五十二個目*手紙――想いはカナたから、はなタレタ。
笹浦一高の屋上にて、九条満からカナの手紙を渡された麻生やなぎ。
湯沢純子にも見守られながら読み始めてみたものの、その文面は誤字脱字など、不思議な点がたくさんあった。
しかし全てには意味が込められていることを悟ったやなぎは共に、カナの本当の正体を知ることとなる。
※ほぼ最終回です。
手紙――それは、想いを綴った、言葉たちの公開集会場。
この御時世、メールやSNS、そしてアプリなどで伝達手段を得た世界では、あまり手紙の価値を評価されていない。
手紙と、今活躍する伝達ツールたちの、大きな違いは何なのか?
情報を伝えるだけで考えれば、それほど差はないはずだ。ならば金銭のかからない電子ツールでやった方が良いだろう。
だが冒頭でも告げた通り、手紙は情報だけでなく、送り主の想いも載せたものだ。
誤字から脱字まで、そこには書き手の確かな想いが籠っている。見えなさそうで見えてしまう、相手の心すら……。
一般ぴーぽーの俺はもちろん、普段は手紙なんか出さないし、ましてや読んだりもしない。ぼっちという環境もあるが、単純にメールでのやり取りの方が早くて楽だからである。
だから気づかなかった。手紙の大切さを、今日まで……。
そんな手紙など全く読まない俺――麻生やなぎは今、笹浦一高の屋上で受け取った手紙を開き終えたところだ。
それは、カナからの手紙だったのだ。
なぜ担任の九条満が持っていて、なぜ地縛霊の湯沢純子が存在を知っていたのか不思議だったが、俺は先導されるがままにタイトルらしき一文目を眺める。
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私を愛してくれた、親愛なる麻生やなぎ様へ。
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それは小清水千萩に宛てた脅迫文と同じ字形で、何とも丁寧口調なカナらしい始まりだった。きっと最初の漢字は“私”と音読するべきなのだろう。日本語で“親愛なる”と唱って、英語の“Dear”を使用しない辺りも、一般的女子高校生らしからぬ彼女の一面が窺われる。
タイトルを黙読した俺はついに、ルーズリーフに書かれた本題へ目を向けた。丸みを帯びた可愛らしい字。しかし一文字それぞれが欄からはみ出しそうに大きく、丁寧なのかお転婆なのかわからないカナの内側が垣間見える。また一枚目には二ヶ所ほど、水滴が落ちたようなシミがあったことが妙に気になった。
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こんにちは、麻生やなぎさん。
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まずは一行目に挨拶が書かれたところで、次の一行を改行してから再開する。
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この手紙を読んでるということは、恐らく私は、やなぎさんの傍にいないときですよね。
きっと、私の勝手な行動が理由だと思われます。この文面と共に御詫びを申し上げます。
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「予定通りって、そういうことだったのか……」
手紙を見つめながら呟いた俺は、先ほど湯沢が言っていた“予定通り”の意味を悟った。この手紙は、カナ自身がいなくなったことを想定して、俺に宛てた文章なのだ。
手紙というよりかは、むしろ遺書と命名した方が適切に思えたが、それでも遺書と告げなかった湯沢の優しさを思い残しながら、俺は再び手紙を読み進めていく。
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さて、やなぎさん。まずは、私にどういった経緯があったのかを、御説明致します。
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確かに俺は、カナである牧野紅華の生存当時を、ネットニュースに記載された一部始終しか知らない。今から約八年前、女子高校二年生のときに誘拐され、終いには殺されたという悲惨な結果のみだ。
恵まれない人生だったことに察しは着くが、俺は辛いながらも飛ばさず、カナの生きてきた経緯に目を通し始める。
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ある日目を覚ますと、私は中学生だった牧野紅華として目覚めました。そのときには、記憶すらも失っておりましたので。
どうやら私は一度、弱い心臓が機能停止してしまったらしく、まず見えたのは病院の白い天井でした。
つまり私は、蘇生したのです。
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“牧野紅華として”という一言が俺に疑念を抱かせたが、記憶を失っている状況を考慮すれば自然と解釈できた。まさかコイツも牧野朱義と同じように、心臓が弱い患者だったとは。
そう考えると、牧野紅華はよく高校二年生まで――いや、殺害されていなければそれ以上の年月を――生き長らえたものだ。一方の姉は中学生くらいの若い少女で亡くなっているというのに。
牧野家の繰り返されそうになった病の悲劇が止んだことは良かったが、死の結果を知っている俺はあまり喜べなかった。
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そのときに霊感すらも備えていたことは、牧野家の夫婦に身体を起こしてもらった際、幽霊の牧野朱義が窓から視えたことが、何よりの証拠でした。
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「カナも、霊感を持っていたのか……」
意外な言葉が飛び出したことで、俺は少しばかり驚き、つい独り言を漏らしていた。水嶋麗那の件を考慮すれば、死んだ姉の姿を視ることができたという面では、きっと喜ばしい能力だったのだろう。しかし、どうもそうではなさそうだ。
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そのときから、アカギさんの表情はとても険しいもので、私が実の妹でないと言わんばかりに怒っていました。それから三年が経った高校二年の夏、私は誘拐され、またアカギさんの手もあって、再び命を落とすことになったのです。
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「アカギ、どうして……?」
実の妹が蘇生したのにも関わらず、怒りを顕にしていたアカギの様子が読み取れる。しかも文面によれば、誘拐犯だけでなくアカギも死に招いたようだ。
姉が、一体どうして……何のために、妹を……?
