いつか少女は少年と旅に出た
そっと、火がともった。
灯った火によって、ともした本人である少女――アルテミシアの表情が浮かび上がる。
どこか上気したような赤い頬と白色の腰まで伸びた髪の先が不自然に赤く光っているのが印象的である。
彼女の手元には片手で持てる程度の本を持っていて、革張りにも見える表紙が蝋燭の火で明るく照らされていた。
そして何よりも特徴的なのは彼女の頭に生えている羽耳だった。
二十代前半に見える亜人の少女は足音を立てないように部屋のドアを閉め、傍らのベッドで寝ている少年の様子をうかがう。
まだ幼いまぶたに、触ると柔らかそうな肌はまだ少年が幼さの残る十代だと分かる。亜麻色に近いふわふわとした髪を無造作に垂らし、ベッドの枕元を演出していた。
宿屋の一室はお金がかかっているのか、きちんと掃除が行き届いた部屋に、手の入ったベッドとチェストが置かれていた。
アルテミシアが少年を起こさないようにゆっくりと火がともった蝋燭を宿屋の木製のテーブルの上に置く。
金属のふちが木製のテーブルに置かれた音が鳴り、同部屋の少年が息を吐いた。
「あれ……。お姉さん。どうしたの?」
「あ、起こしちゃいましたか?」
それに気が付いたのか、明かりをつけた少女がベッドに入っている少年にそう言った。
申し訳なさそうに笑う少女にこたえるかのように少年は体を起こす。
どこか虚空を見つめているかのようなエメラルドグリーンの瞳で少女に笑顔を向ける。
「ん……。大丈夫。起きてたから」
「そうですか。えへへ、せっかくだから私もそっちに行って大丈夫ですか?」
「うん」
「あはっ、やった! じゃあ失礼しますね」
少年の承認を得てアルテミシアは少年の向かい側からベッドに上り、少年を抱え込むように座り込んだ。
すぐ見える手元に本を置き、空いた両手で少年の体をそっと抱きかかえる。
「……しょっと。あはっ、温かいですね」
「う、うん」
反応が少しだけ鈍いほぼ無感情と言ってもよい少年の反応。
しかし、アルテミシアはそんなことを気にもせずに嬉しそうに少年を抱きかかえる。
すぐに少年のふわふわしている洗い立ての髪に触れ、手で梳くように指をはわせる。
思った通りのふわふわとした感触、アルテミシアは満足そうに表情を和らげる。
「やっぱりシープ君はあったかいですね。髪もすっごいふわふわしてます。あはっ」
「くすぐったい」
「あ、ごめんなさい」
アルテミシアが無意識に少年の髪に触れてしまっていたことに気が付き、慌てて手を離そうとする。
彼女の行動にシープは「あ」と声を漏らしてしまう。そしてすぐに恥ずかしそうに頬を赤らめる。
動きを止めてしまったアルテミシアがどうしたものかと迷っていると、おずおずとシープが口を開く。
「やめちゃうの?」
「やって欲しかったの?」
「うん。だって……その、嬉しいから。ほかの人に触られるの初めてで……」
視線を斜めに向け、どこか恥ずかしそうにそんなことを言うシープ。
そんな様子を見てアルテミシアは息を吐くのを我慢してきゅんとしてしまう。
思わずどこか拗ねたように顔を背けるシープをぎゅっと、体に引き寄せて抱きしめる。
「ああ、もう! 可愛いです! 天使です。食べたい、いえ食べてください!」
「お、お姉さん?」
「んー! もう何でもしてあげちゃいます。シープ君のためだったら。色々してあげちゃいますよ!」
「あ、ありがとう」
「はい、何をしてほしいですか? お姉ちゃんに甘えても大丈夫ですよ! あ、料理を作ってあげましょうか、わたし得意なんですよ。凄腕の料理人だって方の料理をまじかで見たこともあります。こう見えても自信あるんですよ? それとも――」
シープが困ったように微笑みを返すと、アルテミシアもそれ以上は続けずにシープの髪を梳く作業に戻る。
壊れ物でも触るかのように梳く少女の手つきにこそばゆく感じる。
まるで、初めて人に触れるかのように、少女の手は少年の髪をゆっくりと梳き続けた。
少しの間、そうしていると――。
「お姉さん」
「は~い。痛かったですか?」
「ううん、そうじゃなくて」
シープが自分の髪をいじっていたアルテミシアを見上げる。
そこには自分に向かって微笑んでいるアルテミシアの顔があった。
「不思議だったから。どうしてお姉さんが僕を救ってくれたのか」
「……どうしたんですか、急に」
シープの疑問にアルテミシアは息を吐いて笑い、シープの頭を撫でる。
「うん。僕は今まで、あの二人にずっと育てられてきたから。外に出ても、全員が知らないふりをしていた。目があっても、全員がお母さんとお父さんを見てた。僕がお父さんとお母さんの言うことを聞いていれみんな喜ぶって――」
「ん……」
「でも、全員が目をそらす中で、お姉さんだけが僕を見た。それが僕にもわかった。たった一人、お姉さんだけが」
「嬉しいですね。私がシープ君の一番です」
「だから……」
シープはそこで言葉を切る。
これを聞いてしまってもよいのだろうか。お姉さんがどこかに行ってしまうのではないのだろうか。
そんな漠然とした不安。
家族に見放されるよりも、怖かった。
殺されてしまうことにも、自分が無くなってしまうことが何の不安もなかったというのに。
