Βαθιά και τεράστια -〝深く巨大〟-
「やァどうも......こうして話すのは久しぶりかな」
窓の方へと向いた革張りのオフィスチェアの向こうにいる男に、カイが話しかけた。
オフィスチェアはくるりとカイが入ってきたドアの方を向き、厳つい表情を浮かべたボスが現れた。鋭い目付きと眉の先から伸びる皺。そして、背広の裾から見える刺青。その威圧感は本来であれば優位な状況に立っているはずのカイですらたじろいでしまうほどだ。”この世界の秘密”だとか、”王国の情報”だとかボスが常に欲するものを持ってやってきたような人間には、この国の根幹の経済に関わる男ですら下手に出る......そんな道理などないとボスは堂々たる様子でカイを見つめている。
二人しかいないがための静寂による緊張感とも相まって、ビリビリという波動が空気中に流れている。
ここは誰の邪魔も入らないし、情報が漏れる心配もない。世界から隔離されている、といっても間違いはない。カイは心の中でボスを魔王、もしくは竜などの怪物に喩えた嫌味を思いついて、それを呑み込んだ。自分が彼に喧嘩を売りにきたわけでは無いことを思い出したからだ。
陽光が二人を照らしている。ボスの表情は逆光でよく見えないが、その影からなんだか動揺しているような雰囲気を感じ取ることができる。それを感じ取ったカイは自分は優位な立場であると確信し、落ち着き払った様子で口を開いた。
「僕からの贈り物は活用してくれているかな......?」
「何のことだか......」
ボスは”D”と書かれて送られてきた資料のことを思い出しながら、カイと目を合わせた......出来る限り心の内を悟られないように......何故なら、カイが例のそれのことを知っている、というのはボスは全く知らなかったからだ。カマをかけられているのか、または本当にDというのがカイなのか。それが判然としないうちは、その話題に触れないようにする、という判断をたった数秒で決定するのがボスだ。カイは無邪気、もしくは邪悪な笑みを浮かべると、事務所のもう一つの椅子に腰掛けた。
「さて、君の計画の進捗はどうだい......?」
「0154が行方不明。エスは......まぁ、見たか。あんな感じだ。このまま進めても問題はないが......その場合......」
言葉に詰まるボスを見て、カイは悪戯っぽい笑みを浮かべて言い放つ。
「ははァ分かった。君、エスに情が移ったんだろ」
「......そうかもしれないな」
ボスが溜息をついた。それは単に少し揶揄っただけのことであったはずだが、ボスの口からは存外弱々しい返事が戻ってきた。カイはその意外さと、一抹の不安とともに、見開いて話を続ける。
「随分弱気じゃないか。何か問題でも?」
「懸念すべき事項が多いんだ......私の目指す方向と同じ向きに歩みだしたものが増えてきたらしい」
カイはボスの言わんとしていることを瞬時に理解すると、咳払いをして、冷たい目線をボスの方に向けた。
「君が他の者との争いを避けたがるのは分かるけど......それで、僕との約束が守れない、なんてのはやめてくれよ。君と僕で世界を掴もうって、これはそういう計画だろう?」
彼はふぅ、と溜息をついて、ボスの机に置いてある葉巻の入った木箱を開き、一本取り出した。木箱には”五本入り”と書いてあったが、中に残っていたのは三本だった。
「貰っても?」
「ああ。意外と買ってみるもんだな」
ボスがその仏頂面を崩して少しだけ微笑んだ。部下の前では決して見せない表情だ。カイは机からギロチンカッターをとって、ヘッドを切り落とし、マッチで火をつけた。カイは「魔法が全自動で使えればどれだけ楽かな」と言いながらくしゃっと笑って、それを口元へと運んだ。しばらく吸い続けていると、火がうまくついていなかったのか、途中で消えてしまった。