カナがアカギの片目を抉り取るほどの争いをし、その真実と共に成仏されてしまった牧野姉妹。
俺は次の文で真実が語られていると思ったのだが、以下は三行ほどの余白が入り、次の二枚目へと移る。すると見えたのは、一枚目と比べて数多くの活字が並んだページで、少しばかり読みづらさを覚えながらのスタートだった。
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やなぎ′さん、覚えていらっしゃるでしょうか? 私たちが初めて出会った、あの日を。
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「え? 話、換えちゃうの……?」
てっきり殺されたアカギの理由を津々浦々と書かれているのかと思っていたが、無理強いに話題変更されたことが否めなく、俺は手紙に向かって首を傾げてしまう。それに加え、俺の名前と“さん”の間に妙な点が残っていることも気になった。まるで何かを書こうとしたが、途中で止めたような黒鉛の跡。
ただの小もないミスか……。
カナがドジでアホな幽霊であることは、出会った当初から知っている。だからこそ誤字脱字があって当然だと、四ヶ月間共に暮らした俺は感じていた。
もしかしたら今後も間違いがあるかもしれないと、俺は呆れたため息を漏らしてしまったが、再び手紙の続きに視点を移す。
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あの日、正直申し上げますと、私はやなぎさんを殺害するため金縛りを掛けたのです。やなぎさんから、言霊を得るために。
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「……」
何となくは予想できていたが、手紙越しで改めて言われた俺は言葉が出なかった。
金縛りだって、幽霊にとっては超能力の一つだ。
言霊を取り入れず、自身の型のみを駆使して集めていたフクメ――天童彩のことを考えれば断定できる。まぁ、本人はその能力に気づきもせず行っていたのだが。
しかしその超能力を得るということは、共に言霊を飲み込むことに繋がる。つまりは、相手への殺意だって生まれてしまうのだ。
言霊を取り入れる恐ろしさは、暴走してしまったナデシコ――篠塚翠を直に視ている俺には、素直に飲み込める。何の罪もない姉――篠塚碧の首を絞めて殺ろうとしたくらいだ。大切な姉妹関係すらも引き裂くのが、言霊を取り入れることなのだろう。
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しかしあのときも私は、生存当時の記憶が曖昧だったのです。牧野紅華として生きていたのですが、本当に自分が牧野紅華なのか、疑ってしまうくらい。
そんな胸中のもと、私はやなぎさんの命を奪おうとしていたのが、あの四月の夜です。
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自己逃避というやつなのだろうか? だが、それはそれで困ったものだ。
自分が自分であることを捉えきれていないカナの気持ちが伝わる中、そのせいで命を狙われていた俺は、自己逃避という心理状態に恐ろしさを抱いていた。
自分が自分でないストレスを、関係ない相手に刃を向くことになるとは。
だが、なぜカナは、俺の命を奪わなかったのだろうか?
