華やぐ町*5
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その日、ネールはランヴァルドとウルリカを見送った。
……今日のネールの仕事は、お留守番である。ランヴァルドは『これも大事な仕事だぞ』と言ってくれたが、ウルリカのように働けない自分が少し悔しい。
マティアスは昨日の夕方からずっと、どこかに出ていってしまってそれっきりだ。『逃げてしまったのでは?』と心配になるネールだが、ランヴァルド曰く『心配は要らない。この町にはな、案外、あいつを監視する目が多いんだぜ』と笑っていた。
ネールにはよく分からないが、ランヴァルドが大丈夫だと言うのだから大丈夫なのだろう。……ちょっぴり寂しいが。
さて。ネールはお留守番なので、一生懸命お留守番する。
まずはお掃除だ。ここは宿の一室なので、宿の人がお掃除するのだろうが、それでもネールはなんとなく、部屋のお掃除をしていくことにした。
ベッドもきちんと整えて、いい具合にきちんとしておく。
……ちなみに、ベッドは3つしか無い。当然だ。この宿に入る時、マティアスは『お荷物』だったので!
ネールはふと、『マティアスが帰ってきたらベッドはどうするんだろう』と考えたが、途中で考えるのをやめた。ネールもかつて、ジレネロストのお家でそうだったが、人間は案外、床でも眠れるものである。なのでマティアスも多分、大丈夫である。
細かな埃を払い、窓の格子を拭き、ベッドを整えて……そうしてネールのお仕事はおおむね終了してしまった。
……やることが、無い!
ネールはぼんやりと自分のベッドに腰を下ろして、そこで考える。……こんな風に『やることが無い』のは、本当に本当に、久しぶりのような気がする。
最近は専ら『やることばっかり』だったし、魔獣の森に住んでいた頃には、『やることはあるが、今はできない』ことはあっても……例えば、狩りに出たいけれど雨が降っていて木の洞から出られない、だとか、そういうことはあっても、やることが無い、という状況にはならなかった。
そう考えると、かつて、ジレネロストに居た時以来、だろうか。
ネールは窓の外、空を眺めて、ただぼんやりする。
……そして、その内なんとなく眠くなってきて、うとうと、とし始めて……そのままネールは、窓辺の床で眠ってしまった。
まあ、人間は案外、床でも眠れるものである。
ネールは物音で目を覚まし、即座に身構えた。
……そのまま音の出所を探れば、ドアの向こう側、部屋に近付いてくる足音だと分かった。近づくにつれ、ため息も聞こえてくる。
多分、マティアスだ。ネールはそう判断して、ドアの傍に控えておいて……。
「全く、久しぶりの仕事は疲れ……うわっ!?」
……恐らく、誰も居ないと思って入ってきたのであろうマティアスを、しこたま驚かせることに成功した。
ネールは少しばかり、誇らしくなった!
「……なんだ、留守番か?」
驚き終わったマティアスがそう問いかけてくるので、ネールは堂々と頷いた。そうだ。お留守番はランヴァルドから貰った、大事な仕事なのだ。ネールはランヴァルドと一緒に行きたかったけれど、でも、留守番だって大事なのだ。
「まあ、それもそうか。諜報活動ができそうには見えないね」
マティアスはネールの返事にそう笑うと、深くため息を吐いて部屋へ入っていく。ネールの横を通り過ぎる時、マティアスから、ふわ、と甘い香りがした。
マティアスの匂いではない。何の匂いだろう、と考えたネールは、ふと、アンネリエが似たような香りだったことを思い出す。それから、領主バルトサールも。あと……つい昨日会ったばかりの、領主クリストファーも。
それらから考えて、ネールは『多分、香水というやつだ』と結論を出した。……尚、正解である。ネールは賢いのである。
別れた時にはこの匂いは無かったんだけれど、と思いながらマティアスを見ていると、マティアスはさっさとベッドに入ってしまった。
……ベッドに!
