本物の家族*2
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ネールは天にも昇る心地だった。
だって、だって……死んでしまったと思っていた父親が、生きていたのだ!
今、お隣の寝袋の中に入っている父親は、ネールを見て、目が合うと微笑み返してくれる。ネールはそれがまた嬉しくて、にこにこと笑いが絶えない。
……本当は、ランヴァルドがそうしてくれるように、一緒の寝袋に入りたかったのだけれど。それはやんわりと断られてしまった。ネールはもうお姉さんなので、1人で寝た方がいいのだそうだ。
でも、これはこれでよかったかもしれない。こうして顔を眺めてにこにこすることができるから!
……夕食後、ネールはたくさん話した。ランヴァルドから教えてもらった読み書きは、ネールの言葉となってたくさんのことを父親に伝えた。
カルカウッドの近くの森の中で過ごしていたこと。美味しい葡萄が実っていて、よくおやつにそれを食べていたこと。いつかお父さんにも食べさせてあげるね、と約束して、それから、それから……寝ることになったのだ。
『ほら。そろそろいい子は寝る時間だ』と父親に諫められて、ネールはすごすごと寝袋に潜った。
……父親は、ネールの筆談に戸惑った様子だった。ネールが文字を書いてみせるのを見て、『もう、文字が読み書きできるようになったのか』と聞いてきた彼は、喜び以上に戸惑いが大きいらしかった。
それはそうだ。ネールは随分と変わってしまった。喋れなくなってしまったネールのことを、父親はどう思っているだろうか。
……ネールのことを、嫌いになってしまっただろうか。
少し心配になったネールだったが、父親は『続きはまた明日にしよう』と約束してくれたので、また嬉しくなってにこにこしてしまう。
……『明日』があるのだ。そうだ。『明日』がある!
眠って、それから起きても、お父さんが居てくれるのだ!ああ、なんと嬉しいことだろう!
そうしてネールは、『明日は何をしようかな』と考えている内に眠ってしまった。
なんとも幸せそうな顔で。それこそ、『竜殺しの英雄』になんて、到底見えないような様子で!
ああ……幸せだなあ、と、思いながら。
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ランヴァルドが古い日記のページを捲る音だけが、小さく天幕の中に響く。
日記に記された文字は、女性のものだろう。つまり、ネールの母親のものと思われる。ランヴァルドは既に一度、この日記に目を通したのだが、なんとなく眠れないまま、こうしてページを捲っている。
ネールの母親はそれなりにマメな性格であったようだ。日記は、毎日ではないものの、週に1度は何かを書いていたようである。それがずっと続いているのだから、大したものだ。
……だが、そんな日記はある日で終わっている。日付は、ジレネロストの災害の、前日だ。
その日の日記は、『パイを焼いた。シモンも喜んでくれた』というような、ごくごく平凡なものであった。……あの大災害の前日まで、ネールの母親は『いつも通り』に過ごしていたのだろう。
ランヴァルドは後ろから遡るようにして、日記を捲っていく。
そこにあるのは、只々平凡な日常のことだ。シモンが狩ってきた鹿の肉でシチューを作っただとか、刺繍が1つ完成しただとか、雨漏りしているからシモンに屋根を見てもらわなければ、だとか……そんな内容ばかりがある。ごく普通の日記である。
……そうして少しページを遡っていけば、ふと、間が空いている個所が目に留まる。
「……ここの半年くらいは日記を書いていなかったんだな」
遡ったページに空白は無い。ただ、日付が大分とんでいるだけだ。
何かこの間にあったのだろうが、それを正確に知ることはできない。ただ……日付がとんだ先、つまり、『何かある』前の部分を読んでいくと、なんとなく察せられるものがある。
……『何かある』前の日記には、ネールが出てくるのだ。
『ネレイアがまた、魔物を狩ってきた。あの子が恐ろしくて仕方ない。明日は教会に連れていく。』
日付が飛ぶ前の最後には、そう書いてある。
そこから更に遡っていけば、ネールがシモンが狩りに行くのに付いていって、その間山の中で過ごしていたらしい様子が読み取れた。
ネールが魔獣の森で元気に過ごしていたのは、元々、山の中で遊び回ることが多かったからなのかもしれない。
そして……やはり、ネールの狩人としての腕前は、この頃から既に散見されていたようだ。
日記に記されているものは、ごく一部だ。ネールが魔物を狩ってきたことへの戸惑いと、あまりにも強いネールへの恐れのようなものは見て取れるが、ネールが狩った魔物の数やその様子などが正確に記されている訳でもない。
更に遡っていけば、『ネレイアの6歳の誕生日。あの子が好きなベリーのパイを焼いた。喜んでくれた。これからも健康に育ってね』というような文章も見られるようになっていき……やがて、日記は只々平穏な、父と母と娘の家庭を記したものになっていく。
遡れば遡るほどに優しく、穏やかな日々が綴られている。それがどうにも、やるせない。
「……何があったかは、まあ、なんとなく想像がつくが……」
ランヴァルドは、優しい家庭の情報をこれ以上目に入れていたくなくて、さっさと日記を閉じてため息を吐く。
「問題は、『今』どうなのか、なんだが……どうしたもんかね」
考えることは山積みだ。それでいて、その山は嫌々にでも崩していかねば……崩れて、ランヴァルドを埋めかねないのである。
