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キツネ雨が導く未来

作者: ブレンド

昔々、賑やかな港町の迷路のような細い路地にひっそりと隠れるように喫茶店がありました。

店内はシャンデリアやステンドグラスなどの装飾が施され、レコードでクラシックを流していました。

しかし、そこには――


 ・


「はあ、なんでこんなことになったんじゃろ……」

 私は、先程から何度目とも知れないため息を吐いた。

 雲ひとつない空、太陽が燦々と輝く絶好のお散歩日和の中、私は公園のベンチに座り、一人頭を抱えている。今、私のいる公園には、家族連れやカップル、若い女子たちのグループがそれぞれ楽しそうに時間を過ごしている。そんな中で、この世の終わりみたいな暗い顔をしている私は、この場の空気からかなり浮いていた。

 ただ、私はなにも孤独感を味わうために、わざわざ休日を使ってこんなところまで来たわけじゃない。そんな頭のおかしい子では断じてない。本当なら私の隣には大好きな彼氏がいて、周りの楽しそうな連中の仲間入りをしているはずだったのだ。だけど今、私の隣は空白だった。



 今年で大学二年生になる私には、大学一年の冬から付き合い始めた彼氏がいる。彼とは大学の授業で一緒になったのをきっかけに知り合って、三度目のデートで告白された。正直、私たちの性格は正反対といってもいいくらいだけど、彼といると居心地は良かったからすぐに返事をした。似た者同士のカップルより性格の違うカップルの方が長続きしやすい、という噂を体現するかのようなカップルになれているはずだ。

 付き合い始めてから特に大きなケンカもなかった私たちは、二年生になるタイミングで同棲を始めた。ちなみに、住んでいるのは私の部屋だ。私は女子ということもあって、親がセキュリティのしっかりしてる、大学に近いアパートを選んでくれた。その分家賃は高めだけど部屋も広く特に不満はない。強いて言うなら一人で住むには部屋が広すぎることだ。逆に彼氏は親がなるべく安いアパートがいいということで、大学から遠く、部屋も狭めのアパートに住んでいる。どう考えても私の部屋に二人で住んだ方がいい、ということで私たちの意見は一致したのだった。

「ねえ勇太、今度のゴールデンウィークどこか遊びに行こうよ」

 私はベットに転がってスマホをいじりながら勇太に尋ねた。

 ソファに座って漫画を読んでいた勇太は、顔を上げてのんびりと答えた。

「そうじゃな。でも、ゴールデンウィークは部活の合宿もあるけえ、日帰りがええかな」

 小中高とバスケをしていた勇太は大学でも部活のバスケ部に入り、練習に精を出していた。大学における部活動はその種目に本気で取り組む選手が全国から集まるため、どの部もレベルが高い。しかし、目標が高い分、当然練習量も多く、ほとんどの部が週四から週五で練習をしている。そのことがネックで部活を避け、真面目に活動しているサークルに移る学生も多かった。

「そっか、合宿があるんじゃね。大変じゃね、部活生は」

 私も高校のときはバスケをしていたけど、特に強い思入れもなかったし、そんなに上手くもなかったから大学ではバスケはやらなかった。バスケの練習はほかの競技に比べて特にしんどい気がする。まあ、他の競技なんて体育の授業でしかしたことないから、部活になるとしんどい競技もあるのかもしれないけど。

「まあな。さつきは? サークルないん?」

 私は大学ではバレーボールのサークルに入っていた。高校の体育でやったとき楽しかったから、という単純な理由で探し始め、あんまりハードなのは嫌だから、初心者でも楽しめそうなサークルを探した。

 最初に行ったサークルは上手い人ばかりでみんな本気でやってたから止めといた。次に行ったサークルは緩い雰囲気で同級生も先輩も初心者が多いようだった。でも、みんな真面目に取り組んでいたし、先輩も優しかったからそこに入ることにした。そのサークルは不定期に練習があり、予定が合うときはだいたい参加している。この一年でそんなに上達したとも思えないけど、大学なんだし、部活でもないんだし、楽しさ優先だ。

「うん。ゴールデンウィーク中はサークルないんよ」

 ゴールデンウィークは参加者も少ないだろうということで、全日休みになっていた。あれば暇だから行ったのに。

「日帰りなら、広島がええかな。それか、岡山、山口、愛媛、香川あたり?」

「香川と愛媛は日帰りだとしんどそうじゃけ、また今度にしよ」

「たしかに。どっちも電車だと時間かかりそうじゃもんね」

 四国と本州を結ぶ橋は全部で三本ある。徳島と兵庫をつなぐ明石海峡大橋、香川と岡山をつなぐ瀬戸大橋、そして、愛媛と広島をつなぐしまなみ海道だ。

 明石海峡大橋は自動車のみ、しまなみ海道は自動車か自転車のみ通行可能で、瀬戸大橋は自動車の他に電車も通っている。私も勇太も車を持っていないので、四国に渡るとしたら、電車しかないのだが、瀬戸大橋を通るにしても、広島からでは三、四時間もかかってしまう上に乗り換えも多く、正直面倒くさい。

 車であればもう少し早く着くのにと思い、車が欲しくなってくる。

「山口も地味に時間かかりそうじゃし、日帰りだとあんまり遊ぶ時間なさそう。行くなら岡山か広島じゃね」

「岡山か広島かー」

 私も勇太も広島出身で、私は西側、勇太は北側の市に住んでいた。どちらの市も今通っている大学に毎日通うには少し遠かった。朝にめっぽう弱い私たちは親に懇願して大学のある市に下宿することになったのだった。