ネールは慌てて、マティアスを起こそうとする。べしべしと叩いて、ゆさゆさと揺すって、マティアスをベッドから退かすべく頑張るのだ。だって、だって……そのベッドは、ランヴァルドのベッドである!
「……うるさいな。こっちは夜通し働いてたんだ。寝かせてよ」
だが、マティアスは全く動じない!それどころか、ネールから逃れるように、頭まですっぽりと掛け布を被ってしまった!
それからもネールはなんとかマティアスを退かすべく頑張っていたのだが……それでもマティアスは動かなかったので、諦めざるを得なかった。
ああ、ネールはお留守番を任されたのに……ランヴァルドのベッドを守ることができなかった!
しょんぼりしながら、ネールはマティアスを見つめておくことにした。せめて、マティアスの監視の任は全うするぞ、と心に決めながら……。
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「上手くいきましたね」
「そうなのですか?」
「ええ。間違いなく!」
一方、ランヴァルドとウルリカは、領主邸からの帰り道、上機嫌であった。
というのも、領主クリストファーとの謁見は非常に上手くいったからである。
ランヴァルドは、ウルリカを『秘書』として扱い、適当に同席させたのだ。結果、領主クリストファーは『彼女は一体……?』と興味を持ったようである。
それでいて、ウルリカ自身は特段、愛想良くするでもなく、ただ涼しい顔で同席していただけなので……実に、興味を持たれたことだろう。間違いない。
一方、ランヴァルドは領主クリストファーに『古代遺跡は何基確認されていますか?』『点検を行うのは何日後ですか?』『予定が立っていないようでしたらこちらの兵をお貸ししますが』といった話を吹っかけ、不愉快な思いをさせた。
それでいて『こっちはブラブローマを心配しているんだぞ』という姿勢は崩さないので、間違いなく領主クリストファーは歯噛みしているはずだ。『あいつの鼻を明かしてやりたい』と思う程度には。
「さて。俺は明日も訪問します。連日連日の訪問を受けたら、いっそのこと『不在』になろうとするでしょうからね。で、屋敷を出て散歩するとしたら、まあ、場所は限られますから。ウルリカさんはそのあたりに居てください」
「成程。分かりました。ネールさんを連れていても?」
「まあいいと思いますよ。あいつはあいつで人目を引きますしね。それに、留守番ばかりじゃあいつも退屈させるでしょうし。連れ出してもらえるならありがたいですよ」
ランヴァルドが嫌われ役として動けば、領主クリストファーの動きはある程度、制御できる。後は、それに合わせてウルリカが動けば、領主クリストファーに接触することは容易いのだ。
そして、ランヴァルドやマティアスではなく、他ならぬウルリカが相手であるならば……領主クリストファーの方から動くだろう。それは間違いない。
ランヴァルドは『ウルリカさんにも参加して貰えてよかったな』と、内心でしみじみ思った。
宿に戻ると、ネールが仕事をしていた。
……即ち、マティアスの監視である。
「おお、ネール。マティアスの様子はどうだ?」
が、ネールは口をへの字にして、マティアスを指差してなんとも不服気な、そしてしょんぼりとした顔になってしまった。
マティアスはただ、大人しく寝ているだけのようだが……と考えて、ランヴァルドは気づく。
「ああ、成程な。俺のベッドで寝ちまったのか。うーん……」
……マティアスは良く寝ている。狸寝入りかもしれないが、まあ、少なくとも寝ているふりはしている。
ネールに見つめられながらだっただろうに、よく眠れたものである。ランヴァルドは、『ウルリカさんの拷問で精神が鍛えられたんじゃないだろうな……』などと思いつつ、不満げなネールの頭を撫でてやった。
「まあ、夜になったらまた出ていくだろ。マティアスと同じベッドを使うのは癪だが、それくらいは許容しないとな」
ランヴァルドとしてはベッドを占有したいところだが、我儘は言えない。それにまあ、そこまでこだわりは無い方だ。商人になってからこだわりを持っている余裕がなくなったから、とも言えるが。
