五十一個目*遺されたモノ
カナとアカギの社内成仏から数時間。
朝を迎えた笹浦市では、多くの浮遊霊たちの離別が始まろうとしていた。
そして湯沢純子に残念な結果を伝えに行ったやなぎ。しかし湯沢は何故か、フクメが強制成仏を受けた時のようには泣かず、むしろ涙を流さないやなぎを笑い見ていた。
湯沢の対応に理解不能な疑問が浮かぶやなぎだが、そこに一人の人間が現れる。
その日の始まりを伝える太陽。しかし夏となるとソイツは結構腹立たしい存在で、長時間人間を苦しめる確信犯でもある。
大地を灼熱地獄に変え、生きとし生ける生き物の水分を奪う。ときに命すら危険に晒すこともある、まったく恐ろしい凶悪犯罪的存在と言えよう。
やっぱり俺は、太陽が嫌いだ。とても暑苦しいし、何も知らないくせに眩しく照らす、あの太陽が。
アイツにとっては人間の悩みなど、きっとどうでも良いのだろう。だからこそ、あれほど輝いて、より目線を下げさせる喧しい存在だ。だからお前は、この世の美しさを表す花鳥風月に含まれなかったのだ。
太陽は人間の敵――ならば味方は誰なのだろうか?
恐らく俺たちの味方なのは、その喧しい太陽を隠してくれる存在――雲なのかもしれないな。ときに陰を作り、必要な際には太陽を顕にする。また様々な形をする辺り、人間の心と非常に似ている気がしてならない。
しかし今日の雲は、どこにも見当たらなかった。僅かな一部も、半透明な白もなく、ただただ見苦しい青天がどこまでも続いている。
跡形も、残ってはいなかったのだ。
そんな太陽が大嫌いな俺、麻生《麻生》やなぎの目の前にも、ついに朝陽が射し込み始めた。今は城近くにある墓地に佇んでおり、辺りは静けさと朝露に包まれている。
少しばかりのヒンヤリとした空気も感じながら、半袖半ズボンの俺は踵を返し、朝陽から顔を逸らした一人の少年を窺う。
「……ということだ、ショウゴ。それがアカギの、最後の願いなんだ。どうか、受け入れてやってくれ……」
俺が呟いた目の前では、浮遊霊の少年――ショウゴが暗く俯いていたが、視えない瞳からは確かに雨が降っていた。
カナとアカギたちが社内成仏されてから、早くも二時間が経った現在。
小清水千萩からは心配をされてわ肩を叩かれたものの、俺は返事をする余裕もなく立ち上がり、彼の神社を無言で去ったのだ。神社という神聖的な場から離れたかったというよりも、ただ人間の傍にいることが苦痛に感じたからかもしれない。
また、亡き祖父――小清水一苳の想いに反することとなったアイツも辛そうな表情を浮かべていたことが、より俺の退却行動を促したのも事実である。縦社会とは、なんと窮屈なものだろうか。
その後俺たちは浮遊霊たちの住処である墓地へと戻り、こうして長い話を交わしながら過ごしていた。内容の大半は浮遊霊たちとアカギの思い出話で、俺は主に聞く側として強制参加することとなっていた。
普段なら他者の話など聞かない俺だが、別に耳を背けたいとは思わなかった。むしろ気に障ったのはコイツらの涙ぐむ姿で、大きな悲しみに何もできない無力さを思い知らせる景色から、霊感ある目だけを逸らしたかったのみだ。
そして今、もちろん一睡もしていない俺は目の下に隈を浮かばせながら、下げた顔を視せてくれないショウゴに、アカギが最後に残した望みを説明し終えたところだった。
『――アイツらが集めた言霊、ショウゴに使ってやってくれ……』
アカギがショウゴたちの考えていたサプライズの内容を以前から知っていたのは、正直意外だった。だがそれを今まで口に出さなかったのは、きっとアイツの優しさが理由なのだろう。
あえて知らない振りをし、サプライズに相応しく驚いてやろうとしていたに違いない。アカギが浮遊霊たちに姉と慕われるのが、とてもよくわかる心配りだ。
「なぁショウゴ、どうか……」
「……わかったよ、やなぎお兄ちゃん……」
