三十七個目*ナイトメアの始まり
夜中となった笹浦一高の屋上に来たやなぎだが、またしてもアカギとは話すことができない。そこでやなぎはまず、いつもと様子がおかしい湯沢にカナと牧野紅華の話を開始するが、依然として湯沢の様子が気がかりだった。
結局一番先に伝えたかったアカギと再会できなかったわけだが、やなぎには実はまた別の再会が待っていた。
それは、悪夢の予兆。
長い夜に訪れるナイトメアの始まりだったのだ。
マラソン大会への参加は断固拒否である。別に好む人間を否定するつもりではないが、少なくとも俺は走りたくなどない。
だって、考えてもみてくれ。
『42.195km』だぞ?
あの広々としたコミケ会場を何周できると思っているのだ?
そこには多大なる疲労が襲うのは当たり前、下手したら自身の足に大きな痛手を負うことだって考慮されるのだ。
ランナーとなる者には、きっとそれなりの理由があって参加しているのだろう。例えば、自分がアスリートの一選手であることがメインとなっているに違いない。はたまた、運動不足を改善しようと考えて走る者もいるし、その会場の景色を楽しむために足を動かす者だっている。時には、余命を宣告された者が最後の思い出作りとして、今自分が確かに生きていることを身体と脳を伝って感じることを目的にしているのだ。
これらの理由は、あくまでほんの一部に過ぎないものであり、他に様々な考えがあることは俺も甘んじて受け入れてる。しかし、参加目的を見出だせない俺にとってはやはり、マラソンをやろうだなんて思ったことはこの約十七間で一度もなかった。
むしろ参加したくない理由の方が鮮明だったのだ。だって、疲れるのは嫌いだから。
俺は決して、自分の言葉でカレンダーを販売できるような詩人ではないが、この一言は確固たる信念に基づいての理由である。
目的意識という非具現的存在は、どうやらその人間の人格まで形成してしまうものなのだろう。
そんなことを今すぐにでも書いて詩人グランプリを狙い、賞よりも金銭目的とする俺、麻生やなぎは現在、自分の通う高校、笹浦第一高等学校へと猛ダッシュで向かっている。暗い夜でも学校の姿ははっきりと見えており、校門までもうすぐのところだった。
この学校に来た理由に関しては、まず一つは屋上にいる地縛霊の湯沢純子に会うためだ。そしてもう一つは、現在湯沢のもとに訪ねてるらしい誘引型の霊のアカギ―本名は牧野朱義―とも話したいことがあるからだ。
願わくは二匹同時に会って一石二鳥を目論んでいる訳だが、俺は今すぐにでも湯沢とアカギに伝えて聞きたいことがあるのだ。
―それはカナ、牧野紅華についてだ。
改めて浮遊霊であることが判明したカナだが、彼女が俺のもとからいなくなってからもうすぐ一週間が経とうとしており、俺は昨日まで毎日の如く湯沢のもとに来て居場所を尋ねていた。しかし彼女自身もカナの居場所については無知であったため、日々蛇足になることが当たり前と化していたのだ。本日はいつもと違って夜中に行くこととなった訳だが、どうかカナの手掛かりを一部でも見つけたい。
そして、そのカナはアカギの妹とそっくりだったことに気づいた俺は、共にアカギへ伝える義務もあるのだ。スマートホンで牧野紅華の検索から読み込んだ写真を見たときは、正直久しぶりに手が止まった。その姿といい、顔といい、纏う制服までもがカナと一致しており、彼女本人であることがすぐにわかるものだったからだ。
そんな妹であるカナを、姉であるアカギは探しているのだろう。だが、先ほどショウゴから聞いた話だと、どうもこの二匹に感動の再会劇はないように思われる。なぜなら、アカギの片目が無い理由がそれを物語っているからだ。
『……紅華ってヤツに抉り取られたんだって。アカギお姉ちゃん、そう言ってた……』
仮にショウゴの言っていたことが本当だとしたら、カナはアカギにどうして片目を奪うような真似をしたのだろうか。そしてアカギは、カナを見つけてどうするつもりでいるのだろうか。
姉妹と聞いて思い出されるのは、俺と同級である篠塚碧と、ナデシコとして浮遊霊となった幼女の篠塚翠の二人だが、少なくともアカギとカナは、あの二人のような温かさとは遠くかけ離れたものだと感じんてしまう。ましてや、復讐という言葉すら連想されてしまい、アカギとカナには不信感が募る一方だった。
―牧野姉妹の間で、一体何が起こったのだろうか?
