薄氷の上*2
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ああ、どうしよう。どうしよう!
ネールは泣きそうな顔で、紙をランヴァルドに見せた。
……だって、ネールの弟が、遺跡に入っていってしまったのだ!
事の始まりは、ネールが森の中へ消えていくエイナルの姿をちらりと見たことであった。
ネールはその時、兵士の皆と一緒に魔物の解体作業を行っていた。ネールも兵士達もすっかり慣れたもので、すいすいと解体作業は進んでいたのだが……そんな折、ネールがふと顔を上げたら、森の中へ幼い弟が向かっていくのが見えた。
どうしたんだろう、お父さんとお母さんは一緒じゃないようだけれど、と、ネールは不思議に思った。
不思議に思っている間にも、エイナルの姿はどんどん遠ざかっていって……またネールは、首を傾げた。あっちの方には、遺跡があるはずだけれど、と。
そうしていたネールを見て、兵士達は『ネールちゃん、どうしたんだい?』と声をかけてきてくれた。
この兵士達は、ネールが喋ろうとするのを待っていてくれる人が多い。ランヴァルドがそうしているのを見て、こうするものだと思ってくれたのかもしれない。
何にせよ、ネールはありがたく、地面に魔物の血で『おとうと もりのほう いっちゃった』と書いて、首を傾げてみせた。なんでだろう、と。
……が、それから一気に、兵士達は大騒ぎになったのだ。
彼ら曰く、『子供が一人で魔力の濃い森へ向かうなどあってはならないことだ!』とのことであった。
ここでネールはびっくりした。どうやら子供は、魔力が濃い森に居てはならないらしい!
ネールはそんなこと、初めて知ったのだ。だってネールはずっとカルカウッドの魔獣の森に住んでいたし……その前もここで、森の中に置いていかれて、父親が狩りを終えて戻ってくるのをずっと待っていたのだから。
でも確かに、エイナルはまだ3歳だ。小さな子なのだから、危ない目に遭っては大変なのだ。
……ということで、兵士達が慌ててエイナルを探し始めたのを見て、ネールもまた、エイナルを探しに森の中へと駆けていった。
ネールがエイナルを見つけたのは、それからすぐのことだった。
何せ3歳の子供の足に比べて、ネールの方が圧倒的に速い。そして……ネールにはなんとなく、自分の弟がどっちに居るのか、分かったのだ。ランヴァルドが居る場所よりは分かりにくいけれど……。
そうしてネールは、森の中、山の斜面をずんずんと進んでいく勇ましい3歳の弟を見つけ、彼にそっと近づいていった。『あぶないよ』『みんな、さがしてるよ』と教えてやるために。
……だが。
「……ばけもの!」
エイナルは、ネールを見て真っ先に驚いた後……憎悪の籠った眼で、そう言ったのである。
ネールは一瞬、カルカウッドの町でのことを思い出して竦んだ。
ランヴァルドと出会う前……ネールはずっと、あの町の人達に『化け物』『魔物の子』と言われて嫌われていたから。それを少し……ほんの少しだけ、思い出してしまったのだ。
「お前なんて……お前なんて、いらない!」
更に、小さな弟はそう言い放つ。
ネールは困ってしまった。この弟を、どうやって説得して連れて帰ろうか、と悩んで……だが、そうしている間にも、エイナルはもう、駆け出していた。
……ネールはすぐさま動いて、エイナルを捕まえることもできただろう。
だが、咄嗟に力加減ができるかどうか、心配になって身が竦んだ。
最近ではネールも、人間相手に『手加減』した戦い方ができるようになってきた。ランヴァルドはそんなネールを褒めてくれる。
だが……それも戦える人間相手に、だ。3歳の、ネールより柔らかくて小さな生き物相手に、ネールは彼を傷つけずに捕まえるなんてこと、できるんだろうか。
そう、心配になったのが良くなかったのだろう。
エイナルはすぐに駆けていってしまって……そのまま、小さな穴に、すぽん、と潜り込んでしまった。
……石材と石材の割れ目は、遺跡の内部へと繋がるものだろう。それでいて、ネールが潜れるほどには大きくない。
ネールはすぐ、この壁を切り崩すことを考えた。ネールになら、それができる。……だが、ネールがそれをやってしまったら、エイナルは?巻き込まれて、怪我をしてしまうのでは?