すると俺の言葉尻を被せるように呟いたショウゴは動き出し、前方に立つ『牧野家之墓』へと向かう。
やはり顔を上げられない少年の儚く小さな背が放たれたが、俺は背中を押してやろうと静かに視線を向けてやった。
「この裏に、おれたちが集めた言霊があるんだ……」
アカギの墓へとたどり着いたショウゴは通り抜けはせず、墓の後ろから一つのずっしりとした小袋を取り出す。もちらん中身には言霊が入っており、いくら小さなビーズとはいえ、かなりの数があることを示していた。
浮遊霊たちの想いが込められた、アカギへのサプライズプレゼント。
しかし今では、渡すはずの本人が消えてしまっただけに、プレゼントは少し色褪せているようにも感じさせる、質素な御供え物と化していた。
あと一日でも早ければ、いや、数時間……違う、ほんの少しだけ早ければ、きっとアカギに渡せていたというのに。
プレゼントは相手に利益を生ませるよりも、渡すことにこそ意味があるのだと、ショウゴを眺める俺は改めて知った気がした。
「やなぎお兄ちゃん……四十三個はあるんだけど……」
「あぁ。あと一個は、ここにある」
ショウゴは決して目を合わせてくれなかったが、俺はズボンのポケットから一個の透明な言霊を取り出して見つめる。
これは言うまでもなく、俺から飛び出した言霊である。
カナが成仏される寸前、心からの叫びと共に吐き出されたのだ。確かにあのときの俺は、生きてきた中で特に驚いた一瞬だったと思える。
――だって……カナがいなくなってしまうことが、想像もできず恐怖してしまったからだ。
身の毛は弥立ち、生暖かい風よりも悪寒を感じた挙げ句、俺は自分自身の活力の一部である言霊を吐き出したのだ。もちろんこんな経験は、幽霊など怖れたことがない俺にとっては初めての出来事だ。ただ一つ気になったのは、様々な色の言霊を視てきただけに、俺の言霊は無色透明だったことである。
ビーズというよりも水晶といった方近い、俺の言霊。一体なぜだろうか……?
しかし俺は言霊からすぐ目を逸らし、ショウゴに授けようと前へ手を差し伸ばす。
「ほら、大切に使えよ?」
「ありがとう……やなぎお兄ちゃん……」
するとショウゴは言霊の袋から右手を離し、俺の手の下で掌を添える。感謝を述べながらも、依然として顔を上げない少年の態度は、レジ店員から御釣りを偉そうに貰う嫌な客のようにも映ったが、むしろ悲哀さしか感じ取れず、静かに言霊を載せてやった。
「これで、四十四個だな」
「うん。これでおれも、念願だった天国に逝けるんだね……」
左手に持つ袋には四十三個、右手のひらには一個の言霊を備えたショウゴ。そして少年が、小さな右手を握り締めた瞬間、摩訶不思議な光景が起こる。
――ピカ~~~~ン。
息を飲まされた俺の目の前では、突如ショウゴの全身が発光体の如く輝き始めたのだ。朝だというのに少年の光る姿は顕在で、夏の太陽とは違ったどこか穏やかな煌めきで染まっていた。
「幽霊のみんな。今まで、ホントに御世話になりました。とても……とっても、楽しかったよ……」
感謝を伝え続けるショウゴの身体からは、次第に光の粒子が溢れ出ていき、重力に逆らって上空へと昇っていく。
輝き放つ浮遊霊少年の一方で、俺の周囲ではたくさんの浮遊霊たちがショウゴを見守っており、その様々な表情からは透明な粒を落としていた。
――「ショウゴ殿! 天国おめでとう!」
――「ショウゴ! 今度は俺がすぐ逝くから、待っててな!」
――「ショウゴ君! 私たちを忘れないでね!」
多くの浮遊霊たちからは数々の声援が鳴り出し、ショウゴの天国逝きを涙ながらに喜んでいた。
コイツらだってアカギと同じように、ショウゴとは長い付き合いのはずだ。家族と言ったらあまりにも多過ぎる数ではあるが、それと近い関係性で結ばれているように窺われる。
