ねえ、きいて
「ねえ、きいて」
わたしがそう、あなたの背中に呟いて何を言っても、あなたはこちらを向くことはなくスマホの画面を眺めながら気のない返事を寄越す。
わたしは薄暗い部屋の中、すぐ目の前にある背中に指先で触れようとして、やめた。多分、そうすると彼は鬱陶しそうに身体をよじり、こう言うからだ。
「ねえ、今日はいつ帰んの?」
わたしはその言葉が嫌いだ。身体以外、何も必要とされていないというのを突き付けられるから。その事実を知っていてもなお、やはりあなたの口から聞くのは嫌だった。何よりも、嫌だった。
わたしは気づかれないように小さくため息を吐き、そしてあなたの、髪の乱れた後頭部を眺めた。
なぜ、この人だったのだろう。好きと言う感情が芽生えたのが、この人だったのだろう。
想像をする。しようとする。あなたみたいなクズじゃなくて、優しくて、誠実で、わたしだけを見てくれる人を好きになる想像。温かくて、幸せな想像。目の前にある虚無の如き性欲じゃなくて、どこまでも透明に澄んだ日常の、そんな想像。
でも、できなかった。そんな人のことを、好きになっている自分が想像できなかった。
掛布団を引っ張り上げ、ベッドの奥に潜る。あなたとわたしの匂いが混じり合った、濃厚な匂いがする。その匂いで、抱かれている時のことを思い出して、幸せな気持ちになっている自分に嫌気がさした。
布団の中の、その漆黒に問いかける。
そもそも、この気持ちは、本当に好きと言う感情なのだろうか。誠の、感情なのだろうか。
依存。そういう言葉が浮かんでくる。声に出さずにそれを呟いてみて、わたしはなるほどと思った。まるで複雑なパズルのピースがきっちりと嵌った時のような心地よさすら感じたのだ。
いや、ようやくその事実に目を向けることができたことへの安心感なのかもしれない。とっくの昔に知っていた『ソレ』に、気が付かないようにしていただけなのだろう。
あなたが、僅かに身をよじった。そして、掛布団を捲る。
「なにしてんの?」
あなたは困惑した表情で、そう言った。わたしは「なんでも」と言ってベッドの奥から這い出た。
這い出ながら、思う。
わたしの中のあなたへのこの感情が――好きというこの塊が、ただの歪な依存だとしたところで、なんだというのだろう?
わたしには、わたしを形成するためにあなたという『クズ』が必要だし、あなたはそのうちに眠る濁流のような性欲を吐き出すためにわたしが必要だろう。それでいいじゃないか。少なくとも、今は。
わたしがただ、傷つくだけで、我慢をするだけで、わたしは限定的な幸せを得られるし、あなたは限定的な快楽を得られる。
それでいい。
それで、いい。
でも――
わたしはベッドから這い出すと、肘を突いた格好で見下ろしてくるあなたの胸に触れた。僅かに汗ばんだ、硬い胸板。そこに頬を擦り付け、顔を上げて唇を吸った。
――でも、だとしても、わたしの方を見てほしい。そこに好きなんて感情が、少しも含まれていないのだとしても。
「ねえ、きいて。わたしね、赤ちゃんできたんだよ」
「は。――え?」
わたしはあなたに背を向けて、ベッドに倒れこんだ。あなたは何かを言っている。でも、わたしはその全てを無視した。あなたは段々と不機嫌になっていく。それでもわたしは無視をした。
暫くそうしていると、あなたはわたしの肩に触れて言った。半泣きになりながら、こう言った。
「ねえ、きいてよ」