負けず、漁師が船を出し、商船が行き交う。
人々が、懸命に生きている。
……ここは、ランヴァルドが生まれ育った土地であり、ランヴァルドが愛した土地だ。
「……懐かしい」
ふと、吹く風の冷たさに目を細めながら、ランヴァルドは思う。
そうだ。この土地を、愛している。今も。
「まあ、流石に様子が変わってるか……」
ファルクエーク領南部の宿場に到着したランヴァルドは、周囲を見て変化に気づく。流石に、10年ぶりの来訪だ。様子が変わっているのは、当然のことではある。
「そうなのですか?」
「ええ。建物が新しくなってる。それに、井戸が新しくなってますね。向こうには畑があったんですが、柵が無いところを見るともうやってないのか……」
ランヴァルドは、アンネリエに話しながら、1つ1つ確かめるように口にしていく。
「よく覚えておいでですね」
「ええ、まあ……」
……よく、父に連れられて領内を巡っていた。この宿場は、その時によく利用していた場所だ。そしてその後も、次期領主として義父に付き従い、何度か訪れていた場所である。
それにしても、よく覚えている。自分でもそう思うランヴァルドは、アンネリエに苦笑してみせた。
「見たところ、このあたりは魔物の被害が無いようですな」
イサクはきょろきょろ、と辺りを見回して、ほっとした顔をしている。
……そう。このあたりは、魔物の被害が無いようだ。少なくとも、『領地全体がジレネロストの二の舞』ということはなさそうである。王城で受けた報告から想像した被害状況は、過大なものだったかもしれない。
「そうですね……すみません、もう少し情報を待ってから出発すべきでした」
「いやいや!故郷が魔物に襲われている、と聞いて慌てて飛び出す気持ちは分かります。それにやはり、多少大げさで勘違いだったとしても、初動は早い方がいいですからね」
今回、王城での報告を受けた直後、ランヴァルドとネール、イサクとアンネリエ、そして彼らの護衛の兵数名、という一団が大慌てで出発することになったのは、ランヴァルドの判断があったからだ。
あの時は『古代人が何かした可能性が高い』『古代遺跡への対処は早ければ早いほど良い』などと適当に理由を付けて飛び出してきたが……結局のところ、ランヴァルドが『被害が出たのがファルクエークだから』急いだ、というだけにすぎない。
「それに、無事ならよかった。もし報告が全くの嘘だったとしても、それはそれで喜ばしいことではありませんか!」
「……ええ。そうですね」
ランヴァルドはイサクへの申し訳なさと同時、ちら、と思う。
……俺は本当に、ここが無事であったことを喜んでいるのだろうか、と。
いっそ滅んでいてくれたら、と、ちらとでも思わなかっただろうか、と。
一晩、宿に泊まった。
ランヴァルドはフードを目深に被って、アンネリエが宿をとるのを後ろから見ているだけにとどめた。
……領民の中には、ランヴァルドのことを知っている者もいる。10年前、まだ18の頃のランヴァルドを知る彼らは、今のランヴァルドを見てどう思うだろうか。
そう思ったら、彼らの前に堂々と顔を出すことなど、できない。
ネールはそんなランヴァルドを見上げて少し首を傾げていたが……やがて、宿の客の目からランヴァルドを守るかのように、ランヴァルドの前に立つようになった。
堂々としているネールを見て、ランヴァルドは思わず苦笑する。宿の手続きを終えて戻ってきたイサクとアンネリエも、ネールの様子を見てにこにこするばかりだ。
ランヴァルドはネールに少々感謝しつつ、戻ってきたイサクとアンネリエと共に、宿の部屋へと向かうのだった。
部屋は、ネールとアンネリエで一部屋、ランヴァルドとイサクで一部屋。そして護衛の部屋が一部屋、である。
アンネリエはイサクと同室になることに少々抵抗があるらしく、また、ランヴァルドとしては『ネールにもそろそろ俺のベッドに潜り込む癖を直させた方がいいだろうしな……』という思いがあるので、この部屋割りには大いに賛成である。
そういう訳で、ランヴァルドは部屋に入って荷物を下ろし、同じく荷物を下ろしたイサクと向き合い……。
「やはり、久しぶりの故郷は気まずいですか」
「え」
イサクにそう問われて、思わず固まる。
「……まあ、そうですね」
