四十個目*クロサンショウウオを飼ってはいけません。
大学生三人に身柄を拘束された牧野紅華は何とかカッターを奪って、縛られたロープを切断して脱出に成功する。
しかし体力面に劣る紅華は全力疾走を続けられず、しまいには倒れてしまい、再び犯罪者集団の魔の手が伸ばされようとしていた。
もうダメだと思いながらも奇跡を心待ちにしていた紅華だったが、その刹那、ボロボロの彼女には救いの存在らしき幽霊が姿を表す。
皆様はトークに自信はございますか?
ちなみに私は一切ございません。大人数の前で話すことは愚か、たとえ相手一人だとしても緊張して口が滞ってしまいます。
友人などいない私にとっては相手と話すという習慣は全くないものでして、話し相手といえば自分の父母ぐらいしか思い当たりません。それも大概は私が聞く側の立場におり、じっと父母の笑顔を眺めながら話を受けてきました。その結果、私は自分の気持ちを言葉に表すことをあまりしたことがありませんし、口数も年月が進むにつれて減っていったように思います。
確かにこれも喋り下手の理由の一つかもしれませんが、恐らく原因はまた別にあると思います。それは私が最も恐れていること――自分の言葉が相手を傷つけてしまわないか、という想いです。
昔の人々は本当に頭が冴える方々で、『口は災いのもと』という素晴らしいことわざを遺しております。自分の安易な言葉が相手に嫌な思いをさせる、相手の心を傷つけてしまうといった意味が込められている一言でしょう。
それは正しく私が一番気にしてきた内容を示しており、このことわざをいつも念頭に置きながら生きてきました。相手の心を傷つけてしまうくらいなら、私は口を閉ざしてひっそりと見守るだけで結構ですので。
しかしこのように口を開けない行動が正しいかと言われたら、私は決して推奨しません。なぜならこれは、自身の個性という取り替えできない価値を蔑ろにしてしまうからです。個性を培うにはとても時間が掛かるもので、まず私たちは発言という意思表示が必要とされます。そこから改めて相手の話を聞いて考えるという課程となっておりますが、一度や二度で個性が確立するわけがないことは皆様も御存知のはずです。
大切なのは相手の意思を黙って聞いてあげるのではなくて、しっかりと相手の立場や環境を考えて自分の意見を持つことです。その考えが相手を傷つけてしまうと判断したら、また別の言葉へと変化すれば良いだけのことで、決して一言を話さずして自己を無くすような真似は控えてほしいです。これが癖着いてしまったときには、もはや自身の人生がモノクロの景色になることを忘れないでください。
――自己があるからこそ、人間は魂という曖昧な概念を形成していくのですから。
そんな話下手のくせに自己を尊重する私、牧野紅華は現在、大学生たちの前で時間稼ぎをしようと女子トークに力を降り注いでおります。幸運にも手にしたカッターを背に隠しながら、両手首を縛ったロープを切りながら口を動かして笑顔を見せていますが、やはり慣れない女子トークに苦戦する一方だということが否めませんでした。
「き、昨日の、ウソでしょTV観ました!?」
「……」
滅多にしない作り笑いを見せる私は目の前で立つ茶髪の女子大学生にテレビの話を持ち込みました。長年女子トークという代物を端から観察してきた私ですが、そこには毎日の如くテレビの内容が組み込まれていることを知っています。最近では録画機能が発達したことで当日に閲覧しないという若者が増えているそうで、このトークはたいていすぐに終わってしまうのが基本です。
しかしこの女子大学生ならばイケるかもしれないと感じた私は必死に思考を廻らせて、冷たい視線を送る彼女に言葉を続けました。
「き、昨日のは人間性診断テストでしたよね!実際に私のやってみたのですが、まさかのおっちょこちょいだと確定されてしまったのですよ~!私のトンチンカ~ン」
女子トークの基本は、わかりやすく、とりあえず長く、妙に楽しそうに笑顔を絶やさず、そして自分の思いを淡々と。
これは女子トークを学校で長年研究してきた私の持論でありまして、大概のことはこれでまとめられる自信があります。全ての条件に則って披露していけば、それらしいように見えるはずです。
しかし茶髪の女性からは表情一つ変えない様子が伺われ、座り込む私を静かに見下ろしていました。
「……だろうな。てか、そんな企画やってねぇし。しかもそのテレビ、昨日じゃねぇぞ?」
「えっ!?」
女性の冷徹染みた簡単な言葉に、私はたいへん驚いて声を上げてしまいました。このままでは、自分が嘘をついていることがバレてしまう。実は昨日も夜遅くまで勉学に励んでいたため、テレビなど一秒たりとも観ておりません。確かに嘘をつくのは良くないことですが、今回ばかりは恐くて正直に言えたものではありませんでした。
