逃避行*2
遅くなってしまった昼食を摂ったら、そのまま例の買取の店に行って、案の定『もう当面来ないだァ!?』と店主の悲鳴を聞いてきた。だが、伝えてやったので義理は果たした。『次が無い』と分かっていれば、店主もやりようがあるだろう。
さて。そうしてランヴァルドとネールは、カルカウッドの門へと向かう。
門の外には大抵、馬車が停まっている。大抵は何か荷運びの仕事のついでに旅人を拾って運び、小遣いを稼いでいる、という訳だ。
「おう、そこの商人さん。乗ってくかい?」
「ああ。南の方……そうだな、ウィーニアまで」
「よし分かった。銅貨三枚でどうだ?」
「それでいい。ほら」
ランヴァルドは御者に賃金を払って馬車に乗り込み、それから『ほら』とネールへ手を差し出す。ネールは馬車を見て戸惑っていたが、おずおずと、ランヴァルドの手を取ってそっと、馬車に乗り込んできた。
馬車は幌が簡単にかかっただけの荷馬車であり、快適さからは程遠い。だが、歩いて移動するよりは楽だし、速い。そして、夜になる前にカルカウッドを離れたかったので仕方がない。
……本当なら、自前の馬車で移動したかったところなのだが。改めて、馬車ごと積み荷を奪われたのが痛い。ランヴァルドは深々とため息を吐いた。
馬車の旅は、全く快適ではない。うっかり車輪が小石にでも乗り上げようものなら、それだけでガタガタと容赦なく揺れる。乗っているだけでもそれなりに疲れる。
……だが、初めて乗る馬車に目を輝かせているネールを見ていると、多少、気が紛れた。
「馬車は初めてか」
ネールに話しかけてやれば、ネールは笑顔でこくんと頷いた。ずっと野生の暮らしをしていた少女にとって、馬車は中々新鮮らしい。
「そもそも……お前、カルカウッド周辺から移動したことはあったか?」
もしや、と思って聞いてみると、ネールは質問の意図が分からなかったようで首を傾げてしまう。
「あー……ずっとあの町に住んでいたのか、ってことだ」
改めて問い直せば、ネールはふるふると首を横に振った。どうやら、ずっとカルカウッドに居たわけではなさそうだが……。
「その前はどこに居た?」
だが、ランヴァルドの問いにネールは上手く答えられない。身振り手振りで何かを伝えようとはしてくるのだが、ランヴァルドにはそれらを読み取ることができなかった。
「……お前には文字を教えた方がよさそうだな。ったく……」
ランヴァルドがそう言うと、ネールはしゅんとしてしまう。自分が他者との意思疎通に難のあることは分かっているのだろう。そして実際、ネールは他者との意思疎通ができないあまり、交渉も学習も碌にできず、カルカウッドで浮浪児のような暮らしをし、ぼったくられていた。
「んー……じゃあ、まずは読めるようになれ。ほら」
なので、仕方ない。ランヴァルドは自分の手帳に文字を一通り書くと、そのページを千切ってネールにくれてやった。
……ネールは、ぽかん、としていた。それから、ランヴァルドを見上げ、文字の書かれた紙切れを見つめ、またランヴァルドを見上げる。
「文字。覚えてもらわなきゃ困るからな。ほら、読み上げるぞ。ちゃんと覚えろ」
ランヴァルドが紙の上の文字を指差しながら読み上げてやれば、ネールは一生懸命に文字を目で追い、そして、小さく口を動かしていた。
そう。ネールは声こそ出さないが、口を動かしている。ということは、喋れないのは生まれつきではなさそうだ。
……まあ、ランヴァルドは特に、ネールの過去について興味がある訳でもない。その辺りを本人に聞く気は無かった。何せ、その辺りを聞こうと思ったら、今ようやく覚え始めのたどたどしい筆談を挟むことになるのは間違いないので。
……そうしてランヴァルドは『これでさっさと文字を覚えてくれりゃあいいが』と思いつつ、ネールが一生懸命勉強する様子を上から眺め、ネールがランヴァルドの服を遠慮がちに引っ張って読み方を忘れた文字を指差してくれば『ああ、それの読み方はな……』と読み上げてやり、のんびりと馬車での時間を過ごしたのだった。
夕方前には、ウィーニアという小さな古い町に到着した。この町はワイン造りの北限とも言える町である。要は、葡萄がまともに育つのはこの辺りまでで、ここから更に北に行くともう葡萄が安定して育つ気候ではないのだ。
