水の源*2
「よし、よくやったぞネール!」
ネールが、きゅう、とくっついてくる。
きゅう、きゅう、と一生懸命にくっついてくる様子を見ていると、『心配させたか』と少々申し訳ないような気分になってくる。
ネールは『もう離さないぞ!』と主張するかの如くきゅうきゅうやり続けているので、ランヴァルドは身動きが取れない。
だが、身動きが取れないながらもなんとか手を伸ばしてネールの頭を撫でてやれば、『きゅうきゅう!』はやがて、『きゅう』へ、そして『きゅ……』くらいにまで落ち着いてきた。
ネールが落ち着いてきたところで、ランヴァルドは改めて、町の様子を見てみる。
……そろそろ、雹は止みそうだ。だが、雹由来なのか、魔力が濃く漂っている。ともすれば魔力で酔いそうになるランヴァルドは、顔を顰めてため息を吐いた。
この様子を見るだけでも、この雹の出所もなんとなく、察せられるというものである。
「マグナスさん!お怪我は!」
「ああ、ウルリカさん。大丈夫です。俺もマティアスも無事ですよ」
それからウルリカが追い付いてきた。彼女は彼女で、どこから取り出したのか、短刀を手にしているところである。尚、血は全て返り血だろう。
「それにしても……急に魔物が現れるなんて……」
「そうですね……恐らくはこの雹が間接的な原因でしょう。この雹の材料になっている水は、大量の魔力を含んでいるようですから」
「魔力を……」
氷雪虎が、どんなに少なくとも2体……ウルリカが返り血を浴びているところを見る限りは、更にもう1体以上、出現している。これを可能にするためには、一体どれほどの魔力が必要なのか。
……古代遺跡の最深部と同等の魔力が、今、ここにあるのではないだろうか。
「ま、そういう訳で、できる限りさっさと雹を撤去した方がいいですね。さもないと、際限なく魔物が湧きそうだし……子供には影響が強すぎるでしょうから」
ランヴァルドはそう言うと、雹が降り止んだ空を見上げ、深々とため息を吐いた。
「……ついでに、ネールには町を見てきてもらった方がいいでしょうね。よし、ネール。やれるか?」
ネールに声を掛ければ、ネールは元気いっぱい、ランヴァルドにくっついたまま頷いた。そうして、名残惜し気にランヴァルドから離れていくと、意を決したように表情を引き締め、地を蹴って、家屋の壁を蹴って、そのまま屋根の上に上り……そこからまた、空を飛ぶかのように駆けていった。
あの様子のネールを放しておけば、クロッカの町の平和は保たれるだろう。ランヴァルドは少々安心しつつ……さて。
「じゃ、俺達は雹の撤去を進めましょう。街の人達にも事情を説明して協力を仰いで……ああ、ウルリカさん。申し訳ないが、俺もマティアスも戦力になりません。魔物が出たらよろしくお願いします」
「はい。必ずやお守りします」
こちらはこちらで心配だが、ウルリカが居るのは心強い。なので、碌に戦力にならないランヴァルドとマティアスもまた、安心して作業に従事できるというわけで……。
「やれやれ……僕は宿に戻って寝ていていいかな?」
「雹を片付けたらな。さもないとお前が寝ている間に宿の前に魔物が湧きかねないぞ」
……ランヴァルドはマティアスを引きずるようにして、町の者に道具を借りに行くのだった。
マティアスには悪いが、雹の撤去が粗方済むまで、彼を寝かしてやることはできないのである。
雹の撤去には骨が折れた。
少し触れて、調べてみれば分かったことだが、やはり、雹を構成する氷に魔力が多く含まれていたのである。
これを集めて一か所にまとめてしまうと、そこで魔力が凝って魔物を生み出しかねない。かといって、まとめずに雹を処理するとなると、どこにどうやって、ということになる。
……その結果、『いっそのこと魔物をさっさと出して処理した方が面倒が無くていいですね!』という結論に至った。
魔物が出てくると分かっていれば、ウルリカが十分に対処できる。ランヴァルドとマティアスがひたすら雹を集めてきて、そこで生まれた魔物を、生まれた瞬間にウルリカが半ば不意打ちのように殺す……という方法で、なんとか雹および魔力の処理を進めていったのである。
そうしている内に、ネールも無事、町のあちこちで生まれた魔物を片付けてきたらしい。クロッカの町は、突然の雹と魔物の出現に怯えていたが……同時に、『英雄ネレイア』が勇ましく戦う様に興奮してもいた。