ならば話題を変えようと企んだ私は、怪しまれぬように微笑みを絶やさずして、再び頭をフル稼働させてトーク内容を考えました。大きく話題を変えるのも、きっと変に思われるかもしれません。だとすれば、テレビ繋がりでこの話題にしましょう。
何とか話題を捻り出した私は一度深呼吸をして、気を取り直して再度女性に笑顔を見せつけました。
「じゃあ、ニュースです!い、茨城県のニュースですよ!!今年のレンコンもたくさん収穫できたそうですよ!いや~、県の誇るべき功績です!茨城に生まれてよかった~!!」
慣れないハイテンションには大きな疲労を覚えましたが、私は一度も嫌な顔をせずに話を通すことができました。きっとこのニュースならば、彼女も聞き入ってくれることでしょう。勉学や世界状勢に熱心で知見が広いのが大学生でありますし、このニュースは確かに私も実際に観て知った内容です。もはやこれ以上の完璧な話題はなかなか見つからないことでしょう。
自分の投じた話に大きな自信を抱いていた私でしたが、女性はピクリとも動かず私のことを凝視しており、全く心に響いていない様子でした。
「ウチ、茨城県民じゃねぇからどうでもいいんだけど……」
「えっ!?しかし日本においても幸せ極まりないニュースですよ!?」
「ニュースとか、そんな興味ねぇし……」
「そ、そんなぁ……」
笑顔を大きく崩した私は眉間に皺を寄せており、背の後ろで動かしていたカッターすら止めてしまうほどショックを覚えていました。最近の大学生は何か変わってしまったのでしょうか。こんなにも世間に興味を持たないとは、社会人に相当する年齢ながらもたいへん残念な胸中です。
空いた口が塞がらなくなっていた私でしたが、ならば大学生でも興味を抱きそうな話題を考え込みました。高校生である自分と大学生の彼女に共通するものと言えば、恐らくこれが必須でしょう。
「な、ならば私の成績の話なんてどうでしょう?」
「……」
相変わらず茶髪の女性からは興味を示さない目を向けられていましたが、私は笑顔を取り戻して諦めず話を展開しました。
「いや~、この前の某大学の過去問はボロボロでしたよ~!まったく、大門の最後が難しすぎて手がつけられませんでしたよ~!私ってアホですよね~!!」
「そりゃあウチだって解けねぇよ……てか、お前高二だよな?もう過去問解けるレベルなの?」
「えっ!?やりませんでしたか!?」
「うん、やってない……早くてもせいぜい高三の春だろ……」
彼女の言葉に驚きを隠せなかった私はまたまた笑顔を失っており、雷が落ちたような衝撃の真実を突き付けられた気分でした。確かに私は予習を毎日行ってきたため、気づいたときには高校生が習う全課程を学んでしまいました。通っている笹浦第二高等学校は進学校でもありますから、これが普通なのだと思って進めてきたのです。基本を覚えた後は問題集を使って自主的にどんどん解いていきましたが、同じくして問題集残りのページ数が減っていき、ついこの間で全ての単元を終えてしまいました。ここで私は図書室に行って大学の過去問に手を触れた訳ですが、何人かの生徒が借りていることが見受けられたため、やはりこれも普通の流れなのだと思っていました。
しかし女性の話を聞いた限り、それはどうも勘違いだったようです。
思い返せば周りの生徒たちはいつまで経っても高三の内容を知らない様子でしたし、図書室で赤本を借りている人もクラスには私だけでした。恐らく、あのとき見かけた借者は先輩にあたる三年生の方だったのでしょう。てっきり同学年の生徒だと思っており、今の今まで全く気がつきませんでした。
思いもしなかった事態に陥った私はまた口が止まってしまい、成績の話題をこれ以上膨らませる余裕がありませんでした。一刻も早く、新しい話題を見つけなければいけないでしょうに。
しかし私の脳もついに限界を迎えていたようで、考えても盛り上がりそうな話題が皆無でした。ニュースの話はしてしまったし、実は自分は一度死んでいることなど伝えたら気味悪く思われるに違いありません。女子トークにおいて大切な笑顔も忘れて、万事休すという言葉が脳内を何度も走り回っておりました。
「だ、だったら、私が飼っているクロサンショウウオの話なんてどうで……」
「……あれ?そういえば……」
女子トークを必死で続けようとした私は飼ってもいないペットの話をしようとした刹那、茶髪の女性の後ろにいた坊主の男が言葉尻を被せて呟きました。運転手を勤めていた彼はどうやら何かを探している様子でしたが、一体何を探しているのでしょう。
次第に手首のロープが細くなっていることが感じる私は運転手の男を観察しておりましたが、彼は悩ましいながら腕組みをしていました。
私の目の前に立つ女性も踵を返して坊主の男に顔を向けていましたが、男は彼女に目を会わせて口を開けます。
「なぁ?お前、俺のカッターどこにやった?」
――!?