金縛りを掛けられた俺はもちろん、身動きができなく、目だけしか思うように動かなかったのだ。やろうと思えば、簡単に殺めることができたはずなのに。
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ですが私は、やなぎさんを殺害することをやめました。理由は、やなぎさんのおかげで、本当の記憶を取り戻すことができたのです。
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「本当の、記憶……?」
まるでカナが、俺と出会うまで自身の記憶を持たず過ごしていたことが伝わったが、俺には不審ばかりが募っていた。なぜ俺と遭遇したことで、真たる記憶を思い出したと言っているのだろうか。もはや検討が着かず、ぶれた視線のままで下文を覗く。
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部屋に飾られたあの文字を見た瞬間に、私の記憶は全て思い出すことができたのです。うっかり薬品を飲み込んだ幼児期、私は命を絶ったことを。そこで幽霊となり、この世を徘徊し出したことも。
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「薬品……そっか、カナも……ん? ……ッ!!」
俺は息を飲み、隈を浮かべた細い目を見開いた。それはカナの死因がわかったことも含まれるが、呟いた自分自身の言葉に驚いたからである。
カナも、という“も”の一文字だけで。
「まさか、コイツ……」
気が落ち着かなくなった俺は次第に、カナの正体が牧野紅華として捉えられなくなっていた。
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そんな日々が続くこと早数年、質量を持たない魂だけとなった私でしたが、大きな転機が訪れたのです。
それは、道端に落ちていた言霊です。
幽霊になってから、唯一触れることができたのが、たった一個の言霊。
しかし、言霊の意味など全く知らなかった私でしたので、亡くなった際と同じく、それをまた頬張ってしまったのです。
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「また、頬張った……」
カナにとって、落ちている物を口に含むことは癖だったのだろう。幼い子どものような特徴で、ますます女子高校二年生のイメージが崩れていく。
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残念ながら、その後の記憶は一旦途絶えてます。恐らくですが、私は我を忘れて暴走していたのでしょう。
その後に目を覚ますと、私は牧野紅華になっていた、という訳です。
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「なっていた……じゃあ、カナは……」
――牧野紅華ではなかったのか。
そうとしか感じられない。じゃなかったら、こんな意味深長な文章を書ける訳がない。幼稚でアホなアイツでは、絶対に。
もはや牧野紅華として考えなくなった俺は、カナでもなく、大切な一人の存在からの手紙として、三行ほど空けた文に目を置く。
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ねぇ、やなぎ†さん。
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今度は十字架のような記号が記載されていた。普段の俺なら、コイツは喧嘩でも売っているのだろうと感じるところだが、彼女が何を書こうとしていたかも予想が着き、震えた手で更に読み進めた。
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私は、本当に嬉しかったんだよ。あなたが、本当の私を覚えてくれていたこと。とても、とっても。
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丁寧口調がなくなり、もう送り主はカナからのものではなかった。
敬語ばかりだったカナらしくない、馴れ馴れしいタメ口。
いや、彼女らしい親しさが込められている。
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何度感謝してもし切れないほどの恩を、あなたからいただいた。それでもね、最後に私から一つだけ、お願いがあるの。どうか、聞いてほしいんだ。
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「えっ……」
俺は再び小さく驚いてしまった。なぜなら手紙の二枚目はここで終了しており、三枚目などどこにも見当たらなかったからである。
最後のお願いとは、一体何のことだろうと考えていたが、ふと九条から笑みを向けられる。
「最後のページ、一枚目の裏だ。そのままひっくり返せば、書いてある」
校内では絶対に見せない、皇帝九条満からの温かな微笑み。
受けた俺は言われるがままに手紙を反転させると、確かに一枚目の裏に三ページ目があったことに気づいた。
パッと見ではそれほど文字数を感じさせない、広々とした改行がやたら多い最終ページ。
早速始めの文に焦点を当てた俺だが、すぐに呼吸を止められることとなった。
