涙々綺譚(るいるいきたん)
昔に書いたお話です。『おとぎ話・白いくちなわ』を書き足しました。「 」内の表記を少し工夫しましたが、裏目に出ないか心配です……;
追記・『おとぎ話・樹液』を書き足しました。あと、舌足らずだったヒィナの片羽根の描写を書き加えました(ファンアート描き直してくださった『太ましき猫』様、ありがとうございます&申し訳ありませんでした……!)
涙の一・出逢い
羽根をもがれた。
左の羽根ばかりむしられて、片羽根の生えたいびつな天使がそこにいた。幼い天使は、甘い悪夢を見ているように、もやのかかった緑の瞳をまたたいた。おのれの羽根が散らばって、目のふちをかすめて消えてゆく。
痛くはない。
悲しいとも、思わない。
どうせ風切り羽を奪われた、飛びたくとも飛べない羽根だ。
天使の少年、ヒィナ=ヒム=ヒバナは、軽くなった背を震わせた。動きにつれて、金色の髪がかすかに揺れる。天使は後ろを振り返り、ちぎり残された羽根の残骸に手を触れた。
「まだ残っています」
左背に咲いた綿の花を男の手にすりつけて、ヒィナは無感情に
「全部取れ」
と態度でうながした。
羽根をもいだ男が、ふんと鼻先で軽く嗤う。面倒くさそうにあごをかき、事もなげに吐き捨てた。
「それはそのままで良いんだよ。ティアール姫の慈悲の心をあおることが、お前の使命なんだから」
ティアール=ティティア=ティルス姫。
この国では有名な名だ。この国の王の名を知らぬ者でも、ティアールの真名ならそらで言えるだろう。だがヒィナはその名と、おとぎ話のような逸話しか耳にしたことがない。
ふと疑問に思い、ヒィナは男に尋ねかけた。
「どういった方なのです?」
「何、単なる生きた人形だ。笑わず、怒らず、悲しまず。お前に良く似た女だよ」
男が、へっと蔑みの笑いを浮かべてヒィナを眺める。天使の少年は、熱の無い深緑の瞳で、じっと男を見つめ返した。
ヒィナには、感情がない訳ではない。
この城に来る前は、普通の子供のように笑ったり、泣いたり、はにかんだりしていた。
此処では、笑っても、怒っても、悲しんでも、誰も何も言わないから、表現しなくなっただけだ。窮屈な鳥かごの中の暮らしに、感情の表現はいらないのだ。
冷めた目で見つめられた男は、居心地悪そうに眉をひそめ、ヒィナのおでこを荒く弾いた。
「ったく、可愛くない子供だぜ、本当に。姫様の前じゃあ、もうちっと愛想振りまけよ」
おでこを押さえたヒィナが、涙を浮かべて男を見上げる。
男は嗤い、気味の悪いほど優しげな手つきで、ゆるゆる天使の頭を撫でた。
「そうそう、そうしてりゃちったぁ可愛く見えるぜ、仔犬ちゃん」
男はヒィナの腕を引っつかみ、引きずるようにして城の地下へ連れていく。そうしてたどり着いたのは、地獄の門さながらの無骨で巨きな扉の前。そこの真ん前にヒィナを立たせ、男は荒い手つきで、幼い背中をぐいと押した。
「頑張って姫を泣かしてこいよ。この国の王様の命がかかっているんだからな」
(どうでも良い……)
ぼんやりとそう思いながら、ヒィナは去ってゆく男の背中を見送った。
軽く扉を押してみる。冷たく厚い金属の感触が、手のひらの熱を奪ってゆく。扉は、開く気配もない。
「誰じゃ」
赤銅色の巨きな扉の向こうから、少女のものらしき声が聞こえた。声にはひどく険があり、そのくせ微かで頼りない。
(こんな可愛らしい声が、どうしてぶ厚い扉越しに、耳に届いたんだろう――)
天使の少年はそれを不思議に思いながら、桃色の口をまるく開いた。
「今日から貴女様の執事になります、天使のヒィナと申します」
ヒィナはさっきの男に、羽根をもがれる前に教わった通りに名乗りを上げた。
(自分の声が、扉の向こうに届くかな?……)
そのことが少し気がかりだったが、心配はすぐに打ち消された。竪琴を奏でるような綺麗な声が、冷ややかにこう応えたからだ。
「天使じゃと? 執事じゃと? そんなものは呼んではおらぬ。囚われた偽りの姫君に、子供だましのつまらぬ玩具は必要ない。早う去ね」
ヒィナは、黙って小さく足を鳴らした。
(『去ね』って言われても、このままのこのこ帰っていけば、何をされるか分からないし……)
天使の右羽根が、しんなりと水気を含んだようにしなだれる。ヒィナは祈るように手を組み合わせ、口をつぐんで立っていた。
十分ほど経った頃、扉の向こうから低く小さく吐息が聞こえた。
「……まだ居るのか。しょうのない。えぇ、もう良いわ、それほどこちらへ来たいのならば来るが良い」
小鳥のさえずりを思わせる声で吐き捨てられ、ヒィナは顔を上げる。
どうやって入れば良いのか分からずに、そっと扉に手を触れる。扉は耳をすり潰すほどの軋りを上げて、内側へ大きく口を開いた。
扉の開いた瞬間、大きなベットや、本棚や、草花をかたどった赤い模様の絨毯が目に飛びこんできた。
扉は開ききるとすぐまた閉まり始めたので、ヒィナはあわてて中へ駆けこんだ。
駆けこんだとたんに、扉は罠のように動きを早め、背後でびたりと口を閉じた。部屋の中は真っ暗で、ヒィナの目には何も見えない。
(姫は、どこ?……)
さっき目にした残像を頼りに、あやふやな足取りで歩を進める。
三歩ほど前に進んだ時、ふっとホタル色の灯りがついた。ベットわきの机のランプが、花の咲くように黄色い光を放っている。
ベットの上で毛布をかぶった人影が、ランプに伸ばした手を引っこめて、こちらを向いた。人影はヒィナを見た刹那、はっとしたように小さく身をこわばらせた。
ベージュ色の毛布がすべるように華奢な肩を流れ落ち、水色のドレスの腰にわだかまる。
「おのれが執事か」