だが、ネールはそれでもやっぱり不満らしい。ランヴァルドの服の裾をくいくいと引っ張って連れていき……。
「ん?こっち?……こっちはお前のベッドだろ、ネール。ここを俺が使ったらお前は何処で寝る気だ?」
ランヴァルドは、ネールのベッドの前に連れてこられていた。ネールは満足したように頷いているが……。
「……一緒に寝る気か」
……ランヴァルドは何とも言えない気持ちで聞いた。当然のように、ネールは頷いた。
『ウルリカさんも居るってのに勘弁してくれ』と思わないでもないのだが、ネールはランヴァルドをマティアスのベッドで寝かせるつもりは無いらしい。大方、今日もまだまだ寒いので、そのせいなのだろうが……。
そっ、とウルリカの様子を窺ってみると、ウルリカは『あらまあ』と目を瞬かせていた。怒られはしないらしい。驚かれはしているが。この女傑に関しては、こと、怒られたり諫められたりするよりも、驚かれる方がまずい気もするが……だが、ネールは相当にマティアスが気に食わないと見える。譲る気配は無い。
「……なら、今日のところはこっちで世話になることにするか……」
ネールが喜ぶ一方、ランヴァルドはため息を吐いた。やはり、育て方を間違えたような気がする。今更だが。実に、今更だが!きっともう、手遅れなのだが!
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マティアスは、夜の内にもそもそと起き出して、勝手にふらりと宿を出ていった。ランヴァルドもウルリカも特に何も言わないので、ネールも特に何もせず、マティアスを見送った。
そして夜は、ランヴァルドと一緒に寝た!
……くっついて寝ると、あったかいのだ。ランヴァルドの大きな体が入っていると、ベッドの中がぽかぽかなのである。
そして何より……寝る時、ランヴァルドが『おやすみ』と挨拶してくれるのが嬉しい。くっついている胸から心臓の音が聞こえるのも好きだし、うとうととまどろみ始めた時に微かに感じる、自分の頭を撫でる手の温かさが、大好き。なんだか安心する。寂しくない。
そう。寂しくないのだ。一人ぼっちじゃないんだなあ、と思いながらぬくぬく眠ることの、何と幸せなことか!
こんな幸せ、ずっとずっと忘れていた。それを手に入れてしまったものだから……ネールはこれを、手放せない。
ランヴァルドは嫌かもしれない。ネールと一緒に寝ると狭いだろうし、『こういう風に一緒に寝るのは本当は良くないんだぞ』というのはよく聞いている。
だが……それでもネールはやっぱり、こうしていたいのだ。
この幸せを手放したくないし……手放さずにいることを許してもらえるのが、嬉しくて。
……良くないとは、分かっているのだけれど。
翌日。
ネールはウルリカと一緒に出掛けることになった。
ランヴァルドは領主のところへ向かうらしい。そしてウルリカとネールは、観光がてら、町を歩いてみることになっている。
「領主クリストファーの行動については、概ね予想が付いています」
こういうことに詳しいらしいウルリカの話を興味深く聞きつつ、ネールはウルリカの隣を歩く。
「もうじき春ですからね。ブラブローマを代表する大きな祭があります。ブラークロッカの花祭りですね」
ネールは、祭の類をよく知らない。かつて、ジレネロストでそういったものがあったことは知っているし、魔獣の森の中から、カルカウッドの賑やかな様子を眺めていたこともあったから。
……だが、ブラークロッカの花祭り、というと、どんなものだろうか。ネールは首を傾げる。
「当然、領主は祭りの運営を担うはず。特に、『城に居ると鬱陶しい王城の使いがやってくる』と思うならば、そちらの準備に出向くはずです。そこを狙いましょう」
ウルリカが薄く微笑むのを見て、ネールはよく分からないながらも『がんばるぞ』と思う。……何を頑張るのかは分からないのだが。だが、とりあえず頑張る気持ちにはなるのだ。何せ、ウルリカが大層、やる気なようなので……。
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