「みんな、ありがとう……みんなのことは、絶対忘れないから!」
するとショウゴはやっと顔を上げて見せ、シワクチャな幼い表情のまま叫んでいた。
まるで家族の一員が、叶えたい夢のために上京するような感動的場面。もちろん誰一人として、ショウゴの成仏を反対するヤツなどおらず、反って応援ばかりが募っている。
天国と呼ばれる場所が一体どんなものなのかは、現在進行形で生きてる俺も定かではない。だが、ショウゴの天国逝きを心から迎えていた自分が、確かにいた。
「ショウゴ……天国でも、元気でな?」
得意気な笑みを浮かべてしまう俺だが、内心は嬉しさで溢れていた。目の前で光る少年の夢が、やっと叶おうとしているのだ。何も嫉妬など覚えないし、素直に温かい目を向けられた。
「やなぎお兄ちゃんも、ホントに御世話になったよね……?」
するとショウゴの姿は徐々に薄れていくが、涙を流しながらも俺に目を向ける。
「アカギお姉ちゃんを守ろうとしてくれたこと……ううん、カナお姉ちゃんのことだって救おうとしてくれたことも、おれはとっても嬉しかったんだ。霊感ある人間を、はじめて信用できたよ」
「ショウゴ、お前カナのことまで……」
薄まるショウゴの姿からは、彼の背後にある『牧野家之墓』の墓文字が浮かんでくる。遺体となって同じ場所に埋められた亡き人たち――牧野朱義、そして牧野紅華の名が、ショウゴの胸中に含まれているように視えた。
「カナお姉ちゃんだって、おれと同じ浮遊霊だもん。だから、嬉しかった……」
泣き顔はすこし笑顔に近づいたショウゴだが、未だに涙は止まらないようだ。その気持ちに関しては、正直俺も似たようなもので、つい下を向いて逸らしてしまう。
――確かに守ろうとはした。だが、守れなかったんだ……。
気持ちはどうであれ、結果として現実に起こせなければ、想いだって無かったこととなる。それがこの世界の共通ルールであることは、辛い経験をしたヤツらなら誰だってわかるだろう。
「でも、俺は……」
だからこそ俺は、ショウゴが受けたせっかくの感謝を否定しようと顔を上げる。俺は何もできなかった、浮遊霊よりも無力な臆病者であると。
だが、ショウゴの全身はほぼ透明な状態となっており、もうじきこの世から姿を消すとわかったところで息を殺す。
「ねぇ、やなぎお兄ちゃん?」
「な、なんだよ……?」
「これで、サヨナラだね……」
「……」
微笑むショウゴの囁きに、俺は挙動不審気味に返してしまった。が、少年による最後の言葉が送られる。
「――ありがとう、やなぎお兄ちゃん……」
ショウゴはそう言い放つと、ついに薄れていた姿は透明になり、上昇する光の粒子と共に消えてしまった。四十四個の言霊の跡形もなく、まるで言霊と少年が最初から存在していなかったかのように、鮮明な『牧野家之墓』の文字が目に入る。
「ショウゴ……ゴメンな……」
青く澄んだ空へと旅立つ粒子を見上げながら、俺は静かに独り言を漏らしていた。アカギとカナを守れなかったことも謝罪の中に含んだつもりだが、一番謝るべき内容は、少し違っていた。
――きっとショウゴは、アカギと天国に逝きたかっただろうに……。
消える瞬間まで、ずっと泣いていた。笑顔になっていたにも関わらず、結局最後まで涙を止めることができなかったのだ。一番傍に居てほしかった存在が、最後に視ることができなかったのだから。
だからゴメンな、ショウゴ……。
夏空の青さの影響もあってか、俺はより憂鬱さを覚えながら俯き、小さなため息と共に瞳を閉じる。まぁ、ショウゴが無事に成仏できたことが、不幸中の幸いだろう。まさか俺にとって初めての成仏シーンが、お前になるとはな……。
とんだ交通事故で生命を絶たれたショウゴが、無事に天国に逝けたことへの嬉しさ。
一方で、悲惨な誘拐事件で命を奪われたカナ、そして病に犯されたアカギが、無惨にも天国逝きの夢が叶わなかった悲しさ。
