三十九個目*やはり、鰻(うなぎ)は養殖よりも天然に限ります。
父に会いたいと言う大学生三人のために、道案内をしてあげようと共に車に乗り込んだ牧野紅華だったが、道中に眠ってしまった。
目が覚めると、辺りはほぼ真っ暗な廃屋の屋根の下で座っており、なぜか手首を縛られて身動きが取れない状況だった。早く家に帰りたいと願い焦る紅華だったが、大学生三人組からは不気味な笑みを向けられており、彼らの本当の目的を知らされることとなる。
人が亡くなることを、皆様はどうお思いになりますか?
きっとたくさんの方々は涙をし、底知れぬ悲しみの沼地に足を捕られることでしょう。
理由は単純です。人の死という出来事は、私たち人間にとって永遠の別れを意味しておりますから。
感受性に富む人間たちが涙を流すときには、おおよそ決まったルートがあります。他者の死はもちろんのこと、親しい友人の転校、気に入っていた同僚の転職、部活での先輩たちの引退、別々の進学などなど、例はありふれております
そんな決まったルートたちを経て私たちの脳裏に過るもの――それは『別れ』の二文字なのです。
もう、会えなくなるかもしれない。
これであの人とは、もう話すこともできなくなるだろう。
永遠の別れとまではいかなくても、この程度のものですら人間は悲しみ、失望し、瞳の熱を奪われるのです。
だったら、死という永遠の別れが訪れたときはどうなるか。それは、もはやあなた方のご想像の通りです。
死という終焉があるからこそ、人の道とは美しく、何にも代えがたい大切な時間なのです。しかし、それを悲しむなとは申しあげません。人は悲しみの涙を流した後ほど、大きな成長をみせる知的生命体ですからね。
ならば、私ならどうなのかな……?
そんな自分の死に関して疑問を抱く私、牧野紅華ですが、現在はどうやら眠っていたようで、ゆっくりと瞳を開けました。
「ここ、は……?」
私の目の前には見慣れない世界が広がっていたのです。どうもここはひっそりとした小さな物置小屋のようで、天井から吊るされた豆電球が弱々しく灯されていました。深い闇が何とか照らされているなか、真っ暗な奥にはコンクリートの床しか見当たらず、錆び付いた壁も見受けられたことから廃屋だと判断しました。
どうして、私はこんなところにいるのだろうか。それに加えて、こんなところで眠っていたとは。
我ながら自身の行動に違和感を覚えた私ですが、ふとここまでの経緯を思い出すことができました。
確か、とある大学生に道案内を求められたのです。下校中に私を呼び止めた清楚な男性と茶髪で気さくな女性の二人でしたが、彼らは私の家である牧野家に用があるとおっしゃっておりました。しかしながら、自宅の住所など書いたことがない私は全く把握しておらず、自分の愚かさと目上の方に対する無礼さにうちひしがれたのです。
そこで話が決まったのが、私を車に連れ込んで、家まで送ってやるとのことです。住所がわからなくても、家までの複雑な道ならば、ほとんど一人で歩いてきました私は誰よりも理解してると自負しております。彼らの話に賛同して、このまま道案内をしようと思って乗車いたしました。
運転手の方も含めて計三人の方々のなかに私が混ぜられる形となりましたが、道中に珍しい睡魔に襲われて眠ってしまい、それ以降の記憶がありませんでした。
気がついたときには、この廃屋の屋根の下。
外の風景なども確認できない私は立ち上がろうと、紺のソックスを纏った足に力を入れました。ですが……
「あれ……?」
どうにも立ちづらい。足は素直に動かすことができましたが、壁を伝う一本の棒が私の背中から離れずに接していました。そしてもう一点、私は振り向いて気がつきます。
「縄、でしょうか……?」
私の背後と棒の後ろには自分の両手首が太い縄で縛られており、この棒を全身で取り囲むこととなっていました。確かにこれでは、棒から離れるどころか、この場から移動すらできません。
「どうしたらいいのでしょう……?」
夜の暗闇に襲われるなか、打開策が見当たらない私は困りながら手首を動かし続けましたが、固く結ばれた縄からは無念にも解かれませんでした。
このままでは、門限の八時を越してしまいます。ただでさえ、私を大切にしてくれる父母の二人には心配をかけたくないのに。