かといって、ネールも遺跡の中へ入ろうとするならば、ここから更に離れた位置にある縦穴から入るしかない。時間がかかるし、エイナルから大分離れてしまう。
助けを呼ぼうにも、兵士達は既に散開していて、集めるにも時間がかかる。どこに誰がいるのか、ネールには分からない。だから……。
……そうして考えに考えたネールは、ぱっ、と駆け出したのだ。
居場所が分かるランヴァルドに、助けを求めるために。
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そうしてネールに助けを求められたランヴァルドは、即座に動いた。
エイナル……ネールの弟が遺跡に入った、となると、流石に少々まずい。
あの遺跡の中の魔物は既に全滅させているが、その後で弱い魔物が湧いているくらいは十分にあり得る。
何せ、ここ3年余り、ずっと魔力を吐き出し続けていた遺跡だ。遺跡に染み込んだ魔力は相当なもので、それらが全て消えてしまうまでにはまだまだ年月がかかるだろう。
……そんな遺跡に3歳程度の幼子が入っていってしまったというのなら、すぐさま連れ戻さねばならない。
「分かった。ネール、すぐに出発することになるが、行き違いになると困る。シモンさんとヘレーナさんには伝えてから行こう」
ネールは『どうしよう、どうしよう』とばかり、そわそわ落ち着かなげであったが、ランヴァルドはネールを落ち着かせるようにそう言ってやって……それから、イサクに向かい合う。
「すみません。どうやら、ネールの弟が遺跡に入ってしまったようです。連れ戻してきますので……」
ランヴァルドとしては、イサクともう少し話をしていたかったのだが。幼子の命の方が優先されるべきだろう。特に、相手はネールの弟だ。ここで彼の命が失われるようなことがあってはならない。ネールが悲しむ。
……まあ、エイナルを連れ戻すことによって、リンド夫妻に恩を着せたい、という打算も当然、あるが。
「ああ、分かりました。その間、何かあったら……いや。『何も起きない』ようにしておきます。いえ、ご安心を。私も……それくらいのことはできますので」
「ありがとうございます」
そしてイサクは、ランヴァルドが言いかけた言葉から察してくれるものがあったらしい。
ランヴァルドは『まあ、この人に任せておけば悪いようにはならないな』と確信すると、早速、天幕を出て走り出す。
天幕を飛び出したところで、アンネリエが驚いた顔をしていたが、ひとまず緊急事態ということで受け止められたらしい。実際、緊急事態なのだから仕方がない。
……そうして、ランヴァルドはすぐさま、ネールと共にリンド夫妻の元へと向かったのだった。
「エイナル!エイナル!……もう!どこに行ってしまったのかしら」
リンド一家の天幕の傍では、ヘレーナ夫人がエイナルを探しておろおろしていた。まさか3歳の息子が遺跡に入ってしまったとは思ってもいないらしい。
ヘレーナ夫人は、向こうの方からやってくるシモン相手に『駄目だわ、このあたりには居ないみたい』と心配そうに話していたが……そこへ、ランヴァルドとネールが走っていけば、流石にこちらに気づいたらしい。
「シモンさん!ヘレーナさん!少しよろしいですか!」
ランヴァルドが半ば叫ぶようにして話しかければ、2人は怪訝な顔をしてこちらを向く。
……特に、様子の変わったところは無い。つまり、アンネリエに『ランヴァルドがネールを誘拐した旨について』の書状を見せた後の人間達には見えないのだが……まあ今はそれどころではない。
「エイナル君が、裏の山の遺跡に踏み入ってしまった、と……ネールから聞きました」
「ええっ!?なんですって!?」
ランヴァルドが告げると、リンド夫妻は青ざめる。
「どうか、落ち着いて。遺跡の中の魔物は一度、掃討済みです。しかし……その後から、魔力によって生まれた魔物が居ないとも限りませんので、これから我々が……」