「じゃあ岡山の美観地区とかどう?」

 どちらも広島出身ということで私は岡山の有名観光地を提案してみた。実はまだ行ったことがなく、一度行ってみたいと思っていたところだ。

 だが、そんな私の希望は次の一言で一蹴されてしまう。

「あ、ごめん、美観地区は去年大学入ってすぐ学部の友達と行ったわ」

「え、学部の友達って男子? 女子?」

 勇太は工学部に所属している。工学部といえば、男女の比率が九対一にも満たない男子の巣窟であると大学生界隈で有名だ。そんな工学部での友達であるならまず間違いなく男子だと思われるが、もし女子であったなら見逃せない。美観地区に男女で行くなんてその女子は勇太に気があるかもしれない。そんな女子と日常的に会っているとしたら彼女としては心配だ。

「男子に決まっとるじゃろ」

 そんな心配は杞憂に終わった。

「あそこに男子だけで行ったん?」

 これは失礼な質問であると後で反省した。

「うっさいわ。別にえかろ」

 そう言って勇太は漫画に目線を戻してしまった。

「ごめんごめん。なんか勇太がああいうとこ行くの意外じゃったけ」

 ふてくされている勇太をなだめるため両手を目の前で合わせる。

「ああいうところが女子だけが好きだと思うなよ」

 勇太が自分の正当性を示すように念を押してきた。でも、声のトーンで本気で怒っていないことは分かる。

「そうじゃね、すみませんでした。でもそうなると岡山もめぼしいとこあんまりないね」

 謝りつつ話を元に戻した。

 他に岡山の観光名所はどこがあったかなと考えていると、勇太が漫画に目を向けたまま言った。

「別に広島でもええよ。俺そんなにちゃんと広島観光したことないし」

「あ、そうなんじゃ」

 確かに自分の出身の県だといつでも行けるからと積極的に観光しようとは思わないのかもしれない。

 よくよく考えてみると私もあまり広島を観光した記憶はなかった。

「じゃあ宮島とか?」

 広島の観光名所といえば真っ先に思いつくのが厳島神社のある宮島だろう。私は行ったことがあるが、勇太はもしかしたらないかもしれない。

「宮島はさすがに行ったことあるわ」

「だよねー」

 さすがに県民でも宮島には一度は行ったことがあるようだ。しかしそうなると他にどこがあるだろうか。

少し考えて思い出したのは最近の友人との会話だった。

「あ、尾道とかどう? あの辺オシャレなカフェが多いって友達が言っとったけえ、ちょっと気になっとったんよね」

 ほら、と私はスマホの画面を勇太の方へ向ける。その画面には『絶対に行っておきたい! 尾道のカフェ十選!』と称したサイトの画面が表示されている。

 勇太は漫画から目を上げてスマホの画面を見つめた。

 広島県の東部に位置する尾道市は港町として発展してきた歴史をもつ。市の随所に見られる海を望む階段や坂道、点在する寺院などの歴史を凝縮した景色は、志賀直哉をはじめとした数多くの文人を魅了し、近年の映画の撮影にも多く起用されている。

 そんな歴史ある町、尾道であるが、地方の過疎化の例に漏れず空洞化と高齢化が進み、家主を失った空き家が増加していた。その中には建築的価値が高いものやユニークなデザインのもの、景観が素晴らしいものといった様々な魅力をもった家があるという。

 それらの資源をどうにか活用できないかと『尾道空き家再生プロジェクト』というものが始まった。この動きによって空き家をコミュニティの場としたり、観光資源としたり、アトリエやギャラリーのようにアーティストの活躍の場としたりといったような活用が考えられている。

 その一環として最近増えているのが、空き家をリノベーションして飲食店として営業している古民家カフェである。レトロな雰囲気、見晴らしのいい景色、学校給食風のメニューなど多種多様なコンセプトを搭載した古民家カフェは若者を中心に注目を集めていた。

「あーそういえば駅がキレイになったとか言っとったな。あんまり行ったことないし、ええよ」

「やった!」

「行きたいカフェとかあるん?」

「パッとは思いつかんけど……調べようか?」

「んー、いや、そしたらゴールデンウィークまでに各々が行きたいとこを何個か調べとくとかどう?」

「おおー、いいじゃんそれ! そうしよ!」

 そんなこんなで私たちのゴールデンウィークのデートの予定が決まったのだった。


 ゴールデンウィーク最終日、私と勇太は電車に揺られて尾道へと向かっていた。

 この日を待ち望んでいた私はいつもの三倍増しくらいのテンションではしゃいでいた。傍目に見ても少しうるさかったかもしれない。

 でも仕方ないじゃないか、ゴールデンウィークの間も全然勇太とは遊べなかったのだから。

 そんな私の気も知らず、急に勇太が「ごめん、ちょっと寝るわ。着いたら起こして」なんて言って寝てしまうから、私はずっとスマホをいじって時間をつぶす羽目になってしまった。