全く、厄介なことになった。
翌朝、ランヴァルドはあまり眠れないまま起床した。
……日記を閉じた後、すぐ寝ようとしたのだが、なんとなく寒く、寝つきが悪かったのである。
こういう時、ネールが潜り込んでくると温くて丁度いいのだが……ネールに『こういうのはよくない』と言っている手前、今更そんなことを提案してはならない。
そもそも、ネールは昨夜から、父親と一緒に寝ているのだ。今後潜り込むにしても、家族の寝袋に潜り込むだろう。ネールのためにも、その方がいい。
その方が、いい、のかは、よく分からないが……。
……ランヴァルドはどうにも、シモンや彼の妻に、不信感を抱いているようである。
途中からネールのことが記されなくなった日記も。ネールが誰よりも強いことを知っていただろうに、ネールを置いていく判断をしたことも。ネールに読み書きを教えなかったことも。そして……『今更』ネールを探しに来たことも、どうにも胡散臭いな、と思う。
……更に言ってしまえば、ランヴァルドはこう思っている。
『ネールの両親は、ネールの親として相応しくないのでは』と。
「……俺が口を出すことでもないか」
だが少し考えて、ランヴァルドはそう結論を出した。
「俺がネールの親代わりだっていうわけでもないことだし……」
ランヴァルドは、少々顔を顰めつつため息を吐いた。
ランヴァルドは、ネールの親代わりをする気は無い。その『ふり』をすることはあったとしても、わざわざそんな責任を背負いたいとは思わない。旅商人は身軽でいたいのだ。
だから、ランヴァルドはネールを利用することはあれども……彼女にとって良い悪いだとか、どうだとか、そういうことを論じる立場ではないのである。
「ネールはシモンに懐いてる訳だしな」
……ここでランヴァルドが、ネールに『お前の父親、本当にお前のことを大事に思ってるのか?』と告げ口してやることは、できる。だが、それは……今、シモンを信頼して懐いているネールに対して、あまりにも酷だろう。
ランヴァルドが黙ってさえいれば、上手くいくのかもしれないのだ。
ランヴァルドがシモンに感じている胡散臭さは、ランヴァルドが厄介な立場に追い込まれつつあることへのやっかみのようなものなのかもしれない。実際、ランヴァルドにとってはネールの父親など、出てこないでくれた方がありがたかったのだから。
そうだ。勘違いかもしれない。特に、シモンは然程頭が切れる方には見えない。となると、ランヴァルドにとっては不可解なことであったとしても、彼にとっては……まあ、ただの『うっかり』であった可能性が高い。
彼がただ本当に、ネールを愛する父親であると考えられないわけではないのだ。
それに……シモンが今までどうであれ、これからネールと真っ当な親子関係を築いていけるかもしれないし……そうでなかったとしても、それでも、ネールはそれがいいと思うかもしれない。
ネールが選ぶことだ。仮にシモンが口を出すにせよ、ランヴァルドは口を出していい立場ではない。
ランヴァルドは他人だ。ネールの家族ではないのだから。
「ま、問題は、今後ネールがどうなるか、だな……」
さて。
シモンとネールのことは、まあいい。好きにやればいい。
だが、ランヴァルドが好きにやれなくなるのは困るのだ!
……今後、どういうことになるかは分からないが、ネールの家族はネールが戦うことを嫌がるかもしれない。そうなった時、ランヴァルドは今までのようにネールを使えなくなる。
いつかはネールの手を離す時が来るだろうとは思っていたが、薄っすらと予定していたよりも大分、早い。場合によっては、予定が大幅に狂いそうである。
……ネールの家族が『どう』であれ、ひとまず彼らが、ネールが働くことを認めてくれれば良いのだが。
天幕を出ると、ネールがぱたぱたと駆け寄ってきた。後ろにはシモンの姿も見える。……2人とも、なんとなく眠そうなのは寝付けなかったからだろうか。
まあ、積もる話もあっただろうしな、とランヴァルドは納得する。少なくとも、ネールの方には積もる話だらけだっただろう。声こそ出ないが、きっと筆談で話そうとしたに違いない。
ネールは少しばかり眠そうであったが、ランヴァルドに駆け寄ってきて、きゅ、とランヴァルドに抱き着く。……シモンが居る手前、こういうのもどうなんだ?と思うランヴァルドではあったが、ひとまずシモンには気づかないふりをしつつ、ネールに『よく眠れたか?』と聞いてみた。……案の定、ふるふる、と首を横に振られた。
眠れなかったんだな、と聞いてみれば、ネールはこっくり頷いて、それから、顔を顰めつつ肩を抱くようにして、ふるり、と身震いして見せてきた。……寒かった、ということだろうか。ならシモンの寝袋に入れてもらえ、とランヴァルドは思うのだが。
「ああ、ええと……マグナスさん、でしたね。おはようございます」
そうしている間に、シモンがやってきて少々疲れた顔を向けてきた。……ネールの話に付き合わされていたのかもしれない。難儀なことである。
「おはようございます。そろそろ、朝食の準備が終わる頃ですよ。ご一緒にいかがですか」
ランヴァルドはにこやかにそう、シモンに告げる。今後もネールを利用したいランヴァルドとしては、シモンのことを取り込めるならそうしたい。そういうわけで、彼には親切にしておくに限る。
……だが。
「ありがとうございます。その……」
シモンは、少々口籠ってから、やがて意を決したように、ランヴァルドへ海色の瞳を向けてきた。
「朝食を頂いたら、昼前には発とうと思います。それで、その……ネレイアを、王都に連れて帰りたいのですが」