が、固まったのはほんの一秒程度だ。何か、偽る必要があることでもない。ランヴァルドは素直に、そう答える。
……イサクには、細かな事情など話していない。ランヴァルドが毒を盛られたことも、母と義父の再婚も、出来の良い弟のことも、何も話していない。
だがどうせ、この優秀なお方のことだ。ランヴァルドのことなど、調べがついているに違いない。少なくとも、『気まずいのだろうな』と推察する程度の情報は、既に持っているのだろう。
「長らく、留守にしていた故郷です。こうしてきちんと見るのは、本当に久しぶりだ。……だから、負い目はありますね」
さっさと白状してしまった方が良いだろう、と、ランヴァルドはそう告げる。自らを嘲り、イサクにも嘲って欲しいような、そんな気分で。
……だが。
「負い目、ですか?」
イサクは、きょとん、としていた。
それこそ、『一体何を言っているのだ』というかのような。そんな様子で。
そんなイサクを見て、ランヴァルドは気づく。『ああ、俺の考え方はもしかしたら一般的ではないのかもしれない』と。そう気づくくらいの知性はある。だが、『だとしたら、一般的には長らく離れていた故郷に対して何を思うのだろう』ということについては、分からない。
「……まあ、故郷を捨てて逃げ出した、と言われても仕方がないので」
結局、どう答えるのが正解か分からないまま、ぎこちなくそう答える。イサクは『ははあ、まあ、そういうものですかな』と穏やかに笑いながら頷いてくれたが、恐らく、ランヴァルドの感覚と彼の感覚には隔たりがある。そして、『正解』はイサクの方なのだろう、ということは、なんとなく分かる。
「……今更、故郷とどんな顔をして関わればいいのやら、分からないんですよ」
「まあ、それはそうでしょうなあ……うーん、私ならどうするかな……いや、ちょっと考えてみても、そもそも想定することすら難しいですね、これは」
いっそここまで白状してしまえ、とランヴァルドが言葉を吐き出せば、イサクは何とも人の良いことに、考え、首を傾げ、そして苦笑してくれる。
「何はともあれ、一つ確かに言えることは……マグナス殿は、国王陛下より直々に命を受け、ファルクエークへ向かわれるのです。堂々となさっていればよろしいかと」
「そうですね。ああ、そうだったな……」
イサクの笑顔に励まされつつ、ランヴァルドはベッドに腰掛け、深くため息を吐いた。
……堂々と、王命を背負って。
それも中々に、難しいかもしれないが……。
翌日の未明、ランヴァルドは目を覚ました。
というのも、いつもの如く、悪夢に魘されたからである。
まあ、慣れている。意識して呼吸を細く整えていれば、早鐘を打つようだった心臓も荒い呼吸も、じきに落ち着いてくる。
「……最近はめっきり減ってたのにな」
イサクを起こさないよう気遣いながら、小さくぼやいて、息を吐いた。
悪夢には慣れたものだが、ここ最近に限って言えば、そう夢見は悪くなかったのだ。夢を見る余裕すら無いほどに忙しかった、ということなのかもしれないが……。
ということで、まあ、多少、油断していたのだ。心臓も呼吸も戻ってきても、脳裏にはべったりと、過去の出来事をそのまま繰り返したような悪夢がこびりついている。
テーブルクロス。銀のカトラリー。自分が吐いた血と、倒れた先の、大理石の床。そして、自分を見下ろす……。
「……くそ」
望んでもいないのに、頭は勝手に悪夢を反芻する。意識してそれを押さえ込み、何も考えないように努めて、それでも尚、あの日のテーブルクロスとカトラリーが目の前にちらつくように思えて仕方がない。
……結局、ランヴァルドは眠れもしないまま、ベッドの中で横たわっていることになった。
いっそ、首でも絞めて気絶できたらよかったのだが。
朝。
すこぶる元気なネールと、イサクとアンネリエ。それに護衛が数名……彼らは皆、ランヴァルドよりは元気な様子で、しかし全員『いつ魔物が襲ってくるか分からない』と緊張しつつ、ファルクエーク領の中心であるファルカスへと向かう。
……否。2名ほど、別の要因で緊張している者が居るわけだが。
「……あー、ネール。なんでお前が緊張してるんだ」
この中で最も魔物の気配に敏く、そして魔物を恐れる必要のないネールであるが……どうも、彼女は緊張している様子なのである!