 私の肩にもたれかかる寝顔からはすうすうと寝息が聞こえてくる。

「普通デートの行きで寝る?」

 大きな期待が空回りした私は周りに聞こえないくらいの声で小さく不満を漏らした。

 私まで寝てしまっては乗り過ごしてしまうかもしれない、そう思って眠気と格闘していた目的の駅までの時間は、つまらない大学の講義みたいに長く感じた。満タンに充電してきたスマホのバッテリーはもう半分近くまで減っている。

 おかしいな、こんな予定じゃなかったのに。

「ねえ着いたよ。起きて」

 こちらの気も知らず、気持ちよさそうに眠る勇太を揺さぶる。一時間くらいおあずけを食らったせいか、揺さぶる手が少し乱暴になってしまう。

「ん、もう着いたんか。早かったな」

「そりゃ勇太は寝てたもんね。めちゃくちゃ長かったよ、私は」

 私は財布から電車の切符を取り出し、勇太を置いていきそうな勢いですたすたと改札口に向かった。

「ちょ、待てって」

 勇太がはぐれないように駆け足になってついてくる。それでも私の歩く速さは変わらなかった。

「悪かった、最近ちょっと寝不足だったんだよ」

 改札を抜け、ようやく私に追いついた勇太の声が後ろから聞こえた。

「いいよ、わかってるから」

 別に私だって本気で怒っているわけじゃない。勇太が日々の部活や勉強に忙しく、睡眠時間を削っていることは一緒に生活している私も知っている。

「そんなことより早く行こうよ。私が調べたとこは全部駅の近くにあるんじゃけど、勇太のはどの辺にある?」

「え、調べるって……」

 嫌な予感がした。

 できればこの予感は外れて欲しかった。

「あ……すまん、忘れとった……」

「うそ……」

 私は顔から表情が消えていくのを感じた。

「勇太言っとったじゃろ。お互いに行きたいカフェを調べておこうって。普段も忙しいし、ゴールデンウィークも勇太は合宿があって全然一緒に居れんかったけえ、今日のこと楽しみにしとったのに。勇太がどんなカフェを紹介してくれるのか、すごく楽しみにしとったのに」

 目から涙が零れそうになる。いやだ、こんなところで泣きたくなんかない。泣いてしまったら、私が惨めみたいじゃないか。

 そんな私の顔から目をそらすように、勇太がボソリと呟く。

「ごめん。でも忙しかったんだって」

「それは知っとる。でも本当に私との約束を忘れるくらい忙しかったん?」

 ふつふつとこみ上げてくる怒りに反して声色はどんどん冷たくなっていく。

 私って勇太相手にこんな声出せたのか。

「部活って言っても毎日あるわけじゃないよね。家でも漫画読んだり、ゲームやったりしてたじゃん。それに最近は一人でどっか行くことも増えたし。勇太の中で私は何なん? もう、私との約束なんかどうでもいいん?」

「そんなわけないじゃろ!」

 急な勇太の大声に私はビクッと体を震わせる。

 勇太に怒鳴られたことは初めてだった。いつも素っ気ない態度ではあるけれど、優しい声で話しかけてくれるのに。そんな優しい勇太を私が怒鳴らせてしまったということに少しショックを受ける。

 でも、私はなにか悪い事をした? ねえ勇太。

「じゃあなんでよ! そんなわけないなら、なんで彼女との約束を忘れるんよ!」

 周囲の人の視線を肌で感じる。他人のカップルの修羅場なんて好奇心の格好の的だろうと頭では分かっていても、今は溢れ出る言葉を止めることは出来なかった。

「それは……」

 私の怒号に気圧されたのか、勇太が先の言葉に詰まる。この先を言ってしまってもよいのか迷っているようにも見えた。

 しかし、その少しの間が今の私には耐えられなかった。

「もういい! 私一人で行く!」

 そう言い放ち、私は踵を返した。

「待てって」

 歩きだそうとする私の腕を、勇太の手が掴んだ。何度も手を繋いだ勇太の大きな手が今は不快にしか感じない。

「離して! もうついて来んとって!」

 勇太の手を振りほどきながら、私はまた怒鳴った。勇太が一瞬ひるんだ隙に、再び歩みを進める。

 何度でも引き留めてくれると思っていた。

 でも、背中に慣れ親しんだ気配が近づいてくることはもうなかった。

 慣れないヒールのせいか、バランスを崩しそうになる。今日のためにこの靴を用意した自分がバカみたいに思えて、さらに視界がぼやけた。



 勇太と別れた後、どうやってこの公園にたどり着いたのかよく覚えていない。とにかく勇太のそばから離れたい一心で歩みを進めた結果、気付いたらこの公園のベンチに座って泣いていた。よく途中で事故に遭わなかったものだと自分で感心する。

 一旦落ち着いた私は、とりあえず涙で乱れた顔を直すため、公園のトイレに入る。日頃から最低限の化粧しかしない私だが、そのなけなしの化粧も涙でほとんど落ちてしまい、目元も赤く腫れていた。鞄から化粧ポーチを出し、とにかく人目に出られる程度に顔を整えていく。そして冷静になってきた頭でこれからのことを考えてみる。