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パパとママを、許してあげて。
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その一言が、彼女の最後の願いだった。俺の大嫌いな両親と、どうか仲良くしてほしいと祈る、一人の少女としての申し付け。
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だって、薬なんかを飲み込んだ私が悪いんだから。パパもママも想像していなかっただろうし、きっと相当困らせちゃったと思うの。
だから、お願い。
私がいなくても、仲良しの家族に戻ってほしい。
これが私の、最後のお願いだよ。
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もう間違いない。カナは……カナはカナじゃなかったんだ。
お前は、お前だったのかよ……。
つい手紙から目を逸らし、俯いた俺。
これ以上読み進める勇気が起こらなかったのだ。
――だって、この手紙は、あいつからの想いだと知ったから。
「やれやれ。じゃから御主は小童なのじゃ」
すると、俺がやっと正体に気づいたと悟った様子の湯沢からはため息をつかれた。しかし振り向くと、コイツの妹――湯沢巻への愛を示したときと同じ頬の緩みを放っており、俺は再び辛さに襲われて手紙の文に逃げてしまった。
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死んでも、ワガママな私。それでもあなたは、死んでからもずっと、愛してくれたよね。
知ってるよ。
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徐々に一文一文の文字数は減っていき、手紙の内容も残り僅かだ。
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本当に、嬉しかった。*
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すると文の隣に、落ちた水滴の後が残っていた。書いている途中に、瞳から溢してしまったものだろう。間違いなく、あれだ……。
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ゴメンね。嬉し涙が*止まらないの。
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文中に再び落とされた、あいつの涙。
それは永遠の別れを悟った悲しい涙とも捉えられるが、どうやら違うようだ。少女の喜びを表す、嬉し涙に他ならない。
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だから、最後まで隠していたこと、ここで言わせてね。
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そして多くの改行を施された手紙の最終文に、わかっていた俺ですら心臓が止まりかけた一言が、ついに目に映る。
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ありがとう、やなぎお兄ちゃん。
悪霊でどうしようもない凶悪犯罪者。
カナより。
そして、やなぎお兄ちゃんが愛してくれた死妹。
麻生はなより。
私も、ずっと大好きだよ。
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「……はな……麻生、はな……」
それは、俺にも傍にいた、大切な一人の妹の名前。
父母以外に公にだってしたことがない、苗字とひらがなの二文字ずつの元人間。
実際に顔だってわからない。俺が物心つくかつかないかの幼いときに亡くなったのだから。勝手な想像で下手な似顔絵を描いているくらいだ。
声だって、仕草だって、特徴だって、笑顔の表情だって……ほとんど皆無な存在だった。しかし唯一覚えていたのは、彼女――麻生はながかつて、この世界に存在たということのみだ。
俺は手紙を皺がつくほど強く握り締めながら、何度も妹の名を呟いていた。
「なんで、だよ……?」
もちろんそこには大きな矛盾点がある。
想像がつかない――いや、想像する余裕すら残っていないほど息が苦しい――俺は下を向きながら、久しく味わったことのない感情を圧し殺そうとしていた。
「気になるか? なぜカナ嬢こと、牧野紅華が、麻生はなの想いを抱いておったのか……?」
優しく穏やかに湯沢が話しかけてくれたが、それどころではない俺は決して地面から目を離さず、頷きもせず、昂る想いを堪えようとしていた。
「麻生はなは……いや、はな姫と呼ぶべきじゃな」
湯沢の穏和なはずの言葉が、俺の胸に鋭く突き刺さって仕方なかった。
「はな姫は、亡くなってから幽霊となった。じゃが、彼女は言霊を食したことで、活力を得たのじゃよ。御主だって、知っておろう?」
手紙にも書いてあった真実を語った湯沢純子。それに対して俺は認知していたが、目線を下げたまま動かない。
すると今度は九条が、屋上から町並みを観察しながら継投に出る。
「活力を得た。あとは身体さえ揃えれば、人間として復活できる。その身体が、活力を失って亡くなる寸前の中学生、牧野紅華だったんだよ」
淡々と進めた九条満だが、俺にはわからないことだらけだった。
「だ、だって、はなは……カナは、どっからどう視ても牧野紅華の姿だったじゃねぇかよ?」