そうしてランヴァルドはリンド夫妻に、遺跡の説明を始める。
一度攻略済みの遺跡だと分かれば、遺跡を攻略した張本人であるランヴァルドとネールに任せる安心感を得られるだろう、と。また、同時にちゃんと現状は伝えておいた方がいいだろう、とも。
……だが。
「エイナル!」
ヘレーナ夫人が、走り出す。然程速くはないが、それでも不意を突かれたランヴァルドは、ヘレーナ夫人が走り去っていくのを止められない。
「お、お待ちください!魔物が居るかもしれないんですよ!?」
ランヴァルドは慌ててヘレーナ夫人を追いかけようとしたが……そのランヴァルドの二の腕を、シモンが掴んでいた。
「……あなたは信用できません」
そしてシモンは、ぎらつく目でランヴァルドを睨みながらそんなことを言い出したのである。
「……信用できない、と仰るお気持ちは分かります。ですが、私は一度、この遺跡を探索しております。魔物とも、ある程度は戦える。どうかお任せいただけませんか」
ランヴァルドはシモンの手をそっと剥がそうとしつつ、そう努めて穏やかに話しかける。だが。
「あなたが、エイナルを攫って遺跡へ放り込んだのでは!?」
「は?」
……終いにはそんなことまで言われてしまうのだから、唖然とするしかない。
「こんなことをしてまで、ネレイアを盗みたいのか!?」
「シモンさん。落ち着いて。私は……」
「いや、或いは……あんたじゃなくて」
シモンを落ち着かせようとしたランヴァルドであったが、シモンの血走った目が、ネールに向く。
ネールがびくり、と身を竦ませる前で、シモンは『お前が』と口を開き……。
……ランヴァルドは咄嗟に、『シモンにこの続きを喋らせてはいけない』と思った。
「ああもう!分かりましたよ!」
結果、ランヴァルドは柄にもなく大声を上げてシモンの言葉を遮ることになった。
……シモンは何か喋りかけていたが、シモンの言葉はランヴァルドの声にかき消されてネールの耳にまで届かなかっただろう。
「なら、ご一緒にどうぞ。ですが、我々から離れないでいただきたい。よろしいですね?この条件を呑めないなら、あんたはここでぶん殴って気絶させてでも置いていく」
更にランヴァルドが結論を迫れば、シモンはそれ以上、碌でもないであろう言葉を発することはなかった。
「ほら、どうする?さっさと決めてくれ。今も、あんたの息子と……先に行っちまった奥さんの命が危ないかもしれないんだからな」
ランヴァルドが上から睨み付けるようにそう言えば、いよいよ、シモンは大人しく頷いた。
「……家族の有事です。私も行きます。当然だ」
ネールが『家族の有事』という言葉に頷いたが、シモンはそんなネールを見てはいなかった。
ランヴァルドはネールに先に行かせた。
……というのも、ランヴァルドもシモンも、ネールの足手まといにしかならないからである。
山や森の中を駆けていくネールは恐ろしく速く、並大抵の人間では追いつくことすらできないのだ。
今回のことは、ネール1人で十分に解決できるだろう。エイナルを探して、彼が魔物に襲われているようなことがあればネールが魔物を片付けて……それで終わりだ。それだけでいいはずだ。なら、ネール1人を先に行かせてしまった方がいい。
そんなネールを追いかけて、ランヴァルドはシモンと共に走る。
……流石に、日々歩き回っている旅商人なだけあって、ランヴァルドはそれなりに体力がある。最近は魔物狩りについていくことも多かったので、余計にだろう。
一方のシモンは然程体力が無いと見えて、なんとも辛そうであったし、途中で合流できたヘレーナはすっかりへばっていたが……そんな彼らを連れて、ランヴァルドは遺跡の入り口へと辿り着いた。
幸いにして、魔物の気配らしいものは感じられない。なら、エイナルもきっと無事だ。無事に決まっている。
……そう思いつつも、どうにも、嫌な予感がする。ランヴァルドは予感を振り切って、シモンとヘレーナと共に、遺跡の中へと踏み込んだのであった。




