三個目*兄妹とは……?
「死んだ兄さんに会いたい!」
そう言われたやなぎは否定的ながらも、水嶋啓介を探すことになる。しかし手がかりがなかなか見つからず、もはや写真とにらめっこする状態が続いていた。
するとカナの質問によって、やなぎは霊感を抱くようになった過去を話し始めると、そこに大きな手がかりがあったことに気づく。
第一章、完結です。
人間という生き物は実に恐ろしい。
自分の力では叶わない望みを知ると、それを他人の力で解決しようと企む。自分の望みのためなら、普通では考えられないこと、どんな無茶ぶりすらも、相手に平気で投げ掛けてくるのだ。それが叶わなかったら、絶縁の関係になることだってあるからまた理不尽なものだ。
特に頭が良さそうなヤツほど言ってくる傾向があるため、一般ぴーぽーからしたら厄介な事故である。いや、刑事裁判に発展する事件と共に部類した方が、俺は適切に感じてならない。
さすがは悪の化身――人間だ。今まで仮初めの姿を演じ、改めて正体を表すときの瞬間は、何とも恐ろしく形容し難い、身が凍る思いだ。
そして今、俺――麻生やなぎは放課後の昇降口で、事件に巻き込まれていた。犯人はもちろん水嶋麗那で、いかにも真面目な表情を俺にぶつけている。
「……は、はあ?」
困った俺は思わず聞き返すように呟いてしまったが、決して水嶋の願いが聞こえなかった訳ではない。
「だから、その……死んだ兄さんに会いたいの!」
クラス委員長及び生徒会長である水嶋麗那だとは思えない発言だった。何をファンタジー染みたことを放っているのだろうか? 俺らが住むこの世界は、ありふれた現実世界だというのに。
「水嶋……お前、バカか?」
俺は思わずそっ気なく言ってしまうが、正直な想いに後悔はなかった。
「わたしは、真剣よ!! だからお願い、麻生くん!」
しかし、両目を頑なに瞑り両手を合わせる水嶋からは、確かに嘘はついていないようだ。が、俺は馬鹿馬鹿しいとしか感じられず、呆れたため息を漏らし背を向ける。
「俺には、無理だと思う……」
というか、こんな肩荷を重くさせる案件を引き受ける気がなかったのだ。そこで俺は再び、水嶋を引き離すためにも、この場をやりきる言い訳を探す。
「……第一、そういうのは小清水に言えよ。アイツは神社で修行してるし、神職の息子なんだから……」
小清水とは、俺と昔からの知り合いである同級生――小清水千萩のことである。
小清水の家は神社を経営しており、神職の息子として、現在は学校を休みがちになりながらも後を継ごうとしている。まぁ、俺はアイツと仲が良い訳ではないのだがな。
「俺なんかより、アイツの方がずっと頼りになるはずだ……」
成仏する霊媒師としても活躍する神職。ならば幽霊のことだって詳しいはずだ。
俺は立派な言い逃れを告げたところで、残念そうなカナがいる玄関へと出向こうとした。
「小清水くんでは、ダメなの!」
水嶋による槍のような言葉が背に突き刺さった俺は、無意識ながら足を止めてしまった。なぜ小清水に頼ろうとしないのだろうか。もしかすると、俺のようにアイツを嫌っているのか?
俺は共通点がありそうな水嶋につい振り返ると、暗く俯いた姿が目に映る。
「もちろん、彼にも相談したわ。今の麻生くんと同じように。でも……」
すると水嶋は顔を上げるが、その表情から曇りは晴れていなかった。
「わたしの兄さんには、近づくなって……言われたの……」
再び下を向いてしまった水嶋は、力が抜け落ちたかのように、握り締めていたスカートの裾を重力に任す。
やはり小清水は酷い人間だ。死んだとはいえ、兄と妹を会わせぬ気でいるのだから。しかし、なぜ小清水は二人を会わせようとしないのか、俺には正直わからなかった。別に幽霊と人間を会わせても、大した問題などないはずなのに。
「理由は?」
「悪霊だからって……」
「え……?」
昨日からよく耳にしている単語を呟いた水嶋は僅かに俺へ顔を上げる。だが目線は下がったままで、より憂鬱さが伝わってきた。
「兄さんは悪霊だから、近づくなって言われたの。兄さんの死因を、説明しただけなのに……」
悪霊と死因の関係といえば、確かカナからも聞いている。幽霊たちは命を全うしなければ、この世に魂として残され、天国に逝くためには四十四個のコトダマ集めを強いられる。その集め方は主に人間を驚かすことで、少なくとも害を与えている悪霊だ。
「ちなみに、死因はなんだ?」
身体ごと振り向いた俺は問うと、水嶋の華奢な肩が少し落ちる。
「兄さんは、わたしが小学三年生のときに、交通事故に遭ったの……」
「交通事故……」
俺は、静かに呟くと、隣に寄ってきたカナの顔に横目を投げる。
「事故死なら、魂はこの世にいる可能性が高いです……」
カナは残念そうに言い、水嶋の兄貴が悪霊になっている可能性すらも感じているようだ。まったく幽霊もかわいそうなものだ。存在自体ですぐ悪霊と蔑まれてしまうのだから。
「そうか……そもそも、なんで兄貴に会いたいんだよ?」
ただただ会いたいだけなのだろうか。
分かりきった質問を投げたつもりだが、すると再度水嶋は、陰鬱な表情が変わらないまま頷き返す。
「実は、兄さんが亡くなった日、わたしと些細なことで喧嘩をしてしまったの。それを、謝りたくて……」
「さすが生徒会長……相変わらず律儀なこった」
死んだ者に対しても、しっかり謝罪の意を表することを思っていたとは。
相手を褒めることなど、一匹狼の末裔として生きてる俺にとっては珍しいことだ。恐らく金輪際は皆無だろう。
「でね? 麻生くん、これ……」
すると水嶋は俺の前に駆け寄り、胸ポケットから男の全身写真を出して見せてきた。
「……彼氏?」
「兄さんなの。この顔を視たら、教えてほしい」
「お、おい!」
水嶋の両手は、同い年くらいの微笑んだ青年の一枚写真を、無理矢理俺の手に握らせた。どうやらコイツは強制的に捜索させる気のようだ。
「お願いします。麻生やなぎくん」
由緒正しき生徒会長である水嶋は俺なんかに頭を下げ、自身のポニーテールを真逆に垂らし始めた。そんなことされても困るのだが。
「……視たら、な」