女性と共に運転手の言葉を聞いた私には、まるで全身に電気が走る感覚が襲いました。
「そこらに、落ちてんじゃねえのかよ?無かったらまた新しいの買えばいいじゃんか?」
「ふざけんなよ~。あれ結構高いんだからさぁ!」
もともとカッターを持っていた茶髪の女性が告げると、坊主の男は少し機嫌を損ねている様子が伺えました。
嫌な空気が流れ込む薄暗い廃屋のもと、私は顔をしかめながら大学生たちの動きを凝視していました。
――カッターがここにあるなんて、絶対に言えない。
この握るカッターを別に盗むつもりは毛頭ございませんが、私はこのロープを切り終えるまで返す訳にはいきませんでした。あともう少しで切断できそうなところまで来ているため、どうか自分に注意を向けないでいただきたい。
背後でカッターの動きを少し早めた私は固唾を飲み込んで、捜し回る三人の大学生たちを観察していました。どうかこの捜索時間ができるだけ長く続いて欲しいと願いながら、歯をくいしばる口を閉ざしております。
徐々にロープの切り込みは深くなっていることが実感されますが、私は決して油断をせずに三人の動きを眺めていました。すると清楚な男は何かに気づいたように動きを止め、こちらへと視線を放ちます。
「なぁ、牧野紅華……」
「は、はい……?」
最初に会ったときとは別人のような禍々(まがまか)しい声を出した男に、私は身の毛がよだつ思いで返事をしました。もしかして、もうバレてしまったのでしょうか。
表情が険しくなる一方の私が目を会わせていると、眼鏡の男は歩き始め、目の前でゆっくりと立ち止まりました。眼鏡越しからの恐ろしい眼光に睨まれることで私には大きな恐怖心が襲っていましたが、男は何の配慮もなくスーツのポケットに手を入れながら見下ろしていたのです。
「な、なんでしょうか……?」
「テメェなら見てたはずだよな?カッターがどこに行っちまったのか……」
男のドスの効いた話を聞く限り、私がカッターを持っていることにまだ気づいていないことがわかります。
ひと安心とはいきませんでしたが、私は厳しい表情のまま男を見上げて返答します。
「さ、さぁ……なぜ私にそんなことを伺うのですか……?」
嫌な汗は手のひらだけでなく全身から吹き出していましたが、男はふと鼻で笑って見下す視線を投じていました。
「惚けんなよ。真っ正面からカッターを見ることができるのは、お前だけだ。嫌でも視界に入っていたはずだぞ?」
不敵な笑みを浮かべる男は完全に疑っているようで、私は彼に返す言葉が見当たらず唇を噛んでいました。眼鏡の男以外にも、坊主の男と茶髪の女性からも視線が送られるようになってしまい、どこにも逃げ場が見当たりません。一体何と言えば、このどろどろしい注目から解放されるのでしょうか。
「どこに行った?言え」
熱帯夜のせいではない汗を垂らす私は眼鏡の男に目で対峙し、震える口許を何とか閉ざしていました。
――プツン……
「あっ!?」
刹那、ハッと驚いた私の背後では、ロープの切断音が鳴らされて廃屋中に響き渡りました。ロープはすぐに手首から落ちて行くと冷たいコンクリートの地面へと落ち、そこでもバサッと乾いた音を放ちました。
「テメェ、まさか!?」
やはり相手には聞こえていたようですが、私は待ちに待った状況に遭遇することができ、閉ざしていた固い口を開きます。
「ドロンいたしま~っす!!」
叫び共に立ち上がった私は紺のソックスを纏った脚を回転させ、スーツの男の横を勢いよく通り過ぎて出口へと向かいました。
「テメ、待ちやがれー!!」
後方からは眼鏡の男から呼び止められましたが、それどころではない私は男女の二人をラグビーの如く身体を捻って避けていき、触れられずに通過しました。
「これぞ秘技!紅華丸の力です!!どうも失礼いたしました~ッ!!」