言い直した俺には、やはり実感がない。麻生はなが、カナだったということを。誘拐時に亡くなった女子高校二年生、牧野紅華。彼女の容姿はネットにも載っていたため閲覧した俺には、カナと牧野紅華は同一人物だとしか思えなかったからだ。
死した幽霊となり、魂のみとなったカナはどうして、麻生はなの姿でなく、牧野紅華の姿をしていたのだろうか。
するとその答えは、からかい笑いを響かせた九条からすぐに聞かされる。
「当人の魂が別の身体に入り込めば、やがて魂の形は、その身体に合わせようと変化する。麻生はなとしてよりも、牧野紅華としての方が、生きた時間は長かったことが原因だ」
もはやファンタジーの話でもされているようだった。赤ん坊で亡くなった麻生はなは、多く見積もっても約二年。対して牧野紅華は、中学高校と生きて少なくとも約三年で、九条の言った通り、カナの魂は牧野紅華に存在た時間の方が長いことがわかる。
だが、俺はどうしても飲み込めなかった。だって、考えられなかったからだ。魂の転移など、現実世界での転生など……。
「なんで、そんなことできんだよ……? 他の身体に、別の魂が入り込むなんて……っ!」
「気づいたか? お前も、結構聞いたことがあると思うぞ?」
突如驚き顔を上げて気づいた俺には、後ろを振り返って目を合わせてきた九条の微笑みが映り、思い浮かんだ言葉を心で呟いてしまう。
――幽体離脱だ……。
牧野紅華は確かに、心臓の病で亡くなりかけていた。いや、亡くなったと言うべきなのかもしれない。
死した牧野紅華の魂は離れ、空っぽな身体だけを遺していったのだ。
だが活力を持ってさえあれば、魂は身体に入り込み、再び人間として生きることができる。いわゆる憑依的な技だ。
それを為すことができたのが、言霊を体内に取り入れた、麻生はなの魂――カナだったのだ。
どうして浮遊霊のカナが俺に、憑依型の霊と嘘をついたのか、割りと理解できる。
そしてなぜ、アカギが殺意を剥き出しにしていたのかも、俺はようやくわかったし、恐ろしい証明まで浮かんでしまったのだ。
言霊を食べた赤ん坊の幽霊のカナは暴走し、牧野紅華の魂を消したのだ。幼稚園児のナデシコよりも幼かっただけに自我を失ったまま襲い、無慈悲に何の理由もなく殺ってしまったのだろう。それも、アカギの目の前で……。
こうして目の前で亡くなった妹の身体に、勝手に入り込んで生き長らえたことが、アイツら二匹の因縁の理由に繋がるはずだ。
そりゃあアカギだって、カナのことが許せなかったはずだ。だって、実の妹の魂を殺めて、勝手に牧野紅華として化けて、世を生きようとしていたのだから。
俺がアカギの立場だったとしても、きっと同じように思って悪事に働くだろう。受け取った手紙の内容からは、そう感じてならない。
――迷惑かけたな、アカギ……ゴメンな。
同じく兄弟姉妹の上に立っていた者として、俺は亡きアカギに謝罪の念を込めた。普段なら他人に感謝もしない、俺としては珍しい心持ちだ。
すると再び、湯沢が俺の隣に立って夏空を見上げる。
「カナ嬢は、とても嬉しそうじゃったぞ? 御主と過ごしたこと、心から笑っておった」
「……お前は、恐くなかったのかよ……?」
隣のコイツが口止めされていたことを覚えている俺は、なぜ湯沢がカナだったはなを思い出しながら笑っているのか、全くわからなかった。魂だって、危ぶまれたというのに。
しかし湯沢はフフフと小声を漏らして微笑すると、俺の手に握られた手紙を観察する。
「恐くなかったと言えば、偽りになるじゃろうな。じゃがワシは、カナ嬢が御主の話をし出したときの笑顔が、印象的じゃったよ。はな姫として、ワシに映っていたときがのぉ」
あえてカナ嬢と称した湯沢は、改めてはな姫と呼び直すことで、俺にはコイツが安心していることが感じ取れた。
どうやらカナは、俺が寝ているときに外出して、湯沢の元に訪ねていたようだ。もちろん自身が言霊を食べた悪霊の事実を口止めする意図もあったのだろうが、帰りには必ず、本日俺と生活したことを嬉しそうに語っていたらしい。
「お前にも、迷惑かけたな……」
「まったくじゃ。それも御主が、鈍感な小童たる所以じゃよ」
バカにするなと、いつもなら突っ込む俺。しかし今は、湯沢の言葉を素直に受け入れたまま、ずっと頭を下げたままだった。
――だって、今さら気づいたのだから。カナの、本当の正体を。
「あと、気づいておるか? 御主の呼び方、カナ嬢は途中で変えておったことを」
湯沢は俺の俯いた顔を、下から窺うようにして聞いていたが、俺は更に顎を引くことで目線を逸らす。
「……そうだな。アイツ、俺のこと、麻生さんって、変えてたっけな……」
声が浮わついてきた俺には確かに、カナの呼び方が途中で変わっていたことに気づいた。
『あ、おはようございます!! やなぎさん!!』
カナと遭遇してから間もなく、俺は毎朝こうして起こされていた。天井で眠ったり、押し入れで寝ようとまでしたり、まるで実家の如く好き勝手に動き回っていたのを覚えてる。
『麻生さん、七不思議の場所に行きましょう』
フクメと過ごすことが決まった後、カナが初めて俺を麻生さんと呼んだ瞬間。他者からの呼び方など気にしないボッチな俺には、正直どうでも良い変化だと思っていた。しかしそれも、今の今までである。
『麻生……さん……やなぎ…………さん』
そして再び戻った、俺の呼び方。
アカギとの死闘前に、悪魔のように映し出されたカナが、もとのアホ霊に戻ってくれたと思わせた泣き言葉だった。
なぜカナは、俺の呼び方を変えたりしたのだろう?
