水の源*1
ランヴァルドは只々嫌な予感を覚えながら往来を見ていた。雹は今や、道にすっかり積もり、そこにさらに降る雹がカシャカシャと音を立てている始末である。
そしてそこに混ざるドラゴンの鱗も氷の粒に埋もれていく。だが、この異常な現象までもが埋もれてくれるわけではない。
「これは間違いなく遺跡で何かあったな……?」
ランヴァルドは隣で呆然とするマティアスを見てそう言ってみる。『お前の情報収集が遅いからだぞ』という意味も無いでもない。無茶だと分かってはいるが。
「……僕は遺跡の専門家じゃないんでね」
「俺も違うが」
「お前はもうそうだろ。……まあ、専門家じゃない僕にも分かる。これは絶対に厄介なことになる奴だってね」
ランヴァルドはマティアスに只々苦い顔を向けてやりつつ、マティアスがため息交じりながらそれなりに真剣な目で雹を見ているのに気づく。
「どうする?トンズラするなら今の内だと思うけれどね」
「あー……」
……そうだろう。それはランヴァルドにも分かる。マティアスより気づくのが遅れたが。
ランヴァルドもマティアスも、ブラブローマに義理は無い。
ブラブローマが何か間違いなく厄介なことになっていたとしても、関係がない。マティアスの言う通り、『トンズラするなら今』なのである。
……だが。
「……いや、ジレネロストはここの隣だ。ブラブローマに滅びられたら困る」
それでもランヴァルドは、ここを逃げ出すわけにはいかない。
王命だから、という理由は置いておく。そっちはまあ、一度くらいなら言い訳のしようもあるだろう。
だが、立地が悪い。……ランヴァルドは今後もジレネロストで稼ぐつもりなのだ。ジレネロストに影を落としかねない事態はどうにかしたい。
「成程ね。僕はまあ、ここが滅びてくれても一向に構わないんだが」
マティアスは一つ舌打ちすると、足元に転がってきた雹を1つ、蹴り飛ばした。かしゃ、と軽い音を立てて、雹は向かいの建物の壁にぶつかって砕ける。
「まあ、そういうつもりならいいよ。勝手にやってくれ」
そしてマティアスは町外れの方に向かって足を踏み出したが……。
「おいおい、何言ってるんだマティアス。お前1人だけ逃げられると思ったか?」
ランヴァルドはそんなマティアスの腕を掴んで引き止めた。
「無駄だぞ。何せ……あっちの方が脚は速そうだ」
……マティアスがゆっくりと振り返る。そして、ランヴァルドの言う『あっち』を見て、目を見開いた。
雹から立ち上る魔力の靄が、ある一点に固まって、魔物の形になっていく。
……氷雪虎である。
毛皮が美しく、脚が速く……そして、よく人を殺す魔物としてよく知られる魔物だ。
町のあちこちから悲鳴が聞こえる。
どうやら、魔物の発生はここだけで起きているものではないらしい。ランヴァルドは『だろうな』と思いつつも唇を噛む。
この分では、町のどこに逃げても魔物と出くわす羽目になるだろう。本当に、いよいよ逃げ場が無い。
「……戦うしかなさそうだな」
ランヴァルドは覚悟を決めて剣を抜いた。手入れは欠かさない剣は、手入れ以上に普段碌に使わないためにその美しい刃をしっかりと維持している。
「戦うだって?悪いが僕を頼るなよ?僕は戦闘は専門外だ」
「分かってる。お前も俺のことも頼るな」
「知ってるよ、そんなことは。その剣は飾りだろ?」
「ああその通りだ」
ランヴァルドが『ここに居るのがせめてウルリカさんならな』と舌打ちしながらマティアスを見る。
……マティアスもどこに隠していたのか、ナイフを取り出して身構えているところだった。が、まあ、対人戦ならともかく、魔物相手にマティアスが役に立つとは思えない。
一方の氷雪虎は、どう見ても手強い。何せ、魔物の発生の仕方としても最悪の方……『魔力を大量に浴びた動物が魔物になった訳ではなく、純粋に魔力から生まれた魔物』である。その体は魔力から生まれたものであり、その分、強靭であることが予想される。
「……あいつ、いい毛皮だな」
「そうだね。狩れれば、の話だが」
ランヴァルドとマティアスはじりじりと、氷雪虎と睨み合う。
下手をすれば、一瞬だ。一瞬で、殺される。
……久しぶりに味わう緊張感だ。ネールが居たから、ずっと味わっていなかった感覚。隣に居るのがマティアスだというのも、それらしい。
しがない悪徳商人としてのランヴァルドが、今、ここに居る。
「よし……いくぞ!」
ランヴァルドは覚悟を決めるように叫び、マティアスと共に氷雪虎に向かって地を蹴り……。
二歩目で、一気に踵を返して逃げた。
「おいランヴァルド!僕を囮にして逃げる気だったのか!?」
「お前だって逃げてるだろうが!」
……尚、マティアスも同様である。
悪徳商人2人……考えることも行動の瞬間も、同じなのであった!