「もう、別れるしかないんかな」

 絶望的なことしか浮かばなかった。勇太の謝罪も受け取らず、一方的に怒鳴り散らした挙句、「ついてくるな」とまで言ってしまったのだ。完全に私が悪い。

 あれから勇太から一回も連絡がこないのがいい証拠だった。もう先に一人で西条に帰っているのかもしれない。

「とりあえず、帰ろ」

 このままここにいてもどうしようもないし、まさか一人でカフェを回る元気もない。

 帰ろうと思ったが、今いる公園がどこにあるかが分からない。とりあえず駅までの道をスマホで調べてから公園を出た。


「あれ、ここどこじゃろ」

 しばらく歩いたところで自分が迷っていることを自覚する。

 さっき見た地図では、駅は公園からそれほど遠くなく、十分ほどで着く予定だった。でも公園を出てもう二十分くらい歩いているのに駅が全く見えてこなかった。駅に着かないだけならまだいいが、相変わらず天気は良いにもかかわらず、あたりに人気はなく、路地裏のようなところに私は立っていた。

 もう一度駅の方向を確認しようとスマホを取り出した瞬間、スマホの画面に水滴がぽとぽとと落ちてきた。ふと空を見上げたが、そこには憎らしいほどの青空が広がっていた。にもかかわらず、雨はやはり降っている。まるで、空の青色がそのまま雨粒になったみたいに、次第に雨足は強くなってきた。

 お天道様にもバカにされている気分だった。

「もう、なんで急に。今日雨の予報なんてなかったのに」

 急な雨に駆り立てられ、鞄をかばいながら、急いで雨宿りできる場所を探した。

 こんな変な天気なんて言うんだっけ、そんな呑気なことを考えながら走っていると、看板の出ている店が目に入った。

 『キツネ雨』と書かれたその看板には、雫の滴る傘とその傘に入っている二匹の狐がモノトーンで描かれていた。二匹の狐の尻尾に、それぞれ「喫茶」「定食」と書かれていたため、喫茶店ではあるのだろうと思い、とりあえず雨宿りに入ろうとした。

 店の扉に手を伸ばしたところで店先の小さなプレートが目に入った。そのプレートには「化かし中」とあるが、開いてるのか開いてないのかがいまいち分からない。そんなプレートにイライラしたが、雨足は弱くなる気配もなかったので、思い切って木製のドアに手を掛けた。重そうな見た目に反して、ドアはすんなりと開き、カランコロンという音と共にレトロな雰囲気の内装が目の前に広がった。

 店内はそれほど広くなく、入って左手には少し狭めのキッチン、右手には客席が五、六組配置されている。奥の壁にはカラフルなステンドグラスが張られ、店の中心にはシャンデリアがその存在を主張している。そして、そのそばには二本のシックな柱が店を支えるようにそびえたっていた。

 所々に西洋風の装飾を取り入れられているせいか、文明開化したばかりの日本にタイムスリップしてしまったようだった。

「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

 店に入ってぼうっと突っ立っていると、ウエイトレスらしき女性に声をかけられた。

 黒を基調に赤や桃色の小さな花が散りばめられた着物の上から白いエプロンをまとったその姿はウエイトレスというより、女給や仲居といった方がしっくりくるかもしれない。静かにこちらを見据えている彼女の肌は陶器のように真っ白で、幼げな顔立ちからかなり若く見える。

「あ、はい」

「ではこちらへどうぞ」

 鈴が鳴るような高い声で通されたのは壁際の二人席で、その席の真上には振り子時計が掛けられていた。

「こちら、よろしければお使いください」

 女給に渡されたタオルで自分が雨に濡れていたことを思い出す。

 席を濡らさないように、服の水分をできるだけタオルに移してから席に座る。

「御品書きでございます。お決まりになりましたら、お呼び下さい」

 御品書きをテーブルの上に置くと、女給はキッチンの方へ戻っていった。

 まわりを見渡すと他にも客は居て、静かに話したり、本を読んだり、パソコンに向かったりと思い思いの時間を過ごしている。話し声の他に聞こえてくるのは曲名の分からないクラシックとそれにまぎれた時計の振り子の音だけで、店の外とは別世界のような感じがした。

 とりあえず入ったからには何か頼もうと思い、看板と同じ絵が描かれた御品書きを開いた。メニューは豊富でパンケーキやプリン、ブレンドコーヒーなどの定番のものから、おやすみクリームソーダやはいからラズベリーソーダ、白狐チーズケーキのようなオリジナルのものもあった。

 本来ならじっくり選びたいところだが、今は雨宿りで入っただけで長居するつもりもない。飲み物だけ頼んで雨が上がったらすぐに出ようと思い、女給を呼ぶために控えめに手を挙げた。

「すいません」

 キッチンの前で佇んでいた女給が私の手が上がったのを見て静かに近づいてくる。

「ご注文をお伺いします」

「ブレンドコーヒーを一つお願いします」

「かしこまりました。少々お待ちください。御品書きはおさげしますね」

 機械のように抑揚はないが、それでいてやけに人間味を感じる声だった。

 言い終わると、女給は御品書きを持ってキッチンの方へ戻っていった。

 そういえば、尾道のカフェはかなり調べたけど『キツネ雨』なんて店は覚えがなかった。地図アプリやネット、SNSにもなかったから、そういったもので宣伝はしてないのだろうか。こんなにオシャレで雰囲気が良ければ、流行りのSNSで写真を載せるだけでたくさん客が来そうな気がするのに。まあでも実際にそこそこ客は入っているのだから、私がそんなことを考えるのは余計なお世話なんだろう。