気不味くていれたものではなかった俺は、ただそれだけ言い残し、ようやく猫背を向けて昇降口から出ていった。
***
「しっかし参ったなぁ……」
校門から出て、人気の少ない歩道を歩いている俺は、水嶋からもらった写真に悩ましい顔を見せていた。その写真には、笹浦一高の制服を纏った青年男子が一人写っており、短髪でスラッと伸ばした身からは、何とも礼儀ある社会人のようにも受け取れる。カメラ目線で優しく笑っている表情からも、彼の人柄の良さが垣間見える。
「なかなかカッコいい御方ですね。綺麗な水嶋さんと似て、とても爽やかに拝見されます」
隣で宙に浮くカナは写真を覗いて明るく言っていたが、俺に伝染することはなかった。
「会いたい……なんて言われてもなぁ……」
いくら幽霊が視える俺であっても探偵ではないため、今現在彼がどこにいるかまではわからない。
「なぁカナ? コイツはまだ、この世にいると思うか?」
「それに関しては、私もわかりません。言霊を集め終わっているかもしれませんに、成仏されてるかもしれませんし……」
「そうだよなぁ……」
俺は悩ましいため息を写真の男に当ててしまう。
居場所、それに消息だって不明なのだ。このまま水嶋には、いないとテキトーな嘘を並べるべきなのかもしれない。もしかしたら小清水も、俺と同じように捜索をしたくなかったのだろうか。
「コイツ……」
面倒事を忌み嫌う俺だって、できるのならばそっぽを向いて無視したい。しかしそう思いながらも、つい写真の男を見続けながら足を動かしていた。
もちろん俺は同性愛など抱いていない。だからと言って、異性の水嶋のために一肌脱ごうなどとも思っていない。ただ目の前で微笑み語る優しげな若者に、静かながら気を置いていた。
――どっかで、視たような気がするんだよなぁ……。
容姿といい顔といい、俺はこの青年を以前に視かけた気がしていたのだ。だがそれはずいぶん昔の話であるため、記憶は曖昧で不確かな信実に過ぎない。
名前だってわからない、優しげな若者。妹である水嶋が喧嘩するなど想像もできないほど、穏やかな表情で笑っている。
「……チッ、試しに行ってみるか……」
舌打ちを鳴らした俺は、城へと延びる一本道から逸れて、ここ最近は歩まない細い道に身体を向ける。
「どこかに出かけるのですか?」
「小清水神社に行く。あまり気は乗らないんだけどな」
「じ、神社!?」
カナは突如立ち止まり、この世の終わりかと思わせる顔をしていた。まさか成仏されるとでも感じたのだろうか。
「お前を成仏しようなんて思ってねぇよ……今は」
「そ、そうですか。よかったぁ……」
どうやら最後の言葉までしっかり聞いていない様子のカナは、ホッと胸を撫で下ろして歩き出した。時に人の話は最後まで聞かない方が、アホ共には反って幸せらしい。
「ところで、小清水神社ですか? 確か学校で、水嶋さんと話していたときも聞いたような……」
「ああ。小清水っていう嫌な男に、少し聞きたいことがあるからな」
「小清水、さん……?」
カナは首を傾げていたが、俺は視向きしないまま頷く。
「アイツの家は神社でな。将来後継ぎとして、神主を目指してるんだと……」
「ほう!! そんな御方もいらしたのですね!! 要チェックです!」
俺は別に人脈に富んでいる訳ではないが、感心するカナを無視しながら小清水神社へと歩き進んでいった。
***
数分後。
俺たちは目指していた小清水神社の入口に着いた。斜め上には赤く大きな鳥居が聳え立ち、さらに奥にある神社本体は高台に位置しているため、前には長い石階段が延ばされている。
平日の夕方であるこの時間では、人もほとんど見当たらないため、静閑とした社内は神聖という言葉に相応しく、久々に訪れた俺も少しばかり足が竦んでいた。
「立派な神社ですね!! ちゃんと手入れをしているのが伝わってきます!」
「とりあえず、行くか……」
俺は重い足取りのままだったが、目の前の鳥居を潜ろうとした。
「ま、待ってください!!」
「はあ? なんだよ?」
しかし突如悲鳴を上げたカナに停止させられ、無視し続けていたアホ霊に振り向く。
「実はこの先、私は行けないんです……」
スカートの裾を握り俯くカナからは、幼い女子のもどかしさが視て取れる。
「……幽霊にとって神社は、やっぱマズイのか?」
成仏の話を聞いた限りだと、コイツらにとって神社とは、俺たち人間でいう処刑場と似ているに違いない。まぁ今の時代はそんな禍々《まがまが》しい場所はなく、共感する者がいたら警察沙汰なのだがな。
するとカナは上げづらそうな顔を俺に向け始め、眉をハの字にしながら口を開ける。
「はい。鳥居には結界が張ってあります。私たち霊が一度潜ったら、二度と外に出られないようになってるんです」
「……で、俺に取り憑いてるから、行くなってことか?」
「はい……」
「霊に憑かれるのも、色々と不便だなぁ……」
鳥居を潜れないのならば致し方ない。そもそも入りたくはなかった俺は素直に、小清水神社に背を向けて帰ろうとした。
「――どこの誰かと思ったらお前か! 麻生やなぎ」
刹那、後方から男の呼び止めをくらってしまい、俺のため息は再び放たれる。会わずに済むと思ったのに……。
俺は渋々振り返り、いつの間にか鳥居の前まで来ていた男の顔に、受け付けない冷徹な視線を送った。
「よう、小清水不良少年……」
「好きで学校休んでる訳じゃない!」
俺の冷やかしにまんまと声を荒げた男――それは小清水千萩だ。俺と同い年でありながら質素な白い袴姿で、ホウキを手に持ちながら長髪を後頭部で纏め、他校の女子生徒の心すら射殺す鋭い目付きをしていた。
やっぱ嫌いだわ……。
「突然来て、何のようだ? ……ん?」
俺に不審目を向ける小清水だが、ふと何かに気づいたように近寄ってくる。
「徐霊か? お前、悪霊のニオイがするぞ?」
「ヒャ!!」
背後でカナの怯えた声が鳴らされたが、俺はあまり心配していなかった。小清水の瞳は常に俺へと向けられているため、カナの姿は視えていない様子が窺えたからだ。だがニオイだけで悪霊の存在を判断できる辺りは、ちゃんと神職やっているらしい。