「よし、宿を取って今日はさっさと寝るぞ。明日の朝、早めに出るからな」
ネールに言い聞かせつつ、早速宿へと向かう。『どうか追手が来ませんように』と半ば自棄になって祈りつつ小さな宿の小さな部屋を取り、夕食を済ませることにする。
ウィーニアはワインの産地ではあるのだが、今日は酔う気分にはなれなかった。何せ、ランヴァルドは恐らく、追われている。
ランヴァルドの積み荷を奪った連中は口封じと復讐を兼ねて、ランヴァルドを狙っていることだろう。そんな中であるので、中々に緊張が抜けない。
……だが、もしランヴァルドが酔おうとしていたとしても、それは難しかっただろう。
「嘘でしょう?ワインがウィーニアでこの値段ですって!?北部並みの値段じゃない!」
「ああ、今年は葡萄が不作だったんですよ。夏が随分と涼しくてね。ここでもそうなのだから、北部じゃあもっと高値ですよ」
食堂で騒ぐ女と酒場主人の会話を耳にして、ランヴァルドは眉根を寄せた。
……ランヴァルドが商機と見た北部の寒冷化だったが、南部にも影響が出ているようだ。ウィーニアですらワインが少ないとなったら、いよいよ北部は大変だろう。葡萄ができない北部都市にとってワインは高級品だが、その高級具合に拍車がかかる。高級品であるワインを愛好する北部貴族は多い。彼らが今年もワインにありつくためには、ただでさえ税収の少ない中、増税することになるのだろうか。
ランヴァルドは、自分の転落の元々の原因となった増税を思って、少々憎しみを募らせた。『馬鹿みてえな関税さえなけりゃあ……』とぼやきつつ、今晩はネールと一緒にミルクを飲むことにする。ミルクなら、まあ、北でも南でもそれなりに安定した価格である。恰好はつかないが。
……尚、ネールはミルクのカップにうきうきと口を付けて、それからちょっぴりしゅんとしていた。蜂蜜入りではなかったので、甘味が無いのである。
なのでランヴァルドは『次に寄る町で蜂蜜を買うんだな』と助言してやった。ネールは神妙な顔で頷いていた。
その日は早めにベッドに入ることにする。明日の朝一番に出発して、追手を撒きたいからだ。
剣は、忘れずにベッドの中に入れた。宿は決して、安全な場所ではない。突如として部屋に押し入ってくる賊がいることもあれば、それを『余所者が襲われても関係ない』とばかりに容認する宿の主人がいることもある。
ランヴァルドは警戒して部屋のドアに簡単な罠を仕掛けたり、ごく簡易的ながら魔法による結界を張ったりして追手を警戒する。
警戒しすぎて困るということは、まあ、無いだろう。その分疲弊するし、人間は疲弊し続けたまま生きてはいけないので限度はあるが……。
……一方のネールは、随分とのんびりしている。
ネールは、ランヴァルドが雑に破ってくれてやった文字の紙切れを丁寧に折り畳んで懐に入れていたらしく、それを取り出して暖炉の火の傍に座り、文字を読んで覚えようとしていた。
実に健気なことである。だが、今はそれどころではない。
「ほら、ネール。文字の勉強はまた明日だ。今日は早く寝ろ。明日の朝は急いで出発するんだからな」
ランヴァルドはネールをさっさとベッドの中へ運び込んでしまった。運ばれてしまった以上、ネールは大人しく寝ることにしたらしい。文字の紙切れを枕元に置いて、もそもそ、と毛布を被って体勢を整え始める。
「じゃあ、お休み。明日は早いからな」
そうして声を掛けてやってから、ランヴァルドも毛布に潜って眠ることにする。
……毛布に潜って目を閉じていると、どうにも昼間のことが思い出される。即ち、ネールのあの、躊躇の無い殺戮の様子が。
あの刃が自分に向いたら、と思うとぞっとする。それでいて、意思の疎通を図るのが難しいネール相手だ。いつまでもランヴァルドに刃が向かずにいると確信することもできない。
となれば……適当なところで、ネールの手を離すべき、なのだろう。
投資や何かと同じことだ。狡猾に商機を見出し、利用し……そして、手を切る機を、決して見誤ってはいけない。
ランヴァルドはそう、胸の内で呟くと……だが、その割に、ネールに文字を教えている自分に気づく。
「……何やってんだかな」