 カフェを調べたことを考えていると、この店にも勇太と来たかったなあ、と思ってしまう。念のためもう一度スマホを確認してみるが、勇太からはメッセージも電話も来ていなかった。その事実がもう前のような関係にはもう二度と戻れないのかもしれない、という考えに拍車をかけてしまう。だめだ、今はそんなことを考えてもどうしようもない。勇太と今後どうするにしても今日はもう西条に帰るしかない。

「お待たせいたしました」

 不意に頭上からかけられた声で、テーブルの傍に女給が立っていることに気付いた。その手はお盆が載っている。

「こちら、ブレンドコーヒーと当店オリジナルのコーヒーシュガーでございます。お好みでお使いください」

 そう言って女給はコーヒーカップと小皿をテーブルに置いた。小皿には木の葉を模したコーヒーシュガーがちょこんと載っていた。

「ごゆっくりどうぞ」

 女給が下がると、私はさっそくコーヒーシュガーをコーヒーの中に入れた。スプーンでコーヒーをぐるぐるとかき混ぜていると、次第にコーヒーシュガーが溶けてきた。

 スプーンを取り出し、湯気が立ち上るコーヒーをずずっと飲む。舌が火傷しそうなくらい熱かった。でも雨で冷えていた体にはその熱さがちょうどよかった。

 さっき溶かしたコーヒーシュガーは当店オリジナルと言っていた。ということは砂糖の仕入れから成型までこの店でやっているのだろうか。地味にすごいな、なんてことを考えながら続けてもう一口飲む。

 コーヒーの熱に少し癒され、ふうとため息をついたところで違和感に気付く。

 もともと静かな店内だったけど、さっきまで聞こえていた他の客の話し声やクラシック、外の雨の音にいたるまで、一切の音が聞こえなくなっていた。

 いや、正確には一つだけ聞こえる。

 私はその音の鳴る方へと顔を向けた。

 唯一聞こえるその音は、私の頭上で単振動を繰り返している時計の振り子の音だった。カッチ、カッチ、カッチと規則正しく時を刻んでいたその時計は、まるで世界のルールは自分であると言わんばかりに振り子の音を鳴り響かせている。そして、その音はだんだん大きくなり、私の鼓膜を蹂躙していった。

 私は見えない手に頭をがしっと掴まれてしまったかのようにその時計から目が離せなくなった。同時にとてつもない睡魔が襲ってくる。催眠術にかかるときはこんな感じがするのだろうか、薄れゆく意識の中で最後にそんなことを思っていた。


 目を開けると、そこには体育館のような景色が広がっていた。視界も意識もはっきりしているが、手足の感覚はなく水にぷかぷか浮いているような感じがした。

(あれ……ここ、どこ? なんで、どうなっとるん。さっきまで店におったのに)

 突然現れた景色に動揺していると、騒がしい話し声とともに大勢の若い男女が体育館に入ってきた。どうやら聴覚も働いているみたいだ。

 彼らが着ている服をよく見てみると体操着ではなくジャージやスウェットなど様々な運動着だった。さらに、今いる体育館の設備を見渡してみたことであることに思い至る。

(あ、ここうちの大学かも。なにかのサークルかな、それともスポーツ実習かな)

 私の通う大学では全学部共通の必修授業としてスポーツ実習というものがある。バスケやバレー、サッカーなど様々な種目のスポーツから好きなものを選ぶことができ、二種目分の単位を取らなければならない。要は義務教育でいうところの体育みたいなものだ。

 今入ってきた人の顔をなんとなく眺めていると、よく知った顔が見つかった。

(え……あれって私?)

 必修の授業であるため、もちろん私もスポーツ実習を受け、種目はバスケを選択していた。だから別に私がこの体育館にいるという状況はありえないことではない。

(ってことは、私は今、過去の私の夢を見とるん……?)

 おぼろげながら今の状況を飲み込んできた私は、さらなる情報を得ようと体育館内の様子を観察していった。とはいっても、私の取っていたバスケの授業は毎回最初に軽くアップをした後はずっと試合をしていたし、まさかすべての試合の得点を覚えているわけでもないので、よく見てもそんなに違いは分からないかもしれないが。

 そんなことを考えながら見ているうちに授業は始まり、学生たちは先生の指示に従ってチーム決めを始めた。この授業では最初の回でチームを決めて以降、ずっと同じチームで試合に臨んでいた。つまり私が見ているこの授業は最初の回ということだ。

 五分ほど経つとチーム決めは終了し、それぞれのチームで簡単な自己紹介を始めた。

 私の入ったチームのメンバーの中には勇太の姿もあった。

(そうじゃった。この授業で初めて勇太に会ったんじゃった)

 自己紹介での勇太の第一印象は無口で素っ気ない、だった。あまり自分から話しかけるタイプでもなかったし、率先してチームを引っ張っていくタイプでもなさそうな感じがしていた。

 だけど、試合に臨むとその印象はがらりと変わった。勇太はチームメンバーにテキパキと指示してポジションを決め、大きな声を出してチームを引っ張っていった。

 もう一つ驚いたのが勇太のプレーだった。私のチームのメンバーや相手チームにもバスケ経験者は何人かいたが、その中でも勇太のプレーは頭二つ分くらい抜きんでていた。鮮やかなドリブルテクニックで相手を抜き去り、綺麗なシュートフォームから放たれるシュートでこちらの得点を加速させ、ディフェンスでもマンツーマンでついた相手を抑え、失点を防いでいた。