「いや、気のせいだ。それよりも、お前に聞きたいことがある」
さっさと本題に移るため話を逸らした俺は早速、水嶋からもらった一枚の写真を取り出し、小清水の前に晒け出す。
「……この男について、聞きたいことがあるんだ」
「水嶋の兄貴か……以前にオレも、見せられたな」
写真を見ながら呟いた小清水だが、以前として鋭い面構えのままだった。しかし話が省けて助かる。
「じゃあ、コイツを視たことはあるか?」
ダメ元で聞いてはみたが、やはり小清水からは呆れたようにため息を吐かれ、目を逸らされる。
「ある訳ないだろ。オレたち神職は、お祓いなんかはできるが、霊の顔を視ることができるのは、ホンの一部だ。だいたいアイツらはここに来ると、オーブでしか活動できなくなるらしいからな」
オーブとは、言わば鬼火のような球体のことである。心霊写真によく映り込む、雨粒のようなアレだ。
どうやら小清水の話だと、社内に入った幽霊は人の姿ではいられないらしい。
「そうか……わかった」
手掛かりが掴めなかった俺は静かに、写真を制服の内ポケットにしまい込む。どうやら自分の霊感を駆使して探さなければいけないようだ。
「探すつもりか?」
「どうだろうな……迷ってるところだ」
俺は小清水に背を向けて呟く。すると、突如肩に手を置かれた感触が走り、歩もうとした両足を制止させられる。
「小清水……」
振り返るとやはり、それは小清水の手であることが確認できた。共に見えた表情はさっきまで険しい顔とほとんど変わっていなかったが、人を寄せ付けない様子ではなく、心からの真面目さを貫く眉間の皺が浮きだっていた。
「水嶋にも言ったが、ソイツは悪霊になってる可能性が高い。人間であるお前にも、危害を加えかねないんだぞ?」
……だからって肩を掴まなくても。
小清水にゲイ疑惑を抱き始めた俺は呆気に取られていたが、すぐに言葉を紡がれる。
「悪いことは言わん。この件は、断るべきだ。水嶋の想いもわかるが、だからってお前が危険に飛び込むことはないはずだ」
……やっぱコイツ、ゲイだな。
確信に変わった俺には我慢の限界が訪れ、目を逸らして小清水の手を振り払った。乙女心よりも男の身を案じる辺り、コイツは間違いない。同じ種族だと思われる前に、ここをとっとと去ろう。
「やなぎ!」
「なぁ小清水……」
余りのしつこさを感じた俺は歩みを止め、小清水を突き放すことを考える。
「確かに悪霊の恐ろしさは、神職のお前の方がよく知っているはずだ。別にその意見に反対するつもりはない。でもな……」
俺は正面にいたカナの素顔を覗く。
「これは、俺独自の視解だがな……」
見つめたカナからは瞬きを繰り返されたが、俺は背後に横目を向けて、今度は漠然と立っていた小清水に半顔を放つ。
「――悪霊だって、みんながみんな恐ろしい訳ではないらしいぞ?」
「……そ、そんなことある訳ない!」
後退りを見せた小清水だが、俺の意見なんか全く汲み取らない様子で身構えていた。やたらと悪霊を否定するからには、コイツにもそれなりの理由があるようだ。まぁ無理もないよな。だって、お前の両親は確か、悪霊に……。
――だが、俺にだって目に視えた証拠がある。
俺は再びカナに視線を戻すと、静かながら嬉しそうに微笑んだ表情が目に映った。コイツだって幽霊――人間を驚かさなければ天国に逝けない悪霊の一匹だ。全然恐くないし、驚かす気も視当たらない。増してや怖さの無さに驚かされるばかりだ。
幽霊だって、人間とあまり変わらない気がする。
もしかしたら、水嶋の兄貴だって。
霊感がある者として感じた俺は両手をズボンポケットに入れ、前に走る道を見つめる。
「じゃあな……」
「勝手にしろ……」
小清水からは刺々しい言葉を吐かれたが、背に受けた俺はそのまま、カナと共に城へと帰還した。
***
城にたどり着いた俺たち一人と一匹。
重苦しい制服からジャージに着替えた俺は机の椅子に座り、再び水嶋からもらった写真の男を眺めていた。
「う~ん……やっぱどっかで……」
「あの、やなぎさん……?」
すると、終始夏服制服のカナに呼ばれる。振り向いて視ると、昨晩出会ったときの如く正座をしており、妙な堅苦しさを際立たせていた。
「お聞きしたいことがあるのですが……」
「なんだよ? 大した質問でなけらば却下だ」
俺は写真を握りながら返すと、カナは上目使いのまま口を開ける。
「やなぎさんはその、いつから幽霊を視ることが、できるようになったのですか?」
「……」
俺は黙り込んでしまう。周りから嫌われている理由の原点など、思い出したくなかったからだ。
「え、あ! ごめんなさい!! 変なことを申し上げて!! いやー今日は楽しかったです!! 学園生活とは良いものですよね!! あははは!!」
「小三のときだ……」
「え?」
俺はカナから目を逸らしたが、どうせ喧しいコイツからは今後も聞かれることだろうと思い、仕方なく、思い出さない程度に過去を明かすことにした。
「小三のとき、俺は小清水と神社で遊んでたんだ……」
「さっきのイケメンと、ですか?」
背後から相槌を打つカナにも助けられ、俺はコクりと頷く。
「俺たちはよく、神社の階段とか、社の中を駆け回ったりして遊んでいた。だがそんなある日、俺の世界が変わってしまったんだ」
「変わった……?」
気が乗ってきた訳ではないが、俺はイスを回転させてカナに身体を向ける。
「そのときは、しめ縄で巻かれた木を登って、カブトムシを採ろうとしてたんだ」
「やなぎさん、意外とワンパク少年だったのですね」
カナは小さく驚いていたが、確かにあの日の俺は、今の自分とは大きく異なった別人格の人間に思える。毎日小清水と遊んでいたことさえ、我ながら疑り深いものだ。
しかしその人格が変わったのも、その日が始まりだった。
「ひょんな事で、俺はその木の葉っぱを目に擦り付けたんだ。そしたら……」
「そしたら……どうだったんですか?」
俯いた俺を慰めるようにカナが囁くと、俺はゆっくり顔を上げる。
「最初は何も変化はなかった……いや、気づいてなかっただけかもしれない」