無我夢中になりながら意味不明な言葉を叫んだ私は、運動などほとんどやらない細い脚をフル回転させて突き進み、ついに廃屋の出口から脱走に成功したのです。
夜で月明かりのみが照らす辺りには大きな森林で囲まれている景色が拡がっており、出口のそばには乗ってしまった白のワンボックスカーが置かれていました。いっそのこと車で逃げるのもありだと過りましたが、運転免許など持っていない私は流石に乗り込む勇気が出せず、自分が犯罪者にならないためにも荒れた山中を駆けていきました。
「待てゴルァァ――!!」
案の定、後ろからは三人の犯罪者たちが追ってきていることがわかりますが、私は後ろを見向きもせず、ただひたすら前を向いて手足を動かしました。下り坂が多い分、脚はいたって動かしやすく進むものです。履いていた革靴はどこかに行ってしまって、ソックスだけの足裏には尖った石ころが刺さる痛みが襲いますが、中学のときに受けたイジメと比べれば大したことはございません。
痛みをかかえながら、重い制服を纏いながら私は開けた道を突き進み続けました。が、慣れていない全力疾走に息をすぐに荒げていることが否めません。
「ハァ……ハァハァ……」
走り出してから数分も経たないうちに体力は底を尽きそうで、自分でもわかるくらいスピードが落ちていました。ふと後ろを振り向くと、三人の大学生たちは徐々に迫ってきており、まだまだ体力に余裕がある様子でした。
頭はクラクラとし始め、過度の運動のせいか目眩にも遭っておりますが、私は自分自身の心にある言葉を何度も訴えながら走り続けました。
――帰るんだ、大好きなお父さんとお母さんの家へ……
体力というよりも気持ちで身を走らせる私は諦めずに前を進み、必死で逃走を続けました。
家族のもとに帰りたい。
大好きなお父さんとお母さんに会いたい。
思考はままならなくても私の脳裏には二人の笑顔が浮かんでおり、確かに今の原動力になっていました。
「もう少しだ!捕まえろ!!」
しかし無情にも、犯罪者集団の声は次第に大きくなる一方で、逃げる私との距離が縮まっていることが暗示されています。このままではまた捕まってしまい、せっかくの逃走が無駄に終わってしまうでしょう。それに一度逃げ出してしまった自分には、きっと恐ろしい仕打ちが待っているに違いありません。何としてでも、この場から離れなければ、でも……
「ハァァ……ハハァァ……はッ!!」
その瞬間、私の脚には突如力が入らなくなり、膝から崩れ落ちるようにして地面へと倒れてしまいました。
「今だ!取っ捕まえろッ!!」
眼鏡の男の叫びはもうすぐそこまで来ています。早く立ち上がって逃げなければ。
しかし、過呼吸気味を迎えた私にはもはや走れるほどの脚力はなく、果てしなく続く暗い山中でうつ伏せになったままでした。帰りたいのに、絶対に帰りたいのに。
目眩は強くなり、次第に視界がぼやけていくのを感じてしまう私には絶望という感情が芽生え始めて、悲惨な現実に涙を浮かべてしまいました。また捕まってしまうのでしょうか。もう本当に大好きな父母に会えなくなってしまうのでしょうか。
「う、うぅ……」
地面に涙を落とした私は諦められず、土を強く握っていました。
――誰か、助けて……
神様なら文句なく、どうせなら悪魔だとしても構いません。何でもいいから、今の私に御力を与えてほしい。この場を逃げて、お父さんとお母さんが待つ家に帰る御力を。ですから、お願いします。
後ろの方で足音がゆっくりとテンポを下げていることから、きっと大学生らがたどり着いてしまったことが理解できます。それでも立てない私は必死で願掛けを繰り返し、一生に一度でも構わない奇跡を望んでおりました。
――お願いします!!誰か助けて!!
