Aγόρι -〝少年〟-
カラバイア王国、あるカフェ。この日、カラバイアの太陽は黒い雲に覆われていた。外を歩く冒険者も憂鬱そうだ。悪天候というものは外で活動するタイプの冒険者には都合が悪いためである。
エスはのんびりとコーヒーを啜っていた。その佇まいからは自分が置かれた複雑怪奇な状況に対する不安感など、一切見受けられない。
エスの目の前に座った少年が彼女に話しかけた。
「随分と余裕そうだな」
「ええ。ここ最近では不安なことが一気に減りましたから。ええ、楽になりました......」
それは、彼女の嘘だった。心の底では、恐ろしくて堪らないのだ。だから、こうしている間にも自分の置かれた複雑怪奇な状況を恐れ続けている。それも当然である。自身が自身でないという確証を抱いたその上で、十年前に自分が失踪していることを鑑みるに、そこに何らかの策略、意図があったことはまず間違い無いので......そして、自身はアドの発明者その人ではなかろうか、などと考え始めたもので......そして、自身が過去に張り巡らせたであろう策謀、それがどれほどのものかたのか、彼女に分かる筈もなかったので......トゥニカのような人物が自身のどれほどを知っているのか、皆目見当もつかなかったので......更に言えば、自身が今の今まで目標としてきたそれを、すべて破り捨てられてしまったかのようで......。
自分の中に居る巨大な未知の怪物が、自身の既知すら脅かし、既知を塗り替えてしまわれるような、そんな途方もない恐怖がこびりついていた。記憶喪失。ある筈の記憶が無い恐怖。そして、自身が持っていたそれが、本当は偽物だったかもしれない、という自我を否定されるかのような恐怖......。
少年はそんなエスの思いを少し見抜いたか、「へっ」と鼻で笑うと、少し前にエスと会った時の恐怖を思い出したか、再び声を震わせて口を開いた。
「う、嘘だな。だって、お前はアドをずっと探してた」
痛いところを突かれた、とエスは感じた。アドを探していたのは、彼女の彼に対する思い入れがまだ残っているからであった。彼は少なくとも、自身をエスという女としてみてくれていた筈だ。だから、日に日に強くなる自我の否定にも、耐え続けることができた......彼を探していたのは、エスが考えることを諦めていない証拠に足り得た......彼が居れば、いずれ真実にたどり着くと分かっていたので......。
「あれは......お世話になったので......」
長すぎる髪を弄りながら口から飛び出したのは、苦し紛れの言い訳。自分のような者は世話になったからといってわざわざ捜索届けを出すようなことはしないと、自身でも分かっていた。そんな自分で分かるようなことを、目の前の少年が分からない筈もない。一、二度あったぐらいでも他人には分かる。何故なら、自分を見るのは他人だからだ。
エスはそれを理解していた。それで何度、仕事を失敗したことか。
「オマエは......し、知りたくないのか? 自分の身に起きたことを」
「いいえ。知っても意味が無いので......」
また、嘘をついた。本当はアドが居なくなってからの一ヶ月、ずっと自身の張り巡らせたであろう策謀だとか、タイムスリップがどのようなものか、などと考え続けていた。自身がドクター・サリヴァンであるという仮説もそこから来たものだ......尤も、トゥニカが死に際に放った一言が大きかったが......アドが自分を”記憶と強い繋がりがある”と判断し、ずっと守っていてくれたこと、十年前の爆発失踪事件、母神教のこと、因劉が話さなかったこと......いずれも自分に関わっている。それでいて、自身が記憶しているような、父のこと、母のことが本当であると思い込める筈もなかった。だが、残った痣がその事実を裏付けしているかのようで、もうこの先に進めそうになかった。
「そ、そうか。そ、それはいいとして、俺は依頼があってオマエをここに呼んだんだ。俺は、スーダ。オマエには、戦争が起きるのを防いでほしい」
「私に? 随分無理難題を突きつけますね」
正直、このカフェに呼び出された時から、何を頼まれても断る気でいた。スーダとかいう少年が、依頼に相応しい額を提示できるとは、到底思えなかったからだ。それに、この少年はアドのことを知っていた。トゥニカや因劉なんて存在と、同類なのだろう。その少年の依頼を呑んでしまえば、間違いなく自分は真相なるものに近づいてしまう。それは避けたいと、彼女は考えていた。
「い、いや、簡単だ。オマエは俺の指定したことをしてくれればいい。それで戦争は防げる」
「先に戦争の概要と、報酬を提示してくれますか」
勝手に内容を話し始めたスーダに、エスが返す。それを指摘されたスーダは、「あっ」と声を漏らした。交渉慣れしていないのが丸わかりだ。スーダは一回咳払いをして、エスの求めた情報を話し始めた。
「......近いうちにカラバイアでは母神教徒同士の戦争が起きるだろう。母神教はトゥニカという男が率いるレフコ派、ロズウェルという女が率いるマヴロ派に分かれている。オマエらが戦っていたのはレフコ派......テロのような大規模な人死によって母の復活を祈る宗派だ。で、この二つが近いうちに......」
「待った。トゥニカは死んだ筈では? アドさんに頭を握りつぶされて......」
「いいや、死んでない。アイツは自分のクローンを大量に持っていて、いつどれだけ死んでも復活できる」
エスはクラクラする頭を抑えて、倒れるように椅子の背もたれに背中をぶつけた。
(タイムスリップときて、次はクローンか!)
どういうわけだか、クローンという単語を聞いた瞬間その言葉の持つ意味を説明されずとも理解できた。その事実をエスはすんなり飲み込むと、予想以上にしぶといトゥニカという男のことを考えて眉間を人差し指で抑えた。
「......で、マヴロ派はアドを利用してレフコ派との戦争に勝つ気でいる。レフコ派もそれを見越しているだろう......例えば......”オマエを人質にとる”とか。オマエが居ればアドは迂闊に手出しできんからな。マヴロ派の根城は妖精の丘。島国だから、オマエを確保しに来ることは難しい。だから、レフコ派はオマエを狙うだろう。その前に、アドを奪還し、レフコ派に一旦勝たせて、アドを使ってレフコ派も潰して貰おうと思う」
「中々難しいですね」
エスはその話を聞いている間、決していい顔はしなかった。今の所報酬が提示されていないのもあるが、それよりもっと大きな理由があった。
(こいつ、アドのことをなんだと思ってるんだ?)
まるで、アドが物であるかのように言ってくれるじゃないか。そんな苛立ちが、彼女の意思に強く影響した。一ヶ月前の自分も、多分アドを物のように見ていた。アドの意見を聞かずに、勝手にトゥニカに返事をした。だから、死にかけたのだ。それからというもの、彼女の頭の中に悔いが溢れ出てきてしまった。
だから、彼を物のように扱うことを、彼女は許すことができなかった。
(この交渉は蹴ろう)
彼女はそう決めた。この後に提示される報酬は、そう高いとは思えない。旅人のような服装をした少年に、自分を心変わりさせるような額を提示できるとは考えにくいから......。
エスがそう目を伏せると、スーダは机の上に麻袋を乗せた。中身がぎっしり入っているのがパッと見で分かる。
「報酬は、金銭では前払い五百万、成功報酬一千万。勿論ミナ硬貨で支払う。そして......」
提示された額があまりにも高かったことで、エスは目を見開いた。そして、スーダがこの後に続けた言葉に、更に大きく目を見開くことになる。
「オマエの父母の居場所を教えよう」
エスの視界がぐにゃり、と歪んだ。