徐々に焦りの念に駆られるようになった私でしたが、ふと廃屋の奥から足音が鳴らされていました。
「んお?やっと起きたなぁ」
加えて女性の声も飛んできたところで、私は音主を確認しようと前を向きましたが、そこには――暗くてなかなか見えませんでしたが――茶髪の女性を先頭にして、背後に二人の男性を引き連れて向かってくる姿が映し出されました。
一人の坊主な男性は見覚えがありませんでしたが、そのうちの二人は確か、私を車に誘ったスーツ姿の男と茶髪で私服姿の女でした。どうやら残る一人は運転手のようで、黒い作業着を纏っておりました。しかし、なぜこんなところに寄り道をしているのでしょうか。
「あの、ここ私の家じゃないんですけど……」
私は恐る恐る声を漏らすと、茶髪の女性は鼻で笑いながら目の前で立ち止まりました。
「ああ。もちろん、ウチらの家でもねぇよ」
彼女の笑みを込めた返答に、私は首を傾けてしまいました。だとしたら、ここは一体どこなのでしょうか。
足元のコンクリートを眺めながらじっくりと考えた私は、恐らくこれだろうという答えを見つけ出し、再び女性に視線を送ります。
「休憩、ですか……?」
「こんなパーキングエリア、あるわけねぇだろ。さすがにもう少しきれいだわ」
女性からはムッとした表情で返されてしまいましたが、私はここにいる理由が更に闇に溶け込むのを感じました。彼女たちの自宅でもなく、運転の休憩のためでもないなら、なぜここに立ち寄っているのでしょうか。
ふと茶髪の女性の後方を目にした私は二人の男性のやりとりが垣間見え、坊主の厳つい男と礼儀を放つ男が共に話し込んでいる様子が確認できました。
「あの娘、状況わかってねぇだろ?」
「そうだな……おい、話してやれ」
私に指を差しながら答えた坊主の男の後、爽やかですが冷たい表情でいる男は顎を突きだして、茶髪の女性に指示を送っているようでした。
すると、座り込んでいる私と目線を合わせるために、女性は膝を折り始めました。彼女の口から何を言われるのか気になりましたが、穏やかな笑顔を見せられていたのです。
「あのなぁ、お嬢ちゃん?」
女性から言い聞かせるように話しかけられた私は突如、嫌な予想が浮かんでしまい息を飲みました。
「もしかして、私……」
コンクリートの冷たさも加えられて、身の毛が弥立つ思いで座っている私は強い悪寒に襲われていました。
「んお、わかったかぁ?」
再び怪しげな微笑みを見せた女性でしたが、私は身体の震えが止まらなくなってしまい、彼女の姿がまともに直視できずにいました。
――この状況、どこかのニュースで聞いたことがある。それも、あまり良いとは言えない暗いニュース。
どうして一般人である自分を?と考えていた私は次第に震えが増していく一方であり、激しい恐怖心に満たされていました。
自分の知る限り、おおよその条件が一致している環境下、私は固唾を飲み込んで冷や汗を垂らし、目の前の女性へ僅かに喉を鳴らします。
「アイドルの、スカウトですか……?」
「………………………………はぁ……?」
夜中の長い沈黙が襲いましたが、女性の呆気に取られた返事で終わります。どうも開いた口が塞がらない様子でしたが、私は未だに恐怖に駆られたままで、ハの字にした眉を微動させておりました。
「わ、私、聞いたことがあります。アイドルのスカウトは主に暗い場所で、しかも複数で勧誘を行うものだと……」
ある日のこと、私は下校後の自宅でテレビを着けたときに、気になって目が止まったニュースを観ていました。その内容は、最近流行っている『アイドルの探しかた』という企画のもと進行されており、実際のスカウト担当の方を取材したコーナーだったのです。証言者が言うには、スカウトとは、始めは見つけるために人だかりの中で活動するようですが、声を掛けた後ほ主に人気のない場所で詳しい勧誘を行われるものです。
スカウトのやり取りでは、半ば強制的な一面を兼ね備えるものですから、相手に嫌な思いをさせることが多々あるそうです。特に、この子ならイケる!と感じた相手ほど、要注意して接しなければ成功しないとのことです。そのため、スカウトの対象者には相応の気配りや言動に注意しなければならないと発言し、今後のスカウト活動も創意工夫を貫こうとおっしゃっておりました。
「あのっさぁ、お嬢ちゃん……?」