見える世界が変わるのは大概、ある程度の時間が経ってから感じるものだ。が、視える世界が変わってしまった俺は原因を知りながらも、果たしていつから変化したのかまでは定かでない。
「それで次の日。晴れた朝に登校したとき、俺のもとに血相悪い男が寄って来たんだ。その男は記憶がないと俺に言ってきてな。まぁ、どうしようもなかったから、周りにいた生徒たちにも聞いてみたんだ。この男を知ってるかって。そしたら、周りのみんなはキョロキョロし出して、一度も男に目を当てることはなかったんだ」
「じゃあ、その御方は……」
早くもカナは気づいてくれた様子で、丸い瞳を大きく開けていた。
話がスムーズに進めて楽だった俺も頷き、カナの目を視る。
「――お前と同じ、幽霊だったんだ。晴れていたのに影が無かったことが、何よりの証拠だったんだ」
思い返せばソイツが、俺が初めて目にした幽霊だった。見た目は人間とまったく同じだけに、すぐに識別することができなかったのだ。
「もちろん俺はそのとき、まだソイツが幽霊ってわかっていなかった。それで周りにしつこく言っちまったら、その日で校内中に、俺は幽霊が視える変なヤツっていう噂が流れた」
視える世界が変わり始めた瞬間、俺の見える世界も変化し始めた。
「……一緒にいたら呪われるとか、隣にいたら霊に憑かれるとか、とりあえず周囲からは避けられるようになった……」
所詮小学生の考えるような理由だ。根拠も無ければ、道理も繋がっていない。質の悪いでっち上げな風評被害だった。
「そして今に至るって訳だ……」
「やなぎ、さん……」
何とか下を向かず話し通すことができたが、カナが悲しい顔をしていたことに気づいたのは、終わってからのことだった。
「どうだ? これが、俺が独りになった理由だ……」
俺は自嘲気味に笑いながら、イスをもとの位置に回転させて、カナに背を向ける。正直こんないい加減な噂が、今の今まで続くとは意外だった。おかげで中学高校と、友だちもできなければ同級生と会話をした経験もほとんど思い浮かばない。強いて言うなれば、高校一年から同じ担任であるヤツぐらいだろう。
「……ちなみに、その幽霊はどうしたのですか?」
話を掘り下げてきたカナだが、俺は真面目に話す気がめっきり失せてしまい、もちろん振り向かなかった。
「さぁ。どっか行っちまったなぁ。まったく酷い話だ。アイツが俺の前に現れ、て……ん?」
「どうしたのですか?」
もしかしてと思った俺はすぐ、手に持っていた写真をマジマジと眺め始める。
「そっか、あのときの幽霊って……」
微笑んだ表情からは気づけなかった。が、このスーツ、この髪型を見る限り、俺は初めて遭遇した幽霊の正体がわかり立ち上がる。
「――コイツだったんだ……」
「え?」
カナから不思議めいた声を受けると、俺は瞬時に振り向き、見せつける写真の男に指を差す。
「間違いない! 俺が初めて遭遇した幽霊は、水嶋の兄貴だったんだよ!」
「ほ、本当ですか!?」
驚いたカナもついに立ち上がる。
「でしたら、その出会った場所に行けば、御兄さんに会えるかもしれません!! 水嶋さんのためにも、行ってみましょう!!」
両拳の甲を放ちながら叫んだカナ。一分一秒を急かすように顔を近づけていた。
面倒事など嫌いな俺としては、いつもなら興味など向かず無視しているところだ。が、今回ばかりはそうでなく、水嶋の兄貴写真をポケットにしまい込む。
「チッ、行ってみるか……」
気づいてしまったからには、行ってみるしかないようだ。何せ俺は、水嶋に約束ごと染みたことを言ってしまったのだから。
『……視たら、な』
口は災いのもととはよく言ったものだ。たった一言が、俺にこんな苦労を委ねるのだから。
それに何よりも、俺は嘘が大嫌いだ。つかれることはもちろん、つくことも。
水嶋の兄貴を一度視ている俺は、早速玄関に出て施錠をし、当時遭遇した場所へと、真実に気づくよう促したカナと共に向かった。
***
時刻は夜の八時。
この笹浦市も真っ暗な闇が訪れる時間だ。
「あぁ遠かったぁ~」
「ここ、ですか……」
俺――麻生とカナの前には、暗くて見通しの悪い小さな道路が延びていた。普段は小学校の通学路として使用されている一本道だが、今は人気が全くなく静まり切っている。数十メートル毎に設置された外灯のおかげで、傍の桜の木から落ちた花びらが見える。しかし、奥の方までは光が届かず、まるで魔界への道とも見受けられてしまう。
「まあ、そんな簡単に会える訳ないか……」
水嶋の兄貴を視つけるべく訪れたのだが、俺には人間どころか幽霊一匹すら視当たらない。
「やなぎさん! あれを見てください!」
するとカナは左に立つ桜の木の下に指を差す。
俺も空かさず見てみると、その道端には小さな墓石が存在しており、そっと近づいてみる。
「水嶋啓介と書いてあります。しかも花束まで……」
カナの言った通り、墓石の前には数本の花を包んだ花束が置かれ、共に白い煙を放つ線香まで地面に刺さっていた。
「間違いない。ここで、水嶋の兄貴は亡くなったんだ……なぁカナ?」
「はい?」
俺は水嶋啓介と彫られた文字を眺めながら、カナを振り向かせる。
「確か口笛を吹けば、霊が寄ってくるんだよな?」
「はい。蛇ではなく、邪が寄ってきますから」
「わかった」
カナみたいな悪霊が来たらどうしようと悩んだが、他に探す手段が想像できなかった俺は仕方なく、口笛を吹き始めた。
――ヒュ~~……。
暗い静かな闇夜の中、澄んだ音が響き渡る。人間の声もなく、車の音も皆無な、真空状態の空間。外灯に照らされた桜の花びらが落ちながら、俺の口笛は確かに拡がっていった。
「……どうだ?」
「……!! 誰か来ます!」
何かに気づいたカナは木に隠れていた小道に目を向けており、俺も同じ方向に視点を換える。するとその木の裏からは、一人の青年らしき姿が現れ、徐々に俺たちのもとに歩み寄ってくる。
どうやら、成功のようだ。
視力に自信がある俺には、その青年が誰なのかが既にわかり、光の影響でうっすらとした姿のまま、俺たちの前にたどり着く。
「――水嶋、啓介だな……?」
