薄氷の上*4
数度、地面が揺れた。
その度にランヴァルドの頭上から石片だの土砂だのが降ってくる。
だが、それらを浴び、その度に傷を作りながらも、ランヴァルドは手を止めなかった。
……幸い、瓦礫はランヴァルド1人でもある程度動かせた。体中の筋肉が千切れそうなほどに力を使わなければならなかったし、時に地面が揺れるのを利用して石をずらすといった、頭の使い方も必要ではあったが。
「ネール!聞こえたら返事しろ!」
ランヴァルドは声を張り上げながらネールを探した。瓦礫の下か、奥か。どこかにはネールが居るはずである。だからランヴァルドが諦めるわけにはいかないのだ。たとえ、父親も母親も諦めたネールであったとしても、だ。
ランヴァルドは瓦礫と戦い続けた。いつこの遺跡がどうしようもなく崩れて自分も埋まるか分からない、という極限の状況の中、それでもその場に残り続けた。
そして……その甲斐はあったのである。
「……成程な。お前、やっぱり幸運の妖精か何かなんじゃないか?」
ランヴァルドはようやく、笑う。
大きな石材をたった今、退かし終えたところ。案外、瓦礫の山の浅い部分。
そこには丁度、瓦礫が上手く重なり合って、小さな空間ができていて……ネールはそこで、圧し潰されてしまわずに生き残っていた。
ネールが生きている。その事実はランヴァルドを大いに安堵させた。
だが……危うい。
「ネール。おい、ネール。すぐ治してやるから、もう少し頑張れよ。引っ張り出すぞ」
ランヴァルドがネールに声を掛ける間も、更に瓦礫の隙間からなんとかかんとか引っ張り出してやる間も、ネールは反応しない。
では意識が無いのか、というと……どうも、そうではないらしい。ネールを引っ張り出す時、傷に障ったのか幾分、顔を顰めた時があったので。
だが……その目はぼんやりとしていて、ここではないどこかを見ているようで、まるで生気が感じられない。
……意識はあっても、動く気力は無いらしい。或いは、もう生きる気力が無いのかもしれない。
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ネールは瓦礫の隙間で、はっきりと聞いていた。
『何言ってるの!家族の命の方が大切でしょう!』と言って、ネールを置いていく母親の言葉を。
そしてそれに納得して去っていく父親の声も。
……それを聞いた時、ネールを今まで支えていたものが、ふつり、と切れてしまったように感じた。
また、家族揃って暮らせるのだと思っていた。
お父さんもお母さんも居て、いつの間にか弟と妹も増えていたけれど、でも、本来ネールが居たであろうそこに、ネールはまた戻れるのだと。
……ジレネロストを出てからの3年弱、カルカウッドの街角で、母親と手を繋いで帰る子供達を見ては、ただそれを羨んでいた。ネールにはもう二度と訪れない幸福な日々を、ただ思い出しながら寒い森の中で眠った。
だが、そんな日々も終わるのだと思ったのだ。お父さんが居て、お母さんが居て……2人が出迎えてくれる家に帰るのだと、ネールは、そう思っていたのだ。
……いや、嘘だ。
ネールは気づいていた。本当はもう、気づいていたのだ。
シモンもヘレーナも、ネールのことが嫌いなのだろうと、もう気づいていた。
3年以上前から。ずっと。
……嘘だと気づきながらも信じていたのは、かつて味わったそれが、あまりに暖かく幸福だったから。
一度完全に消えてしまった幸福がもう一度やってきたのではないかと思ってしまったら、そうではないと気づくのが、あまりにも悲しかったから。
分かっていたのに。分かっていたのに……それでもネールは、信じていたかったのだ。
お父さんが居て、お母さんが居て、かわいい弟と妹が居て……そういう風に家族が居て、ネールがひとりぼっちじゃないことを、信じていたかった。
いよいよ砕けた夢をただ見つめて、ネールはもう、動けない。
動けない。希望を失ってしまったネールは、もう体を動かす力が無い。
今までのネールなら、瓦礫くらいすぐに退かせただろう。いつもみたいに石を切り払って、土砂を吹き飛ばして……でも、もう、その力が無い。
「ネール。痛むところはあるか?」
……だというのに、ランヴァルドはまだ、ネールの傍にいる。
魔法を使えないネールなんて、ランヴァルドは要らないだろう。
……ネールは分かっている。ランヴァルドだって、ネールに雇われてくれているだけなのだ。一日に金貨一枚の約束で、傍に居てくれるだけなのだ。
いずれ、きっと……ランヴァルドとも、お別れすることになる。ランヴァルドはネールに優しいけれど……ランヴァルドにも、いつか『要らない』と言われてしまうかもしれなくて、それがあんまりにも怖い。
ランヴァルドは優しくて、今もネールに治癒の魔法を使ってくれていて、それがあったかくて、やさしくて、とっても大好きだ。
でもネールは知っている。
一度、暖かい場所で眠ることを覚えてしまったら、もう、冬の森へは帰れない。