「どうだ?」
「いや、不味いと思う」
ボスは太い眉の片方をピクリとあげて、木箱から一本取り出して確認するように吸った。
「......そうか」
「あぁ、そうだ、思い出した。トゥニカは?」
「死んだ」
カイにとっては別段驚くようなことでもなかったようで、ボスの報告は平然と聞き流された。それとも、彼が生きていることを知っているのか......それは誰にも知り得ぬことだ。もう二人の間に話すことなどない。ボスは紫煙を燻らせて、天井を見つめた。
◇
エスは再びスーダとカフェで待ち合わせしていた。例の提案に返事をするためだ。
もうエスの心は決まっている。いや、未だ揺らいでいるが、無理矢理、振り払うように、決めた。
例の提案の返事は”ノー”。報酬も充分だったが、ノーだ。理由は酷く単純だ。スーダの報酬の一つである、父母の居場所を教えるというもの。それがどうしても怖かった。彼女は知っていた......もし、それを知ってしまえば、彼女はそれを確かめずにいられないということを。そして、もし親が彼女と会った時、親は彼女を認識できないだろう、という予感に怯えた。
上辺では、”報酬が足りない”という理由で断ることにした。本当は今すぐに誰かに自分の感情を吐露したかった。しかし、そうしてしまえばいずれ誰かに付け込まれるだろう。そう考えた故の、嘘。弱い心を見せることは許されない。
しばらくエスがコーヒーを啜っていると、スーダがやってきた。彼は席に着くと、帽子をとって膝の上に置いてウェイトレスにコーヒーを注文した。
「決めたか......?」
「はい。断ることに決めました」
スーダは丸い目を見開いて、首をブンブンと振って、長い前髪を弄った。
「何故だ! オマエにとってはいいことしかないはずだ!」
「どうも報酬が足りないんですよねぇ......もっと出す、っていうなら話は別ですが」
エスはいやらしい笑みを浮かべてスーダの方を見た。
スーダは動揺しながらポケットをゴソゴソと探り、ゴンと金を置いた。他の客の視線も、そちらに集中した。
今度はエスが目を見開く番だった。真逆、スーダにそこまでの財力があると思ってもいなかったので......どうせあの金は無理くり引き出した金だろうと思っていたので......。
「いくら積めばいい......」
「どっからそんなのが......」
「貯金」
スーダは短く返事をすると、ぐいとコーヒーを煽って溜息をつき、エスの赤い目を見つめた。
「まだ、迷ってるんだろ.....一つ、忠告してやろう」
エスは怪訝そうな顔でスーダの目の奥を見つめた。彼女はそれを少しだけ不快に思った......自分の悩みは自分だけのものだ......そんな独占欲のようなものが、彼女の中に確かにあったので......。
そんなエスの様子を見て、スーダは冷静かつ淡々と続きを話した。
「......真相に迫りすぎてはいけない。ある程度の距離まで行けば、それは向こうからやって来る」
「向こうから......」
それを聞いて、彼女は益々その真相とやらを恐れた。今でさえ、それに向かうことが恐ろしくてたまらないのに、いずれ向こうからやって来る、など聞かされては......。
「間違えるなよ。オマエが真相に向かうための仮説は、必ずしも正しいとは限らない。俺はその翼の内容を知らないが、それはその想像を絶するほどの強大な真相に近づきすぎた時、もげるだろう。それ程までに、オマエが追う真相は深く、そして巨大だ」
深く巨大な真相。エスはその言葉を脳内で反芻した。その壮絶さは勿論、それの当事者となろうとしているのか、もしくは既に当事者なのか、自分には見当もつかないというのもまた、ひどく恐ろしい。
(もしかして、私の考える真相とやらは全く見当違いなものだろうか......)