茶髪の女性からは微笑みが完全に消えてしまったことから、どうやら私は彼女の図星をついたのだと確信しました。しかしそれは同時に私の心に大きな戸惑いをもたらし、震える声で対峙することとなります。
「こ、困ります!!私は皆様が思っていらっしゃるほど、イケてる女子高生ではございませんし、人前に出ることだって苦手ですもの!!」
必死に言葉を放った私でしたが、茶髪の女性はさっきから微動だにせず固まっており、後ろの男性陣も揃って口をポカンと開けたままでした。三人には、私の訴えが響いていないのだろうか。
ならばもう一度と考えた私は何とか勇気を振り絞って、今度は三人それぞれの顔を見ながら声を張り上げます。
「う、うれしいですよ!?こんな私を選出してくださるなんて、とても光栄に思います!!でも、私のような地味娘がアイドルになって、三ヶ月以上のレッスンを積んでからステージでダンスをして、引退を表明してから紅白に出場して、有終の華を飾るなど、毛頭できそうにありません!!」
「お前はスクールアイドルか……」
頭に浮かんだ言葉を全てを吐き出した私は、これだけの大声を出しても、女性からの小さな一言しか返ってきませんでした。どうして私の素直な意見を、これほどまで聞き入れてくれないのでしょうか。仮に私が世紀に一人の逸材だと言われたとしても、スポットライトより眩しい注目を浴びる晴れ舞台では、一切活動するつもりなどございませぬのに。
困り果てた私は更に勧誘の否定を試みましたが、残念ながら効果は全くと言っていいほど皆無であり、むしろ女性の機嫌を損ねているようでした。
「ですから私は……」
「……んあ゛ぁ!もう違う違う!全部違う!!」
すると私の言葉尻は茶髪の女性に被されてしまい、彼女から強い睨みを真正面から受けることとなったのです。
「いいか!?お前さんはだなぁ、これから売り飛ばされんだよ!!人身売買ってやつだ!!」
「えっ!?そんな……」
女性の荒けた叫びに、私は悲壮な顔を浮かべてしまいました。アイドルのスカウトでないことはわかりましたが、次には更なる脅威が待ち構えていたと感じたためです。
私の表情を見ていた女性はニヤリと笑っていましたが、私は新たに思い浮かんでしまった真実を、恐れおののきながら口にしたのです。
「わ、私は芸人にも向いておりません!!特技は愚か、他人を笑かす力だって持ち合わせていませんよ!!」
「はぁ!?」
先ほどのような沈黙は訪れませんでしたが、大きく口を開けた女性からは眉間に皺を寄せた顔で怒鳴られました。
「ちげぇよ!!メイドだ!!お前はメイドをやるんだよ!!」
「め、メイド!?それは尚更無理な話です!!私、秋葉原なんて行ったことありませんし、お父さんのことを御主人様となんて、この世に生まれてから一度たりとも呼んだことがございませんのに!!」
「言ってた方が問題じゃあ!!」
私の必死たる叫びよりも大きな怒鳴りを放った女性からは、ついに怒りの有頂天に達してしまった様子で、両手の拳と歯軋りを見せられてしまいました。アイドルといい芸人といいメイドといい、どれも私の身の丈に合った職ではありません。自分のような田舎育ちの女子高生には、到底できないものばかりだと思われます。
「やれやれ、ボクが説明するよ……」
ふとため息の音が聞こえた私は、目の前で怒れる女性から視線を反らし、音を鳴らした清潔感ある男性を眺めました。
男は呆れた顔をしながら前に進み始めると、茶髪の女性は怒りが収まっていないなか立ち上がり、私に対して背を向けながら離れていきました。
「全く、女心ならまかせておけと言っていたのに……このザマだとはなぁ?」
清潔さ漂う男が茶髪の女性の横を通りすぎる際に告げると、彼女はそっぽを向きながら舌打ちを鳴らしました。
「さすがに、天然には勝てねぇよ……」
ふて腐れた様子の女性から言葉が聞こえた私はふと驚き、彼女がどのような人間性であるのか理解できました。どうやらあの女性の方は、私と同じ意見を持つ方のようだ。ならば早く言ってくだされば良かったのに。
緊張が解れて親近感すら生まれるなか、私はやっと頬を緩ますことができて声を鳴らします。
「ですよね!やはり、鰻は養殖よりも天然に限り……」
「……オメェは黙ってろッ!!」
「は、はい……」