二つの相反する思いが胸で入り交じる俺は、どうも喜ぶことができないまま瞳を開き、踵を返して『牧野家之墓』に背を向ける。
「……お前らは、これからどうする?」
俺の前には残された多くの浮遊霊たちがいたが、皆ショウゴのように涙を浮かべながら笑っていた。
どうやらコイツらは、今日からこの墓地を去って、それぞれの目的のため離別するらしい。
皆同じ目標なのだから、今後も協力しながら言霊集めをすればいいと思ったのだが、今度は自分だけの力で集めていくと、決して喧嘩をする訳でないが離れ離れを決めたそうだ。
トップを失った集団は分裂し、それぞれ違った道を歩む。
なんとも儚く聞こえる定義だが、コイツらは分裂することに無念さを感じていない様子だった。
――「この笹浦市にも、まだまだたくさんの浮遊霊がいるはずですからねぇ」
――「だから今度は、俺たちが励ましてやらねぇとな!」
――「私はもっと遠いところに行こうっと!」
たくさんの前向きな声が放たれたことで、俺も少し胸が軽くなった気分だ。どうやらアホなコイツらは、自身の天国逝きが目的ではなく、同じ浮遊霊でさ迷える者たちを、それぞれ個人が救おうとしているのだ。
――それぞれを助けてくれた、アカギの真似をするかのように。
コイツらが拡散することで範囲は広まり、この笹浦市だけでなく他の市や県にまで移動することだろう。そうすれば、カナやアカギのような成仏犠牲者も少なくなるかもしれない。また、言霊の存在や危険性も知っているコイツらなら、無力で何をしたらよいかわからない浮遊霊たちの手助けとなるだろう。
アホなコイツらとしては、なかなか勇敢で大した決断だ。
「まぁ、自己も大切にしろよ? 何か嫌になったり、わからないことがあったら、いつでも笹浦市に戻ってこい。湯沢純子っていう幽霊カウンセラーがいるからさ」
結局それが浮遊霊たちへの最後の言葉となってしまい、頷いた皆は別れの言葉を添えて、それぞれ四方八方に飛び去っていく。アカギがいなくなったことで、きっと相当な悲しみを抱えているはずだ。しかし誰も俯いた姿など視せず、輝く瞳を前に向けて消えていったのだ。
――悲しみよりも大きく勝る、アカギの想いを抱きながら。
「……そういえば、まだ湯沢には伝えていなかったな……」
小清水神社から真っ直ぐ墓地に来た俺は無論、湯沢純子のいる笹浦一高には訪れていない。
応援してくれた湯沢だっただけに、カナたちが消えたときは、結果を伝えることを躊躇していた。どうせ悲しい結果なのだから、あえて伝えないことも手なのかもしれないと。
だが、勇ましい浮遊霊たちの背中にも魅せられて、そして一匹の浮遊霊が無事に天国に逝けた出来事もあったため、俺は重かった足を運ぶことができた。それに隠したって、様々な幽霊と話し合う情報通の湯沢なら、気づかれるのも時間の問題だ。ならば早いことに越したことはないだろう。
「……じゃあな、強き浮遊霊たちよ……」
無力かと問われれば、確かに彼らは無力だろう。だが大きな悲しみも乗り越えた、今の彼らは違う。
見上げた上空には既に浮遊霊の姿はなかったが、俺も墓地を去って学校へと向かい始めた。
***
「そうか……ダメじゃったか……」
「あぁ。カナもアカギも、成仏されちまった……」
笹浦第一高等学校の屋上。
下を向いて校内を眺める俺は、隣で手すりを掴みながら市内を見渡す湯沢に、静かながら残念な結果を伝えた。フクメが強制成仏で消えたときだって泣くほど悲しんでたんだ。今回はカナとアカギという、湯沢にとって両方とも救ってほしかった存在であり、その消失した悲しみは果てしないだろう。
「我ながら、俺もできるだけのことはやったんだけどさ……それでも、守れなかった」
「そうか……同情するぞ、小童……」
この場面でその呼び方かよ?