ふん、と鼻を鳴らした涙姫の肩の上で、装飾のように青く長い髪が揺れた。『少女』と呼ぶには艶やかすぎ、『乙女』と言うには幼すぎる。
同じ容姿で何百年生きたのか、歳を取らない生き物は、つん、と肩をそびやかした。
奇跡の薔薇を閉じこめた氷のごとく蒼い目が、ふとヒィナの背中をとらえる。
「何じゃ? 天使じゃと言うて、まともな羽根が無いではないか。右羽根はまだ良いとして、左羽根はどうしたのだ? 左の背中に生えている、そのおそまつな綿毛が羽根か?」
「むしられました」
ヒィナが素直に答えると、姫君は眉をひそめて身をすくめた。
「またその手口か。よくよく芸の無い奴らじゃ。我がその程度で泣くとでも思うたら、大間違いじゃ」
呟いた姫のしぐさにも、表情にも、さほどの熱はこもっていない。『不機嫌な無感情』とでも称したくなる捨てばちな雰囲気が、ティアール姫の小柄な体をおおっている。
「その手口、とは」
天使の少年が訊ねると、姫君は意外そうに蒼綺石の瞳をまたたいた。
「知らぬのか? 我の涙が欲しいばかりに、城の者がかつて我らに為した無残な所業の数々を、おのれは耳にしておらぬのか?」
ヒィナが黙ってうなずくと、ティアール姫は呆れたように息を吐いた。青い髪をかき上げて、教師めかした口ぶりで話しだす。
「……我の涙が、万病に効く薬になること、おのれは知っておるな? 仮にもこの国に住む者なら、この程度は知っておろう」
「ええ。あなた様の涙が美しい宝石のように結晶まること、それが百薬の長になることなら、この国の誰もが存じています」
ティアール姫は面白くもなさそうに、ふっと息を吐き、蒼い目を閉じた。静かに瞳を開いた涙姫は、気の毒そうにヒィナのちぎられた羽根を眺める。
「……我は、おのれの羽根を癒さぬぞ。ここでもし我が泣いたとしたら、城の者がお前に何をしでかすか、分からぬからな」
「構いません。どのみち飛べない羽根ですから」
淡々と答えるヒィナを見つめ、ティアール姫は瞳を細めて、淋しそうに微笑んだ。捨てばちな雰囲気が一瞬薄れ、壊れそうな気弱な表情が頬に浮かんで、すぐ消えた。
姫君は皮肉に笑い、ヒィナをベット際に手招いた。
「来るが良い。無知な天使に、ちょっとした昔話をしてやろう」
ヒィナはうなずき、灯りに向かって歩んでいった。
左右のバランスの崩れた背中がふわふわして、今の方がかえって飛び立てそうな気がして、何だか妙におかしくなった。
ティアール姫は天使の少年を自分のとなりに座らせて、小さな声で話しだした。
涙姫の声は甘く美しく、ヒィナが昔耳にしたオルゴールの音色を思わせた。
「我はな、昔はただの村娘じゃった。流した涙も、初めは綺麗じゃ何じゃと言われて、村の者にあげておっただけじゃった。村の者も、ただ飾って楽しんでおったのじゃ」
姫君は眉をひそめて微笑う。青く長い髪をかき上げ、ふう、と細く息を吐く。
「じゃがな、我の朋輩に食い意地の張ったやつがおってのう。『飴玉のようだ』と言うて、我の涙を舐めたのじゃ」
ヒィナがうなずいて続きをうながす。姫は情けなさそうにため息を吐いて、口を開いた。
「そうしたらそやつめが、『頭の痛かったのが治った』と言いだしおってのう。そのことを村中に広めたのじゃ」
ティアール姫は目を閉じて、かすかに首を振る。ヒィナが黙って待っていると、蒼い目を開けた姫君は、あきらめたように微笑んだ。
「……後はお定まりじゃ。村の者を癒しておるうちに、我の噂が城の者の耳に入った。それからはずっと、我はこの暗い地下牢暮らしじゃ」
ヒィナがうなずいて、そっと姫君の手を握る。
(ぼくと、似ている……)
涙の宝石と、白い羽根。他人には無い物を持っていて、それ故に自らは不幸になってゆく。
「何故に泣く」
姫に問われて、初めてヒィナは自分の泣いているのに気がついた。あわてて涙を拭ったが、何年ぶりになるだろうか、涙は湧くようにあふれて止まらない。
「すみません……何でだろう……泣くなんて、ずっと無かったのに……」
ひそやかにしゃくり上げる天使を見て、姫君は苦しそうに微笑んだ。
「我はもう泣けぬ。我を泣かそうとして、城の者は我の大事な者たちを生贄とした。我の涙は王と、位の高い側近の手にのみ渡り、病に苦しむ民たちには一粒も行き渡らなかった」
ヒィナは泣きながら、ティアール姫の顔を見つめる。
姫の蒼い瞳が、時雨れたように潤んでいる。けれどその宝石のような瞳から、涙は一粒もあふれてこなかった。
「城の魔法使いどもは、頼んでもおらぬのに、我に老いることのない肉体と、無限とも思える命を与えた」
姫君はどこか遠くを見る目つきで、ぽろぽろと言葉をこぼす。
まるで、涙の代わりのように。
「我の涙は、限りない人々を不幸にした」
ヒィナの手の下で、小さな手が硬くこぶしを作る。
「我はもう泣かぬ。我は泣いてはならぬのだ」
やっと泣き止んだヒィナを見つめ、涙姫は冷たく微笑う。
「もう来るな。賢帝が死にかかろうが何だろうが、我は決して泣かぬからな」
ヒィナはうなずきかけ、小さくかぶりを振った。いぶかしそうに眉をひそめる姫君の蒼い目をのぞき、何年かぶりに素直に微笑う。
「また来ます。ぼくが、あなたに会いたいから」
背中の羽根を震わせて微笑むと、姫はどこか痛んだような笑顔を見せた。
「羽根を揺らすな。雪虫の衣がはがれてゆくようで、痛々しくて見ておれぬ」
ヒィナは決まり悪そうに微笑い、背中の羽根を一枚だけつみとった。溶け落ちぬまじないに、ふっと自分の息をかけ、涙姫にさしだした。
「はい、これ差し上げます。天使の羽根を持っていると、幸せになれるそうですよ」