現れた青年――水嶋啓介は暗い表情で立ち止まった。写真と同じく制服姿で、微笑み以外は全て一致している。ちなみにタメ口を使ったのは、一高の制服を着用しているため、恐らく同級生か一つ歳上だとわかったからである。
「君たち……ぼくが視えるの?」
水嶋の兄貴は震えた高い声で、俺たちに恐る恐る返していた。
「まぁな……ちなみにコイツは、アンタと同じ幽霊だ」
「はじめまして、カナです」
俺の隣でカナが一礼すると、水嶋の兄貴も憂鬱ながら声を鳴らす。
「は、はじめまして……水嶋啓介です」
「あれ? 自分の名前は覚えてんのか?」
気になった俺はつい聞き返してしまう。カナによれば、幽霊となった魂は生きていた時の記憶を失うはずだ。なぜ同じく幽霊である水嶋啓介は、カナと違って自身の名前を言えたのだろうか。
「いや、全部覚えているよ……」
「え? だってお前、あのときは自分の名前すら覚えていないって言ってたじゃんか?」
死人とはいえ、無礼にもお前呼ばわりした俺だが、水嶋の兄貴が言ったことには大きな矛盾点が含まれていたからである。
あの日遭遇した際、コイツは俺に、記憶がないと言って近づいてきたのだ。昨日のことのように鮮明に覚えている。
「ぼくは、君に逢ったことがあるの……あれ? もしかして君は、幽霊のぼくに初めて答えてくれた少年かい!?」
忘れていたとは。
お前のせいで俺は人生茨だらけになったというのに……まぁ、今から八年もの過去だ。しっかり脳に刻んでいる俺の方が変なのかもしれない。
「……まぁな」
「そうだったのか……あのときは、済まなかったね。きっと、相当迷惑をかけたと思う」
頭を下げて謝った水嶋啓介に、俺は素直に驚いていた。なぜなら一度しか会っていないコイツが、俺の苦悩を気づいていたように告げたからである。何とも妹と似て、目配りのできる存在なのだろう。
「まあ……気にすんな……」
あくまで偉そうに発言した俺だが、水嶋啓介に感心を覚えたところで本題に移る。
「なぁ、啓介。アンタ、妹のことわかるか?」
幽霊に対しても普段通りの俺だが、水嶋の兄貴には初めて微笑みが灯り始める。
「うん。麗那のことだよね……」
僅かながら嬉しさが伝わってくると、水嶋啓介は横にあった小さな墓石に目を向けた。
「定期的に花束を持ってきてくれて、いつも欠かさず、こうやって御線香を刺してくれるんだ」
まだまだ火を灯す御線香からは、白く安らかな煙が昇っている。恐らく、つい先程に水嶋が刺していったのだろう。会いたいと言っていた対象者が、いつも傍にいながら。
「ぼくなんか視えていないはずなのに、今日学校であったこと、さっき家であったことまで、何でも話してくれるんだ」
啓介の瞳は潤んでおり、今にも泣き出しそうな様子だった。決して線香の煙が目に入ったからではないだろう。コイツに顕在した、微笑みを視る限り。
シンミリとしてきたところで、御涙頂戴的展開が好きでない俺は、一歩啓介に近づく。
「その妹が今、アンタに直接会って話したいんだと……」
「ぼ、ぼくに!?」
バッと振り向いた啓介からは、いかに驚いているのかが容易にわかる。きっと予想もしていなかったからに違いない。
言葉を聞いている限り、水嶋の兄貴からは妹への愛を感じ取れるが、ふと暗い表情に戻ってしまう。
「でも、それはあまり好ましくない……」
「確かアンタが死ぬ直前、喧嘩したとか言ってたな」
恐らく理由はこれだろうと思いながら呟くと、兄貴は墓石を見たまま頷く。
「あの頃の麗那は、今とは全く異なるお転婆娘でね。いつも勉強を疎かにして、常に遊び呆けていたんだ……」
風が止んで桜の花びらが落ちなくなった今、水嶋の過去と共に、兄貴の昔話が始まる。
「当時、高校で生徒会長だったぼくとしては、そんな麗那にいつも叱ってばっかりだった。そしてあの日、麗那はぼくに、アイドルになりたいと言ってきたんだ」
「へぇ~。あの水嶋がねぇ……」
成績優秀、クラス委員長及び生徒会長を務める真面目な水嶋からは想像できない、意外すぎる過去であり夢だった。まるで昔の俺自身を見ているような……。
だったらなぜ、明るく元気でお転婆娘だった水嶋が変わったのか?
「ぼくは、麗那は勉強したくないだけだと思い、いつものように叱ったんだ。でも、いつもは一度で受け入れる麗那は、あの日初めて反抗した。わたしは真剣よってね……。それでも信じられなかったぼくは、また叱ってしまったんだよ」
「で、どうなった?」
水嶋家に興味などなかった俺だが相槌を入れて、辛そうな兄貴を答えさせる。
「麗那はぼくに、大嫌いと言って、その夜家から飛び出してしまったんだ……」
なるほど。お転婆娘らしい、後先考えぬ行動だ。
過去の水嶋が確かに喧しい少女だったと感じた俺は、続く兄貴の開口を聞き届ける。
「ぼくも少し言い過ぎたと思って、すぐに探しにいったよ。麗那の気持ちをもう一度、ちゃんと確かめようと……でも……」
「暗い夜のなか、車に轢かれたって訳か」
水嶋の兄貴は俺の囁きに頷いてみせたが、その目線は下がったままで、墓石の線香も見えないほど俯いてしまった。
「その後、麗那はぼくを気遣ったのか、よく勉強する子になったんだ……」
「まぁ確かにな。今じゃアイツは、毎回のようにテストは学年トップだし。おかげさまで、俺は万年二位だけどよ……なんだ、いい話じゃんか?」
お転婆だった水嶋が変わることができたのは、亡くなった兄貴の真似をしたから。
結果として学生生活は成功しているように窺えるし、何も悲しむことはないだろう。
俺はそう思いながら水嶋の兄貴の丸まった背中を眺めていると、首を左右に振られた。
「ぼくは、麗那から夢を奪ってしまったんだ。アイドルになりたいという夢を……。そんなぼくは、麗那に合わせる顔も無ければ、会う資格だってないよ……」
幽霊だから顔は必要ないと思うが……。ただ会う資格に関しては、人間と同じく幽霊にだって関係しているのかもしれない。
――だって、兄貴は妹の夢を、全面に否定したのだから。
夢とは、人間にとって生き甲斐に成りうる、言わば生きる希望だ。一生懸命努力して、必死に夢の背を追っていく姿は、どこかマラソンと似た要素がある。
