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やまぶきの花

作者: 宮沢いずみ

 銀色の糸は、途切れ途切れ、真っ直ぐに、滑り落ちる。微かな発光は、ゆらゆらと静かに燃えながら、滑り落ちる。これを、雨が降る、という。

「雨は、銀色」

 銀色の糸は、ただただ落ちる。時に私の指先を絡めながら。

 窓から、ぼうっと庭の様子を見ていた。糸に絡まる木は光り、呼吸を感じさせる。濃い葉は、まあるい水滴を転がし、その水滴は、葉を中に閉じ込める。花の上で水滴は跳ね、揺れる花は、無表情。ただただそこにある風景。

濡れる。じんわりと、静まる。匂いは澄んで、空気はより透明になって、いや、青くなって、霞むのは、わたしの目ばかり。

落ちてゆきます。銀色の糸は。空気は。空は。落ちてゆきます。

山吹が見える。山吹の黄色には、灰色の空は似つかわしくない。青、というよりか少し水色がかった淡い空が似合う。


十三年前、丘の上の大きなお屋敷に住んでいたお姉さんは、淡い水色のワンピースを着て、黄色いガラス玉のネックレスをして、そして髪からは大人の匂いがした。さらさらした長い髪は、子供のような幼い顔とは正反対の、大人の匂いで包まれていて、私はそれが嫌いだった。どうしてそんな匂いをさせているの。それは香水とかコロンとかいうのでしょう? 大人の、けばけばした女がするものでしょう? 似合わない。似合わないよ。

お屋敷の庭に、山吹の花が咲いていたのを覚えている。

「山吹色の、山吹よ」

 と、お姉さんに教えられて、初めて山吹色の正体を知ったのだけれど、色鉛筆の山吹色は黄色よりももっと濃くて、だけれど実際の山吹の花は黄色に近くて、私は、ふうん、と思っただけで、そんなただの知識、何にもならない、なんて大人びたことを思いながら、何も返事をしなかった。

 お姉さんはふんわりと微笑んで、だけどその微笑みが白々しく持続されて、とても嫌な気持ちになったのを覚えている。

 お姉さんはいつもふわふわと微笑んでいて、なんだか宙に浮いているのでは、と思わせるような歩き方、華奢さ、雰囲気、を持っていた。

 私がそのお姉さんに初めて出会ったのは、小学校三年生になる前の、いつもより温かい春休み。


「ねぇ、美絵、ちょっといい?」

「なあに? お母さん」

 私はお母さんに呼ばれて台所に行った。お母さんは人参を切るのを中断して、私の方をくるりと向いた。

「裏の丘の上にお屋敷があるでしょう? そこのお嬢さんが東京から戻ってきたんですって。事情は知らないけど、とても優秀な方だそうで。美絵、三年生になる前にお勉強見て貰ったらどうかしら、と思って」

「え・・・。別にいいよ、そんなの」

「でも、三年生になったらきっとお勉強は難しくなるし。ちょっとした予習だと思ってやってごらんなさいよ」

「えー!」

「と言うか、もうお願いしちゃったから、朝一時間くらいなら時間あるでしょ? 三日に一度くらいでいいから、行ってらっしゃいよ」

「何それー! 私に何も言わずに勝手に決めて!」

「どうせお勉強なんて一人じゃしないでしょ」

「そりゃ、そうだけど」

「いい機会じゃない? 春休みだけでいいから」

「うーん」

「きれいな方だそうよ。それにほら、お金持ちだから、きっと美味しいお菓子やケーキを用意して待っててくれるんじゃないかしら」

 東京から戻ってきた、と言っても、ここは神奈川だし、東京はさほど遠くもなければ珍しくもない。勝手に何を決めてるんだお母さんは。とも思ったけれど、確かに春休みは暇で、宿題もないから勉強だって当然しない。まあ、いっか。美味しいお菓子とケーキがあるのなら。と思い、お母さんに「分かった」と返事をした。

そうやって、半ば美味しいお菓子やケーキに釣られる形で、私は次の日、そのお屋敷へ行くことになった。

 とりあえず、苦手な算数のノートの筆箱だけを鞄に入れて、電気を消してベッドにもぐりこんだ。私は人見知りをあまりしない方なので特に緊張することはなかったけど、なんとなく、いつもよりも寝つきが悪い気がした。