そうこう考えている内に、俺はついに学校の門までたどり着いた。いつもなら迷いなく校門をよじ登っていくところだが、今夜だけは違和感を覚えて一度立ち止まってしまう。
「あ、開いてる……?」
一人肩で呼吸をしている俺の目の前では、昨日まで閉ざされていた校門の施錠が解かれていたのだ。只今は御盆の期間で学校関係者などいるはずもないため、嫌な予感が脳裏に巡っていた。誰か見回りでもしているのだろうか。見つかったら面倒なことになりそうだ。
しかし、今はそんなことを気にしてなどいられない。一刻も早く湯沢、そしてアカギに伝えたいことがあるのだ。
覚悟を決めた俺は再び足を動かして、開けた校門を潜っていった。
***
校内にはどこにも灯された明かりは見当たらず、本当に見回りをしている者がいるのか疑問だった。ここ最近のように無音で真っ暗な環境が続いており、誰かがいるような雰囲気を全く感じられない。
辺りを見回しながら走る俺は、さっきの校門はきっと誰かの閉め忘れだろうと結論づけて、墓地ほどは見づらくないアスファルトの道を駆けていった。
結局どこにも人の気配を感じなかった俺は学校の屋上に繋がる非常階段前にたどり着き、早速上っていき錆び付いた階段の音を鳴らせる。ここまで力の限り足をフル稼働していたせいか、階段一歩一歩がいつもよりとても重く感じられたが、俺は苦い顔をしながら黙々と進んでいった。
もう限界突破をしたと言っても過言ではない俺が階段を上りきると、学校の屋上の門はいつもと変わらず施錠されているのがわかる。だが、俺の腰付近程度の高さであるため、俺はいつものように股がって簡単に乗り越えた。
やっとの思いで屋上へと足を踏み入れた俺は端の方へと向かっていくと、いつも目にする一匹の小さな女子高校生の後ろ姿が目に写る。女子の中でも短めな髪の毛を垂らし、首もとから一本の鎖で繋がれていることから、俺はその名を叫ぶ。
「ゆざわ~!」
「こ、子童!?」
俺が突如大声を出したせいなのか、勢いよく振り向いた湯沢はどこか驚いた様子を見せており、あまり歓迎ムードとは感じられない表情で目が会った。それにしても、相変わらず腹立たしい呼び方をするヤツだ。幽霊が人をガキ呼ばわりするのはどうかと思うのだが。それに俺の方が学年一つ上で先輩であるのだから、どちらかというともう少し敬った発言をしていただきたいものだ。麻生殿下とか、やなぎ皇子とか……
湯沢のそばまで来た俺はすぐに膝に手を着いて苦しむなか、荒くなった息と共に声を鳴らす。
「ハァ……アカギは、いるか……?」
汗が顔を伝っていくのを感じながら俺が問うと、湯沢は俺をじっと見つめながら怯えているように視えた。
「あ、アカギは、先ほど帰った……」
「なんでやね~ん!」
あまりの喪失感に襲われた俺は両膝を屋上の地面につけてしまい、肩といっしょに頭を下げていた。墓地に行っても会えないし、ここにいると聞いたから急いで来たのにまたいないなんて、あのノントリートメント女は俺のことを意図的に遠ざけているのだろうか。
失望して止まない俺は無駄に削った体力を回復させようと、しばらく黙りこんで呼吸を整えていた。八月の夜でも蒸し暑さが残ることで、普段より自然治癒能力が捗らない。
ふと視えた上履きを履いた足から、どうやら湯沢は俺に視線を送っているようだった。不思議に思いながら顔を上げてみると、彼女は変わらず強張った表情を見せており、冷や汗のようなものが浮かんでいた。