互いの意見が一致したと思ったのも束の間、振り向いた女性からは再び言葉尻を被せる罵声を浴びさせられしまい、私は静かに黙りこみました。まだ激しい怒りから覚めていないようです。
「牧野、紅華ちゃん、だよね?」
すると私の名前を呼んだ清楚な男が近づき、さっきまで目の前にいた女性のように足を折り始めます。
「は、はい……紅い華と書きますが……」
「それは、どうでもいいんだ」
「え……?」
関心がないと言ってる割りに、男からはにこやかで穏やかな笑顔を見せられておりました。ですが、私にはなぜ向けられているのかわからず、自然と小首を傾けてしまいました。
彼の心持ちに察しがつかないままでしたが、男性は頬を緩ませながら声を鳴らします。
「実はね、紅華ちゃんは今、誘拐されているんだよ?」
男性の安らかな言葉で、私更に訳がわからなくなってしまいました。
「え?ここ、そんなに暑くないですよ?」
「それは、融解。てか、君が溶けるようだったら、ボクらも同じ目に会ってるから……」
男性は笑顔を絶やさずに返答しておりましたが、彼の上がった頬が少し動いていたため無理している様子が否めません。
自分が何かマズいことでも口にしてしまったのかと、私の脳裏に過りましたが、スーツの男は一度咳払いをして、左手に着けている腕時計を覗きます。
「もうそろそろ、君の迎えが来ると思うんだが……」
「あ!」
ふと男性の声を耳にした私は、本来何をするはずだったのかを思い出しました。私は彼らに道案内をしている途中だったのです。以前に私の父から恩恵を受けたそうで、その挨拶をしたいとのことでした。
「迎えって、私のお父さんですか?」
彼らは父と連絡を取ることができたと思った私は、反って良かったと感じながら尋ねましたが、清楚な男性は静かに首を左右に振っていました。
「ボクらの知り合いだよ。君のお父さんにも関係ない人だ」
腕時計を眺めながら呟いた男性でしたが、私はますます言葉の理解に苦しみました。なぜ赤の他人が私の迎えをするのでしょうか。話によると、父とも関係がないようですし。
次第に不安が募り始めた私はしかめた顔をしながら、スーツの男性に声を放ちます。
「その方が誰なのかわかりかねますが、早く自宅に向かいましょう。私、門限を決められているので」
夏の季節でありながらも真っ暗なことから、時間は既に七時を超えていると感じた私は焦ってしまい、早く家に戻らなければと悩んでいました。
すると、スーツの男性はふと顔を上げて私の表情に目をやり、吹き出すかのように笑っておりました。そんな変顔をしていたつまりはございませんでしたのに、何だかショックでした。
「君は、本当にわかっていないんだねぇ……この状況が」
笑いながら答えた男性からは、どこか怪しげな笑みを放たれていましたが、私にはその意味がわからず声を出せませんでした。確かにこの状況がどのようなものなのかも、まだ理解できていません。手首を縛られているため身動きすらままなりませんし、わからないことだらけの胸中です。
眉間の皺が取れない私は男性に不審な瞳を向けると、彼からは再度怪しげな微笑みを見せられ、横に伸ばされた口が開きました。
「要するに、君はねぇ……」
男性の、さっきまでの優しいトーンの話し方は続いておりましたが、それはどこか恐怖心を煽るものと感じてしまい、私は黙りながら彼の言葉を待っていました。一体、私には何が待ち受けているとおっしゃるのでしょうか。
固唾を飲んで見守る私の目前でついに、にやついた男から恐ろしい言葉が送られました。
「……もう二度と、家族のもとには帰れないんだよ」
「えっ……?」
一瞬にして目の前が真っ白になった私は口が動かず、コンクリート上に座ったまま固まってしまいました。男の発言が聞き間違いだと信じたかったのですが、脳内再生を何度引き起こしても変わらず、徐々に恐怖の気持ちが生まれてきました。
顔を下げて怯える私ですが、スーツの男性はまた笑いを溢しながら立ち上がりました。
「ボクらの仲間に、悪い連中らと取引してるヤツがいてねぇ。ソイツがもうじき、君を迎えに来るそうだ」
「私は、どこに連れてかれるのですか……?」
再び発生してしまった全身の痙攣に襲われる私は顔を上げられず、弱々しい喉を鳴らしました。自宅でないならば、一体どこへ?