 翌朝、母に見送られ、家を出た。

 裏の丘までは歩いて十分かかるかかからないか程度。ゆっくりと歩きながら、植え込みに生えている草を見たり、鳥を眺めたりして、なんとなく、春だぁ、なんて思いながら、これまでだって春を経験しているし、これからもきっと何十回と経験するのだろうけど、その都度、ああ、春だ、と思うのかな、なんて思いながら、お屋敷の前に辿り着いた。

 大きな木で出来た門をくぐると、そこには庭園と呼んでもいいような庭が広がっていた。

「すみません」

 大きな声を出してみたけれど何の反応もなく、少し前進して、それからもう一度、「すみませーん!」と叫んだ。

 すると、奥の方に見えるこれまた大きな玄関からおばさんがカランカランとつっかけの音を鳴らしながらやって来た。

「あら、こんにちは。もしかして、永瀬さんのところの美絵ちゃん?」

「はい。はじめまして」

「まあ。しっかりした子ねぇ。どうぞ入って頂戴ね」

 優しそうなおばさんは白いエプロンをしていて、髪が半分白くてくるくる巻きで、いかにも、私のお母さんの一つ前の時代のお母さん、という感じがした。。

「お邪魔します」

 そう言って玄関に入ると、花のいい香りがした。

「いい匂い」

 思わずそう言うと、

「これは梅の花の香りよ。ここに飾ってあるの」

 と言って梅を指差した。下駄箱の上に飾ってある大きな花瓶に生けられていて、鼻を近付けると、とても甘い香りがした。

 私はとても良い気分になりながら、部屋へ通された。大きなソファに座って待っていると、おばさんがお菓子を運んできてきれた。私は、やったー! と思いながら、そのお菓子を見つめていた。

「今、小夜子を呼んでくるから、ここで少し待ってて頂戴ね」

「は、はい」

 マドレーヌを手に取って、それからフィナンシェを手に取って、どちらにしようか迷っていると、ガチャ、とドアノブを回す音が聞こえ、そこから淡い水色のワンピースを着た女の人が入ってきた。

「始めまして。えーっと・・・」

「あ、始めまして。永瀬美絵です」

「ありがとう。美絵ちゃん。私は小夜子と言います」

「は、はい」

 ふわっと小夜子お姉さんは微笑んだ。

「今日は来てくれてありがとう。よろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 パタパタパタ、と足音が聞こえてきて、するとおばさんがドアの向こう側から顔を出した。

「あら、小夜子、ここに来てたの、探したわよ」

「ごめんなさい、お母さん。とても気になったから」

「あ、美絵ちゃん。この子が小夜子よ」

 もう一度お姉さんは微笑んだ。私は、家が大きいと大変だなぁ、家族を探すなんてことが家の中であるんだなぁ、と思いながら、にこっと笑ってみせた。

「それじゃあ、一時間くらいしたら、また来るわね。お勉強頑張って」

 おばさんはそう言って部屋から出て行った。

「お菓子、食べる?」

 お姉さんがそう言ったので、私は大きく頷いて、マドレーヌを手に取った。袋をつまんで開けようとすると、お姉さんがゆっくりとわたしの方に近づいてきて、そして隣に座った。座ると同時に、ふわっと匂いがした。花なのか果物なのか、何なのかは分からなかったけれど、とてもきつい匂い。偽物の匂い。生えている花や成っている果物ではなくて、シャンプーのような、石鹸のような、そういったもののもっと強い匂い。ドキっとして手が止まりそうになったけれど、マドレーヌを口に運んで、もそもそと食べた。マドレーヌが、その匂いの味になってしまった気がした。