その理由はすぐに、呆れたため息を漏らした湯沢に語られる。
「恥ずかしかったんじゃな。フクメ殿と過ごすようになって、それからワシとも出会って、他者の目を恐れてしまった故の変化じゃったようじゃ。何とも、うぶな少女の恥じらいじゃ」
湯沢の言葉は、確かにその通りだと思った。
カナは調度、フクメと会って以降、俺の呼び方を新たに定着させていた。やなぎさんではなく、麻生さんとして。湯沢と出会う前には、もう何の違和感もないくらいに。
「そっか……じゃあアイツはカナに……いや、カナに戻った訳じゃなかったのか……」
俺の嗄れた声には、湯沢が静かに頷いていた。
昨晩、俺の下の名前を久しぶりに呼んでくれたカナ。
――あのときカナは、カナとしてではなく、麻生はなに戻ることができていたのだ。
「……くっ……」
呼吸は苦しく、まともに酸素すら吸えない状況の俺。
悔しかったんだ。こんなにも気づける場面がありながら、最後まで気づいてやれることができなかったのだから。
俺がもはや気が参りそうなほどに全身を微動させていると、腕組みをした九条に身体を向けられる。
「お前、良い親になる才能あるよな? 名前を着けかたで、よくわかるよ」
突然何を言いやがるんだ、この独身女のくせに……。
「だって、お前さ……」
やめろ……。
もうこれ以上言ってほしくなかった。自我が崩壊しそうだったから。堪えている意味が、無くなりそうで怖かったから。
「あの幽霊の名前……」
頼むからやめてくれ……。
何度も願ってしまった。心の叫びで。しかし九条にはもちろん聞こえない俺の気持ちに反し、予想通りの続きを繰り出してしまう。
「――子音しか、外さなかったんだからよ?」
カナ――『ありがとうございました、やなぎさん。……ううん……』
はな――『……ありがとう、やなぎお兄ちゃん』
それは頭子音だけが異なった、似て非なりながら、同一幽霊の大きな二文字。
そして共に、カナが成仏間近で囁こうとした、麻生はなとしての言葉が、俺の脳裏に鮮明ながら流れ込んだのだ。
――*
すると手紙には、天から落ちた雫が音を経てて染み込む。
無論、青く晴れた夏空から落ちた雨粒ではない。雲などどこにも見当たらないのだから。
太陽で灼熱温度を保った、アスファルトへの水撒きが飛び込んできた水滴とも異なる。ここは学校の屋上で、飛んでくるとは考えられない。
――それは、俺の瞳から溢れた、久しく流したことがない、涙以外何物でもなかったのだ。
「麻生、やなぎ……」
まずは湯沢が、意外だと思わせる表情で囁いた。俺の泣き姿など、想像していなかったからだろう。しかしその顔は、口角がつり上がると共に、平和を感じさせる少女高校生の静かな微笑みに変わっていた。
「なんだ? お前も、泣けるんだな?」
今度は九条が、俺の肩にポンと手を置いて問い質した。担任として、俺を子ども扱いする態度が顕在で、腹立たしさが涙と共に溢れてくる。
「……う゛っせぇ……黙ってろよ゛……」
ガラガラ言葉が多くなる俺は、必死で涙を拭いて止めようと試みた。しかし、長きに渡って泣いたことがない俺には止め方の覚えがなく、何滴も頬を伝いながら手紙に落としていた。
悲しみは、もちろんある。
魂を消されたことで永遠の死を遂げたカナには、もう二度と会えないのだ。この幽霊が視える瞳を持つ、霊感を得た俺ですら、もう話すことも、声を聞くこともできないのだから。
しかし、俺は共に幸せを感じていた。
アホ霊が俺のもとから去ったから――ではない。確かにいつも喧しくて、今すぐにでも成仏してやろうと思ったくらいだ。
だが、その念もいつの間にか消えていた。