「なぜ、アカギのことを……?」
声を震わせた湯沢から、彼女が何に恐れているのかはわからないが、呼吸がもとに戻りつつある俺は立ち上がって、湯沢を見下ろすように眺めていた。
「湯沢にも聞いてほしいことがあるんだ!」
「か、カナ嬢のことは知らぬぞ……?」
「ああ、そのカナのことなんだ!カナはな、アカギの、牧野朱義の妹だったんだよ!」
「んなっ!?……」
俺がカナとアカギの関係を必死に伝えた刹那、湯沢は普段あまり開けない瞳を見開いており、俺から一歩後退りをしてみせた。
「ゆ、湯沢……?」
「……」
あまりの衝撃をくらった様子の湯沢は全く話さなくなってしまい、口許のみをヒクヒクと動かしていた。確かにこの内容は、当初知った俺も驚いたことを認めるが、何もそこまで凍り付かなくてもよいのではないか。少し気になってはいたが、どうも今日の湯沢の様子がおかしい気がする。
「……なぁ、どうしたんだよ?」
いっこうに声を放たない湯沢に、アルバイトの疲労もあってか、ついに我慢できなくなった俺は問い質してしまった。
すると湯沢の喉元が一度動いたことから、彼女が固唾を飲み込んだことが伺われると、やっと地縛霊は声を解放される。
「……なぜ、今そのことを……?」
やはり違和感のあるしゃべり方をする湯沢に疑問が湧いてしまうが、俺は怪しげに視ながらも答えることにした。
「アカギに言われたんだよ。妹の紅華を探してるってな。それでその妹が、カナと全く同じ姿の人間だったんだよ」
呼吸が完全にもとに戻った俺が淡々と述べると、湯沢は突如俺へと詰め寄って、困り果てた童顔を目の前で披露する。
「あ、アカギに会ったのか!?」
いきなり大声を浴びせられた俺は耳が痛かったが、彼女に怒られるにも理由があった。俺は湯沢から、アカギという霊に会わないようにと、まるで危険視を促すような注意を受けたがそれを守らなかったのだ。
しかし、俺はそのまま湯沢に呆れを示した顔を見せてため息をついた。
「てか、お前が言うほど、わりぃヤツじゃなかったぞ?誰かと勘違いしてんじゃねぇのか?」
「会うなと告げたのに……この阿呆め……」
俺を見上げていた湯沢は最後に下を向いてしまったが、正直なところ俺は彼女がアカギに注意を向けさせた理由がわからなかった。アカギのことは、人間を殺す辺りは確かに危険だと思っていたが、あの少女はあくまで成仏しようと企む神職の人間にしか手を出しておらず、霊が視えるだけの能力しかない俺を襲う訳がないと感じていた。昨晩は浮遊霊を軽んじた発言をして、今にも手を出されそうにはなったが、結果として今はそこまで気にしていない。それどころか、アカギとショウゴの関係を聴いたことで、彼女がどれだけ人間味溢れる霊なのかを知ることができ、寧ろ今は親近感を湧かせるほどとなっていた。
だからこそ、俺は湯沢に物申した通り、彼女は他の誰かと勘違いしているのではないだろうか。そう、信じたかった。
「だから、お主は子童なのじゃ……!?」
顔を再び俺に視せた湯沢は呟くと、突然俺の後ろへて視線を飛ばし瞳孔を開けていた。誰か後ろにいるのだろうか。
そう感じた俺は咄嗟に振り向いて確認してみた。しかしそこには誰もいなく、学校のそばに建つ大きなビルの影によって、月明かりご届かない非常階段前の門がうっすらとしか目に映らなかった。湯沢純子、ついに認知症になったのか?