 だが、勇太はただプレーが上手いだけでなく、パスをたくさん回して初心者の人でも得点ができるようにフォローしていた。そして、得点を決めるととても褒めてくれるのだ。素っ気ない態度が嘘のような素敵な笑顔で。

(そうじゃ、私は勇太のかっこいいだけじゃなくて、さりげない優しさに惹かれたんじゃった)

 試合はそのまま勇太のチームが圧勝し、チームのメンバーがハイタッチしていた。

試合後のチームを見ていると、急に視界が白い霧のようなものに覆われ、あっという間に目の前が真っ白になってしまった。


 真っ白な視界が晴れるまでどれくらいの時間が経っただろうか。一瞬だったような気もするし、長い時間が過ぎた気もする。晴れた視界には見慣れたレイアウトの部屋が飛び込んできた。

(ここは……私の部屋かな)

 どうやらまた違うシチュエーションの夢を見ているようだ。

 部屋には私と勇太がテーブルをはさんで座り、食事をしていた。

(これはいつなんじゃろ)

 付き合い始めてからは、私の家で食事をしたことは数えきれないほどある。料理を作るのはだいたい勇太だった。勇太は見かけによらずとても料理が上手で、反対に私はほとんど料理をしたことなかった。だから、料理はいつも勇太に任せっきりで、私は食後の皿洗いに専念していた。

 この夢で二人が食べているのはオムライスだった。オムライスは勇太の大好物で勇太もよく作るし、私も作り方を教えてもらって作ったことがあった。ふわふわな卵の焼き方は絶対に勇太には敵わないけど、始めて作った時に比べたら今はかなり上達したと思う。

 二人がオムライスを食べ終わると、夢の中の私はキッチンに戻り、冷蔵庫からケーキを取り出してきた。その上には数本のロウソクが立っている。

(もしかして……)

 私は部屋に置かれている時計で日付を確認した。予想した通り、そこに示されていた日付は勇太の誕生日だった。

 付き合い始めてすぐに勇太の誕生日が間近に迫っていることを知った私は、プレゼントを渡す以外に何かサプライズをしようと思い、手作りのシフォンケーキを作ることにしたのだった。何度も練習をして、やっとケーキらしいケーキが作れるようになり、誕生日当日に臨んだ。

(でもこのときのケーキって……)

 切り分けたケーキを勇太が食べた。夢の中の私がドキドキしているのが分かる。結果を知っている今の私でさえ少しドキドキしてしまう。

 ケーキを味わっていた勇太の顔が一瞬だけ歪んだ。しかし、その後すぐに笑顔になって「うまい」と言った。

 その言葉に安堵した夢の中の私は、自分も食べようとケーキを口に運ぶ。だが、何度か口を動かしたところで、涙目になりながら「なんこれ、辛っ」と漏らした。

 勇太が苦笑いしながら気まずそうに俯く。

(この時、砂糖と塩を間違えるってバカみたいなミスしたんじゃよね)

 思い出した今でも悲しくなってくる。いくら料理経験が少ないとはいえ、砂糖と塩を間違えるなんてことをまさか自分がやってしまうとは思っていなかった。

 誕生日ケーキを台無しにしてしまった夢の中の私は、その後勇太にひたすら謝った。勇太は「わざわざ作ってくれたのは本当に嬉しかったよ」と言って切り分けた分をすべて食べてくれた。残りも全部食べると言ってくれたが、さすがにホールすべてを食べてしまうと塩分摂取量がやばいということで、残りは処分することになった。

 申し訳なさと勇太の優しさで、このときの私はぼろぼろと泣いていた。そんな私の頭を勇太が優しくなでてくれている。

 そんな状況を見ていたところで、また視界が霧に覆われていった。


 再び霧が晴れてくると、そこは見慣れない部屋だった。家具も部屋の広さも全く見覚えのない景色が目の前には広がっていた。

(ここは、私の部屋でも勇太の部屋でもない)

 その部屋には二人の男女が並んでテレビを見ており、女性の腕には赤ちゃんが抱かれていた。男女の年齢は三十代前後くらいだろうか。今の私よりは確実に歳を重ねたきたという貫禄を感じる。

 しばらく男女の顔を見ていると、男性の方には誰かの面影があるような気がしてきた。

(あ、勇太に似とる)

 でも勇太は確か一人っ子だったはずだ。だから彼の年の離れた兄なんてことはない。じゃあこの夢は私には関係ないことなのだろうか。いや、それにしてはさっきの二つの夢は私に関係あることばかりだった。でもそもそもこんな不思議な現象に理屈なんて通用するのだろうか。

 あれやこれやと思考を巡らせていると、女性の方にも誰かの面影があるような気がしてきた。

(私に似とる……?)

