未知と*2
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ネールは、体中の血が凍りついてしまったような思いだった。
ランヴァルドが。ランヴァルドが……血を流して、倒れている!
ネールも慌てて椅子から飛び降りて、すぐ、ランヴァルドに駆け寄る。
……反応は、ある。だが、ランヴァルドは意識が朦朧としているらしく、ネールが揺すってみても、見当違いなところで『だいじょうぶだ』とうわごとのように零すばかり。
『こいつが何かしたのか』と、ネールはテーブルの向かいで中腰になった彼女を睨んだ。だが……古代人であるらしい彼女は、おろ、と狼狽するばかりである。
まるで、ランヴァルドがこうなるのを知らなかったみたいに。
……それから、ネールの頭の中にまた、言葉が注ぎ込まれる。
『魔力酔いかもしれない』と。
魔力酔い。魔力酔い……それならネールも知っている。ランヴァルドはあんまり魔力が濃いところに居ると、気持ちが悪くなったり、眩暈がしたりするらしい。
古代遺跡で調子が悪そうにすることがあるのも、魔獣の森で蹲ったことがあるのも、それだと聞いている。
ネールには覚えのないものであるだけに、戸惑いは大きい。ただ……ネールはなんとなく、『ランヴァルドにも自分より脆い部分があるのだ』と、理解していた。
ネールなどよりずっと大人で、色々なことができて、沢山のことを知っているランヴァルドだけれど……ネールより脆い部分があるのだ、と。その1つがこの、『魔力酔い』だ、と。
ランヴァルドが魔力に酔ってしまっているのならば、魔力の元から離してやった方がいいだろう。
ネールは、駆け付けてくれたウルリカとマティアスにお願いして、ランヴァルドを少しでも魔力の薄いところへ、と、運んでいく。
そこに、古代人の彼女がおろおろと近づいてくると……ランヴァルドが表情を歪めて咳き込んだ。
なのでネールは慌てて、古代人の彼女をぐいぐいと端っこへ追いやることにした。こいつが近づくと、ランヴァルドに良くない。そういうことなのだろう。
何せ……彼女はきっと、魔法で喋っている。ネールの頭の中に言葉がぱっと届くのは、きっとそういう魔法だからだ。
そして、魔法は当然ながら魔力を使っているものである。魔法が沢山のところは、魔力が沢山なのだ。この古代遺跡も魔法の塊だとランヴァルドが教えてくれたが……魔法の塊の中で、更に魔法が使われていたら、それは当然、ランヴァルドの体調が悪くなりもするだろう。
ネールは、ちら、とランヴァルドを見た。
未だ朦朧としている彼の姿を少し遠巻きに見て……ネールは、思う。
……さっき、古代人の彼女は言っていた。ネールに対して、『同種』だ、と。
ネールももし、古代人かその仲間なのだったら……ネールもまた、魔法たっぷりなのだろうか。
ネールが近くに居ない方が、ランヴァルドの体調には良いのではないだろうか。
或いは、そもそも……。
ネールはしばらく、じっと考えていた。
ただ考えて……苦しそうに眉根を寄せたままうわごとを零すランヴァルドを見て、胸が締め付けられるような気持ちになっていた。
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「う……」
ランヴァルドは目を開いた。途端、景色が歪む。ぐるり、と世界が回転するかのような眩暈を覚えて、ランヴァルドは呻いた。
吐き気が酷い。それでいて体が熱くて……だというのに、寒い。
風邪でも引いたかのような具合だった。それこそ、ランヴァルドが生家を出て、冬の北部を身一つで抜けて、なんとか『林檎の庭』に辿り着いて……そのままぶっ倒れた時以来の体調の悪さかもしれない。あの時は本当に辛かったが……今も相当に、辛い。
……だが、今、倒れている訳にはいかないだろう。意識がはっきりしてくるにつれ、ランヴァルドは『俺は何て時にぶっ倒れたんだ!?』と自らを罵倒したい気分になってくる。
古代人だ。そう。古代人が居るのである。この機会を逃すわけにはいかない。
古代遺跡を操作し、各地で異変を起こしている、その張本人を……全ての情報の源であり、『黒幕』と言っても差し支えないであろう、この相手を……みすみす、逃すわけには。
「ああ、ランヴァルド。目が覚めたかい?」
起き上がろうと藻掻いたランヴァルドに、軽薄な声が降ってくる。目を向ければ、つまらなそうにしているマティアスの姿があった。
「まてぃ、あす……古代人は、どう、なった……?」
「あっちで話してるよ。今は拷問吏を通訳にしてるけどね」
マティアスが顎で示した方を見れば、今はテーブルにあの古代人とネール、そしてウルリカが向かい合っているところだった。
「まあ、僕と交代しながら、ってところだね。僕よりあの拷問吏の方が適性はありそうだが……何にせよ、普通の人間が相対し続けていい相手じゃないよ、アレは。流石に僕も魔力酔いが酷い」
