二個目*ポルターガウスト、襲来
ピピピ……ピピピ…… ピピガチャ。
俺は喧しい目覚まし時計を、横になったまま片手でひっぱたいてやった。
そう、また朝が来てしまったのである。憂鬱な始まりを告げる、憎き朝が。
何がグッドモーニングだ?
英語圏のヤツらは“グッド”を過労させている。だって一日中使ってるじゃねぇか。少しは“グッド”の気持ちにもなってやれ。
それにして、この起きるという動作はなんと辛いものか。このままずっと寝ていたい思いとの葛藤が毎朝起こって仕方ない。だがそれ以上に、夢から覚めたときの喪失感に襲われる。
人間はどうして毎日就寝しなければいけないのか?
こんな思いを毎朝するくらいなら、眠らずにずっと起きていたいものだ。
これもきっと、大嫌いな神からの贈り物なのだろう。
神とは決まって、人間に重荷を背負わせる習性がある。性格はきっと悪いに違いない。
まあ普通の人間ならまだいい。だが神は理不尽なことに、特別な力を持つ人間に対しても、更なる重荷を背負わせるのだ。
そんな俺、麻生やなぎは目を開けて、天井を見て思っていた。
「……あの、天井で寝るの、止めてもらっていい?」
眠たげな低い声を放った俺は、重力が逆に働いているように、天井で横になって眠っている彼女に、絶対零度の視線を送っていた。
「あ、おはようございます!! やなぎさん!!」
彼女の名前はカナ。
本人に聞いたところ名前を覚えていないということで、俺が名前をつけてやった幽霊である。ちなみに、カナという名前は金縛りからとったものだ。
「朝から元気だなぁ……てか、お前らって眠るんだな?」
立ち上がった俺は大好きな布団を押入れに片付けながら呟くと、カナは天井から離れ、嬉しそうに傍に寄る。
「もちろんです!! 私たちは実体を持ちませんので、疲れることはありませんが、悪霊だって夢は見たいですからね!」
「ただの怠けじゃねぇか……」
眠る必要がないクセして、夢を見たいがために就寝するとは。
こんなアホな幽霊に取り憑かれたことに、俺は終始頭を抱えたい気持ちでいっぱいの中、嫌いな学校に行く準備を始めた。
「ところで、やなぎさん。今日は何か、ご予定があるのですか?」
朝の最初に行っている歯みがきを始めた刹那、相変わらず宙に浮いたままのカナが話しかけてきた。しかし、幼い頃から霊感を抱く俺には見慣れた光景で、歯みがき粉で噎せることなく振り向いた。
「予定って、学校に決まってるだろ? 俺は高校生だから」
「学校ですか!? それは楽しみですねぇ!」
朝から輝かしい笑顔を視せつかるカナが目に映ったが、まるで遠足前の女子を思わせる彼女の鼻歌に、俺は歯みがきの手が止まってしまう。
「……いやちょっと待て」
「はい?」
「お前まさか、学校に来るつもりなのか?」
開いた口が塞がらなく、白い泡が飛び出してしまった。だって、このアホが俺の連れとして来てしまう気がしたからである。
「はい!! やなぎさんからは離れられませんから!!」
カナはエヘヘと頬を緩ましていたが、俺には何の嬉しさも感じなかった。むしろ唖然とするだけで、床に白い跡が着いていることすら気づけない心持ちだ。
「そんな、それはどうにか! ゴホッ、ゴホッ……」
息を吸って声を荒げようとしたが、俺はついに噎せてしまい、上体を丸めて俯く。
すると心配したのだろうか、悩ましい顔になったカナは俺の背中を擦り始めた。
「やなぎさん大丈夫ですか!? きっと歯みがき粉のせいですね! まったく酷い製品です!」
「全会一致で、お前のせいだ……」
ただでさえ嫌いな朝。それも今日からはカナの存在のせいで、一段と格を上げた気がした。
***
「いやー! いい天気ですねー!!」
春風の舞いと朝陽に染められたアスファルトの道上、俺の隣で浮いているカナが楽しげに身体を揺らしていた。
城から出た俺たちは現在、何とかいつも通りの時間で通学路を歩んでいる。普段はホームルームギリギリの時間で教室に入っているため、一分一秒の遅れも許されないのが俺流ステータスなのだ。遅刻でもしてしまえば、担任のヤツから地獄への招待状を貰い受けてしまうからな。
また今の俺にとっては、こうして隣にいるカナの存在にも悩ましい想いだった。
名前のない彼女に命名してやった昨晩、更にカナから情報を窺ったところ、どうやらコイツの特徴である人憑き型――通称憑依型の悪霊は、その取り憑いた人間から半径五メートル以上離れられないらしい。対象となった人間を中心に結界が生じ、悪霊は驚かして言霊を得るまで、嫌でも付いていくシステムとなっているようだ。
ただ、普通の人間には視えない幽霊が、その対象者にだけ間近で姿を視せられる利点もあるという。しかし幽霊を見慣れている俺にとっては、全く効力を持たないスキルに過ぎないのだが。
「やはり、天気は青空であってこそです!」
そんな驚かす気も視せていないカナは俺の傍で、背伸びをしながら春風に髪を靡かせていた。
「……俺はあまり、快晴は好きじゃないんだがな。やっぱ、曇りが一番好きだ。嫌いな太陽の光な無いし、冷たい雨も降らないからな」
「そうですか? 私は断然晴れが好きですよ。晴れていると、心も晴々しくなれますしね!」
前向きな発言を続けるカナだが、正直俺には鬱陶しいあまりだった。人間にとって眩しい太陽は時に、人を襲いかねない存在であることを知らないのだろうか。水分だけでなく命まで奪おうとし、挙げ句の果てには紫外線という未来への傷まで残してくるのに。
……おや?