――こっちだ……
――えっ!?
倒れる私にふと囁かれたのは、女の子の暗い一声でした。静かながら放たれた声ではございましたが、まるで耳元で告げられたが如く鮮明に聞こえ、確かな音として捉えることができたのです。
気になった私は声の主を見つけようと、うつ伏せになりながら辺りを見回しておりました。近くにいる女性と言ったら、現在不気味な笑みを浮かべながら近づいてくる大学生の彼女しかいませんでしたが、立場的に茶髪の女性が言ったとは思えません。それに声質も大学生らしくない、まだまだあどけなさが残るものでした故、恐らく別の誰かが放った言葉なのでしょう。
だとしたら、私に囁いたのは一体誰だったのでしょうか。本当に神様からもらった、嘆願した私に対する救いの言葉なのでしょうか。または悪魔による、嫌な誘いのメッセージだったのでしょうか。
もうじき犯罪者たちに取り押さえられてしまうなか、私は僅かに熱が残った瞳を周辺に向けていると、林の奥から何やら見慣れない浮遊物が目に映り込みました。
「人……浮いてる……」
口すらまともに動かせない私ではありますが、瞳に映ったのは確かに人の形をした物体であり、闇夜に包まれた林中にも関わらずはっきりと見えました。さらに目を凝らして眺めてみると、やはりその物体は患者服を纏った人に見え、ボサボサな髪の毛を肩まで垂らした女の子の像を作っております。
「はっ!……あれは……」
私は林の奥に潜む女の子の顔を眺めながら、驚いて瞳孔を開けていました。
「……牧野、朱義……」
最初は見間違いかと思いました。しかしその浮遊体は確かに牧野朱義の姿であり、姉にあたる彼女と自然と目が合ってしまいました。
――こっちに来い……
私から相当離れているはずなのに朱義の囁きはよく聞こえ、彼女の姿は次第に遠退いていきます。
「待って……」
すると私には不思議と脚に力を加えることができ、無意識のなか何とか立ち上がりました。あれほど疲弊した下半身のはずなのになぜだか足取りは軽く、再び歩き出すことさえ可能となったのです。
「コラッ!どこ行きやがる!?」
眼鏡の大学生に叫ばれた私でしたが、正直言うと彼の声は耳に入らず無視し、朱義の姿に引き寄せられるようにしてついには駆けていきました。
進行方向を開けた山道から、林の中という道なき道に変更した私は突き進み、徐々にスピードを上げていきます。やはり後ろからは大学生三人が追いかけてきてましたが、彼らにとって足場が悪いせいか、足元など木にせず前を向く私との距離が拡がっていきました。
脚が軽くなったことも、さっきから大学生たちが変に声を荒げて止めようとしていることもありましたが、私はそんなことを全く気にしないまま走っており、たった一つの想いだけを背負いながら頬を緩ましておりました。
――お姉ちゃんが、助けにきてくれたんだ。
私が病院のベットで蘇生して以来の姉、牧野朱義の姿を目にした私はそう思いながら、絶望で染まっていた瞳に希望の光を取り戻すことができました。助けにきてくれたのは神様でもなく、もちろん悪魔でもない。実の姉である彼女が、私に力を与えてくれたのです。
「おいッ!!止まれーッ!!」
後方から聞こえてくる大学生たちの野蛮な声は私の心には届かず、顕在的に姿を見せる朱義のことを夢中ながら追いかけていきました。死んでいる彼女を目にしていることは、今思えば確かに奇妙極まりないことですが、そんなことすら考える余裕すらないまま彼女の後を着け、私には嬉しい気持ちも芽生えて走るスピードを増していきました。
「待ってください!お姉ちゃん!!」
声を張り上げた私は決して笑顔を絶やさずに進み、同じく患者服の背を見せながら離れていく朱義を必死で追いかけました。もうこれ以上のことがない嬉しさが込み上げ、彼女のことが幸せの神様だとすら思えるほどです。
