Nύχτα - 〝夜〟 -
エスは最早深く考えないことを決めた。
自分が居ないのであればそれでもいい。自分の中のシェリー・ウェスターが実在する証拠は徐々に薄れていって、本当に居ないのかも分からないが、エスという一人の女が実在するということには間違いない。ならば、それでいいじゃないか。
真実は頭の深くに沈めてしまえばいい。そして、時が来るまで触れないし、触れようともしない。それはトゥニカの前でも変わらない。あいつが本当のことを言っているなんて保証はどこにもない。なんだ、悩む必要も、混乱する必要もないじゃないか。初めからこうすればよかったのだ。
そう気持ちに整理をつけて、エスは今聞き込みをしている。内容は十年前の失踪事件の話。まるで明日ここを母神教が荒らすなど聞いてもいないような態度だ。
一方アドは、全く外面には出ていないが、彼のは相当に精神的に参っていた。いや、彼に参る精神はないのだが。
トゥニカの話は真偽がはっきりしなかったがためにアドはそう混乱はしなかった。その可能性も視野に入れて自分の身に何があったかを追う、というぐらいに考えていた。
が、あの映像で途端にトゥニカの発言に信憑性が増した。
裂け目の向こう側にあったのは、間違いなくタウバッハだった。そして、サリヴァン氏は何やら機材の準備をしているようにも見えた。更に言えばこの時代の生き物であるはずの正体不明の怪物も居た。
タイムスリップが実在するとなれば、サリヴァン氏はタイムスリップしてきて今カラバイアの何処かにいるはずである。なんの意味があってこの世界へやってきたのかという疑問もあるが、それよりも気になっていたタイムスリップは物理的に可能なのかということを問えば、アドのコンピュータは”不可能である”との結果を出すのみであった。
これが実在する、そしてトゥニカはそれを知っているという状況であれば、もう一つの話も真実味が増す。
つまり......自分のデータを破壊した人物が、自分の開発者であるという話である。
自分の開発者であるサリヴァン氏は何故自分のデータを破壊したのか。そして、今タイムスリップしてカラバイアの何処かにいるのであれば、氏を見つければ少なくとも手掛かりは得られるのでは? と、僅かばかりの期待とも捉えることができる考えを起こしていた。尤も、今の彼にそのような複雑な感情を抱くことはできないが。
誰も分からぬことであるが、これは”苦悩”といったものではない。苦悩とは、ただ単純に精神的な苦しさである。一方、今やっている行動は外的刺激の分析というアドの成長行動の一環であり、苦しさを伴わない。今まで様々なことを分析してデータを蓄積した行動の中に、どれだけ計算しても答えの出ない課題があり、その計算をし続けているという状態なだけだ。故に形は似ているが、苦悩とは本質が違う。感情ではないのだ。
アドはそんな計算をしながら聞き込みを続ける。太陽が丁度真南にあるぐらいの時間帯になってくると、街の人間は昼飯を食べるためにすっかりどこかへ行ってしまって聞き込みがし難くなったので、二人は一旦休憩と称してどこかの飯屋に寄ることにした。
◇
宿に戻る頃にはもう辺りはすっかり暗くなって、アドのメインカメラが月明かりを浴びてキラキラと七色に輝いている。
珍しくアドは充電せずに星を眺めていた。今日一日で様々な機能を同時に動かしたせいでそろそろ充電が切れそうになっているのだが、彼は何故か夜空を眺め続けていた。何を見つけられるわけでもないのに。
しばらく彼が星を眺めていると、どこからか声が聞こえてきた。耳元で囁かれているようで、遠くから薄らと聞こえてきているかのような声。ねっとりと耳に残るあの声......。母神教を率いるあの男の声がする。
アドがふと下を見ると、トゥニカがそこに居た。自分を呼んでいる、と判断したアドは、窓から飛び降りた。それはトゥニカにとって予想外だったようで、トゥニカは驚いたような、困惑したような顔をして、アドに話しかける。