ふと苛立った俺は顔を上げ、湯沢を怒鳴り叱ろうとも考えた。しかし、意外だった彼女の表情が、俺の思考を切り替えさせる。
「湯沢……なんで……?」
「どうした? 小童よ」
――湯沢は、泣いていなかったのだ。
いや、もっと言えば湯沢は優しい微笑みを間近で視せており、俺に労るような瞳を向けている。
僅かな風で短髪が靡く姿も印象的だったが、俺は不思議ながら地縛霊の少女を観察していた。
「今回は、泣かねぇの、か……」
俺は発言途中で納得したように囁いた。
思い返してみれば、湯沢はカナとアカギを危険視していた存在だ。もしかしたら二匹が消えたことで、笹浦市に平和が訪れたと受け取っているのかもしれない。
主に神職の人間を殺害してきたアカギ。
そして言霊の恐ろしい力を利用したカナ。
そう考えてみれば、両者は湯沢にとって危険な存在でしかない。
だが、どうも素直に飲み込めなかった。だって、彼女は確かにこう言っていた。
『――恥を承知の上で、御主に頼む!! どうか、どうかカナ嬢のことを止めてやってくれぬか!? カナ嬢の心を救えるのは、もう御主しかおらぬのじゃよ!!』
なぜあのような必死めいた発言を、この俺に向けたのだろうか。カナを救ってくれとしか聞こえなかったのだが。
そう考えているうちに、湯沢は手の甲を使った上品な微笑を視せて、俺を振り向かせる。
「ワシの方が不思議でならぬがなぁ……」
「はぁ? なんでだよ?」
コイツは幼女とババアだけでなく、天然スキルすらも備えるつもりなのだろうか。
湯沢の発言意図が全く理解できない俺はただ見つめ、眉間に深い皺を寄せ集めていた。
すると湯沢からは呆れたため息を漏らされてしまい、幼いながら姉のように包もうとする瞳を向けられる。
「――何故、御主が泣かぬ……?」
湯沢は質問口調で言い放ったが、俺にはそれが質問だとは感じられなかった。どちらかというと、この前古文の授業で習った反語表現に聞こえ、まるで俺が泣く場面であると告げられたように感じる。
「……いやだって、別に俺は、牧野家とは一切関係ねぇし……」
別に強がっている訳ではない。実際のところカナとアカギ――牧野紅華と牧野朱義の姉妹は、俺とは全く関係のない人間だった。
確かに存在が消えたという面では悲しいあまりだが、所詮恋人でも親戚でもない二匹に涙を流すつもりはない。
それに感動的ドラマですら泣いたことがないのだ。第三者目線で涙しろなど、俺にはもはや無茶ぶりにしか感じられなかった。
「あ、麻生やなぎ……」
「ん……?」
突如フルネームで呼んだ湯沢に、俺は横目で表情を窺う。すると今度は、逆に湯沢が驚いた表情をしており、手すりから離して、古風な制服姿の全身を向けていた。
「御主……まさか知らんのか?」
「な、なにが……?」
これだから天然娘は好きになれない。
もはや湯沢の態度に不快感すら覚えた俺だが、その刹那焦り顔を目の前に運ばれる。
「正体に決まっておろう! カナ嬢の正体じゃあ!!」
「は、はぁ!? 何を今さら?」
カナの正体――それは言うまでもなく牧野紅華だ。牧野朱義の実の妹である、残念な人生で終わってしまった女子高校生の一人である。
予め湯沢にも、カナが牧野紅華であることは伝えているはずなのだが……やっぱコイツ、認知症なのか?
「カナは牧野紅華。それがどうかしたかよ?」
なぜ牧野紅華の消失で、俺に泣けと必死に訴えるのだろうか。決して会ったこともない存在なのに。世話にだってなったことがない、真っ赤な他人であるのに。
「そ、そうか……そうなのか……」
染々と理解した様子の湯沢は諦めと似たため息を放ち、華奢な肩をストンと落として視線を町並みに戻す。ずいぶんと残念がる様子が、彼女の瞳の色、そして彼女の音量から伝わった。
「そうか……最後まで、気づいてもらえなかったのじゃな……」
「あの、湯沢さん?」
「残念じゃが、予定通りとはなってしまったのぅ」
さっきから一人で何を言っているのだろうか?
気づいてもらえなかった?
予定通り?
理解不能なあまり首を傾げることもできなかった俺が、湯沢が想像している内容を聞こうとしたときだった。
「――ホントにお前は、呆れた鈍感野郎だな? 麻生」
「え゛……?」
目の前の湯沢ではない、この世で最も恐ろしい声が背後から受けた。
がらがら声のままだった俺は恐る恐る振り向いて確認してみたが、やはり屋上階段の傍に悪魔がいることに気づき、後退りで手すりにぶつかる。
「――く、九条!? 先生……」
危うく殺害されるところだった。担任である九条満にタメ口など放てば、無慈悲に命など奪われるに違いない。
いや、待てよ……?