だが、夢は追い着くものではなく、追い越すものだと是非認識していただきたい。その夢を叶えるということは共に、新たな夢の背が見えてくるからである。一つ叶えばまた一つの夢を追い、それを越せばまた別のものと、帰納法的に続いていき、円満死というゴールにたどり着くのだ。
――そのマラソンを、兄貴は妹を棄権させてしまったのだ。
アイドルと聞いて反対してしまった気持ちは、先に生まれ世の厳しさを知る者として有りがちだが、現実主義の俺も納得はできる。だが、それで成長した水嶋麗那が今、心から笑って生きているかまでは、人格を変えることとなった過去を知ったことで、俺には断言できない。
確かにアイツの表情は常に穏やかでおしとやかだ。が、果たして心の奥底はどうなのだろうか。もしかしたら、今も後悔しているかもしれない。夢を追い続けたかったと、あの笑顔の裏では思っているのかもしれない。
それを考えてしまえば、そうさせた兄貴としての苦悩も計り知れない。会いたくない気持ちは、残念だがよくわかる。
水嶋啓介に同情した俺も、日々暗い顔を更に闇色に染める。
「じゃあアンタとしては、妹に会いたくないんだな?」
「……あぁ」
すると兄貴は頷かず、ほぼ吐息に近い小さな声で答えた。
桜の花びらは、開花したからこそ宙を舞え一時の美しさを披露する。しかし啓介の心は閉じた蕾のようで、これから先も咲かず、朽ち果て枯れてしまいそうだった。
「……よし、わかった。帰るぞ、カナ」
「あ、はい!!」
俺はカナを引き連れて、水嶋の兄貴に背を向け去ろうとした。
「あの、今日はありがと、カナさん、……えっと……」
「麻生……さなぎ!」
俺は背を向けながら、水嶋の兄貴に指三本を立てた手を放つ。
「人の名前、しっかり覚えとけよ。仏の顔も、三度までだからな……」
「え……?」
今回で二回目の対面となった水嶋啓介からは、訳がわからず不思議がる声が漏らされた。が、俺とカナはそのまま静かに去ることにし、落ちた桜の花びらを避けながら歩んだ。
***
「あの、やなぎさん……?」
ワンルーム八畳の城の中で、机で明日の予習をしている俺の背中に、カナが不思議そうに囁く。
「どうして、やなぎさんは啓介さんに、“さなぎ”と答えたのですか?」
やはりその質問がきたかと思った俺は思わずにやつき、握るシャープペンシルを置く。
「アイツに罰を与えるため、かな」
「ばつ? ……ッ!! そんな離婚までさせなくても!!」
「そのバツじゃねぇよ! 懲罰の方の罰だ!」
得意気な俺の表情も瞬時に壊され怒鳴っていた。なぜ人間の俺が、幽霊の恋愛関係に首を突っ込まなくてはいけないのだろうか。人間に対してもやったことないのに。
「なるほど~。では、どのような罰を下すのですか?」
しかしカナは依然として落ち着いたままであり、どれだけ水嶋兄妹を気にしているのかが伝わってくる。
そこで俺は再び鼻音を鳴らして笑い、背凭れに肩肘を着けて口を開ける。
「――アイツにとって、いや~なことだ」
「……っ! はい、わかりました。さすが、やなぎさんです!」
するとカナの表情は和らぎ、一気に雲が晴れ渡ることとなった。むしろ笑顔のコイツは眩しくも視て取れ、俺の嫌いな太陽ようにキラキラと輝いていた。
「さて、明日の予習も終わったことだ。寝るぞ?」
「はい。今夜も夢を見ましょう!」
「もちろん、天井では寝るなよ?」
「はい。今日からは、押入れで寝させてもらいます!」
「どこの猫型革命兵器だよ……」
机から離れて部屋の電気を消した俺は、今夜も大好きな布団の中に入った。
いつもなら、一生この就寝時間が続けば良いと思いながら潜り込むのだが、今日だけは明日が待ち遠しくて、すぐに寝られたものではなかった。
一方で俺の机上には、明日の予習で使っていたルーズリーフが一枚置かれていた。行を無視して贅沢に大きな文字が並べられている。しかし教科書や参考書らは、スクールバッグから取り出されたことはなく、今日はたった一枚で明日の予習を、それも短い時間内で済ませたのだった。
***
翌日。
時刻は夜の七時。昨日のように静かな闇夜と、少しの風で舞う桜の花びらが拡がっていた。
学校から下校して一度帰宅した俺――麻生とカナは再び、水嶋啓介と書かれた墓石の前に訪れ、口笛を吹いて啓介を呼び込む。
「……あ! 来ましたよ」
微笑むカナが告げた先には、水嶋啓介が革靴の音を経てずに歩み寄ってきた。
「よう……」
「君たち……また来てくれたのかい?」
不審というよりもどこか嬉しそうな様子だった、水嶋の兄貴。そこでジャージ姿の俺は早速、コイツを試す。
「俺の名前……フルネームで覚えたよな?」
「もちろんだよ。麻生さなぎくんだろ?」
「あぁ……」
予定通りの答えが返ってきた俺は怪しげな笑みを漏らし、得意気に兄貴を見つめ返す。
「――ちげぇよ。俺は、麻生やなぎだ」
「え!? でも昨日は確かに……」
「……言い訳は無用。間違いに変わりはない」
焦る兄貴の言葉尻を被せた俺は目を逸らし、真っ暗な道の奥を眺め始める。
「だから罰だ。もうそろそろ、アイツも来ると思うしな……」
「あ、あいつ?」
「来ましたよ」
俺と同じ方を見るカナの明るい声で、兄貴も不思議ながら首を曲げて背後を窺った。するとそこには時間通り、一人の人間が革靴の足音を経てて近寄ってくる。
よし、来た来た。
「まさか……」
どうやら兄貴も気づいたようだ。俺は確信した瞬間に、来訪者の名を声に乗せる。
「水嶋~、こっちだ」
「れ、麗那!?」
驚いた兄貴が一歩前に出て阻もうとしたが、俺たちの視線の先にはもちろん、制服姿の水嶋麗那がいたのだ。急遽学校からここに来いと、手紙として下駄箱に送ったルーズリーフ一枚で命令した訳だが、ちゃんと足を運んでくれて助かった。生徒会の活動もあったはずなのに、俺のこんな話を受け入れてくれるとは、さすがは我らの生徒会長様だ。
「な、なに? 話があるって……しかも、この場所で……」
たどり着いた水嶋は挙動不審に映ったが、俺は自信を持って、目の前にいる水嶋啓介に人差し指を向ける。
「話があるのは、俺じゃない……お前だろ?」
「……」
おや……?