ネールはランヴァルドの優しさを知ってしまったから、もう……1人では生きていけないだろう。いつかきっと、1人になるのに。
お父さんとお母さんがそうだったように、ランヴァルドもネールに『要らない』と言う日が来るかもしれないのに。
だからネールはここでおしまいにしたい。
ああ、降ってきた石で、潰されてしまっていればよかった。
「悪いな、ネール。やっぱり俺は、どうも……魔法があんまり上手くないんだ」
ランヴァルドが少し上ずった声でそう言うのを聞いて、ネールは、『もういいよ』と、首を横に振った。……あんまり大きくは、首を動かせなかった。瓦礫が落ちてきた時に打ってしまったからか、体のあちこちが痛かった。
「……こっちも怪我してるな。もうちょっと待ってろ。治す」
それでもランヴァルドはめげずに、反応の薄いネールに話しかけてくる。
ランヴァルドの魔力が尽きてしまうのではないかというくらい、治癒の魔法を使い続けてくる。
……ネールはこの魔法が大好きだ。あったかくて、やさしくて。……ランヴァルドみたいだ。本当に。
「ネール。どうだ。動けそうか」
ランヴァルドは話しかけてくれるけれど、ネールは首を縦にも横にも振らないまま、そっと、ランヴァルドから顔を背ける。きっともう、動けるのだけれど……返事もしない悪い子には、ランヴァルドだって『要らない』と言いたくなるんじゃないだろうか、と思って。
「なあ、ネール」
ランヴァルドは少し困ったようにネールを覗き込んで……それからネールを、ぎゅ、と抱きしめた。
「……帰ったら家の相談をしよう」
……そして、ネールの『もういいよ』の前に、よく分からない話が始まってしまったのであった!
お家……も、もういいや、と思う。
あそこに、家族一緒に住みたかったけれど……ネールには家族は居ないのだ。
そうだ。ネールには家族が居ない。だからお家はもう、要らない。
……そう思うのに、ランヴァルドの話はまだまだ続く。
「それから来週あたりにでも、家具屋を呼ぼう。お前、どういうベッドがいい?エヴェリーナお嬢様のベッドみたいなやつがいいか?まあ、あれじゃあ大きすぎるだろうが……ああいうのを小さめに作ってもらって、それをお前の部屋に入れてもいいぞ」
ベッド……エヴェリーナのベッドは、大きくて、ふわふわで、ベッドの上にレースの屋根がついていて、とっても素敵だった。
けれど、ネールには必要のない物だ。お家だって、ベッドだって、要らないのに。
「そうだ。お前の部屋のカーテンは何色が良い?やっぱり藍色か?お前、藍色が好きだよな?」
そう言われて、ふと、ネールはランヴァルドの顔を見上げた。大好きな藍色を探して。
……そこでネールは、ぎょっとする。
もしネールが声を出せたなら、『どうしてあなたが泣きそうな顔をしているの』と、言っていただろう。
ネールがランヴァルドから目を離せなくなってしまった間にも、ランヴァルドは笑う。ああ、まるで、痛みを堪えて無理矢理に笑っているみたいに。
「それで……やっぱり増築するぞ。今のままじゃ、居間とお前の寝室と、二部屋しか無いよな?やっぱり俺は、俺の部屋が欲しい」
そうしてネールはすっかりランヴァルドの話を聞いてしまい……あれ?と首を傾げる。
ランヴァルドの、部屋。ネールのお家に。
……ああ、どうしよう。どうしよう!また『要らない』って言われてしまったら、ネールはきっと、今よりもっと辛いんだって、分かっているのに。
なのにランヴァルドは、砕けてしまった夢の欠片を拾い集めては繋ぎ合わせて、段々別の形になっていくそれを、ネールに見せてくれるのだ。
「ん?当然だろ。俺もお前の家に住むつもりだ。なあいいだろ?もう俺とお前は家族みたいなもんだ。なあ、ネール」
……ネールは深く思い知った。
ネールはもう、冬の森へは帰れない。
温かさを知ってしまった。だからネールは……いつか『要らない』と言われてしまうかもしれなくても、それでも、今は、頷いてしまうのだ。
「よし、いいな?……ははは、よかった。断られたらどうしようかと思ってたんだ。ありがとうな、ネール」
ネールを抱きしめる腕の温かさも、少し上ずって震えている声も、全部、あんまりにも大好きだから。
……そして、ネールのことが大好きだと、伝えてくれるから。
「あ」
ぐらり、とまた地面が揺れる。
上から、石が降ってくる。
大きな石だ。ネールくらい、いや、ランヴァルドだって圧し潰せてしまうくらいの。
そんな石が降ってくるのを、見上げて……ランヴァルドは、ネールの上に覆い被さろうとする。
……この人は、ネールを守ろうとしてくれるのだ。
だからネールはランヴァルドの腕の中から飛び出して、ナイフを抜く。
大丈夫だ。ネールにはできる。
ネールは強くなる。ネールは……ネールの新しい家族を守るために、いくらでも魔法を使えるのだ!
降ってきた石を吹き飛ばしたネールは笑って、ランヴァルドを振り返る。
『帰ろう』と。
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