確かカナのことで頭がいっぱいだったときの昨晩、俺はこの場を切り抜ける前に、九条に平気でタメ口を使っていた気がする……あっ、こりゃあ死んだな。
ついに女皇帝が動き出し近づいてきたところで、俺も天国に逝くときが訪れたと認識した。表情はやはり険しいままで、服装も昨夜と同じく分厚いスカジャンだ。間違いない……ショウゴ、また会えるな。
そして九条は俺の目の前にたどり着いてしまい、見下ろすように立ち止まる。
怒ってるんだろ?
俺がお前に招いたのはタメ口だけじゃないもんな?どうせハゲ教頭に叱られたことでも頭にキテるんだろ?
数々の疑問はあれど、決して一言も口にしなかった俺。死は目前だと感じながら身構えていると、九条の右手がスカジャンのポケットに入り込む。
なるほど、刺殺って訳だな。できれば痛いのは勘弁していただきたいのだが……。
「まずはやっぱ腹からっすか? それとも、いきなり心臓っすか?」
「はぁ? お前何言ってやがる?」
反って恐い表情に変わった九条だが、ついにポケットから右手が繰り出される。どのくらいの刃渡りナイフか懸念していたが、どうも彼女が手に持つもののは全く違っていた。
「紙……? ナイフとか、包丁じゃないんすか?」
「……じゃあ出してやろうか?」
「御勘弁を、お代官様……」
どうやら殺意はないようだ。そう気づいた俺が安堵のため息を漏らすと、九条はすぐに右手の畳んだ紙を差し伸ばす。
「受け取れ、麻生……お前への手紙だ」
「え……? 俺にっすか?」
九条の右手に握られた紙――それは四角に小さく折り畳まれたルーズリーフであることが窺えた。言われるがままに受け取って観察してみたが、どこにも宛名が見当たらず、本当に手紙なのか疑わせるほどの不審物だった。
「……なるほど、ここから何か飛び出してくるんすね。手榴弾とか~事件爆弾とか」
「……フフ、じゃあ出してやろうか?」
「いくらなんでも、それは持ってないっしょ」
笑みを溢した本職殺し屋についつい突っ込んでしまう俺だが、もう一度宛名があるかを確認しようと紙に目を置く。
一体誰からの手紙なのだろうか?
水嶋麗那や篠塚碧の女子なら、ルーズリーフを手紙代わりにするようには思えない。ゲイ疑惑がある小清水だって、俺に手紙を宛てるような人間ではないことは知っている。
仕方ないが、書いていないならば早速開けてしまおうと、失礼ながら俺は折り畳まれたルーズリーフを徐々に元通りに戻し始めた。しかし、それ以上に気になる現象が起こってしまう。
「すまんな、満。御主のおかげで、無事に手紙を渡せたよ」
「気にしないでくださいよ。人間ならこんなの、お安いご用ですから」
………………………………え?
幻聴かと思って少しの間固まっていたが、俺は声を鳴らすと共に顔をバッと上げる。
「え!? 今会話してたの、お前らなの!?」
確かに今、湯沢と九条が会話をしていた。しかも前からの知り合いのように。
あまりの衝撃を受けた俺は茫然と一人と一匹を窺っていたが、すると九条から自嘲気味に笑われる。
「……隠してたんだけどなぁ……まぁ、こんな状況じゃ仕方ないよな……」
九条が苦笑いで目を逸らすと、傍の湯沢は深々と頷いていた。
「隠し事は、いづれ公になるのが世の常じゃ。昔から言っておろう、満よ?」
「フフ、純子さんがそう言ってくれるだけ、助かりますよ」
下の名前で呼び合う仲なのかよ……?
聞けば聞くほど湯沢と九条の関係が気になって仕方ない俺は、固唾を飲み込んでから質問を投げる。
「……あの、九条……先生は、幽霊が視えるんすか……?」
「あぁ。それがどうかしたか? ていうか、早く手紙を読めよ?」
そこ、簡単にバラしちゃうんだ~……。
九条の平然とした態度には、霊感のせいで避けられてきた俺も呆気に取られた。まぁ確かに昨夜の出来事を思い返せば、九条が湯沢の方を視ていた気はした。疑ってはいたが、まさか本当に霊感があるヤツの一人だったとは……。
「あの……御二人はどういった……」
――パシッ!
ええ~?