ヒィナは小首をかしげて微笑い、去り際にこうつけ足して舌を出した。
「ぼくは人間との混血ですから、効果も半分でしょうけど」
いたずらっぽく背中の綿毛をひくつかせ、天使の少年は去っていく。いびつな羽根の後ろ姿を見送って、涙姫は白い羽根を胸に抱いた。
愛おしそうに抱きしめて、握り潰して、踏みつけた。
おとぎ話・白いくちなわ
翌日も、ヒィナは地下にやってきた。
今日はひどく天気が良いが、もちろんのこと、地下の一室に日の光は差しはしない。ホタル色の小さなランプが、この部屋にたった一つの光源だ。
天使の持ってきた朝食をもそもそ食べ終えて、姫君は小さく息をついた。
「……ひまだのう」
うさぎのぬいぐるみの耳をねじるように撫ぜながら、孤独な姫が言葉をこぼす。ふっと顔を上げたヒィナが、遠慮がちな笑みを浮かべた。
「あ、それなら、ぼくがお話をしてしんぜましょうか?」
「『お話』?」
「ええ、昔母から聞いた話を……幼い子供の寝物語の、つたない話ばかりですが」
ティアール姫は意外そうに目を見開き、それから冷たい微笑を浮かべた。切れ長の蒼い目をひそかに歪めて、うさぎから手を離し、腕を組む。
「ほう? ならば話してみるが良い。仮に我が満足できねば、お前はここにもう来るな」
「困りますね。ハードルが一気に上がったな……」
本当に困ったような顔をして、ヒィナは小さく口を開いた。
「ある北国のある山に、白い蛇が棲んでいました」
「白い?」
思わず口をはさんでしまい、姫君の顔にほんのりくやしさがにじむ。ヒィナは少し微笑ってみせて、穏やかなしぐさでうなずいた。
「ええ、白い蛇。めずらしいですよね。でも、だから蛇は嫌だったんです。自分の体の白いことに、我慢がならなかったんです」
「……何故?」
「白い蛇は、うとまれていたんです。当たり前の緑色した、『仲間』の白い蛇たちから。
『お前は白い』『だから俺たちの仲間じゃない』って、仲間はずれにされていたんです」
その語り出しは、およそ子供の寝物語とはほど遠い。
けれどそれ故に興味を引かれて、姫君が少しだけ身を乗り出した。そのことに気づいているのか、いないのか、天使の少年は綺麗な声で話を紡ぐ。
「蛇はその体の白さのために、人間からも追われていました。『珍しい』『金になる』……。蛇を追いかける人間たちは、いつだってそう叫んでいました」
姫君が小さく息を呑む。黙って聞き入る一人きりの観客に、ヒィナは言葉を重ねていった。
「独りぼっちの白蛇は、ある時羽根の欠けた妖精と出会い、彼と友だちになりました」
「……友だち? 蛇と妖精が、どうやって?」
「雨やどりのフキの葉の下で相席になったとか、そんなところじゃないでしょうか? 欠けた者どうしが仲良くなるのは、とても易しいことですから」
さらりと核心を突く発言に、姫君がぐっと言葉に詰まる。静かにそっぽを向いた少女に、天使は重ねて語りかけた。
「蛇の初めての友だちは、蛇よりずっと物知りでした。寒い時分は冬眠をする白蛇に、妖精は雪を教えてあげました。
『雪って、特別きれいなもんさ。冷たくて、白い……そう、ちょうどあんたの肌の色した氷の花が、空からひらひら降ってくるんだ。その時分は、空気が体に食いつくぐらいに寒いけど、雪はきれいさ、本当に』」
(雪……)
そっぽを向いていた姫君が、ゆっくり顔を天使へ向ける。赤いくちびるをまるく開いて、ほっとこっそり吐息をついた。最後に雪を見たのは、いつのことだったろう。地下の暗い部屋の中では、冬の寒さも夏の暑さも感じない。
穏やかな笑みを浮かべながら、天使の少年は言葉を編んだ。
「(うらやましい。同じく白い色を持つなら、私は雪になりたかった。『美しい』と皆に言われる、雪に私もなりたかった)。
黙りこんだ白蛇を、妖精はじっと見つめました。
『……あのさ。俺思うけど、あんたもさ……』
妖精は何か言いかけて、ふっと言葉をあきらめて、はにかんだようにうつむきました」
(妖精は、何と言おうとしたのだろう?)
心のうちで呟いて、姫は足を組みなおした。話の続きを望んでいる自分に気づき、そのことがとてもくやしいけれど、ほんの少しだけ嬉しかった。ヒィナは歌うように、言の葉を踊らすように、ひらひら話を奏でてゆく。
「やがて冬がやって来ました。冬眠していた白蛇は、凍てつく寒さに目覚めました。
『……寒いな。何だか今日はやけに寒い』
蛇はふと思い立ち、ゆるゆると顔を上げました。
(雪が降っているのではないか? 以前妖精が言っていた、『雪の降る時分は、空気が体に食いつくぐらい寒いんだ』と。今外に出れば、雪が見られるのではないか?)」
姫が体をこわばらせた。
それは蛇にとって、とても危うい考えだ。冬の寒さを逃れるために、蛇は冬眠するのだから。
「蛇は自分の思いつきに、赤い瞳を潤ませました。変温動物のこの体、今外に出れば、必ず凍えて死ぬでしょう。けれど危うい誘惑は、蛇の頭をぐるぐるまわって離れません。
(ええ、もう構わぬ。死んでも構わぬ、最期にこの目で、白く美しい雪を見たい)
蛇はこわばるからだを揺らし、外へと向かっていきました」
「……それで? その後、蛇はどうなったのじゃ?」
いやおうもなく話に魅かれる姫君に、ヒィナは少し嬉しそうにはにかんだ。それからまるく口を開き、つらつら言葉を連ねてゆく。
「蛇は瀕死の体で外に出ました。凍てつく寒さにもうろうとした頭にも、雪は美しく思えました。
(ああ、もういい、死んでもいい)
かじかんでいたからだがほどけ、どんどん眠くなっていきます。うとうとしている蛇の前に、ふっと誰かの影がさしました」
「……妖精か?」
あの羽根の欠けた妖精か――?