カナといっしょに過ごした日々自体も、小さな幸福だったと言えよう。しかしそれ以上に、俺は大きな幸せを鮮明に感じていたのだ。
――俺の想いは、伝わっていたんだ。
カナを……そして、はなを愛する想い。
アイツが手紙を遺してくれたことで、俺の想いは思い出にならずに済み、ちゃんと届けられていたことを証拠として刻んでくれたのだ。
手紙とは、送り主の想いを載せることが活用目的だと思っていたが、どうもそれ限定ではないようだ。その文面には、もう一つ大きく大切な意味が込められている。
――それは、宛て主の想いは伝わっているという真実。
カナは確かに書いてくれた――知ってるよ、と。
つまり手紙は、想いを宛てるだけではない。人として抱く尊い想いを交差させ、素直な心を共有できる伝達ツールなのだ。
「九条……」
涙声の俺は、九条を振り向かせる。こんなしわくちゃな顔など見せられたものではないため、あくまで俯いたまま呼んだ。
「今日だけ……今日だけで、いいから……」
言葉すらまともにでない情況。せっかくもらった手紙にも、たくさんの大雨が降りしきり、快晴に似つかわしくないポタポタ音を鳴らす。
「ここで、誰も来ない、ここで……」
立入禁止とされている、笹浦第一高等学校の屋上。幽霊は除くが、まず一般人からは視線を当てられない場所である。学生が勝手に入り込んだりしたら、昨晩の如く教員から巨大な隕石を落とされ、大きなクレーターを拡げられてしまう。
それでも俺はこの場を選択し、だからこそ九条に頼みを述べる。
「――独りで、泣かせてくれ……」
「勝手にしろ。もう、減給は決まってんだからよ」
九条は自嘲気味に笑いながら呟くと、再び俺の肩に手を置いて踵を返す。
「大切なものは、ちゃんと録っておけよ。無くしてからじゃ遅いっていうのは、お前だって充分わかってるはずだぞ?」
耳元で捨て台詞のように囁くと、九条満は静かに俺の視界から消える。共に空気を読んだ湯沢純子も、そっと隣から離れ、俺に独りの空間を与えてくれた。
御盆前の、暑苦しい夏休みの朝。
油蝉はすでに活動を開始し、愛する相手を求めながら必死に声を鳴らしている。それは、子孫を残すため。はたまた、生きてて良かったと、幸福を産み出すためかもしれない。まるで愛人に対する恋歌にも聞こえてくる、古き童謡とも似ていた。
真っ青な空を窺えば、そこには一匹のヨシキリが羽ばたいていた。口に採ってきた虫をくわえながら、巣にいる力無き雛鳥に分け与えている。与え終われば再び飛び立ち探しにいくと、自分の食事が一体いつになるのかわからないほど羽を動かしていた。
目線を大きく下げれば、触れたら火傷しそうなアスファルトの道では、早速友だちと遊ぼうと現れた、幼き子どもたちの声が届いてくる。
サッカーボールを抱えながら、空き地へと向かっていく少年たち。今すぐにでも遊びたいと、揃って全力疾走で駆けていく元気な姿らは、もはやアスファルト以上の活気が垣間見えた。
また、近々行われる御祭りの出し物として、笛や太鼓を習いに向かう少女たち。今は辛い練習ばかりでも、本番を盛り上げるため、花火を楽しみにしながら、友と励まし合う前向きに捉える表情からは、ちっぽけかもしれんがかっこよさを感じた。
加えて、勉強のために図書館に向かう、潔白な青年。英語の単語帳を開きながら歩く様子からは受験生であることが否めず、参考書が詰まった重いリュックを運んでいた。あんなに努力できるのも、父母に喜んでもらいたいと、切に願っていることが原動力となっていはずだ。誰かのために努力する姿、その背中は、遠くから伺う俺でさえ大きく貴く見えた。