すると、男から鼻で笑われた音が放たれると、私の耳には不愉快な声が入り込みます。
「恐らく、君は野蛮な連中の下で働かされる……ごめんねぇ、こんな真似して。ボクら、君を騙していたけど、金が無いのは事実なんだ。まぁ、申し訳ないけどさ……」
一度言葉を止めた男でしたが、俯き怯える私の旋毛に低く禍々しい声が向けられます。
「……俺らの学費のため、テメェには犠牲になってもらうわ……」
私は俯いたまま、大きく目を開けてしまいました。
「……いや、そんなの……」
まともに呼吸すらできないなか、コンクリートに放った私の声は辺りに響きました。しかしその音は無情にも、深い闇へと消え去ってしまい、私を絶望させるだけでした。
「……いや、だ……」
次第に過呼吸になる私はこの現状を理解すると共に、決して受け入れたくない真実を目の当たりにしました。
――もう、大好きなお父さんとお母さんに、会えなくなる。
それは私にとって唯一無二たる絶望のフレーズ。一度たりとも耳にしたくない強烈な言葉でした。にも関わらず、私の頭には何度も再生されてしまい、もはや瞳の熱すら感じなくなってしまいました。
「……いやだ……」
周囲から遠ざけられて生きてきた私を、今でも大切にしてくれている父母に会えないなんて、もう生きる意味が見出だせません。
「……嫌だ……」
私にいつも寄り添ってくれた二人の笑顔がもう二度と見られないなんて、これからの未来に希望など感じられなく、今まで以上に憂鬱な辛い現実が待っていることでしょう。 それは同時に――私と父母にとっての、永遠の別れを表すことです。
「イヤァァアァァァァ――――――――!!」
我を忘れて、はしたなくも叫んだ私は必死でもがき、この場から逃げ出そうとしました。しかしながら、縛られた縄からはいっこうに解放されず、ひたすら手首に痛みが走るだけです。
「イヤ!!イヤイヤイヤァァ!!」
何度も叫び続けてるうちに、私の身体には汗が浮かび上がっておりましたが、それは熱帯夜のせいでないことは御察しの通りです。赤くなった手首の外側の皮はついに剥けてしまい、白い縄を淡い赤色で染めていました。
「イヤ!!イヤァ!!お父さん!!お母さん!!イヤァァ!!」
出血をしてしまった私でしたが、気づいたときには温度のない瞳から涙が溢れ、温かくも頬を伝っていきました。痛みこそありましたが、ここで脱走しなければいけない気がします。もう二度と父母に会えぬ未来など、私には到底考えられないため、諦めず腫れた手首を動かし続けました。
「イヤ!!イヤァ!!イヤダァァ!!」
「チッ……うっせぇな……」
足をばたつかせる私が叫びを止めないでいると、大学生三人組の一番後ろにいた坊主の男はふと舌打ちを鳴らし、不機嫌そうに目を細めていました。
彼の前に並ぶ男女の二人も厳しい顔を私に向けており、スーツの男からため息を出されました。
「おい、黙らせろ。見つかったりしたら面倒だ」
「はいはい……」
男の隣にいた女性も気だるそうに返事をすると、一本の長い縄と鋭い刃を光らせるカッターを持ち出して近寄ってきます。
「口と足だな。まぁ、うるせぇからまずは口からだ……わりぃな、お嬢ちゃん」
不敵な笑みを浮かべた女性は手に持つ縄の中央をカッターで切り、暴れ続ける私の目の前まで来てしまいました。白い縄を私 の顔の前で横に伸ばし、頭ごと棒にくくりつけようとしているところです。
「やめてください!!お願いいたします!!」
涙を浮かべながら必死の叫びを放った私でしたが、女性はクスリと笑いながら動きを止めませんでした。
「かわいい顔……やればできんじゃんかぁ」
「やめてください!やめてくださ~い!!」
女性が持つ縄が既に私の口に当たってしまい、もはや言葉を放つことすらできません。一体どうしたらよいのでしょうか。とにもかくにも、こや場から離れたい一心で動き回りました。
「あえへふはふぁい!!あえへぇぇ!!」
恐ろしい微笑みを止めない女性が縄で、目を閉じてもがく私の頭を棒に押そうした、そのときでした。
ゴツン!!