舌っ足らずな姫の問いに、ヒィナは微笑って首を振る。うとうととした、どこか甘やかな口ぶりで、蛇の思いを言葉にした。
「(誰だろう……人の子ではあるまいな。綺麗な娘だ……山姫か?)
ぼんやり思う蛇を目にして、精霊らしい女の子が、口元へ手をあてました。
『まあ、綺麗な蛇!』
(綺麗? ……私が?)
蛇は赤い目を見開いて、それからはかなく微笑みました。
(ああ、そうか。私は、綺麗だったのか)
蛇は満たされた気持ちで、雪に頭をのせました。
自分の体が、溶けて、ちらけて、雪になる。
そんな甘い幻想の中、蛇は意識を手放しました。雪は優しくやわらかく、蛇の体を包みました」
姫君が、思わず息を呑む。何も言えずにうつむく姫に、ヒィナは優しく微笑いかけた。
「やがて春が訪れました」
「……まだ続きがあるのか?」
「ええ。もうじき終いですけど」
意外そうな姫君に、天使は柔い微笑を見せる。再びまるく開いた口から、さらさら言葉が流れてきた。
「やがて、春が訪れました。雪は溶け、蛇の死んだあたりには、一輪の白い花が咲きました。名も知れぬその花は、見るものの目を灼くほど白く、悲しいくらいに綺麗でした。
春のある日、羽根の欠けた妖精が、そこへ姿を見せました。妖精は花を見て息を呑み、そっと匂いをかぎました。
『……このすーっとくる青い匂い、間違いないや。お前、あの白蛇だろう? いつの間にこんな姿になって……』
妖精は泣き出しそうに微笑んで、白い花を撫ぜました。
『そんな姿にならなくても、お前は綺麗だったのに……。俺がきちんとそう告げたら、お前は今でも、蛇の姿でいてくれた?』
今さらこぼれた言の葉に、白い花は春風に揺れてうなずきました。
春の日にあたたまった朝露が、花びらをそっと伝って落ちました」
(これで話は終わりです)
ささやくように言葉を締めた少年を、姫はぎゅうっとにらみつけた。険の走る蒼い目が、輝くように潤んでいる。けれどもやはりその目から、涙はあふれてこなかった。
「おのれ、わざとだな」
「……? 何がです?」
「今の白いくちなわの話、母から聞いた話ではない。母が子供に、こんな沈んだ話をするものか! おのれ、我を泣かそうと城の者から仕込まれて、今の話を語ったじゃろう!」
ぴしゃりと決めつけた姫君が、天使の顔を見てううっとひるむ。ヒィナはとても淋しそうな顔をして、それでも懸命に微笑んでいた。
「……違います。仕込まれた話などではありません。母は、ぼくに毎晩、ああしたきらきらしくて、切ない話をしてくれました」
姫君は何も言えずに黙りこむ。『こういった話を毎晩、息子に語る』。それだけの事実で、ヒィナの母には何か事情があるということ、痛いくらいに分かってしまう。
何か辛い過去があったのか、それとも……。
首を振って考えを振りはらい、ティアール姫はほんの少しの微笑を浮かべた。
「……すまぬ。どうやら我が卑屈じゃった」
素直にあやまる姫君に、天使の少年が意外そうな顔をする。流し目で手を組み合わせ、姫がぎこちなく持ちかけた。
「しかしまぁ、落ちは何だが、聞けぬ話でもなかったのう。そうだヒィナ、これから毎日、我に話をしてくれぬか?」
そう言って、姫君がちょっぴりはにかんだ。ヒィナは一瞬きょとんとして、それからぱあっと笑顔になって、弾けるようにうなずいた。
おとぎ話・樹液
三日目の朝が来た。
ヒィナは朝食の盆を手に、また地下の部屋を訪れた。ホタル色の明かりをそのままに、姫君はベットで眠りこんでいた。青い髪がかすかに寝乱れ、安らかに息をつくくちびるが、妙に色っぽい。
ヒィナはこくりとのどを鳴らし、おそるおそる姫君の肩へ手をかけた。
「姫様……ティアール姫様」
ふっと目をあけた姫君は、びくっとして身を引いた。
「な、何だお前? 我が寝ていたのに、ここへ入ってこれたのか?」
「え? えぇ。声をかけてもお返事がなく、扉を押したら開いたので、そのまま……すみません」
「いや……めずらしいな。我の気に入った者でないと、あの扉は開かんのだが……」
思わず呟いた姫君の頬が、ゆっくりと朱に染まってくる。つられてほんのり頬を染めた少年が、黙って盆をさしだした。
「お前は、食うたのか」
「食べました」
ヒィナは微笑ってうなずいた。量が多いだけがとりえの、姫とは段違いに貧しい食事だが、そのことはないしょにしてうなずいた。姫はあいまいに「ふぅん」とつぶやき、もそもそ朝食をとりだした。
食事を終えて、少しうきうきとベットに座りなおす姫君に、ヒィナは微笑って語り出した。「今日は、『樹液』という話です。……やっぱり沈んだ話ですけど」
「良い」
「それでは……ある深い森の奥に、一人の少女が住んでいました。少女は名を『エミル』といいました。エミルは森の果物を採ったり、川から水を汲んだりして、森の奥の山小屋で、一人で暮らしておりました」
姫君はあごに手をあてて、はすっぱに話を聞いている。聞き入る青い目が綺麗だと、内心でそっと呟きながら、天使の少年は言葉を紡ぐ。
「そんなある日、小屋に一人の少年が訪ねてきました。
『こんにちは! 誰かいませんかぁ?』
そういってだしぬけに戸を開けた少年は、思わず息を呑みました。小屋のそうじをしていたエミルの腕を見たからです。エミルの両腕は、古くなった刀傷でいっぱいでした」
「な、何でそんな……」
うろたえて言葉をこぼす姫君に、ヒィナは穏やかに笑んで言葉を継いだ。