俺は確かに水嶋の兄貴に指を差しているのだが、霊感無き者から見れば、水嶋麗那に指が向かっていた。
すると水嶋は瞬きを繰り返し、細い首を傾げてしまう。
「どういう意味? もしかして、告白しろってこと!? やっぱ麻生くん、ドエスなところあるよね~」
「いや、そんなんじゃねぇよ!! あれラブレターじゃねぇし!」
まぁドエムよりかは良いけどさ……男として。
つい感情的になってしまった俺は一度場を整えようと、咳払いをしてから水嶋に顔向けする。
「お前の兄貴……いるんだ……」
「え!? どこに!?」
言うまでもなく霊感を持たない水嶋は、辺りをキョロキョロとして探していた。
「目の前だよ……」
一方で当たり前のように霊感を備える俺は、水嶋の兄貴に近づき、背後から肩に手を置こうとした。が、幽霊のせいか手がすり抜けてしまったため、再び人差し指を立てて知らせる。
「あ、麻生くん!?」
突発的に叫んだ兄貴は、俺を叱るように顔を近づけてきた。
「ど、どうしてこんなこと!? 望んでいないと言ったじゃないか!?」
「仏の顔も三度までって、言っただろ? その罰だ」
「そ、そんなぁ……」
意気消沈とした兄貴の背中は丸まってしまい、どれほど嫌な罰なのかがわかる。だが……。
「――それに、望んでないって、本当にか?」
「――!」
兄妹の間に移動した俺の囁きで、啓介の口は固まり、目覚めたように振り返る。すると調度、妹の水嶋麗那と顔を会わせることができ、俺は安堵のため息を漏らすことができた。
予習した通り、事は上手く運べたようだ。
「さぁ水嶋。俺が通訳するから、早く話しな」
「本当に、いるの? 兄さん……」
水嶋麗那の表情からはまだ納得できていない様子が窺われ、対面している水嶋啓介も苦い顔を俺に向ける。
「ぼくがここにいるなんて、信じてくれないよ……」
「どうした? 話さないなら、俺は帰るぞ」
だが俺は後ろの兄貴には振り向かず、前の水嶋にだけを見て言葉を発した。
「わ、わかったわよ……ねぇ、兄さん……」
そしてやっと、水嶋の口が兄貴に向かって開かれた。
「いるなら……聞いてほしいことがあるの」
「……」
「黙ってる」
通訳者として水嶋啓介の様子を伝えると、水嶋麗那は申し訳なさそうに俯く。
「兄さん、あのときはごめんなさい。バカなわたしの為に、あっちこっち探し回ってくれたんだよね……」
「……」
「まだ黙ってる」
お前が話さなきゃ、俺の存在意義がないでないか。
俺は水嶋兄にそう叱りつけようと思ったが、ここは大人らしく空気を読んで気持ちを鎮めた。
「ねぇ、兄さん……?」
再び繰り返す水嶋だが、今度は目線が上がり、温度を保った瞳を向けていた。視えないだけに視点は少しズレていたが、少なくとも水嶋兄は妹の目を受け止めている。
「兄さんが亡くなったときから、わたしは兄さんのようになろうと思ったの。そのおかげで、わたしは兄さんと同じ生徒会長になれたの。だから、感謝してるわ」
「……嘘だよ……」
「嘘だよ……だって」
やっと口を開いた水嶋の兄貴は悔しそうに歯軋りを視せていたが、俺はそこまで伝えたくなかった。
さて、いよいよ気が散ると思うから、ここからは俺の通訳文章無しで読んでいただきたい。
「え? どうして?」
「ぼくは、麗那の夢を潰したんだ……だから、感謝されるような人間じゃない……」
「兄さん……」
両手を握り拳に変えた啓介は声を震わせ、次第に感情的になっていく。
「麗那が本気で目指そうとしていた夢を……ぼくは、見向きもせずに潰したんだんだ……」
愛する妹の夢を否定し、顔を上げられなくなった兄の瞳からは、ついに一筋の雨粒が落ち、アスファルトの地面に落ちる。しかし幽霊であるせいか、跡は残らず、一瞬で蒸発したかのように消えていた。
「ぼくは、充分悪霊だよ……」
罪悪感による涙を流すようになった水嶋啓介の言葉で、兄妹の間には一時の沈黙が訪れる。兄貴の言った通り、コイツがしでかしたことは罪に等しく、今は悪霊と言われても何ら差し支えない。
第三者として、俺はそう思っていたが……。
「――そんなことないよ。お兄、さん……」
「――!」
水嶋麗那の温かく相手を包むような言葉に、水嶋啓介は驚きと泣き顔を上げた。
僅かな春風も吹いてきた桜の木の下で、時間を取り戻したかのように花びらが舞う。
「どうして?」
「だって、わたしは今、幸せだから」
「幸せ……?」
返ってくるはずのない言葉が返ってきてしまった様子の兄は、首すら傾けなかった。一方で妹は、頬を緩ませながら頷く。
「確かにわたしは、アイドルに本気でなりたかった。人を喜ばせる、幸せを運ぶようなアイドルに」
他者にヤル気や元気を与えたい。
どうやらそれが、水嶋麗那が叶えたかった願いのようだ。
通訳をしながらも水嶋の言葉をしっかり聞いている俺はそう思っていると、亡き兄への言葉が紡がれる。
「でもね、兄さんのおかげで、新しい視点を見つけたの」
「視点?」
兄の涙目と、満ちた妹の光る瞳が交差する。
「そう。あるときね、クラスの子に勉強でわからないところを教えたら、その子は理解できて、ありがとうって、すごく喜んでくれたんだ!」
むしろ自分自身が最も歓喜している様子の水嶋は、声量を少し下げる。
「そのとき、わたしは勉強しててよかった……そう思うようになったの。兄さんが叱ってまで、わたしに言ってたことを、改めて実感したの」
「麗那……」
「つまりね、兄さんは……」
泣き止まない兄の前で、妹は一度瞳を閉じる。それは心からの秘めたる想いを放つ準備をしているようだった。長きに渡って伝えられなかったことを、今ここで。
そして水嶋の、外灯で照らされ輝く桜の花びらを映した、煌めく瞳が開けられる。
「――わたしの夢を、ある意味叶えてくれたんだよ。これでも、感謝しちゃダメかな?」
夜桜に見舞われた水嶋麗那は、無邪気な笑顔で答えた。細い首を少しだけ傾けながら。
それに対して水嶋兄の目からはやはり、大粒の涙が次々に流れていた。
「……麗那、ありがと……ありがとうぅ……」
流した雫を制服の袖で拭いながら、兄貴は何度も感謝の言葉を口にしていた。今まで発したかったように、何度も同じ台詞を。
通訳する側としてはなかなか迷惑だったが、俺は一字一句しっかりと妹に伝えてやると、兄貴はまだ瞳に潤みを残しながら喉を鳴らす。
「麗那、ぼくの話も聞いてほしい」
「なに? 兄さん」
真剣さながらの兄貴に、妹は嬉しそうに微笑み問う。
「ぼくは、麗那のことを全くわかっていなかった。でも、麗那はこんなぼくを、兄さんと呼んでくれている……だから、ぼくも幸せだ。麗那が妹で、ホントによかったよ……」
「お兄、さん……」
笑っていた水嶋麗那にも伝染が始まり、瞳に更なる煌めきが増していた。それはもちろん、今にも泣き出しそうに揺れ輝く、二つの目である。
「麗那の幸せこそが、ぼくの幸せだ。本当にありがとう」
「わたしだって、そうだよ……大好き」
「麗那……ぼくもだ。大好きだよ」
桜の花びらだけでなく涙にも見舞われた二人。それぞれの口から“大好き”が飛び交う。
シスコン? それとも……?