「......何故窓から?」
「最短ルートだったからです」
「そうですか......」
トゥニカは自分のペースを少し乱されたのか、咳払いをして元の調子に戻ると、またニヤリと笑って話し始めようとしたが、その前にアドが話しだした。
「明日のことでしょうか」
「いいえ。それなら今、聞いていますよ」
「......?」
アドはそのことが理解できなかった。トゥニカの声や姿をどう見ようと聞こうと、アドに明日のことを聞いているようには見えない。それに困惑するアドを無視して、トゥニカは急に話を変えた。
「エスさんは自分の苦悩に一区切りつけたようですね」
「そうなんですか」
アドには相手の感情を察することができない。故に、エスのことも理解することはできなかった。それに何かを感じるわけでもない。まるでポッカリと空いた穴を見つめているかのような、空虚で愚かなそのロボットを、トゥニカは嫌悪しているのか、少し睨むような表情になって続けた。
「彼女のあれは、最早現実逃避と言わざるほかないでしょう。確かに、目を閉じ、耳を塞ぎ、鼻を摘めば苦しむことはなくなる。が、それで良いのでしょうか?」
「結論をどうぞ」
「......つまり、彼女には自身の正体を見つけていただきたいのです。あれでは我々の計画が停滞してしまう」
[不明な主語を検知”我々の計画”......リザルト: 母神教との関係性”強”]
「......具体的にどうぞ」
「我々の計画を目指す先には、”母の復活”があります。それに彼女は必要なのです」
母の復活とは? エスが必要な理由とは? そもそもそれを自分に伝えた理由とは? 等、色々気になったので質問しようとしたが、アドは先に最も気になっていた質問をした。
「あなたがいう、エスさんに自分の正体を受け入れてもらうことを私が手助けすることによる意味とはなんでしょう」
実を言うと、今朝言われた母神教を邪魔するなという願いにおいて、アドは演算によって母神教に勝てない可能性がある、という結果を出している。というのも、トゥニカとあの女の二人だけであれば勝算は十分にあるのだが、母神教との戦いでは何が起きるかわからない。ハオス、あの奇妙なサイボーグ、そして信者達。
故に、今朝喫茶店で言われた言葉は”脅し”として成立しているのだ。
が、後者についてはアドは守らなくてもいいことなのである。母神教が暴動しても、アドの目標である”感情を取り戻す”ということに影響はない。エスの正体についても、気になりはするが重要度は低い。
アドがそう判断したのを見抜いたのか、トゥニカは少し嫌悪しているような表情からエスに見せるようなニヤついた笑いに戻ると、ゆっくりと口を開く。
「この際はっきり言ってしまいますと、エスさんは......」
◇
朝、エスはアドよりも早く起きてカバンに詰めるものを選んでいた。いつの間にやらドラゴンの換金手続きを終えてきたようで、財布が幾分か重量を増している。これはすぐに魔術で作った異空間にしまわれた。エスの手提げ鞄には連絡用のベル、スリ対策のもう一つの財布、筆記用具などが整然と並べられている。
一通りの支度をエスが終えた頃、太陽がゆっくりと昇ってくるとともにアドも目を覚ます。いや、ただ単に目を開いただけなのだが。
「おはようございます」
「おはようございます」
エスが言った挨拶を、そっくり其の儘アドが返す。いつもと変わらない朝。アドは朝の赤い光を浴びるエスの顔を見て、少しだけ口を開いて、再び閉じた。
もし、ここで自分が昨夜聞いたことを言おうものなら......。自分の正体について、あれだけ悩んでいたのに......そして未だに解決していないというのに......。
......決めた。エスにこのことは伝えない。私はこの少女を守るのだ。その結論に至るまでに、どのような計算を繰り返したのかは誰にも分からないが、それがアドの出した結論だった。コンピュータが打ち出す指令と、壊れかけの感情を含んで、アドはそう決断したのだった。