「エミルは少年の前でシャツを脱ぎ、傷だらけの体を見せました。そうしてこう言いました。
『あたしは赤漆族の生き残り。あたしの血は、ほどよく煮つめると、上等の赤漆になるの。だからあたしは漆の職人のところで、毎日傷をつけられたの。それでもうそんな毎日が嫌になって、数年前に逃げてきたのよ』」
さっそく雲行きが怪しくなり、姫君がこっそり息を呑む。ヒィナは甘いお菓子でも語るように、ゆるやかに言の葉をつないでゆく。
「少年はしばし黙っていましたが、ぼそぼそのコートをはおった体で、二三度大きくうなずきました。
『知っています。ぼくも漆の職人ですから。ぼくの名は、……ラッシュ。漆作りの親方たちから、あなたを連れて帰ってこいと言われました』
エミルは驚いた顔をしましたが、黙って首を振りました。少年は食い下がり、たたみかけて言いました。
『何年かかっても良い、必ずつれて帰ってこいと言われました。あなたがうんと言うまでは、ぼくは決して帰りません』」
「それで……エミルは、どうしたのじゃ?」
「エミルが何を言っても、ラッシュは帰ろうとしませんでした。それでエミルも根負けして、彼と暮らすことにしたのです」
姫が小さく息をつく。青い目が続きをねだっているのを知っていて、ヒィナは再び口を開いた。
「ラッシュには、少し変なところがありました。春でも夏でもぼろぼろのコートをはおっていて、エミルの前では決して脱ごうとしないのです。でもその他は、気のきいた、優しい少年でした。エミルは彼と過ごすうち、彼に嘘をついているのが、心苦しくなってきました」
「……『嘘』?」
姫君が思わず言葉をもらす。片羽根の天使はかすかに微笑んで、歌う口ぶりで話を続けた。
「エミルはある朝、ようやく真実を言いました。
『ラッシュ、ごめん。あたしは、嘘をついていたの。あたしは全然特別じゃない。何の意味もない、傷だらけの……虐待された子供なの』」
姫君がくっと息を呑む。青い目を見張るティアール姫に、天使は言葉を重ねてゆく。
「あたしが産まれた時、パパも、ママも、まだ子供だったの。もっと二人でいっぱい遊んでいたかったの。子供なんか、欲しくなかったんだって」
姫君がくやしげにくちびるを噛む。歪んだ青い目はやはり綺麗で、ヒィナは見とれながらも、淡々と続きを語り継ぐ。
「あたしはいらない子だった。毎日、ひどいことをされた。ある夜、このままじゃ殺されるって思って……、お酒を飲んで、酔っぱらって眠りこんでるパパとママを、何度も刺して殺したの。それから、ここに逃げてきたの」
細いまゆをそっとひそめて、姫君が「かわいそうに」とつぶやいた。話に入れこむティアール姫に、天使は言葉を連ねてゆく。
「赤漆の話は、出まかせなの。たまに迷いこんできた大人たちに、話を聞かせて追い出していたの。その人たちに話を聞いて、漆の親方たちがその気になっちゃったんでしょうね。……でも変ね、漆のエキスパートたちが、出まかせの話を信じるなんて」
姫君が静かにうつむいた。目を手で拭うしぐさをしたが、その目から、涙は一粒も流れてこない。
「エミルの告白を、ラッシュは黙って聞いていました。それから、少女に向かって深々と頭を下げました。
『ごめんエミル、ぼくも嘘をついていたんだ。ぼくは、漆の職人なんかじゃない。君の話を聞いてから、とっさに嘘をついたんだ。ここから、追い出されないために』
そうしてラッシュは、初めてコートを脱ぎました。コートの下には、エミルと同じように、数えきれない刀の傷がありました。左の手首には、『トラッシュ』と――『ゴミ』と刻んでありました。
二人は黙って向き合って、やがて静かに泣き出しました。
虐待された少年と少女は、どちらからともなく抱き合って、いつまでも泣き続けておりました」
「それから……二人はどうなったのじゃ?」
「幸せに……」
言いかけたヒィナは、少しだけ声を詰まらせた。それから、確信というよりは、希うように、
「幸せに暮らしたんじゃないでしょうか」
と話を締めた。姫は青い目を潤ませて、はたはたと二三度またたいた。けれどもやはりその目から、涙はあふれて来なかった。
「お前の話は……」
「つまらないですか?」
「ざわざわする」
甘く非難する口ぶりで、姫君は言葉を吐き出した。ヒィナが残った羽根を震わせ、ほんのりと苦笑する。
「もう、やめます?」
「いや、このざわざわ具合が、ひまを潰すにはちょうど良い」
妙な褒め言葉に、天使の少年が吹き出した。ふっとまじめな顔になり、ホタル色の明かりを見つめる。
(――ぼくらは、どうだろう)
ぼくらは一体、幸せだろうか。
羽根の欠けた天使と、涙を流せぬ涙姫。この地下牢のひとときは……一体、幸せなのだろうか。
「おぬし、何を考えている?」
いぶかしげな姫の言葉に、ヒィナはあいまいに微笑ってみせた。
(ぼくらは今、幸せなのだ)と……無理やり決めて、はにかんだ。それが嘘だということも、痛いくらいに知っていた。
涙の二・過去
歪んだ毎日が過ぎてゆく。
片羽根をもがれた天使は、毎日地下を訪れる。日に数度食事と飲み物を運ぶ他は、夜まで涙姫と共に、地下牢で長い時間を過ごす。そうしてヒィナは毎日まいにち、おとぎ話を姫に語った。
姫は人形ではなかった。
笑い、怒り、嘆く、一人の生きた少女だった。ただ、それらの感情をヒィナ以外の者に見せることはない。