「……どこ、じゃ……?」
「はぁ?」
無理強いされたような掠れ声を鳴らした湯沢に、俺は振り向かされることとなった。突然何を言い出すのだろうか。もはや幼女ババァも末期のようだ。
「アカギは、今どこに、いるの、じゃ……」
ぶつ切りとなった話し方の湯沢からは変な身震いを視せられており、俺は彼女が怪しくて仕方なかった。霊が何かを恐れている姿には見覚えがあり、あの湯沢純子ですら少しバカらしく視えていた。
お遊びごっこに付き合う器を持っていない俺はため息を漏らし、震え止まぬ湯沢と目を会わせる。
「墓地だよ、自分とこの。お前知らなかっ……」
「……たわけ!!止めろー!!」
「はぁ~?」
呆れながら呟いた俺の言葉尻は、突然叫びだした湯沢によって被されてしまう。もう彼女は手遅れの病を背負ってるとしか思えず、初めてコイツがかわいそうだと思った、そのときだった。
「へぇ~……そうなんですか……?」
それは聞き覚えのある声だった。それもここしばらく聞いていない、世間知らずな女子の高らかな声。いつでも敬語で喋るその話し方ですらアイツに似ていた。
後ろから囁かれた俺は細い目を大きく開けて、すぐにもう一度背後へと振り向く。するとそこには、さっきまでは非常階段の門しか映らなかった俺の目には一人、いや、一匹の制服姿の女子高校生らしき者が新たに映り込み、門の方からこちらに歩いてくる姿が捉えられた。
「カナ……?」
ふと小さな言葉を漏らした俺には、まだ辺りが暗すぎて顔までは見えず、ゆっくり向かってくる女性が誰なのか確定できなかった。だがその華奢な姿、おっとりとした顔つきは徐々に月の光によって明らかとされていき、ついに俺の目の前まで来て立ち止まる。その表情からは相変わらずの優しい微笑みを放たれており、立ち竦む俺はただ黙りながら言葉を待っていた。
「お久しぶりですね、麻生さん」
彼女の声をもう一度耳に入れ、目の前で顔を直に視られたことから、俺はやっと確信したのだ。
―間違いない。彼女は、カナだ……
俺には目の前の世界が眩しくさえ見えた。それは夜なのに真っ白で、闇の一部も観察されないほどの輝きが瞳を煌めかせる。そんな眩い現実には正直戸惑いを感じていたが、それは間違いのない確かな世界が広がっていた。
カナに声を掛けられたのはきっと一週間ぶり程度のことだろう。それは大した程の長さとは言えないもので、一般的な見解からしたらほんの数日と解釈されるに違いない。
しかしその僅かな日数でさえも、俺は久しい時間であったように感じて仕方ない。その理由を列挙すれば、きっと家族のことやアルバイトのこと、恐らくアカギのことも含めたものが主に挙げられるが、一番の要因はカナが俺のそばからいなくなったことだ。
あれだけ独りを好んでいた俺らしからぬ意見ではあるが、フクメが強制成仏によって消えて、その後すぐにカナも姿を視せなくなったことは、反って独りと化した俺の日常生活に大打撃を与えていたような気がする。
感動の再会といきたいとは少し思ったが、それよりも俺はまず、カナが何も言わずに去っていったことを腹立だしく思っていた。
「カナ……お前、どこ行ってたんだよ!?」
つい怒鳴り声を上げてしまったが、カナはニッコリとした表情を変えずに、円らな瞳を閉じて会釈を視せる。
「申し訳ありません。私には、やらねばならぬことがありますので……」
再び顔を俺に向けたカナだが、彼女が一体何を企んでいるのかは全く検討が着かなかった。『やらねばならぬこと』とは、何のことを言っているのだろうか。無事に天国へ逝くため言霊を集めることなのか。それとも、カナ自身もアカギを探してるのだろうか。
考えが繰り返されるだけで結論にたどり着けない俺は思考を止めて、カナの横を通り過ぎて非常階段へと歩き出した。
「お前の話は城でゆっくり聴かせてもらう。とっとと帰るぞ……?」
カナに背を向けながら囁いた俺の脳裏には、また明日のアルバイトのことが想像され、早く城に帰って身体の疲労を癒したい気持ちで満たされていた。はっきり言って、こうやって歩くだけでも辛い。カナからの話は、それからで良いだろう。
「嫌ですよ……」
それは誰もがわかる否定を表す言葉だった。それなのに不思議だと思ってしまった俺は踵を返すと、再びカナの安らかな微笑みを眺めることができた。彼女の後ろの方では、湯沢が変わらず怖じ気づいている様子が視られるなか、カナは横に伸びた口を開ける。