「美味しい?」

 お姉さんがそう言って顔を傾けると長い髪が揺れ、その匂いは私のまわりにこびりつく様に漂った。

 私は、はい、と頷いて、それからマドレーヌを一気に食べた。

「あの、お姉さんは、何歳ですか?」

 何故それを聞いたのか自分でも分からなかったけれど、勝手に声になって出てしまった。

「二十一歳よ。美絵ちゃんは?」

「八歳です」

「八歳なの。次は小学校の三年生だものね」

 知っているなら、聞かなくてもいいのに。そう思いながらお姉さんの顔を見ると、とても二十一歳には見えなかった。十六、十七、そんな気がした。

 それから少しの間沈黙が続いた。私は小学校でも友達がたくさんいるし、昔から人見知りをしないと言われてきたし、何かと話題が沸いて出る人間だったのに、何故だか、何も出てこなかった。フィナンシェにも手を伸ばして、封を切って食べたけれど、お姉さんの匂いの味しかしない気がして、美味しいと感じなかった。

 ちらちらと、首からぶらさげているネックレスが揺れた。真っ黄色のまあるい玉が真ん中に付いていて、それもなんだかこのお姉さんには合わない気がして、とても歪に見えた。

「あの。お母さんに、お勉強を見てもらうように言われたんです」

「はい。分かっています。では始めましょうか」

 分かっているなら、そう切り出してくれればいいのに。と思いながら、ノートと筆箱を取り出した。三年生では、余りがある割り算というものを習うらしい。私はお姉さんの割り算の説明を聞いた。分かりにくいわけではないけれど、分かりやすいわけでもなかった。丁寧に問題集まで買ってくれていて、少し恐縮した。

 でも、お姉さんが動くたびに、黄色がちかちかして、そして髪の匂いが鼻に付く。どうしてこんな匂いのするものを付けているんだろう。付けない方がいいのに。見た目に似合わないその匂いに、私はだんだんと気分が悪くなって、というか、とても嫌な気持ちになっていった。

 問題集も、私が解いた問題の答えを回答を見て丸を付けるだけで、説明する内容は問題集に書いてあることばかり。読めば分かるよ、と何度も言いたくなった。とても優秀な人、と言われていたのに、とてもじゃないけれどそんな気は全くしない。

 私は時計ばかりに目が行き、後十五分、後十分、と長針を目で追い、お姉さんはそんな私の様子に気付いていたのかどうか分からないけれど、一生懸命に問題集を解かせた。

「これはね・・・」

 とお姉さんの顔が近寄ると、私は無意識にうちに息を止めていた。どうして私が来るからって、香水を付けるの? それともいつも付けているの?

 一時間が過ぎ、コンコン、とドアをノックする音が聞こえ、おばさんが部屋に入ってきた。私はなんだかとても安心して、今すぐにここから逃げ出したい気持ちになってしまった。

「どうだった?」

「は、はい。わかりやすかったです」

「それはよかったわ」

 おばさんがそう言うと、お姉さんはまた微笑んだ。

「またよかったら来て下さいね」

 おばさんにそう言われ、私ははにかんでから小さく頷いた。

「あの、もう帰らなきゃいけないので」

「もう少しゆっくりしてってもいいのよ」

「いえ、約束があるので・・・」

 嘘を吐いた。

「そう。じゃあ、見送りましょう。小夜子もいらっしゃい」

「はい」

 玄関を開けると、雨が降りそうな空気だった。辺りが湿っていて、空がだんだんと低くなっていく。風の音が、そわそわと何かを駆り立たせる。

「あら。雨が降りそう。傘、持っていく?」

「いいですいいです。家、すぐ近くなので大丈夫です」

「でも・・・・・・」

「ほんとに、いいです」

 そう言って急いで靴を履いて玄関を出た。

「ありがとうございました」

「こちらこそ、わざわざ来てくれてありがとうね」

 お姉さんは何も言わず、ただ微笑んでいるだけだった。本当にずっと微笑んでいるだけだった。なんだか、それは惰性のような気がして、少し怖くなった。

「門まで送ってってあげなさい」

「はい」

 ああ。もう余計なこと言わなくていいのに。そう思いながら、私は笑って、お姉さんと門までゆっくり歩いた。庭には、山吹の花が咲いていた。

「あの、これ、きれいですね」

「これは、山吹の花。山吹色の、山吹よ」

 お姉さんのネックレスと同じ色だった。ちらっとネックレスを見て、それからお姉さんをほんの少しだけ睨んでみた。だけど、手ごたえは何もなかった。

 すると、ひやっと、水滴が頭の先に落ちた。さらさら、と小雨が降ってきた。

「あら、雨。やっぱり傘を・・・」

「いえ、いいです、ほんとに近くなので」

「でも・・・」

「ほんとに大丈夫ですから」

「そう。じゃあ、風邪ひかないように、急いで帰ってね」

「はい」

「雨は、銀色ね」

「え・・・?」

「いいえ、なんでもないの。じゃあ、気をつけて」

「はい。ありがとうございました」

 門をくぐると、私は全速力で走った。土の色が、濃く変わる。葉が、跳ねる。匂いが、まだ私のまわりにまとわり付いている気がした。雨は銀色なんかじゃない。ただの水で、水は透明だ。