 でも私には兄がいるだけで姉はいない。

 やはり今回は私には関係ないことなのだろうか、そう思いかけたところである考えが浮かんだ。

(これは、もしかして未来の私と勇太……なの? え、じゃああの赤ちゃんは……)

 女性の抱いていた赤ちゃんの顔をよく見ようとした瞬間、赤ちゃんが泣きだした。と同時にまた視界が霧に覆われていく。


 瞼を開けると、私は『キツネ雨』の店内の席に座っていた。あんなにうるさく鳴っていた時計のカッチ、カッチという音は元通りの大きさに戻り、まわりの客の話し声やクラシックも聞こえる。

(あれ、私……)

 ずいぶんと長い時間意識が飛んでいたような気がしたが、スマホで時間を確認してみると、驚くことに先程確認したときから三分も経っていなかった。

 さっきまでの夢は何だったのだろうか。一つ目と二つ目の夢はともかく、最後の夢はまったく覚えのないものだった。でも、あの男女は今より少し歳をとってはいたが、間違いなく私と勇太の面影があった。そして、女性が抱いていた赤ちゃんは……もしかすると私たちの子供、なのだろうか。もちろんさっき見ていたものはただの夢である可能性が高い。でも、私たちにあんな幸せそうな未来が待っている可能性もあるのだろうか。

 ただ、少なくとも今のままではあの未来は絶対に訪れないだろう。

 先程の夢を見てからというもの、勇太に会いたいという願望がだんだんと強くなっている。

 このまま別れるなんて絶対に嫌だ。

 私は居てもたってもいられなくなり、勢いよく立ち上がった。店の雰囲気に似つかわしくないその行動に、周りの客の視線が集まるのを感じた。でもそんなことはどうでもよかった。今は一秒でも早く勇太に会いたかった。

 かばんを持ち、キッチンの横にあるレジに向かおうとしたところで、コーヒーを飲み干していなかったことを思い出す。残してしまうのはさすがに申し訳ないので、飲み干してしまおうとコーヒーカップを手に取ろうとした。しかし、ついさっきまで白い湯気が立ち上っていたコーヒーカップの中身は空っぽだった。あれ、全部飲んどったっけ、と一瞬不思議に思ったがすぐに、まあいっか、と思い直し、レジへ向かう。

 お会計をお願いすると、女給は慣れた手つきでレジを操作し、金額を告げる。言われた金額ちょうどを女給に渡していると、ふとキッチンの様子が目に入った。キッチンには店に入った時は気が付かなかったが、男性が立っている。白髪をオールバックにし、髭をたくわえたその姿は、まさにマスターという言葉にぴったりだと思った。マスターはこちらには目もくれず、コーヒーカップを磨くことに全神経を向けているようだった。

 女給からレシートを受け取り、財布をかばんにしまってから出口に向かった。店の扉はやはり軽い力で開き、カランコロンという音が店内に響く。

「ありがとうございました。お気をつけていってらっしゃいませ」

 店から出たところで後ろから声がかかる。振り返ると女給がぺこっとお辞儀していた。

 こちらも会釈し扉を閉めようと手を離したその時、ほんの少し上がった彼女の顔から金色に妖しく光る瞳が覗いた。私はその瞳に吸い寄せられるように目を離せなくなったが、手を離れた扉はゆっくりと閉じていき、そのまま扉に隠れて彼女は見えなくなった。


 店の外は透き通るような青空で、輝く太陽は地上を照らしていた。雨はもう降っていなかった。

 それにしても不思議な店だったなと思い、もう一度店を振り返る。とてもいい雰囲気の店だったのに、尾道のカフェを調べたときは全然見当たらなかったのもそうだし、なによりあの不思議な夢だ。それに女給の瞳はあんな色だっただろうか。あんなに特徴的な色をしていれば店に入ってすぐのときに気付いてもおかしくないのに。

 『キツネ雨』での不思議な体験に思いを馳せていると、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえた。

「さつき!」

 思わず前を向くと、そこには会いたいと願っていた人がこちらに向かって走ってくる姿があった。

「勇太、なんで……ここに?」

「ずっと探しとったんじゃ」

 走っていたせいか少し息を切らしながら勇太が答える。

「電話してくれたらよかったのに」

「電話じゃ出てくれんかと思って」

 確かにさっきまでの精神状態じゃ私が電話に出たかどうかは微妙なところだが、それにしたって私がいる場所の目星もないだろうに、もしかしてこの辺りを片っ端から探していたのだろうか。

 息を整えた勇太は地面につきそうな勢いで頭を下げた。

「さつき、ごめん、カフェのこと。俺から言い出したのにすっかり忘れとって。それに電車で寝とったことも。さつきが今日をどれだけ楽しみにしとったか全然考えてなかった」

「違うよ……さっきのことは完全に私が悪くて、勇太が忙しいのは分かっとったのに。私は自分のことしか考えてなくて、ついてくるなとか言って、本当にごめんなさい」

 そう言って私も頭を下げる。

 少しの沈黙が流れた後、勇太が頭を上げて言った。

「ええんよ、さつきが怒るのも当然じゃと思う。俺が約束を破ったんじゃけえ」

 私も顔を上げる。勇太の申し訳なさそうな顔が見えた。

「それで、もしさつきがよければなんじゃけど、さつきのオススメのカフェに今から行かんか?」

「勇太が許してくれるんなら、行きたい。まだ、勇太と一緒に居たい」

「俺もよ」

 それだけ言うと、勇太は私を抱きしめた。

 この大きな体に抱きしめられるのはいつぶりだろうか。私も勇太の背中に腕を回し、少しの間、彼の温もりを感じていた。


 勇太のぬくもりをしっかり堪能した後、私は彼の胸から顔を離して尋ねた。

「そういえば、あの時なんて言おうとしとったん?」

「あの時って?」

「ほら、私がもういいって怒鳴っちゃって勇太の言葉を遮ったとき」

「ああ、あの時か。あれは……言い訳になるからあんまり言いたくないんじゃけど……」

 勇太が気まずそうに目線を逸らす。

「大丈夫よ、もう怒ったりせんけえ。気になる」

「……ほら、もうすぐさつきの誕生日じゃろ? 誕生日プレゼントとか何にするかで悩んどったんよ。それで今日のことがおろそかになってました、すいません」

「あ、そういえば、もうすぐ私誕生日じゃん」

「いや、自分の誕生日くらい覚えとってくれ」

 今日のことが楽しみで、自分の誕生日が近づいていることを私はすっかり忘れていた。もしかすると、最近勇太が一人で外出することが増えたのは私の誕生日プレゼントを探しに行っていたのだろうか。