捕獲されるピンチだった私をこうして誘導している朱義は、恐らくは秘密の抜け道を知っているが故に、この道なき道に誘ったのでしょう。相変わらず足裏からは痛みを覚えますが、先ほどの尖った石とはまた別に小枝が刺さる感触が加っていました。それでも私は微笑んだまま朱義の向かう方へと走り続けていきました。すると姉である彼女はふと踵を返して立ち止まり、その様子から月明かりで明るくなっている林の奥が垣間見えたのです。
「林が、開けてます!!」
あともう少しでこの真っ暗な林から抜け出せると知った私はさらに胸が躍り、自分を待ってくれている朱義から与えられたであろう力を脚へと注ぎ込みました。
「バカやろうー!!そっちに行くなー!!」
後ろからは、犯罪者集団の醜い叫び声。しかし前には、姉の誇らしい姿。
迷いなどない私は一切スピードを緩めず突き進み、朱義のもとまでもうじきたどり着こうとしておりました。
「お姉ちゃん!!」
感動の再会としては少し場違いな気も否めませんでしたが、少くとも助けを求めていた私には感謝の気持ちが生まれており、今すぐ彼女に抱きついて、ありがとうと御礼をしたい思いでした。
あともう少しで、お姉ちゃんのもとに……
私にとって、大切でかけがえのない存在、それはもちろん家族の方々です。毎日お仕事をして疲れているはずなのに、屋根の下では決して笑顔を絶やさないお父さん。いつも心を込めた美味しいご飯を作ってくれて、自宅に和やかな空気さえ生ませてくれるお母さん。
――そして、死んでいながらも私に救いの手を差し伸べてくれた、朱義お姉ちゃん。
現在は犯罪者に捕まってしまう窮地に立たされている私でしたが、なぜだか素直に微笑むことができていました。もうじき林から抜け出して、山中から解放されることでしょう。そしたらすぐに家に帰って、まずは父母に抱きつきたい。そして、朱義お姉ちゃんが助けてくれたことを、しっかりと目を見て訴えたい。
「朱義お姉ちゃ~ん!!」
片足がついに林から抜け出した私は嬉しさのあまり涙を浮かべており、目の前で立ち止まっている朱義へ真っ先に向かいました。しかし……
――!?
一度は目前としたお姉ちゃんの身体はなぜだか遠退いていき、止まっているはずの彼女と向かっていたはずの私たちには距離が生まれていました。痛みを感じていた足裏にはいつの間にか感覚はなくなるなか、必死で手を伸ばして彼女を掴もうと試みたのですが、朱義の姿は徐々に上昇していき触れられません。
「えっ……崖……?」
笑顔が消えた私は今さら気づいてしまいました。自分たち二人の距離を生ませていたのは、止まっている朱義ではありません。そう、落ちていく私の方だったのです。
犯罪者たちが私を止めようとしていたことも理解されるなか、消えた道に誘われた私には朱義から不敵な笑みを見せられました。
「ざまぁみろ……偽モンがぁ……」
「そんな……お姉ちゃん……」
助けてくれたと思っていた朱義へと、今すぐにでもダイブしたかった私の身体。
幽霊となった彼女でさえ、大切な家族の一員であると思えた私の心。
しかしその二つは無情にも、遠い下に映った地面へと向かっていってしまったのです。
――やだ、お父さんとお母さんに会いたい。
悲壮な顔をした私は思いましたが、朱義からは恐い笑顔で見下ろされるだけです。
――やだ、死にたくない。
一度は死んでいる私ですら死という恐怖心が芽生えてしまい、空中のなかもがき動いてました。
「イヤアアァァァァ――――――――ッ!!」
手を伸ばしながら必死で叫んだ私でしたが、残念ながら差し伸べてくれる手など一つも見当たりません。
崖の端で眺める犯罪者たちから、空中で浮遊しながら笑っている朱義から見守られながら、私はこうして絶望の淵という名の奈落の底に誘われてしまいました。
急降下する私は今さらでしたが、朱義お姉ちゃんという幽霊は悪魔と似た悪霊であることに気づいたのでした。