「我の心がなごんだことを、誰にも知られてはならん。我は冷たく凍てついた、氷姫でなくてはならぬのじゃ」
姫は呟き、誓うように綺麗に蒼い目を閉じる。
「でなくば奴ら、再び我の大事なものを手にかけるに違いない」
「大事なもの、とは?」
天使の少年が訊ねると、ティアール姫は目を開いた。それからじっとヒィナを見つめ、口に飴玉を含んだような、くぐもった笑い方をした。
「おのれは知らずとも良いことじゃ」
優しく封じるように決めつけられて、ヒィナは素直に口をつぐむ。
(大事なものを、大事だと口に出来ないくらい、この姫は酷い目に遭ってきたんだ……)。
内心でそう呟いて、天使は泣き出しそうに微笑んだ。
大切な者たちが、どんな風に生贄にされたのか、姫は一言も言わなかった。
言わないことが、何よりの答えだとヒィナは思う。
天使は少しでも姫に笑ってほしくて、いつしか花をつむようになった。毎日庭の花をつんでは、地下の檻を飾るのだ。
赤や黄や紫や、それぞれに甘い香りを放つ花々は、花の精めいたティアール姫を彩るための、気のきいた装飾のように見えた。
「本物の花なぞ、どのくらいぶりに目にしたろうか」
呟いて花を手に取り、形の良い鼻先に押し当てる姫君の頬には、微かな苦味と淋しさが溶けている。
その翳りを消したくて、ヒィナは花を運ぶ。姫の憂いは薄く淡く色を変えながらも、白い頬のあたりに染みこむように広がってゆくようだった。
日の光の届かない地下では、花は長く咲くことはない。
「もう良い」
しおれた花を手に、十日目の夜に姫は告げた。
「もう花は良い。枯れさせるのが気の毒じゃ」
くたりとしなった紅い花びらをつまみとり、姫は懺悔のように口づける。
「我の愛するものは、皆我のために死んでゆく」
しめやかに嘆きをもらす姫の頭に、ヒィナは新しく薄桃色の花を挿した。
「分からなければ良いのです。城の者に、あなたが誰を愛していると分からなければ、その者は命を奪われることはありません」
姫は淋しそうに蒼い目を上げて、微笑う天使の少年を鏡のような瞳に映す。
「思うだけか。愛する者に愛していると告げられず、ひそやかに胸を焦がすだけなのか」
ささやくように言葉をこぼし、薄い胸を押さえた姫に、ヒィナはそっと微笑いかけた。
「こっそり打ち明けてみれば良い。その者と姫との、一生の秘密にすれば良いのです。もし明らかになって殺されれば、それはその者の責任でしょう」
姫は決して、他の者には打ち明けないでしょうから。
つけ足して微笑うヒィナの顔を、涙姫は恨めしそうな上目づかいでにらみつけた。
「……おのれ、何も分かっておらぬな」
「ん? 何がです?」
あどけなく微笑うヒィナの名残の羽根を、姫は乱暴に抜き取った。つみとった羽根を一本天使へ突きつけて、横暴な口調で言い放つ。
「もう良い、去ね」
きょとん、と目をまたたいた天使の顔を切るように、姫君は羽根を、さっと鋭くななめ下へ動かした。
「去るが良い。もうここには来るでない」
天使は小さく首をひねり、淋しそうに微笑して、部屋を出ていった。
姫君がうつむいて、手の中の白い羽根へ目を落とす。羽根は手の中で、溶けて崩れて泡のように消えてゆく。
「……それで良い。つかのまの幸せなぞ、我にはいらぬ」
涙姫は自分の耳にすりこむように呟いて、祈るがごとく両手を組んだ。
(――はて。一体我は、何に祈れば良いのだろう……?)
ふと思いいたり、投げやりに首をかしげてみる。その動きにつれ、頭の花がしゃんなりと甘い匂いを振りまいた。
大事なものは、遠ざけて嫌うふりをすれば良い。
自分に近づけば近づくほどに、愛しい者は死に近づいてゆくのだから。
「何も考えず泣ければな。我も朋輩も村の者も、こんな目になぞ遭わずに済んだ」
姫君は自嘲するように言葉をこぼす。
血を流すような思いをして流した涙は、もう一粒も残っていない。だからこそ、長い歳月を閉じこめられて放っておかれた自分の元に、ヒィナがやって来たのだろう。
「……もう来るな。愛しい愛おしい、飛べ得ぬ小鳥よ」
姫君の呟いた言の葉は、誰にも知られずにじんで消えた。
翌日、地下牢の重い扉が開いた。
死ぬほどの深い眠りから覚めた姫君が、引きずるように顔を上げる。眠気に潤んだ蒼い目が、花開くように見開いた。
「朝食をお持ちしました」
いつもの執事の変わらぬ台詞に、涙姫の頬が緩む。一瞬咲いた花笑みは、氷をなすられたように急に冷たくしぼんでいった。
「ヒィナ。我が昨夜おのれに告げたことを、おのれは覚えておらぬのか」
「忘れてしまいました。ぼくは頭が悪いので」
おどけて微笑う天使の少年に、ティアール姫は深く、長く、息を吐いた。
朝食の盆を受け取り、黙々と口に運ぶ。ポテトスティックのフライを一本つまみとり、「ん」とヒィナに突きつけた。
「は?」
「ん、」
姫君はいらだったように肩を揺らし、つんとしたしぐさで、フライを少年の口元へ押しつける。少年が姫の思惑に気づき、甘えるように口を開けた。姫君はスティックを優しく口に押しこんで、小鳥にエサを与える飼い主のような笑みを浮かべた。
「美味いか?」
涙姫が訊ねると、ヒィナは口をもぐもぐさせながら、嬉しそうにうなずいた。
姫は柔らかく微笑んで、またスティックをつまみ上げる。ペットのようにあつかうことで、それ以上距離を縮めまいとする姫の心を、天使は分かっているのだろうか。
(……知っていて、知らないふりをしているのだろうか?)