「時間が無いんですよ。私を、私にするための時間が……」
「はぁ?」
俺が視ないうちに、カナがいつの間にか腐女子にでもなってしまったのかと、変な疑いを掛けた俺は眉間に皺を寄せていた。コイツ、変な漫画でも読んだのだろうか。おかしいなぁ、俺の城にBL本は一切取り扱っていないのだが。
まるで厨二病患者となってしまったアホ霊だと感じた俺は冷たい視線を送っていると、カナはニヤリと口許を動かしていた。
「麻生さんのおかげで助かりました。これでようやく、牧野朱義とお会いできます」
「そ、そうか……」
カナの丁寧な言葉を聞いた俺は口ごもりながら返事をし、多少の違和感を覚えていた。コイツは、姉であるアカギのことをフルネームで呼ぶのか。しかも呼び捨てだとは。
モヤモヤとした得たいの知れないものが俺の頭に浮かぶなか、するとカナは本日一番の輝かしい笑みを見せ始めるが、突如鋭い目付きに変えて静かに喉を鳴らす。
「それでは、ごきげんよう……」
「え……?」
ビュフォ~ン……
彼女の突然変異した恐ろしい顔が目に焼き付かれた俺は、目の前にいたはずのカナの姿が吹き荒れた突風と共に視えなくなってしまう。強い風に襲われて利き腕の左腕を目前に被せながら、俺は頭上を見上げて再びカナの姿を捉えることができた。
「お、おいっ!待てよ!?」
俺の慣れない大声も儚く終わり、宙に浮かんでいたカナの姿は瞬間移動のようにして消え、また俺のもとから離れる形となってしまった。
「……なんなんだよ、アイツ……?」
雲一つ見せない夜空へと向かって囁いた俺は、カナの一連の行動を不快に思っていた。 時間が無いとは言ってたが、そんなにアカギと今すぐ会いたいということだろうか。これまたおかしいなぁ、俺の城には百合本を置いてはいないんだがな……俺しか知らない場所にしか……
もしや発見されて見られてしまったのか心配した俺だが、今はそんなことよりも、カナが最後に視せた表情を考えていた。姉妹だけあって、アカギが俺を警戒していたときと同じような顔をしていた。それは一目視れば恐いものだとわかり、誰も寄せ付けない禍々(まがまが)しいオーラさえ放っているようにも感じる。だとすれば、カナは俺を警戒していたというのか。それとも……
「……なぜじゃ……?」
ふと弱々しい声が聞こえた俺は再度思考を止められてしまい、自然と湯沢の方へと顔を向ける。両手の拳を固く握り締めながら下を向いている彼女に近寄ってみると、その刹那、湯沢からはしかめた顔を目の前で視せられてしまう。
「なぜじゃ!?なぜ、お主は言ってしまったのじゃ!?」
「う、うるせぇよ?中耳炎にさせるつもりかよ?」
今度は彼女から罵声という名の突風を浴びさせられた俺は耳を押さえていたが、湯沢はしかめ面のまま自身のスカートの裾をギュッと握っていた。
「不味いことになってしまった……このままでは、アカギとコウカが出会してしまう……」
歯軋りをしながら答えた湯沢からは、正にあの二匹の再会を望んでいない様子が視てとれる。
「な、なんでそんなにビビってんだよ?」
首を傾げた俺は不思議ながら湯沢に呟いた。確かにあの二匹には何だか知らない関係性があるように思えるが、別に湯沢自身がそこまで危惧する必要は無いのではなかろうか。
しかし湯沢の様子は依然として変わらず震えており、視ている俺のことにも恐怖心を煽らせる立ち振舞いだった。
「なぜ、お主はわからんのじゃ……?」
湯沢の恐怖を背負ったままの言葉を受けた俺は、彼女の言葉に気になるものを感じていた。
「なぁ、湯沢?」
「なんじゃ、こんなときに……?」
湯沢とは真反対的に落ち着いたまま尋ねた俺は、思ったことを素直に口にする。
「お前何か、俺の知らねぇこと知ってるよな……?」
俺の小さな囁きは、絶望漂わせる湯沢と目を会わせることができた。きっと湯沢はアカギとカナの関係を知っているからこそ、二匹が出会すことを恐れているに違いない。
「アカギとカナに何があるんだ?言え……」
ここは絶対に退かない。俺はそう思いながら彼女に告げたが、苦い表情をした湯沢はそっぽを向いてしまい、やはり言いづらそうな顔をしていた。
「……」
「言えよ?それまで俺はずっとここにいるからな?」
「……」
「いつまでそうしてるつもりだ?俺は退かないからな?」
「……」
「……さ、触るぞ?……お前のむ、む……」
「……やむを得ぬか……」