そんな意識が、彼女の中に芽生えた。しかし、それはすぐに否定された。確かに自分自身は何かを忘れていて、そしてそれはアドの過去に関わるものであるはずだ、でなければ、彼が私を気にかける理由が無いし、自分が爆発事故に関わっていたという事実にも説明がつかないと......。
動揺したエスを見て、スーダはさらに畳み掛けた。
「オマエの認識はある程度合っている、しかし、それは未だ脆い。真相に近づいてももげないような、強い仮説を手に入れるんだ」
「強い、仮説......」
エスの口から、弱々しくその単語が漏れた。そして、彼女の中で今までのことがフラッシュバックする。
トゥニカの言ったこと。アドのデータを破壊したという、サリヴァン博士。アドが彼女を守る理由。爆発失踪事件。
エスにまつわるだろう謎だけでも、これだけある。そして無理くりそこから捻り出したのが、エスはサリヴァン博士であり、シェリー・ウェスターでないという仮説。これをもっと強化しろとは......不可能、無理......そんな単語が彼女の頭上で踊る。
「......それしか、もう思いつかなかったんですよ......私には......自分が私であると言い張るには知らないことが多すぎる......から......」
エスが今にも消え入りそうな声で言った。そんな彼女に、スーダは哀れむような目線を向けた。その姿はまさしく一人の少女、儚く散る花のようで......自分が生きるために他人を殺し続けてきた女だと言われても、到底納得出来ぬ弱々しさがそこに在る。
それを見たスーダは、静かに、慰めるように言った。
「今は......仮説なんて作らなくていい。まだ考えていてくれ......そしたらいつか分かる日が来るから......」
◇
エスが気の抜けた声で三日待つように言って去っていってから、スーダはカフェの屋根の上でボソボソと何かを呟いていた。その隣には猫が居る。猫は呑気そうに、にゃあと鳴いて欠伸をしてみせた。スーダは手慰みに猫の頭を撫でながら、少しだけ声量を上げて話す。
「......違う! 情が移ったんじゃない!」
スーダの猫を撫でる手に思わず力が入って、猫が苦しそうにギィギィ鳴いた。スーダはそれを聞いて、慌てて手を離すと、ごほんと咳払いをして、彼を敵と見なして引っ掻こうとする猫を膝の上で拘束して、口調を落ち着けて再び話す。
「いや......大丈夫だ。問題なく進むと思うが......? ああ、アレのことを心配しているのか。勿論、問題ない。というか、俺はそっちの進捗のことを聞きたいんだが......」
スーダは再び、今度は向こうの返事を待っているという理由で会話を中断した。向こうの返事を聞いて、スーダはなんとはなしに猫について思いを馳せた。
猫は自分が猫だとは思っていない。猫、というのは人間の言語であり、猫には自分のことを「にゃお」とか「にぃ」とかで表す術があるはずだ。ではもし猫が自分のことを「猫」であると学習した時、猫は果たして猫だろうか。猫でありながら人間であり、人間でありながらそれは猫である。半端は許されない。
今しがた会った少女だって、それに類するところで苦悩を抱えているに違いない、とスーダは睨んでいる。
この世界の人間でありながら、自分の自分に対する無知を学習した結果、この世界の人間だとも、違う世界の人間とも言えなくなった、そんな苦悩......それはスーダの味わったことのない苦悩だったが、その恐怖は確かに理解できる......彼女の理解者かつ協力する存在になれたら、とスーダは強く願っている。
そんな空想から帰還したのは、向こうの長い報告が終わったからだった。スーダの中にはもう少しぼんやりと報告を聞きながら妄想に浸りたいという気持ちも勿論あったが、それ以前に自分の計画の方が大切だったので、早々に妄想の世界から帰還して、再びボソボソと返事をする。
「......どうだろう。俺にはそれが無いとは到底思えない。だってそうだろ。本当に失ったなら失くしたことにすら気付けない......俺にはヤツがそんなヘマをするとは思えない。やるなら徹底的に、完全に消失させるはずだ」
スーダは目の前で肩を竦める者を幻視した。向こうから聞こえる声はそんな姿を容易に見させるほどに、反応や感情が明らかだった。スーダは大きく、はっきりと溜息をついてから屋根を飛び降りてこう呟いた。
「じゃあな、Dさん」