日常や生命を脅かされる恐怖から一転、英雄の勝利を見せられた者達は、その落差によってより一層の安堵と興奮を得る。当然、ランヴァルドがこの機会を見逃すわけがない。
ランヴァルドはネールと共にあちこちを回って、更に人助けを重ねた。こうして『英雄ネレイア』の名と姿を人々の記憶に刻み付けておけば、今後、ジレネロストの隣領であるこのブラブローマでも、何かと有利に立ち回れることだろう。
……と、ランヴァルドがまるで、水を得た魚、風を得た鷹のように働いていたところ。
「……おい、ランヴァルド」
ふと、マティアスが声を掛けてきた。何でもない風を装いながらも、その目は油断なく……向こうの路地裏の方を見ている。
「向こうに例の『ご令嬢』がいらっしゃった」
「は?」
『ご令嬢』ということは、まあ、領主令嬢ソフィーアのことだろう。だが、彼女がこんな路地裏に居る、となると……。
「だが何やら、誰かと一緒だったようなんでね……僕としても『恋人』の浮気を疑うわけじゃないんだが、ちょっと気になるから、見てきてもいいかな?」
……どうやら、今回の黒幕に一歩近付けそうだ。
マティアスが路地裏に入っていくのを、ランヴァルドとウルリカが後ろから追いかける。そしてネールは屋根の上から回り込む予定だ。
マティアスは『浮気現場を押さえる』経験はそれなりにあるので、迷いなく、かつ音を立てずに路地裏を進んでいく。
……そして、そんなマティアスの後を追っていけば、ランヴァルドの耳にも誰かの声が聞こえるようになってくる。
だが……妙だ。
声は聞こえるのに、聞き取れない。確実に会話しているであろうその音が、『言葉』ではなく、『音』にしか聞こえないのだ。
認識を阻害されている。
……そう気づいた瞬間、ランヴァルドはマティアスが言っていたことを思い出す。
確か、ヨアキムの情報屋でステンティールの遺跡の情報を売ってハイゼルの情報を買ったという人物は、自分の容貌を隠すために認識を阻害する魔法を使っていたのだったか、と。
……嫌な高鳴り方をする心臓を押さえるようにしながら、ランヴァルドは尚も進む。そして、ランヴァルドとウルリカより先に現場に辿り着いたマティアスを見つけたその『2人』が、ようやく動き出すのだ。
ふっ、と魔法が掻き消えた気配があった。
「マティアス!?ど、どうしてここに!?」
それと同時、女の声がきちんと、言葉として聞き取れる形で路地裏に響く。……領主令嬢のソフィーアだろう。
「ああ、愛しのソフィーア。君の姿が見えたから追いかけてきたんだ。それで、そちらは?まさか、浮気だなんてひどいことは言わないでくれるよね?」
マティアスがソフィーアに迫ると……その隙に、もう1人の人物が、ぱっ、と身を翻す。
目深に被ったフードで、顔は見えない。体躯もよく分からないのは、そうした魔法を使っているからだろうか。
「待ちなさい!」
だがそれをみすみす逃がすわけにはいかない。ランヴァルドが動くより先に、ウルリカが動いていた。彼女はナイフを勢いよく投擲し、容赦なく、逃げる人物を狙った。
だが、ナイフは外れたらしい。からんからん、と音を立ててナイフが石畳の上を滑っていく。
ウルリカが表情を険しくしてもう一本ナイフを取り出した横で、ランヴァルドは……足を動かすでもなく、ただ、路地の両脇に立ち並ぶ家屋の、その上を見ていた。
そして。
「ネール!やっちまえ!」
……そう叫んだ瞬間、空から黄金色の光が降ってくる。
その光は、逃げようとしていた人物の退路を絶つかの如く落ちてきて、通りを眩く染め上げた。
ネールとウルリカに挟まれる形になったその人物は、目深に被ったフードの下、ただネールをじっと観察しているように見えた。
……だが、そんなネールから逃げられる訳がない。ネールは迷うことなくフードの人物に飛び掛かっていく。
黄金色の光を纏ったナイフは、長剣ほどの刃渡りとなって振り抜かれる。まるで容赦のない一撃に、フードの人物は大きく距離を取って避けるしかない。
だが、後ろに居るのはウルリカだ。
ウルリカは長いスカートの裾を翻し、靴の踵……そこに仕込んだ刃を以てして、相手の首を狙う。
フードの人物は一瞬で、判断を迫られることになる。黄金色の光の刃を携えて迫るネールと、鋭い蹴りを繰り出してくるウルリカと、どちらを相手取るか。