俺が生きている内には絶対に言いたくなかった言葉を発しようとしたとたん、湯沢はやっと口を開いてため息を放つ。正直言うとホッとしていた。だって、もう少しで俺は正真正銘の変質者になるところだったのだから。
湯沢がどういう理由で話す気になってくれたのかはさておき、彼女は俺から視線を反らしたまま喉を鳴らす。
「子童、ワシがお主に、言霊による霊への影響について話したときを、覚えておるか……?」
「あ、あぁ……」
何かに恐れを抱きながらも、俺のことを相変わらずガキ呼ばわりする湯沢には腸が煮え繰り返る思いだが、折角話し出した彼女を嫌々ながら尊重して黙ることにした。
「そのときにワシが言っていた、ある人のことじゃ……」
口許を痙攣させる湯沢だが、俺は彼女の言う『ある人』については確かに聞き覚えがあり、以前にカナからも同じようなことを言われて気になっていた。それは、俺が湯沢から言霊を体内に取り入れたときの説明で出てきた謎の人物である。
『これは、ある人から聴いた話じゃ……霊が言霊を体内に取り入れると、まず、我を忘れて殺戮行動に陥るのじゃ』
あのときの湯沢は自分の口からは言えないと告げていたのだが、今回は言うつもりなのだろうか。彼女がなぜ、このタイミングで良いと判断したのかは皆無である。
「ワシが聴いたある人の正体、それはのぉ……」
湯沢の低い声から緊張感を覚える俺はつい固唾を飲み込んで見つめていると、そっぽを向いたままの彼女は俺に目を向ける。そして、その名を口にしてしまったのだ。
「……カナ嬢なんじゃ……」
「え……?」
俺は、一瞬時間が停止したような錯覚に陥っていた。そのせいで俺と湯沢の間には沈黙が生まれ、僅かな夜風が木々を揺らす音さえ聴こえてくる。ついに明かされた『ある人』とは、カナのことだったのか?じゃあカナは俺に、ナデシコが暴走したときに説明した内容は、あくまで実態件をもとにしてのことだったというのか?
思考が次第に嫌な予感を生ませている俺は突っ立っているだけで黙り、湯沢の一言をなかなか飲み込めずにいる。が、彼女は再び言葉を紡ぐ。
「子童共が初めてワシのもとに来たときじゃ……あのときカナ嬢から言われたのじゃ。これは私のみが知る情報です、と。それまでは無論、ワシも知らなかった言霊の真実だったのじゃ……」
俺たちと湯沢が初めて出会ったのは、まだフクメもいた七不思議を調査していたときだ。そのときにカナが湯沢に告げていたなど知らなかった。
夏の夜のはずなのに、徐々に悪寒すら感じてくる俺はふと、カナの行動を振り返っていた。なぜなら湯沢の証言と俺の考えの中で、カナは言霊を食べている容疑を掛けられていたからである。
だとしたら、カナはいつから言霊を食べていたのだろうか。俺といっしょに過ごしてから、アイツが言霊を手に入れたシーンなど視たことはない。ならば、俺が言霊を食べたことによって得た能力で考えてみよう。確か言霊による影響は大きく分けて三つだ。それは、殺戮衝動に駆られること、質量を得ること、そして超能力を得ることだ。
殺戮衝動に関しては、カナがそのような様子でいたところを視たことがなく、それにナデシコが最後に正常状態にも戻ったことを知っているため、これはあまり手がかりにはならなかった。
じゃあ質量はどうだろうか。カナが質量を得ているのならば、俺に触れて触覚を刺激することだってできるはずだ。また超能力に関してもそうだ。だが、カナはそんな能力を発揮したときなどあっただろうか?
―!?
猛スピードで思考を巡らせていた俺は突如固まってしまい、頭の中には俺とカナが初めて出会った城での出来事が浮かんでいた。あのときカナは、俺が横になっている最中に、身体の上で乗っかるようにして正座していた。そのときは確かに、カナの重みを感じた。そしてそこで俺は、カナに金縛りを掛けられていたため、身動きなど取れず口だけしか動かせなかった。
だとすれば、こういうことなのか……
湯沢の怖じ気が移った気分になった俺は、今まで気付かなかった自分に対しての怒り、そして真実を隠していたカナへの疑念を込めて舌打ちを鳴らす。
―カナは俺に会う前から、言霊を食べていたんだ。
だからこそ、あの日はカナの重みを感じた。
だからこそ、あの日俺は金縛りを掛けられた。
カナが言霊を食べた事実は、彼女と初めて出会ったあの日が全てを打ち明けていたのだ。
カナに対する不信感が増大していくなか、湯沢は再び恐る恐る口にする。