そう問うことは、自分の想いをばらすこと。だから姫君は、何も訊かずにさくらんぼをつまみとり、天使の口に押しこんだ。
朝食を終えた二人は、ベットのわきに並んで腰を下ろしたまま、黙って顔を見合わせた。しおれかけた花の香りが、暗い部屋を満たしている。
涙姫はしみじみと天使の顔をのぞきこみ、歪んだ笑みを浮かべて、ため息をついた。
「何ですか? ぼくの顔、何かついてます?」
「……いや。ほんに良う似ておるのう、と思っての」
一人ごちるように言葉をこぼした姫君は、まっすぐな目でヒィナを見上げた。
「ヒィナ。お前は我の涙を最初に口にした者に、良う似ておる」
「あの、食い意地の張った方ですか?」
涙姫がうなずくと、ヒィナは困ったように眉をひそめて微笑んだ。
「あなたがぼくを好きになってくださったのも、その方の名残りなのですか?」
流れるように問いかけられ、ティアール姫はきょとり、と蒼い目をまたたいた。問いかけの意味を一拍遅れて理解して、噛みつくように言葉を返す。
「我がおのれを好きだ、じゃと? 馬鹿を申すな、誰がおのれのごとき愚かな者に惚れるものか! 我がおのれのような、間の抜けて、優しくて、美しい少年になど……惚れるはずが……」
「それは悪口ですか? 褒め言葉ですか?」
柔らかな口調で冷静に問い返されて、涙姫は口をつぐむ。
気恥ずかしさに潤んだ蒼い瞳から、涙は一粒も流れて来ない。今までの会話を断ち切るように、姫君は首を振って言い返した。
「我の話はもう良い。今度はお前の話をせい」
いきなり話を振られた天使が、指で白い頬をつつき、ちょこりと首をかしげた。
「ぼくの、ですか? 話と呼べるような話は無いですけど。ぼくは父親が天使で、母親が人間なんです」
「前に聞いた。おのれは混血だと」
姫が小さく口をはさむと、ヒィナは金色の髪を揺らしてうなずいた。夏の深緑の色の瞳が、どこか遠くを見つめている。
「父親は人間と通じた罪で、天界の者に殺されました。母親は天使を誘惑した悪魔だと、村中の者にそしられました」
姫君が、静かに息を呑む。白い手に、なぐさめようと手を重ねようとして、姫はためらって指を引く。その指にすがりつくように、天使が手を伸ばして軽く細い指を握った。
「『子供に罪は無い』と、ぼく一人が可愛がられて……村の中に告げ口した者がいたのでしょうね、羽根のある珍しい子供として、この城に売られてきました。これで話は終わりです」
たいらな声で締めくくり、羽根の欠けた天使は他人事のように微笑んだ。
握った手が、かすかに汗ばんでいた。
姫は深く息を吐き、蒼い目に飛べない天使を映す。天使は瞳の色に酔ったような心持ちで、ぼんやりと姫の顔を見た。
空と海の一番綺麗なところを混ぜ合わせ、結晶させたような、深く蒼い瞳。
(ああ、この蒼におぼれたい)
おぼれて死んで、姫の心と一つになってしまいたい。
甘い悪夢にも似た考えを吹き散らすように、姫は天使の指に手を重ね、そっと軽く力をこめた。
「……似ておるな、我とおのれとは。常ならぬ能力を手にすることで、かえって不幸になってゆく」
「ぼくも以前に、同じことを思いました」
天使が打ち明けると、涙姫は気の毒そうに微笑んだ。
「『天使の羽根を持つと幸せになれる』と、おのれは前に申したが。羽根を持つ天使本人は、幸せになれぬ運命なのかの」
姫の泣かずの嘆きを耳にして、ヒィナは緑光石の輝きの目を見開いた。瞳を色どる光の海が、揺らいでにじんで、またたきに霞んで忙しくぶれた。
「……姫様、ぼくはこれで」
あわただしく立ち上がり、何ごとか呟きながら、振り向きもせずに去っていく。ぽかんとして天使を見送った姫君は、およそ姫らしくない鋭さで舌を鳴らした。
「何事じゃ、あのうつけ者。我が何をしたというのじゃ」
いまいましそうに首を打ち振った姫君は、黙りこんでうつむいた。天使の温もりの残る手を、物思うように気だるくさする。
「……幸せに、なれぬものかの」
我も、あやつも。
ぼんやりと呟く姫の青く長い髪から、しおれた薄桃色の花びらが、とろり、流れるように舞い落ちた。
涙の終・サルシェス・ティアール
自身の過去を打ち明けた、その日を境に、ヒィナは変わった。
食事を持ってきても花をつんできても、いつもぼうっと、どこか遠くを向いている。何ごとか、答えの出ない問題を必死に考えている風だった。
姫はヒィナの変化に戸惑い、いらだち、やがてひっそり失望していった。
(ああ、もう良い)
飛べない天使は、自分以外に心を奪われるものを、見つけたのだ。
『自分はもう必要ない』と、姫は静かに結論づけた。あやふやな動作で花を飾る少年に、涙姫は穏やかな口調で告げる。
「もう良い」
「……は?」
ぼんやりと目を上げるヒィナを、姫は淋しそうに微笑って見つめた。
「もうここには来ずとも良い。賢帝の容態もそろそろさし迫った頃だろう」
姫は涙の色の花を手に、ぽろぽろと言葉をこぼす。
「賢い王が気づかって我らに手を出さずとも、愚かな臣下めらはやっきになって我の涙を欲する時期だ。何としてでも、我の涙を手に入れようとあがく頃だ」
きゅっと乾いた目のふちを拭い、姫君は蒼い目を開く。
『絶望』という言葉が凝って宝石と化したような、深く美しい色だった。
「そうなれば、おのれの命も危うくなる。もう来るな。二度と我に顔を見せるな」
言葉の終わりが、流れぬ涙の代わりのように、くぐもって揺らいで消えてゆく。天使は抱えていた花々を取り落とし、姫に駆け寄って手を握る。
「違います。ぼくはそんなことで悩んでいたのではありません」
「ならば、なぜそうぼんやりと宙を見る。今の今まで、一体何を考えておったのじゃ」
恨み言のように上目づかいでにらまれて、ヒィナは目をそらす。目を泳がせて、深緑の瞳に姫の小さな姿を映して、呟くように打ち明けた。
「悩んでいたのです。姫の流した涙で、姫自身の心の傷が癒せぬものか、と」