おいおい、恋愛と親愛をいっしょにするなよ。コイツらが言っているのは、間違いなく後者の方だ。親しき者に宿る礼儀を備えた、コイツらがさ。
通訳している俺は兄貴と共に、水嶋妹の返しを待ち構えていた。するとついに、妹の頬からも涙が地面に滴り、落ちた花びらに温かい雨を降らす。まるで桜の開花を促すように。
「うぅ……」
表情は次第にクシャクシャになっていき、優しい雨は止まらない。そして水嶋の抱いていた想いも、やっと行き届く。
「――ありがと! お兄ちゃん!!」
人気が皆無な夜の通学路。外灯と桜が包んだ一つの世界にて、一人と一匹の心には、やっと開花の報せが訪れたのだ。
ちょっと、遅咲きだけどな。
「麻生くん……」
すると水嶋啓介は踵を返し、俺に嬉し泣く素顔を放つ。
「ぼくは、成仏してもらうことにするよ」
出会った当初は暗く病んでいたように視えたが、今はそれを全く感じさせない明々たる表情だった。
「いいのかよ? お前の存在自体、消えるんだぞ?」
コトダマを集めなければ、無事に天国には逝けない。
カナから幽霊事情を知った俺は決断を止めようとしたが、笑顔の兄貴は静かに頷く。
「――こんな気持ちで消えれるなら、本望だよ」
「……そうか。わかった」
俺はそう告げると、春風と外灯を浴びる水嶋麗那に振り向く。
「水嶋。兄貴から最後のお願いだ」
「うん……なに、お兄ちゃん?」
水嶋は袖で涙を拭き取り、兄ととてもよく似た笑顔を示す。
「兄貴を神社まで連れて、成仏してあげてくれ」
「え……それって、もう会えないってこと?」
「……会えるさ。またきっとな」
俺は、嘘をついた。
大嫌いな、人の為りを。
「麻生くん……どうしてそんな嘘を……」
啓介は困ったように言ったが、俺は兄貴に答ず、水嶋麗那の返答を待ち続けた。
「うん。わかった。行こ、お兄ちゃん」
開花を迎えたアスファルトの道中、俺たち二人と二匹は静かに、この場を去ったのだ。
***
小清水神社前。
水嶋兄妹の想い交換を終えてから一時間後。俺たちは、小清水神社の鳥居の前に来ていた。
「こんな時間だけど、大丈夫かしら?」
「小清水には伝えてある。心配ない」
むしろアイツに気を遣うだけ無駄だ。今回何もしなかった冷たいヤツなのだから。
「ここから先は、自分だけで行け。それで兄貴を成仏させてやってくれよ」
このまま俺も鳥居を潜れば、取り憑いたカナまで出られなくなってしまう。だから俺は水嶋麗那だけに、兄貴の最後を見届けてもらうことにしたのだ。
「うん。お兄ちゃん、行こう」
水嶋兄妹の並んだ背中が映し出され、徐々に赤い鳥居へと向かっていく。
「麻生くん!」
しかし兄の啓介は立ち止まり、俺に振り向いて微笑みを視せる。
「――ホントに、御世話になったね。心から、ありがと」
「……」
俺は返答しなかった。ただ、水嶋が鳥居を潜るのを眺めているだけだ。
「麻生くん!」
すると今度は、妹の水嶋麗那が俺の方に笑顔を放つ。流した涙の跡が残っていたが、悲しみは皆目見当たらない素顔で。
「――ホントに、御世話になったね。心から、ありがと」
「――っ! ……いいから、早く行ってこい」
俺は思わず驚いてしまった。水嶋の台詞に――いや、この兄妹の言葉に。
――まったく同じだったからだ。仲介を果たした俺への、感謝の言葉が。
ただ俺はぶっきらぼうに言い放つと、水嶋は子どもっぽく笑い返し、ゆっくり鳥居を潜る。一方で隣を歩く兄貴にも変化が訪れ、青年の姿は一つの発光球体――オーブとなっていた。
鳥居から遠のき、階段を上っていく人間と幽霊。上りきったところで、ついに兄妹の姿はそれぞれ、見えなくなり、視えなくなった。
「やなぎさん、お疲れさまでした」
「まったく……疲れた疲れた」
隣で頬を浮かせるカナに、俺は気だるくため息を吐いた。腕時計を覗けば時刻はもうじき九時を指す。今日分はもちろん、明日の授業の準備だってまだなのだ。今夜は徹夜になりそうだと考えると、手当をいただきたいあまりである。
「ところで、やなぎさん……?」
ふとカナは疑問を投げ掛け、疲弊した俺を振り向かす。
「やなぎさんはどうして、水嶋さんたち二人を会わせたのですか? お兄さんの方は会いたくないって言ってましたのに……」
それは言うまでもなく、罰として会わせた。だが、俺にはもう一つ理由があったため、得意気に鼻で笑う。
「アイツは、そんなこと思ってなかったからだよ」
瞳を丸くしたカナに見つめられながら、俺は鳥居に背を向けて春の夜空を眺める。
「会う資格がないっていうのは、会いたいけど会うべきではないってことなんだ」
要するに水嶋啓介だって、妹の水嶋麗那と会いたかったのだ。自身の想いに背いた発言をしていたにも関わらず。
「本心をなかなか表せないが、お互いが相手を思いやっている。いつも近くにいるのに、目の前では素直になれない。他の誰よりも想いを届けることが難しい関係……」
春の変わりやすい天気のように、揺らぐ気持ち。
それを確かに知っている俺は、隣で宙に浮くカナに顔を向けする。
「――兄妹なんて、そういうもんだぜ」
「――っ! ……フフ、そうですね。やなぎさん」
「はぁ?」
まるで兄妹関係をわかっているかのように返したカナが意外だったが、どうせコイツの天然能力による演技に違いない。
再び星が輝く夜空に視点を戻し、俺はカナと共に水嶋麗那の帰りを待つことにした。ハッピーエンドなのかバッドエンドなのか、賛否両論を迎えるだろうが、せめて水嶋が笑顔で帰ってくることだけを期待した。
――――――――――――――――――――――――
四月二十三日、午後八時五十七分。
水嶋啓介。
妹――水嶋麗那に温かく見守られながら、笑顔を残して円満成仏。