「カナ嬢は、きっとアカギだけでなく、その回りの浮遊霊たちのことも抹殺するじゃろう」
「なんで、そんなことを?何のために!?」
「私を私にするため……言葉そのままの意味じゃ……」
今度は俺が焦りを表現するようになっていたが、湯沢は顔をしかめたまま俺に訴える。
「カナ嬢は、アカギの妹であるという過去を消そうとしているのじゃ。それがどんなに残酷なもので、自身の手を汚そうとも、カナ嬢はやり遂げようとしてきたのじゃよ」
カナの過去を知る者を抹殺。その根源は言うまでもなく姉のアカギである。じゃあ、カナはアカギを消そうとしているのか。それにこのままだと、ショウゴたちも危険に晒されることとなってしまう。誕生日サプライズなどやってる場合ではないじゃないか。
気づけばカナが恐怖の対象と化していた俺は息を飲み、長きに渡って続けた考察がとんでもない終着点にたどり着いてしまった。
「嘘、だろ……じゃあ、カナは……」
茫然としながら僅かな声を鳴らした俺だが、それは目の前の湯沢には充分に聞こえているようで、彼女は重々しい空気のなかで静かに頷く。
「……カナ嬢こそが、真の悪霊と言って間違いないじゃろう……」
『……まるで悪霊だな』
これは俺が、湯沢から霊が言霊を食べたときの話を聞いたときに、ふと漏らした言葉である。それが今正に目の前で、そして俺の脳内で何度も再生されていたのだ。
「お前!」
瞬時に声を荒げた俺は湯沢へと詰め寄り、俯く少女に罵声を浴びせていた。
「なんでそんな大切なこと黙ってたんだよ!?」
「口止めされていたのじゃ!!」
だがすぐに湯沢も果敢に言い返し、彼女からとても辛そうな顔を視せられる。
「……もしも漏らすような真似をしたら、小清水神社の者たちを根絶やしにすると……」
俺は言葉が続けられなかった。やはりカナは神職の人間をも襲おうとしていたのだ。やることなすこと、もはや全てが悪霊そのものだったのだ。
「麻生やなぎ!!」
唐突に息を吹き返すように湯沢が俺に、確固たる名前を久しぶりに叫んでいた。
「恥を承知の上で、お主に頼む!!どうか、どうかカナ嬢のことを止めてやってくれぬか!?カナ嬢の心を救えるのは、もうお主しかおらぬのじゃよ!!」
「……な、なんで俺なんだよ……?」
カナの殺戮行動を停めてやりたいのは、もちろん俺も湯沢と同意見だ。しかし、なぜ俺だけなのだろうか。
「そ、それは……」
湯沢はまた口がまともに動かせない様子でいたが、次の瞬間俺たちはまた別の窮地に立たされてしまう。
「そこにいるのは誰だァッ!?」
夏の夜中に轟いたのは男の図太い声だった。その音源は非常階段の方から聞こえたため、俺と湯沢はすぐに振り向くと、嫌な予想が当たってしまったのだ。
「ハゲ教頭……」
独り言を呟いた俺に映ったのは、レジに通せば読み込めそうなバーコード頭の一人がジャージを纏って、屋上入り口の門からこちらに怒り狂った厳しい顔を放っている姿だった。その男は誰にも厳しい姿勢でおり、この学校の生徒なら誰もが知っている存在である。この俺ですら記憶にある人間である彼は、笹浦一高の教頭先生だったのだ。
―見つかってしまった、寄りによってコイツに。しかも、こんな大事なときに……
現在進行形でアカギたちに、カナの魔の手が迫る夏の夜、人間に構っている暇など無いだけに、俺は怒れる校長に対して舌打ちを飛ばすことで、とてつもなく長い夜が始まってしまった。 それはナイトメアと言った方が適切であり、人生において忘れられない夜になろうとしていたのだ。
皆様、こんにちは。クリスマスはもちろん一人でワンコインケーキを食べて過ごした田村です。冬の寒さがいつも以上に身にしみました。
さて、本日もありがとうございました。
湯沢純子がカナを真の悪霊と言うところで、私の頭のなかでは、やなぎなぎ様の『トコハナ』が何度も流れてしまいました。決してパクリとかではございませんのでご了承下さい。
さて、再びの悲報です。
あれだけ最終章と言ってましたが、それがまだまだ話数が増えてしまうことが判明しましたので、真の悪霊編を前後編に分けさせていただきます。
今回が丁度切れの良いところでしたので、ここまでを前編。次回からは後編となります。
どうか、この詐欺師をお許し下さいませ。
では、次回は年が明けたころだと思います。折角の年末年始ですから、皆様体調にはお気をつけ下さい。
良い御年を、です。