 家に帰ったら、すぐにシャワーを浴びた。シャワーだって銀色じゃない。ただの水滴。お湯を頭からかぶって、匂いを落とした。やっと落ちついた気がした。

 雨は次の朝も続いていた。しとしとと、空気が濡れる音がする。

「ねぇ、お母さん。あのお屋敷、もう行きたくない」

「あら、どうして。昨日電話がかかってきて、とても良い子だったわよって言ってらしたのに」

「嫌だ。行きたくない」

「春休みの間くらい・・・」

「嫌。絶対行かない」

 お母さんは、少し怪訝そうな顔をしたけれど、私が絶対に嫌だと言い張ったので、分かった、と言ってくれた。

 それから春休みは何事もなく過ぎていった。もしもお屋敷のおばさんやお姉さんにどこかで出くわしたら、何て言えばいいだろう、と心配したけど、そんなことは一度も無かった。

 三年生になって、二日目の夜だった。私は明け方に目を覚まして、水を飲もうとして台所の近くまで来ると、お父さんとお母さんの話し声が聞こえた。

「あそこのお屋敷のお嬢さん、亡くなったんだって?」

「ええ。そうらしいのよ」

「自殺っていう噂だけど、本当なのか?」

「多分。ほら、結婚に失敗して、実家に戻って、でもだめだったみたい。もともとなんだか線が細いというか、生命が希薄なところもあったみたいだし」

「そうか。美絵は知ってるのか?」

「知らないわ。まだ言わないほうがいいと思って」

 私は後ずさりをして、足音を立てないように部屋に戻った。

 あの微笑みや、決して上手でない会話の仕方。問題集だって、きっと私が来るからって本屋で探したに違いない。それを楽しみにしていてくれたのかもしれない。髪の匂いも、きっと精一杯の、一生懸命さで、ネックレスだって、一番きらきらしたものを付けたんだ。全部全部、お姉さんの一生懸命さだ。

 多分、なんとなく、それが伝わってきて、それがとてつもなく嫌で、苛々して、私には分からないことばかりで、どうにかしようと頑張っているのが、とても腹立たしくて、きれいにしようとしているのが、痛くて、痛くて。

 夜の雨は、重たくて、暗くて、音だけが浮きだって、湿り気が、皮膚を覆って、私まで、水分になってしまいそう。

 何を考えて、何に絶望して、どうやって遠くへ行ってしまったのか分からないけれど、夜はどうしようもなく深く、どこまでも暗く、きっと毎日がこんなだったら、それは、もうどうすることもできないと諦めてしまうかもしれない。そんなことを初めて知って、考えて、お姉さんは微笑んでいたけれど、きっと本物の微笑みはどこにもない。私のために匂いを付けたなら、お姉さんは、その時はまだ、明日があったのかもしれない。

 窓の外は、うっすらと明るく、雲の合間から、淡い水色がちらほらと、だけど雨は降り続いていて、それは発光した糸のようで、銀色の糸のようで、落ちる、落ちる、落ちる。

雨は銀色だった。今頃、山吹はきっと、淡い水色を見つめて、銀色を地に落としながら、揺れている。表情は、見えません。背を向けていて、見えません。


私は今、二十一歳で、あの頃のお姉さんと同じ歳になった。庭には、山吹を植え、春になると、黄色く、煌びやかな色を空に見せる。

今日は生憎の雨だけれど、山吹は、空を見る。空の水色には山吹色がいい。

滑り落ちる糸は、ただの風景であるけれど。水色も、山吹色も、銀色も、私の手の中で、どうか細く、呼吸を続けて、私は、目の奥に、いつだってそれらを・・・。

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