 でもそうなると、勇太はしっかりと私のことを考えてくれていたのだ。そうとも知らず、私が彼にぶつけてしまった言葉を思い出すと、顔から血の気が引いてくる。

「えっ、じゃあ本当に私が悪いだけじゃん。最悪……」

「そんなことないって、俺も約束を忘れとったのは悪いんじゃから」

 勇太はしっかりとフォローしてくれるが、傍から見れば私の被害妄想が暴走していただけだ。改めて自己嫌悪に陥ってしまう。

「もうこの話は止めよ。それより、さつきがまだ尾道にいてよかったわ。先に西条に帰られとったら、もう会えんような気がしとったけえ」

「そうじゃね。さっきの通り雨がなかったらすれ違っとったかも」

「雨? 降っとったか? ずっと晴れとったじゃろ」

 勇太が怪訝そうな顔を向けてくる。

 その反応に私も困惑してしまう。

「え? 確かにずっと晴れとったけど、少しの間だけ降っとったよ、ゲリラ豪雨みたいに」

「ホンマに? でもさつき全然濡れてないじゃんか。傘持ってないのに」

「それは、さっきの店で雨宿りして、タオルを貸してもらったけえ。ほら、そこの店で……」

 そう言って私は、数分前に出た店を振り返った。

 しかし、振り返った先に『キツネ雨』の姿はなかった。狐の描かれた看板も、古めかしい扉も、「化かし中」と書かれた小さなプレートも、なにもかもなくなってた。店のあった場所はずいぶん前に閉店したと思われるバーのような店に姿を変えていた。まるで、それが本来あるべき姿であるかのように、その店は街中の風景に馴染んでいた。

 私は自分の目を疑った。

「うそ、さっきまでそこにあったのに」

「ホンマか? 大丈夫か? 疲れとるんじゃない?」

 勇太が本気心配してくる。

「私は大丈夫じゃけどなあ」

「ならいいけど」

 勇太は少し考えるようなそぶりを見せ、笑いながら言った。

「でも、もしかしたら、その店が俺とさつきを引き合わせてくれたんかもしれんな!」

「そうじゃね。そうじゃと思う!」

「じゃあ、行くか。案内頼むわ」

 言い終わると同時に勇太が手を差しだしてきた。

 私は指が絡み合うように自分の手を滑り込ませた。

「うん!」

 繋がった手を握りしめながら、私たちは歩き出した。

 太陽が晴れ渡る空は、まだ青い。


 ・


 さつきと勇太が手を繋いで歩き去っていく後姿を『キツネ雨』の店内から女給が眺めていた。店内に客は一人もおらず、女給の他には髭をたくわえたマスターがコーヒーカップを磨いているのみだ。

マスターが低い声で言った。

「珍しいな、お前があそこまでヒトに干渉するなんて」

「ふふ、そうかしら」

 女給は小さく微笑みながら答えた。彼女の顔は変わらず手を繋ぐ二人に向けられ、その瞳は金色に光っている。

「あの二人には別れてほしくなかったから。だって、あんなに素敵な未来が待ってるんだもの」

「そうか」

 そうつぶやいたのを最後にマスターはカップ磨きに集中し、店内はクラシックと振り子の音で包まれた。



昔々、賑やかな港町の迷路のような細い路地にひっそりと隠れるように喫茶店がありました。

店内はシャンデリアやステンドグラスなどの装飾が施され、レコードでクラシックを流していました。

しかし、そこには――女給に化けた狐がいると噂されていたのです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。


この物語はフィクションですが、『キツネ雨』という喫茶店は広島県尾道市に実在します。

この物語を書こうと思ったきっかけは『キツネ雨』の公式Twitter(@cafe_KitsuneAme)で冒頭で使用した書き出し(昔々、賑やかな港町の〜)が呟かれたことです。この喫茶店には何度かお邪魔させていただいたことがあり、とても素敵な店で大好きでした。それでこの店がもっとたくさんの人に知ってもらえるきっかけになればと思い、書き始めました。この物語を読んで『キツネ雨』に興味を持ち、足を運ばれる方が増えると嬉しいです。作中のどこまでがリアルでどこからがフィクションなのか探してみるのもおもしろいかもしれませんね。その際は狐さんに化かされないようにご注意下さい。


ご意見、ご感想などお待ちしてます。



※作中に出たコーヒーシュガーは実際の店のメニューにはないのでご了承下さい。

※『キツネ雨』は定休日も多く、雰囲気を守るため年齢制限もあるので、足を運ぶ際は事前によくお調べになるようお願いします。

(公式Twitter→@cafe_KitsuneAme 、公式サイト→https://cafe-kitsuneame.jimdofree.com )


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― 新着の感想 ―
[一言] 短いなりによくまとまっていると思いました。頑張ってください。
2021/09/18 23:55 やあどうも。
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