今、お姉さんに置いていかれることがすごく怖かった。
だから――、
「ううん。なんでもない」
人形だった少年は、アルテミシアにそう答えた。
それから少しの間、無音の音が部屋の中に響いていた。
人によっては気まずいと感じるであろう時間の中、ふと、アルテミシアが口を開いた。
「ねぇ、シープ君」
「どうしたの、お姉さん」
「世界って、とっても広くて、わからずやで、面白いんです」
「……?」
「一人ひとり、見えるものが全員違って、同じ世界に生きていなくて。魔法だって、一人ひとり色も形も違うんですよ。それを見るのって、とっても楽しいじゃないですか」
「そう、なんだ」
「はい! そうなんですよ。これから、シープ君も一緒に見ましょう」
「うん」
「シープ君は――」
「なあに?」
「シープ君は、わたしに親が殺されて、憎いですか?」
「…………」
「今、あなたの目の前には親を殺した仇の人が居るのです。その人が自分の髪を、体を。すべてに触れようと近づいてくるその姿を。あなたは気持ちが悪いと思わないのですか?」
あくまで笑顔のままアルテミシアはシープにそう問いかけた。
シープは彼女を見上げたまま、
「どうして?」
そう言った。
少年もいたってふつうの表情のままで。
「だって、普通の人はわたしを憎みます。私利私欲で人を殺したわたしを。それでもわたしは後悔なんてしていませんし、悪いことをしたとも思いません。それでも、あなたはわたしに怒りませんか?」
「怒らない。だって、お姉さんはぼくを……」
「救ってくれた?」
「……うん」
「それでもわたしはあなたの親を殺した責任を取らなきゃいけません」
「そんな! お姉さんは悪く――」
「あはっ、ありがとうございます。わたしはその言葉だけで責任を負うことを後悔なんてしませんから」
そこでアルテミシアは言葉を切って、シープを見つめ返した。
シープを見つめるアルテミシア。それがなんだか無性に恥ずかしくて、シープは視線を前に戻した。
そしてアルテミシアは「だから――」と続ける。
「もし、何かしてほしいことがあったら頼ってください。嫌なことがあったら言葉にしてください。嬉しいことがあったらわたしにも教えてください」
「う、うん。それはいいよ」
「よかった――不便、ですよね。人って。人間も愚かしいほどに不便ですけど。わたしはどんなに魔法が読めても人なんて分かりませんから」
「お姉さん?」
シープが不思議そうな声で少女に尋ねる。
しかし、前を向いてしまったシープにはアルテミシアの表情は見えなかった。
「言葉って、重要なんです。わたしたちが思っているよりも……ずっと。だから、わたしにもっと教えてください、シープ君。わたしは怖がりさんですから」
「…………」
「シープ君?」
「いがい……」
「いがい、ですか?」
「うん、お姉さんって怖いものがないと思ってた」
「あはっ、そうですか。わたしもいっぱしの女の子くらいは怖がりですよ」
「獣の解体も、喋るときも……いつも笑顔だったから。ころしちゃうときだって、お姉さんはいつも真剣だったから」
「あー酷いです。シープ君はわたしを女の子扱いしてくれないんですね」
「ち、ちがう。そんなつもりじゃ……」
慌てて振り向こうとしてシープをアルテミシアは思いっきり抱きしめて止める。
木製のベッドが軋みを上げて静かな部屋に響いた。
シープの頭に、アルテミシアが体重をかけないように顎をのせて、リラックスをした猫のような体制をとる。
「大丈夫ですよー分かってますからー。あ、お布団入っちゃいましょうか。明日は早くに町を出て外に行きましょう」
「……うん」
アルテミシアがベッドから降り、少年を眠らせるために椅子を持って来て座った。
それを見届けてから、シープはそっと布団の中へと滑り込んだ。
「お姉さん」
「はあい、なんですか」
「おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい。また明日、起きたら会いましょう」
アルテミシアはシープにそう言うと、シープはすぐに眠り始めた。
やはり、こんな時間まで起きていられるほど体力はついていなかったようだ。
それを見届けてからアルテミシアは天井に視線を向けてためた息をはいた。
* * *
「本当に。本当に愚かなんですから。人間は」
少年が寝付いてから、アルテミシアは一人でつぶやいた。
「ねぇ、シープ君。あなたは親って言う道具から解放されて、何を考えるのでしょうね」
「…………」
「天使みたいな――人形みたいなお顔ですね。こんな子が人間だなんて。本当にもったいない……」
少しだけそうやって天井を見つめ、ふいに思い付いたように目の前のベッドに横からもぐりこむ。
温かい、温かいその体を確認して布団から顔を出す。
すぐ近くにシープの顔を見つけ、自分の頬が緩むのを感じた。
ああ、彼はこんなにも暖かいのだ。
この町を出て、彼と一緒に色々な世界を見に行くのだ。
まだまだ足りない、この世界を。
それを考えるだけで、少女の胸はいっぱいになる。
そして少女は考えるのを止めた。
朝に、彼の驚く顔が見れることを想像しながら。
「おやすみなさい、かわいいかわいいシープ君。わたしのかわいいかわいい人間さん」