「俺はまあ当然だよな?お前が居れば魔物はどうにでもなるだろうが、生家がどうにかなってくれるわけじゃないことだし……いや、なんでお前が緊張してるんだ、ネール」
……少々呆れつつネールを見てみると、ネールはネールで『ランヴァルドのおうち きんちょうする』と書いて見せてくるのだ。
どうも、ネールはランヴァルドの生家が緊張するらしい。不思議なことに。
「……あー、まあ、うん。お前も俺の生家の話は知ってるもんな。そうか。うん……いや、だが、お前が狙われるようなことは流石に無いだろうから、そんなに緊張しなくても……え?違う?」
ネールはなんとも言えない顔でランヴァルドを見つめているのだが、ランヴァルドは『俺が緊張しているからつられて緊張してるのか』と解釈した。
まあ……ネールには居心地の悪い思いをさせることになる。その分、気を遣ってやらなきゃな、とランヴァルドは密かに思い……馬車の外、見えてきたファルカスの街並みを見つめる。
……嗚呼、帰ってきてしまった。
街並みは、どこか忙しない。ここも魔物の侵攻の様子は無いので、『ジレネロストの二の舞』は恐らく、ファルクエーク領の中でも北端……海に面したその地域だけに被害が出ているのだろう。
或いは、『そこまでで被害を抑えられている』と言うべきか。いずれにせよ、詳しい状況は分からないながらも、街を行き交う人々が無事であることに、心から安堵する。
「……よし」
そのままファルクエーク城までは、一本道だ。ランヴァルドは改めて、緊張しながら古城を見上げた。
ファルクエーク家には、『王城から王命を受けた使者数名と、竜殺しの英雄ネレイア・リンドが派遣される』とだけ伝えてある。ランヴァルドがその中に混ざっていることは、まだ知らないはずだ。
……一体、どんな顔をして彼らに会えばいいものやら。
ランヴァルドは只々緊張しながら馬車に揺られる。……そんなランヴァルドの隣で、ネールが心配そうにランヴァルドを見つめていた。ランヴァルドはネールに笑って『大丈夫だ』と言ってやりつつ、『全く大丈夫じゃないな、これは』と思いつつ……次第に近づいてくる生家を、ただ、眺める。
あっという間に、ファルクエーク城へ到着してしまった。
……懐かしい景色だ。
かつて砦として使われていたこの城は、砦ならではの武骨な石造り。華美なところは碌に無く、只々質実剛健を絵に描いたような、そんな城だ。
父がこの城を誇りに思っていたことを、ランヴァルドはよく知っている。この城の姿こそファルクエークの誇りなのだと、聞いて育ったから。
門番とこちらの護衛の兵が何か話をしている。聞き覚えのある声だ。今話している門番は、かつてランヴァルドが共に鍛錬した、当時の騎士見習いなのではないか。
顔を出して確認したい気持ちと、何も見たくない気持ちとの板挟みになって、結局、ランヴァルドはそのまま動けない。
馬車は再び動き出し、城の前庭に入っていき……そして。
城の玄関前。
挨拶の為に出てきている2人の姿を見て、ランヴァルドは体中の血が凍りつくような、そんな感覚を味わう。
一方の2人はイサクとアンネリエにばかり注目していたが、ネールがぴょこんと出てくれば、流石にネールに視線が行き……そして、ようやく、ランヴァルドを見る。
……それでも少しの間、気づかなかったのだろう。だが、彼らが永遠に気づかずに居るには……恐らく、あまりにもランヴァルドの表情が硬かった。
「……お久しぶりです、義父上、母上」
ぎこちなく挨拶するランヴァルドの前で、2人は……ランヴァルドの叔父と、母は。只々、驚愕に目を見開いていた。