……そして。
ウルリカの蹴りとネールのナイフとがそれぞれ迫る中、フードの人物は……ただ、白銀に輝いて、その場に立ち尽くしていたように見えた。
キン、と、およそあり得ない音が響く。
まるで、硝子が鋭くぶつかりあったような音だ。……ランヴァルドはこの音に覚えがある。
ランヴァルドはこの音を、父と一緒に居た頃に聞いたことがある。他でもない……父と一緒にやっていた、魔法の稽古の時に。
あの時、父は何と言っていたのだったか。
『似た性質の魔法同士がぶつかった時、こうした音が響くことがある』と、教えてくれたのではなかったか。
「ネール!ウルリカさん!戻れ!」
ランヴァルドはすぐさま叫んでいた。
ウルリカは弾かれた蹴りをもう一度繰り出そうとしていたが、ランヴァルドの声を聞いて、戸惑ったように、しかしそれでも大きく距離を取って戻ってくる。
そして、ネールは……。
ネールは、フードの人物を見上げて立ち尽くしていた。
フードの人物もまた、ネールを見つめている。その表情はまるで見えないが……。
たっぷり一呼吸ほどの時間が過ぎていっただろうか。否、もっと長かったかもしれないし、もっと短かったかもしれない。
だが何にせよ、フードの人物はすぐさま身を翻し、去っていった。
……去り際、フードの人物が、ネールに何か囁いたように見えた。ネールはただ、困惑の表情を浮かべたまま、立ち尽くしていた。
「……逃げられたな」
ランヴァルドはため息を吐いた。
できれば、相手から直接話を聞きたかったところではある。
耳や目を誤魔化す魔法を容易く使っていたように見えたが、あれだけの手練れがそう何人も居るとは思えない。となると、さっきの人物こそが、ヨアキムの情報屋を利用して遺跡の情報を売り買いしていた相手だと思われる。
その相手を逃がしたのは、痛い。
だが……判断を誤ったとは、思わない。
あの場でウルリカとネールを呼び戻さなかったら、フードの人物を逃がさずに済んだかもしれない。だがそれでも……あの場は、ああするべきだった。
……ランヴァルドの背を、冷たい汗が伝う。
あの時、ランヴァルドは見たのだ。フードの人物が、その外套の内側で……銀色の光の刃を生み出しているのを。
「……手練れでしたね。あれは何者だったのでしょうか」
ウルリカは苦い表情である。脚を少々引きずるようにして歩いているのを見る限り、蹴りを防がれた時に脚をやられたのかもしれない。
ランヴァルドは適当に路地裏にあった木箱にハンカチを敷くと、そこにウルリカを座らせて脚の様子を見る。
……見れば、足首が切り裂かれたように傷ついている。あの一瞬でこれができたのだから、やはりあの場で撤退を指示したのは間違いではなかっただろう。
ランヴァルドは『危なかったな』と内心で震えつつ、さっとその場に片膝をつき、ウルリカの脚を治療した。
「ネール。お前は大丈夫か?怪我は?」
続いて、ネールにも声を掛ける。するとネールは、『大丈夫』というように頷いてみせた。代わりに、ウルリカを心配するようにウルリカの周りをくるくる回り始めたので、まあ……ネールは大丈夫そうである。
さて。
「折角の手掛かりを逃がしてしまいましたね。申し訳ありません」
「いや、ウルリカさんやネールが悪い訳じゃ、ないでしょう。あれはそうそう捕まえられるもんじゃなかった」
ウルリカが悔しそうにしているのに笑顔で答えてみせれば、ウルリカは依然として悔しそうな顔のままではあったが、それでも納得はしたのだろう。小さく頷いてみせた。
「町に起きた異常といい、気になることは山のようにあります。このまま放っておけば間違いなく、今以上に悪いことが起こるでしょうし……」
ウルリカの言う通り、このままにはしておけない。先ほどのフードの人物が何かしていることはほぼ間違いなく……何より、あの力を見せられて尚、あれを放っておけるランヴァルドではない。
だが。
「まあ、それをどうにかする方法はいくらでもあるんじゃないかな?」
マティアスは余裕綽々の笑みでそう言った。
言ってから……勿体ぶるように、『そちら』へ視線を送る。
「ほら。こっちには事情をよくご存じだろうお嬢様がいらっしゃることだし……ね、愛しのソフィーア?」
……マティアスが視線を送る先には、地面にへたりこんだままの領主令嬢、ソフィーアが居る。