質問を繰り出そうとした瞬間、俺は九条に胸ぐらを掴まれてしまう。力のあまり浮き立つ手の甲の血管と、目の前に現れた恐ろしい怒り顔で呼吸すらままならなくなった。
「……」
「読めって、言ってんだろ……?」
「ふぁい……」
何とか上ずった返事をしてみると、九条はすぐに解放し腕組みを始める。
マジで殺されるのかと思ったが、俺は嫌々ながらもルーズリーフを開いていく。すると次第にたくさんの文字羅列した表が見えてくるが、俺は不思議に眉を潜めた。
「二枚重なってるのか……ん?」
幼い女子が書くような丸っこい文字が羅列し、ずいぶんな長文であると伺われる。しかし多くの改行が成されていたため、見た目ほどの文字数はなさそうだ。そして気になったのは、一番上の余白に書かれた題名らしき一文だった。
――私を愛してくれた、親愛なる麻生やなぎ様へ。
「まさか、これって……」
見るからに俺宛の手紙であることは、とてもよくわかる。だが共に、この書き方、この言葉遣いに聞き覚えがある俺は宛名も予想できた。
「誰からか……わかったようじゃな?」
すぐ傍で湯沢が微笑まし気に囁き、俺は手紙のタイトルを見ながら頷く。
――間違いない。これは、カナからの手紙だ。
「なんで、九条が持ってたんだよ……? あ……」
無意識にタメ口を使ってしまった俺は恐ろしい後悔に駆られたが、九条は静かに頷いただけで、どうやら気にしていない様子だ。
「最初は純子さんに渡そうとしたらしい。だが幽霊は物を持てない存在だからな。そこで代わりに、私が預かったんだ」
代わりに預かった――ということはもしやと、俺は再び九条に恐る恐る窺ってみる。
「じ、じゃあ、カナが学校にいたのことも……」
預かったということは、九条は実際にカナと会っている。つまりは視たことがあり、彼女の存在を知っているはずだ。
俺は小さな方程式を組み立てて尋ねると、九条からはため息混じりに頷かれる。
「……当たり前だ。てかもう一匹いたよな? まったく、煩くて困った存在だったよ」
間違いない、フクメのことも知っている。
九条が霊感を持っていると知ったのは、もちろんたった今の時点だ。しかしカナとアカギの存在を知っている辺り、少なくとも今年の春から霊感があったとわかる。
九条は一体いつから、俺のように霊感を抱くようになったのだ?
それになぜ、憑かれている俺に教えてくれなかったのだ?
自身が霊感ある人間であることを、あくまで平々凡々に捉えた様子の九条満。
そんな彼女が気になった俺は、カナの手紙から目を逸らして不審ながら見つめてしまった。
「ほれ、麻生やなぎよ……」
すると俺の視線を変えるように、湯沢が目を合わせて手紙へと促そうとする。
「それは、カナ嬢の尊い想いが記された、御主にとって大切な手紙じゃ。一字一句と、目を凝らして読むが良い」
再び手紙に目が向いた俺は、しばらくタイトルだけを目に焼き付けた。
俺に対しての手紙――どんな内容が書かれているのだろうか?
カナの想いと言われて、変な緊張感すら生まれてしまい、ふと固唾を飲み込む。
「ほら、早く読みな?」
九条からも珍しく優しい掛け声をもらうと、俺は心の準備として深呼吸をする。まるでカナの真実が隠されたような手紙に少し狼狽してしまったが、改行された手紙の一文から、ゆっくりと目を通し始めた。
皆様、こんにちは。
子どもは風の子、私は風邪の子 ―― 田村です。
地震の被害に遭われた方々にはこの場を御借りし、たいへん心から御悔やみ申し上げます。皆様には私もできる限りの支援、手助けをしていくつもりですが、一日でも早い生活の復興を願わせていただきます。
今回もありがとうございました。
やっぱり九条満先生が出てくれと、本来のコメディー感が出て助かります。しかも霊感を抱いていた一人なんですね。
ポテンシャル高めです。
そして次回は、やなぎが渡されたカナからの手紙。
もう皆様は、カナが誰なのかわかりますよね? もちろん牧野紅華ではありません。
あの人です。
では、なぜあの人なのか?
その詳しい過程は次回で全て明らかにしてみせますので、どうかまた、よろしくお願い致します。
あと、二話です**