ティアール姫は、蒼い目を静かに見開いた。
凍った奇跡の花めかした冷たい瞳が、雪の溶けるがごとくに、花開くように緩んでいく。
「……愚かじゃの。そんな馬鹿げた優しい戯言、今まで誰も口にしなかったというに……」
オルゴールのねじが緩んで、綺麗な調べが途切れるように、姫の言葉が揺らいでにじむ。またたいた蒼い両目から、くらくらと透けるしずくが落ちた。
「姫様、」
ヒィナが目を見張り、涙をひろう。美しく光を放つ宝石は、ぽたぽたと続けざまに蒼い瞳からあふれだし、きりも無く増え続けた。
姫が泣きながら天使を見つめ、
「舐めよ」
と甘い声音で命じる。
困惑した表情で自分を見つめ返すヒィナに、姫は
「何をしておるのじゃ。早う舐めよ」
と上から抱きしめるようにせかして告げた。
天使が、宝石を口に含む。
花の蜜のような微かに甘い味がして、背中が、ふうっと温かくなる。
振り向くと、前のより一回り大きく、初雪にさらしたような純白の羽根が、一対背中に咲いていた。
姫は嬉しそうに手をたたき、ころころと笑った。
柔く緩んだ蒼い目からは、絶え間なく涙が流れている。
「そうじゃ、そうじゃ。どうして今まで気づかなかったものかのう。……嬉し涙なら、いくら流しても誰も傷つかないではないか!」
姫は笑う。笑いながら、ひとひととひっきりなしに涙をこぼす。
「ヒィナよ。誰ぞ人を呼んで来い」
「え? 誰を……」
「誰でも良いから、早う呼んで来い!」
高飛車に命じられた天使は、部屋から飛びだして、自分の羽根をむしった男を見つけて引っ張って来た。
男は鳶色の目を大きく見開いて、姫の涙を凝視した。
「何だってんだ一体……こんなにたくさん……」
「嬉し涙じゃ。早う死にかけた賢帝に持ってゆくが良い」
姫は冷ややかに命じ、手を伸ばしかけた男を打ちすえるように、厳しい口調で言葉をかけた。
「ただし、一粒だけじゃ。残りの涙は皆、病に苦しむ民に与えよ」
男が、ぎっと目を吊り上げて姫をにらむ。男をからかうように、姫はつん、と肩をそびやかして舌を出す。
「我の言うことを聞かずば、ここで舌を噛み切って自害する!」
言いざまに、涙姫はきりきりと自分の舌を噛みだした。かすかに血が流れるのを目にして、男が気の毒なほどにあわて出す。姫は舌を引っこめて、勝ち誇ったように微笑んだ。
「死なれるが嫌なら言うことを聞け。あとのう、我を存分に嬉しがらせろと、賢帝に伝えておくが良い。これは嬉し涙じゃからな」
ティアール姫がころころと笑う。男は言われたとおり、涙を一粒ひろい上げ、部屋から飛び出していった。姫はそんな男の背中を、ゆかいそうに見送った。
天使はあっけにとられて姫を見つめた。
(気鬱を身にまとったような以前の姫と比べて、この変わり身の速さときたら!)
内心で呟いた天使の頬にも、じわじわと笑みが浮かんでくる。姫はおのれでおのれを縛っていた、掟の衣を脱ぎ捨てたのだ。
『自分は泣いてはいけない』という掟。
そうしておそらく、心の奥底に気づかぬままにひそめていた、『幸せになってはいけない』という掟さえ。
幾百年泣くことのなかった涙姫は、晴れやかに笑って天使の手を握る。
「見よ。我の涙で、我自身を幸せにすることなぞ簡単だ」
涙姫は、宝石を熟れきった木の実のようにこぼしながら、柔らかく微笑んだ。
「我は泣く。嬉し涙で、昔のように多くの者の病を癒し、多くの者を幸せにしよう」
咲きほころんだ蒼い目から、ほたほたと時雨れるようにしずくが落ちた。姫は何ごとか思いついたように、宝石を一粒拾い上げ、天使の手に握らせた。
「これを庭のすみに埋めて来い。芽が出れば面白い」
あどけない戯言をもらし、くつくつと笑う姫君に、天使も微笑んでうなずいた。
何故か頬を伝ったしずくを、嬉し涙だ、と思った。
賢帝の病は癒え、姫君の涙は民にも行き渡るようになり、ひとまずは平和が訪れた。
庭に埋めた宝石は奇跡のように芽吹き、花を咲かせ実をつけて、その実もまた百薬の長として尊ばれた。
涙の宝石は、やがて国の主要な産物になり、他の国からこの国は『サルシェス・ティアール』と――『嬉し涙』という別名で呼ばれるようになった。
喜びの涙には、痛みの溶けこんだ涙ほどの効力は無い。実のところ、大病を滅す力もない。例えるなら、最高級の延命剤といったところだろうか。それでも人々は涙の宝石をあがめ、涙姫を愛した。
「それで良い。あまりに効果があったら、人口が増えすぎて大変じゃ」
うそぶいて微笑う姫の頬には、わずかにしわが浮いている。
いにしえの魔法使いがかけた、不老の魔法の効力が緩んできているのだろう。不老の魔法を使える者も、長寿の呪いをかけ得る者も、今の世にはもういない。
「我の役目はもう終わりじゃ。おぬしの植えた花々が、我亡き後も我の代わりをしてくれる」
ささやいて微笑う姫の目から、またしずくが落ちる。ヒィナはどこか痛んだように微笑んで、無数に細かなしわの浮いた、姫の小さな手を撫でた。
(姫の流した悲しい涙と、嬉しい涙の数は、もうイコールになったのだろうか?)
嬉しい涙と、痛みを帯びた涙の重さがつり合うまで、それか、嬉しい涙が暗い涙に勝るまで、姫には生きていてほしい。
『人々を幸福にした少女が、自身は本当に幸せになれなかった』など。
そんな淋しいおとぎ話は、世の中にあってはならないのだ。
「我はもう、いつ命が尽きても良い」
満足そうに呟く姫の瞳から、また美しいしずくが落ちる。
天使の少年は、輝く緑光石の目を閉じた。目を閉じたまま、姫君の手の甲にそっと口づけた。その小さな手の感触は、若枝の白い枯れ木を思わせて。
ヒィナの目から、理由の分からぬ涙が、ひとしずく頬をこぼれ落ちた。
(了)
先日気づいたんですが、この程度の長さなら短編で投稿できるんですね。そうとは知らずに、掌編ばっかあげてました……自分の馬鹿……;