自分のことながら、妙に釈然としない気持ちを抱く。だがランヴァルドはさっさと眠りに落ちるべく、意識を切り替えていくのだった。
翌朝。
ランヴァルドは、起きると思った時刻に概ね起きることができる。目を覚ました時、鎧戸の隙間からはまだ朝陽が差し込んでいなかった。日の出前、である。
一通り、部屋の中の様子を確認する。寝ている間に部屋に侵入された様子は無い。荷物の類もそのままだ。そしてネールは、と見れば……隣のベッドの中、すうすうと寝息を立てる毛布の丸い塊があった。
「ネール、起きろ」
ランヴァルドが毛布の塊を揺すってみると、毛布の塊がもそもそとほどけて、中からネールが顔を出す。まだ幾分眠そうな顔ではあったが、むにゃ、と目を擦り、ふわ、と欠伸をして、それから寝起きの柔い表情のまま、ふにゃ、と笑う。
「身支度しろ。出発だ」
ランヴァルドが声を掛ければ、ネールはこくんと頷いて、いそいそと身支度を整え始めた。
靴を履き、上着を羽織り、ランヴァルドを真似して髪に櫛を通す。梳られた金髪は、出会った当初よりも滑らかになったように見える。汚れを落とし、数度櫛を通しただけなのだが、それだけでもこれだ。もっと時間をかけて手入れすれば、より美しくなるのかもしれない。
さて、ランヴァルドは剃刀を取り出しかけて、思い直した。今日は商談をする予定も無い。ただ旅路を急いでいくだけだ。となれば、髭を剃るのも面倒である。結局は身支度もそこそこに、出発を優先することにした。
「準備はいいか?」
ランヴァルドが声を掛けると、ネールは、こく……と頷きかけて、それから慌てて、金貨を取り出してランヴァルドに差し出してきた。どうやら、今日もまた律儀にランヴァルドを『雇う』つもりらしい。
「……ま、貰えるもんは貰っとくか」
少々、良心の呵責を覚えつつも、ランヴァルドはがめつく、ネールから金貨を受け取る。ネールはにこにこと、嬉しそうにしていた。
つくづく、妙な生き物を拾ってしまったものである。
宿を出て、ランヴァルドとネールは歩き出す。念のため、馬車は使わない。できるだけ、追手は撒きたいのだ。
「ここからは徒歩だ。一刻ほど歩いたところに鉱山があるから、そこで積み荷を運ぶ馬車に乗せてもらう。そして……そのまま北へ戻る」
一度、南行きの馬車に乗ったのは、追手を撒くためである。どうせ裏切った護衛達は、カルカウッドを拠点にして居たのだろう。となると、ランヴァルド達が馬車に乗ったことをどこからか聞き出してくるはずだ。
だから、一度南に戻ると見せかけるためにウィーニアへ立ち寄った。だが目的地はやはり、北である。
「これから稼ぐんだったら、北へ行った方がいい。武器や防具、薬なんかを作るために魔物の素材は高く売れるだろうからな」
南は南で、よい場所だ。食料が豊かで、過ごしやすい。だが、今、ネールを利用して稼ぐのであれば……やはり、北へ行くべきだろうと思われた。
魔物の素材を高値で売ってもいいし、野盗退治をして領主から褒賞金を貰ってもいい。それで領主と顔を繋いで販路を獲得してもいい。ついでに口利きしてもらって、高値で、もしくは大量に品物を買い取らせることができれば最高だ。はたまた……貴族の娘あたりの覚えが良ければ、そのまま婿入りしてもいい。
まあとにかく、金を持っている人間とお近づきになる機会をより得られるのは、荒れに荒れているという北部だろう。
「鉱山で上手いこと馬車が見つかるといいんだがな」
ランヴァルドは『まあ、なんとかなるだろう』と思い直して、街道を歩いていく。そしてネールは嬉しそうに、てくてくとランヴァルドの後をついてくるのだった。
朝日が昇った頃、一度休憩を取った。
街道を少し離れた所で、丁度いい倒木を見つけたのでそこに座って朝食を摂る。
朝食は、昨夜の内に調達しておいたパンとチーズ、そして皮袋に入れてきた水である。質素な食事であるが、まあ、そう悪くはない。贅を尽くした食事の方が望ましくはあるが、今はひとまず、胃に入って体を動かす力になれば食事はそれでいい。
また、ネールはこんなものでも嬉しいらしく、少々塩気のあるパンとチーズとを食べながら、なんとも上機嫌であった。青空の下での食事なので、行楽気分なのかもしれない。
食事を終えたらまた歩く。ランヴァルドは実に旅商人らしいことに、健脚である。そしてネールもまた、特に苦にするでもなくランヴァルドの歩く速度に合わせて歩いていた。