更に遠くを覗けば、国道もすでに車の渋滞が起こっていた。遠く離れた場所へ旅行や、夏休みにしか行けない祖父母の実家で、何か手伝いをしようと向かう家族たち。少しでも力になれればと向かう姿は、きっと老人には励みになる面構えだろう。
そしてここに独り、大切な妹を思う男がいる。
周囲の輝き溢れる景色とは違い、たくさんの涙を落としてわ、何度も肩袖で瞳を擦る。静けさにも包まれながら、鼻をすする音すら辺りに響くほどだ。
俺だけ隔離された、違う存在――いや、決してそういうわけではなかった。
俺と現実世界には、たった一つだけ共通点があったのだ。
――それは、愛を抱いていること。
愛とは、動物を始め、人間誰しもが抱く感情である。
愛楽、愛眼、愛郷、愛吟、愛恵、愛敬、愛顧、愛護、愛好、愛国、愛子、愛執、愛者、愛重、愛書、愛唱、愛妾、愛称、愛情、愛染、愛想、愛蔵、愛息、愛著、愛着、愛鳥、愛読、愛日、愛別、愛慕、愛欲、畏愛、遺愛、恩愛、割愛、渇愛、求愛、恵愛、敬愛、最愛、至愛、慈愛、純愛、鍾愛、信愛、深愛、親愛、人愛、仁愛、性愛、惜愛、切愛、専愛、相愛、憎愛、他愛、忠愛、溺愛、熱愛、博愛、汎愛、盲愛、友愛、令愛、憐愛、嬖愛、眷愛、貪愛……。
きっと、もっと多くの言葉があるだろう。三字や四字熟語のことまで考えたら、こんなのたった一部にしか過ぎない。
たくさんの熟語があることから、愛はいかに俺たちの身近な存在であるかは、もはや目に見えている。
そう、俺たち生き物は、この愛によって包まれながら生きているのかもしれない。どんな苦境の中でも、いかなる状況下でも、そこには必ず愛の着いた概念が存在しているはずだ。
たとえ独りでも、周囲に誰もいなくても、心を含む愛は必ず、人間の傍に居てくれる。
――だって、この俺ですら、妹愛を抱くことができているのだから。
「はな……ありがとな……」
俺の想いは、嫌いな思い出に変わらなかった。
それは最後にカナが、俺の想いに気づいていたと教えてくれたから。
そして、はなが、俺の想いに嬉し涙まで流してくれたのだから。
愛を学び、涙が止まらない男子高校二年生――麻生やなぎ。
それから数時間、俺はこの屋上からしばらく離れず、溜め込んできた雨を全て降らすことにした。
彼方から放たれた大切な手紙を、強く握り締めながら。
皆様、こんにちは。
大好きなとんねるず並みにやりたい放題の田村です。
小説に記号など使ってしまい、もはや作家として失格かもしれませんね……。
そして今回もありがとうございました。
カナの正体。
それは牧野紅華ではなく、麻生やなぎの妹――麻生はなでした。
要するにカナは、麻生家の妹として、また牧野家の妹として、一つの魂で二回の人生を送っていたのです。決して幸せでなかったことは、皆様の御察しの通りです。
そして本編では、ひねくれ者の麻生やなぎが初めて泣いてしまいましたね。それも大切な妹がすぐそばにいたことに気づけなかった悔しさ。そして、死んでもなお愛した妹から大好きだと言われた嬉しさ。
バッドエンドなのか、ハッピーエンドなのか……。
私たち一般ぴーぽーは、もちろん霊感など抱いてない方々がほとんどです。それはつまり、亡くなった方には二度と会えないことを意味してます。
だから今こそ、大切な方へ、愛する人へ、どうか心の叫びを声として、想いとして、放ってくれれば良いのではないでしょうか。
愛に包まれている人の世なら、心配は要らないはずですよ。
さぁ、次回はついに最終回!!
新学期を迎えることとなります。
この約四ヶ月で、麻生やなぎが最も学んだこと、それを語って終わりです。
残り一話*
またよろしくお願い致します。