「いってぇ!!」
私には突如として、額に激しい痛みと女性の嘆かわしい叫びが襲いました。ゆっくりと瞳を開けてみると、女性は仰向けでコンクリートの地面に倒れており、自身の頭を両手で押さえながら足をばたつかせておりました。彼女に何が襲ったのでしょうか。
「はッ!」
茶髪の女性が痛みに苦しむなか、私の目には救世主とも呼ぶべき道具が、足で届く位置に転がっているのを映し出されました。
――女性が持っていたカッターだ。
目を見開いた私は地面のカッターを眺め続けて考えていました。女性が縄を切ってみせたように、あのカッターならこの手首のロープも切ることができるかもしれません。
「いってぇ!!鼻折れたかも~!!」
「お、おい大丈夫か!?」
倒れている女性のもとには残る二人の男性が取り囲んで見下ろしていましたが、幸いにも私には大きな背を向けられた状態です。
――これなら、脱走ができるかもしれない。
思いだった私はすぐに紺ソックスの足を伸ばし、足裏をカッターへと向かわせました。三人組にバレぬように、そっと……
――届いた。
靴を履いていなかった私は足の指先を曲げることでカッターを握り、今度は掴みながら足を折り畳でいきました。どうやらまだ、私の行動には気づいていないようです。
ベッタリ座ってしまうと足のカッターが手元に届かないと判断した私は腰を少し浮かして、野球でいうキャッチャーの姿勢になりながら棒に持たれかかっていました。これならば、足でカッターを棒のそばまで持ってくることが可能で、手に届けることができるでしょう。
――よしっ。
再び座りこんだ私ですが、計画通り手にカッターを渡らせることができ、さっそく刃を出して固いロープを切ろうと試みます。背後で縛られているためもちろん見ながらはできませでしたが、何とか手首を上下に動かしながら刃とロープを擦り合わせました。
――しかし、なかなか切ることができない。
手首もゆっくりとしか動かすことができない分、ロープが切れそうな様子を全く感じることができませんでした。これは少々の時間が必要とされることでしょう。
「テッメェ~!!」
ロープの切断に集中していた私には突如、女性の恐ろしく低い声が向けられました。驚いて顔を上げてみますと、先程倒れていた茶髪の女性と目が合ってしまいました。
強い眼差しで睨む彼女の鼻からは、なぜか鼻血が垂れているのが見えましたが、少なくとも私に怒りの矛先を向けているのだと理解できました。
「ヘッドロックとは、やってくれんじゃねぇか……」
重低音を鳴らした女性は袖で鼻血を拭き取るとすぐに歩き出し、こっそりとロープを切っている私の前まで来てしまいました。このままではカッターを持っていることがバレてしまいます。
興奮しているせいか、目を会わせている女性は私が現在背後でカッターを握っていることに気づいていない様子で、他の二人の男性たちも同じようで彼女を眺めていました。
しかし、バレてしまうのも時間の問題でしょう。この窮地をいかに乗り越えたら良いのでしょうか。
一度固唾を飲み込んで思考を始めた私は何とか時間稼ぎをしようと企みながら、怒れる女性の瞳を見続けていました。
――相手は私と同じ女性だ。ならば、これで乗り切る他ないでしょう。
考えた結果導きだした結論を頭に浮かべて、私はまず深呼吸をして心を落ち着かせました。周囲から遠ざけられてきた生活でしたが、人々の話している様子や内容は存じております。あれを真似すれば良いだけのことです。
冷静さを取り戻した私はバッと開眼し、未だに怒涛の顔である女性と目を会わせていました。
「にっこり~!」
「はぁ?」
声を出しながら一気に微笑みを浮かべた私には、女性から僅かなリアクションが返ってきました。まだ怒りの炎は残っていそうですが、私は気さくを演じながら喉を鳴らし続けます。
こうして始まった私の時間稼ぎのための計画、それははっきり言って意味など無いことがほとんどであり、ただひたすら時間だけが過ぎていく退屈なものです。
ですが、これは時間稼ぎにはたいへん役立ちそうだと感じた私は、この計画を実行しようと決意しました。
それはイケてる女子たちを観察したときに学んだ話し方――そう、女子トークです。
背後では脱走のためにカッターを動かすなか、私は決して微笑みを絶やさずに女性を眺め続け、必死で女子トークを披露していくことを決めたのです。
皆様、こんにちは。
先日の水曜日にやっと初詣に行ってきた田村です。
気になる運勢は――吉でした。無難そうで何よりです。
さて、まさか過去の話でギャグ回ができてしまうとは、我ながら想像しておりませんでした。久々にコメディ感出せたかなと思っております。
次回も流れ的にはギャグ回決定のようなものですが、ちょっとシビアになりそうです。
牧野紅華の最後まで書けるよう、まとめてみます。
それでは、また次週もよろしくお願いいたします。