それどころか、ネールは時折、とててて、と道を外れて駆けていっては、その先で花を摘んだり、ベリーを摘んだり、景色を眺めたりして、またランヴァルドの元へ駆け戻ってくる、というようなことをしている。随分と元気である。子供故に体力が無尽蔵なのだろうか。ランヴァルドはいっそ感心するような気分にさせられた。
……そうしてネールの手には、あちこちで摘んだ野菊やヒースの花、ベリーの枝などで花束ができるようになり、その花束が出来上がった頃……昼前にはなんとか、目的地である鉱山へと到着したのであった。
「馬車?ああ、それならもうじき戻ってくるだろうから、そうしたら荷物を積んでまた出発する予定だ。乗っていくか?」
「ああ。助かるよ」
そうして鉱山の入口付近で責任者であろうと思われる男を捕まえたランヴァルドは、早速交渉して、見事、馬車に乗せてもらう約束を取り付けた。
「とはいえ、昼を過ぎてからになるからな。まあ、何も無いところだがゆっくりしていってくれ」
「ありがとう。……よし、ネール。行くぞ」
多少待つという事なので、その間に昼食を摂ってしまった方がいいだろう。無論、こんな鉱山に食事処などある訳が無いので、持ってきているパンとチーズと水、ついでに干し肉を齧る、ということになる。
本日2度目の野外の食事であるが、ネールはやはり嬉しそうににこにこしている。が、干し肉はネールには少々硬かったのか、一生懸命にもぐもぐと口を動かして、如何にも『頑張っている』という様子で食べていた。……煮戻してスープにでもしてやった方がよかったかもしれない。まあ、流石にそこまでする気力は無いが。
「その花、どうするんだ」
それから、水を飲んでいたネールに声を掛け、ネールの傍らに置かれた花束……道中のネールの気まぐれによって随分と立派になってしまったそれを指差して聞いてみる。だがネールは、『どうしよう』とばかり、首を傾げてみせるだけだ。……摘むだけ摘んだが、特にどうこうするつもりも無かったらしい。
折角の花なのだから、摘んでしまった以上、このまま放っておくのもなんとなく躊躇われるものがある。かといって、鉱山で花が売れるとも思えない。
そう考えたランヴァルドはため息を吐くと、そっと、花束から数本花を抜き取って、『こうだったかな』と思い出しながらそれを編み始めた。
「……なら、折角だ。花冠の編み方を教えてやる。やってみろ」
馬車が来るまで、どうせ暇である。ランヴァルドはネールの花束で花冠を編んで見せてやることにした。
ネールは、花冠を見たことが無いわけではなかろうに、ぽかん、としながらランヴァルドの手元を見ていた。……否、もしかしたら本当に、花冠の存在を知らないのかもしれない。
「花をこうやって編んで、冠にするんだ。祭りの時とか、やるだろう」
ランヴァルドは一応そう言ってみるが、ネールはピンと来ていないような顔である。いよいよ本当に花冠の存在を知らない可能性が見えてきた。
「他にも、ほら、『勝利の栄冠』とかな。あれは木の枝を編むことが多いが、表彰の時、花冠を与えて栄光を讃える地域もある」
ネールは目を輝かせてふんふんと頷きつつランヴァルドの手元を見ている。そうして少し見ていただけで作り方を覚えたらしい。『ほら』と作りかけの花冠を渡してみれば、後は黙々と、一人で花冠を作り始めた。
そんなネールの横で、ランヴァルドは『暇だな』と思いつつ、ぼんやりと空を見上げているのだった。
そうして、ネールが無事に花冠を作り終えた。作り終わりのところだけランヴァルドがやってやって、そうして出来上がった花冠をネールの頭の上に載せてやる。ネールは嬉しそうに、時折頭上の花に触れてにこにこしつつ、文字の紙切れを取り出して、文字を読む練習を始めた。
ランヴァルドは暇を持て余しつつ、ぼんやりと鉱山の様子を眺め……そして。
ひひん、と馬の嘶きを聞いた。
どうやら馬車が戻ってきたらしい。ランヴァルドは早速、挨拶をしに行くか、と立ち上がり……。
「誰か来てくれ!野盗に襲われたんだ!誰か!」
……そこで不穏な言葉を聞いて、顔を顰めた。
どうやら、不運の女神はランヴァルドのことが余程好きらしい。