「せめて囮くらいはやれよ!ステンティールのゴーレム相手の時もそうだったが!」
「はあ!?なんで僕がお前の為に囮になってやる義理がある!?」
全力で走りながら、ランヴァルドは『なんとかマティアスだけここに置いていけないか』と考える。が、マティアスもどうせ同じことを考えているのであろうと思えば、ただ逃げることに注力した方がまだマシな結果になりそうである。
「とりあえずネールだ!ネールさえ居ればなんとでもなる!あいつは今中央広場の方にいるはずだ!大方、近くのサロンだろう!そっちに向かうぞ!」
ひとまず、最悪の場合でもランヴァルドかマティアスかのどちらかがネールのところへ辿り着ければ、氷雪虎についてはなんとかなるだろう。
問題は、それまでにランヴァルドが生き延びているか、ということだが……。
「うわっ」
追いかけてきた氷雪虎が一気に跳躍して、襲い掛かってくる。半ば勘の働くままに横に避けたおかげで氷雪虎の直撃は避けられたものの、すぐ、二発目が来る。
咄嗟に横に転がって、その爪の直撃は避けたものの、こうして体勢を崩してしまえば三発目は避けられない。
……だが、ここで死ぬわけにはいかないのである。
ランヴァルドを追い詰めて唸る氷雪虎を前にして、ランヴァルドは地面に転がったまま……剣を握っていない左手で、積もった雹を握り……そのまま氷雪虎目掛けて投げつけた。
一瞬だ。氷雪虎が雹の冷たさと反射する光とに怯むのは、ほんの一瞬でしかない。
ランヴァルドはその一瞬の間になんとか立ち上がり、続いて、自分へ飛び掛かってくる氷雪虎が足でも滑らせてくれることを祈りながらただ走り……。
……そして、その祈りは通じてしまったらしい。
一瞬でしかなかったはずの隙が、数秒ほどに、延びた。
それは、マティアスが投げたナイフが、氷雪虎を更にもう少々怯ませたことによって。
「……助かった」
ランヴァルドはなんとか立ち上がって、氷雪虎から距離を取る。
だが、氷雪虎はマティアスが投げたナイフによってよりいっそう機嫌が悪くなったらしい。唸り声に険がある。
更には……。
「本当にそう思うのか?僕はそうは思わないね。ほら、向こうを見てみろよ」
マティアスが苦り切った表情で顎をしゃくってみせた方を見てみれば、そちらにもまた、別の氷雪虎の姿がある。
……挟まれた。これでは、逃げきれない。
だからこそ、マティアスはランヴァルドを助けるような真似をしたのだろうが。
「これはいよいよ、お終いだな」
マティアスはそう言って肩を竦めてみせつつも、その表情に隠しきれない恐怖と緊張がある。
……次の一瞬で氷雪虎が襲い掛かってきたら、いよいよ、ランヴァルドかマティアス、少なくともどちらか片方は駄目だろう。そしてもう一方も、もう片方の氷雪虎にやられる可能性が高い、というわけだ。
だが。
「いや、『始まり』の間違いだ。ほら見ろ」
ランヴァルドが余裕の滲んだ笑みを浮かべた直後。
空から黄金色の光が、すっ、と落ちてきて……氷雪虎の頭蓋を貫いた。
「英雄のお出ましだ」
黄金色の光……ネールは、その海色の瞳をぎらりと輝かせて、すぐさまもう一体の氷雪虎へと襲い掛かっていったのだった。