「まりょく、よい……」
「ああ……え?もしかして、自分の症状が何かを理解していなかった?」
そうか、魔力酔いか、とランヴァルドは納得した。そう自覚すれば、少しばかり体調がマシになるような、そんな気がした。
ふと見れば、マティアスもまた、少々顔色が悪い。さっきまではマティアスが通訳を務めていた、ということだろう。
見れば、ウルリカも少々辛そうにしている。彼女は彼女で、マティアスより体力はあるだろうが、マティアスよりも魔法の適性は薄いだろう。となると、ウルリカにずっと任せておくわけにもいくまい。
ならばウルリカと交代しなければ、とランヴァルドが動こうとしたその時。
「で……僕も拷問吏もそう長くは着いていられないあの卓に、お前のところの英雄様はずっと居るわけだけれど」
マティアスは何とも興味が無さそうに……その割には、ちゃんと声を潜めて、囁くように言う。
「あれは本当に人間なのかな」
「……人間だ」
ランヴァルドもまた、小さく答えながら体を起こした。
「本当に?魔物の類だと言ってもいいように思うけれど」
「そうかもな。だがあいつは魔物じゃないし、古代人でもない」
マティアスの言葉に根拠もなく返しながら、ランヴァルドは立ち上がってネールが待つテーブルへと戻る。
……途端、魔力を浴びてまた、体が悲鳴を上げる。
そんな中、まるで魔力が堪えていないのであろうネールは、ただ心配そうにこちらを見上げていた。
……この中でどうにも、古代人を名乗る者と……そしてネールだけが、只々、異質だった。
「大丈夫だ」
何が、ともよく分からないまま、ランヴァルドはそう言って、ネールに笑いかける。
ウルリカに『交代しますよ』と声を掛ければ、ウルリカも黙って頷いてそっと去っていった。彼女も限界だったのだろう。
……そして、ランヴァルドがネールの隣に座れば、古代人の声……否、声ではないのであろう『それ』が聞こえてくる。
『他に聞きたいことは?』
……ここまでの経緯が分からないので、ランヴァルドは何とも言えないが。それはそれとして……ランヴァルドは『俺はあくまでも通訳だ』と割り切ってネールの方を見る。
するとネールは、ランヴァルドが用意しておいた紙に、ペンで文字を書いていき……。
『わたしは ネレイア・リンドです。あなたは おなまえ なんですか』
そう書いて、見せた。
……未だ名前すら知らない、よく分からない目の前の相手に。
「あー……ネールはあんたの名前を知りたがってる。『私はネレイア・リンドです。あなたはお名前なんですか』だそうだ」
現代の文字が読めないのであろう古代人にそう説明してやれば、古代人は一つ頷いて……。
『無い』
そう、答えた。
……ネールは困惑している。ランヴァルドはなんとなく予想がついていたような、そんな気分だが。
「名前が無い、ってのは……古代人は皆、そういうものなのか?」
『そうではない。好きに呼んでくれていい』
ネールは困っているが、目の前の彼女の感覚では、ごく自然なことなのだろう。『何故このような説明をする羽目に?』というような顔をされているので、なんとなくそれは分かる。成程、これは通訳が必要だ。全く。本当に。
……ランヴァルドにも通訳が欲しい。そんな気分である。
「あー……もう聞いてたら申し訳ないんだが。あんたは結局、古代遺跡を作動させて、何をしているんだ?」
『世界を戻している』
仕方がないので、ランヴァルドが古代人相手に質問しなければならない。ネールは何か考えているらしく、まるで役に立ちそうにないので……。
「戻す、ってのは……えーと、あんた達が生きていた……いや、あんたは生きてるわけだしな……なんて言ったらいいんだ?その、この遺跡が当たり前に動いていた時代の状態に戻す、ってこと、か?」
『これが無かった時に戻す』
……質問しても、分からないことばかりである。
ランヴァルドにとっては未知であるから、質問しにくい。相手にとってはあまりに当たり前だから、答えにくい。お互いに、相手が何を知っていて何を考えているのかがまるで分らないから、やり取りの仕様が無い。そういうことなのだろう。
こういう相手とは商売がしにくい。ランヴァルドは内心で『参ったな』とため息を吐く。
『あなたは』
そんな中、古代人の言葉が頭に直接叩き込まれる。
……この感覚には慣れそうもない。だが、なんとか耐えて、古代人の薄い色の瞳を見つめ返した。
『それを、望んでいない?』
相手も真っ直ぐ、こちらを見つめ返してくる。
……ランヴァルドは、額を伝う冷たい汗を感じながら、ただ、必死に考えていた。
ここで答え方を間違えたら、全てが終わりかねない。
古代人との会話も、そもそも、彼女から手繰り寄せられる、細い細い情報の糸も。
……そして、世界の命運でさえも。