太陽の不平不満を考えていた俺はふと、光を全面に浴びているカナに疑問が生まれた。
「なぁ? お前昨日、光は苦手って言ってたけど、太陽は関係ないのか?」
昨晩に出会ったコイツからは、部屋の電気を点けないでくれと言われた。だとしたら、今の状態はコイツにとってあまり良くないのではないか。
すると振り向いたカナは、得意の畏まった“はい”の返事を鳴らす。
「実は、あります。私たち霊は明るい場所ですと、身体が透けてしまうので、普通の人間には視えないんです……というかあれ!? やなぎさん、朝なのに私のこと視えてるんですか!?」
「今更何言ってんだよ……? 俺はある日から霊感が強くなったから、普通に視えてるぞ?」
まさかコイツ、俺が霊感を抱いていることを知らなかったとは。どうやら俺と違って鈍感を備えているようだ。
「そうなんですか~。やなぎさんって、霊感が強かったんですね!」
「いや、昨日の段階で察しが着くだろう……」
――俺、こんなアホと生活していかなきゃいけないの?
まるで幼女の世話係だ。それも煩くて、面倒極まりないパターンのやつ。
先が思いやられて仕方ない俺は、ついに俯いて歩くようになってしまい、肩に掛けてるスクールバッグがずれ落ちそうになっていた。
「それにしても、学校かぁ~。私、前から行ってみたかったんですよね!」
すると話を切り換えたカナは、一寸先だったはずの闇に飲み込まれた俺に笑顔を放っていた。だが俺の表情は常に苦い顔をしたままで、我慢していたため息を溢す。
「……てか、学校のどこか良いんだよ? ただただ面倒な場だと思うぞ?」
闇に包まれた俺の表情。しかしカナは真逆で、更に先を飛び越えた光に包まれたように笑っていた。
「以前学校をテーマにしたドラマを観て、それからずっと憧れてたんですよ」
「なんで悪霊がドラマに感動してるんだよ……?」
そんな暇あったら一人でも多く驚かせと叫んでやりたかったが、まぁ昨晩の驚かし方を視る限り無理に等しい。幽霊になってから一人も驚かしたことない真実は、ひねくれた俺でも素直に納得できるほどだ。
「……それに、俺が通ってるのは進学校だ。ドラマはもちろん、楽しもうとして来てるヤツらはまずいねぇだろう……」
少なくとも俺のクラスは、受験のため必死こいて机にすがる生徒が集まる、特別進学クラス――俺称“一軍”だ。その中で愉快な学園や恋愛など考えるヤツらは、仮にいたとしてもごく僅かなはずだ。
「でも、私が観たドラマの学校も、やなぎさんと同じ進学校でしたよ?」
「は……?」
珍しく興味アンテナが立った俺は、ついカナに表情無き顔を向ける。ドラマなどもちろん日課としていないが、社会に欺く現代批判的物語なら観てみたい気持ちがあったからだ。
「それ、どんな話なんだよ?」
「はい。主人公は一生懸命勉強して、たくさん苦しんで、それでも努力を続けていくのです」
どうやら学歴社会をメインにしているのだろうか?
「へぇ~。それで?」
俺は徐々に興味の強さが増していくと、微笑むカナも瞳を閉じながら続ける。
「はい。独り身だった主人公は、後に多くの仲間を作り、みんなと切磋琢磨していきます。そして……」
すると天を見上げたカナは、憧れるように両手を合わせ丸め、開いた瞳をウルウルと煌めかせていた。
「――最後には、宇宙人から世界を救う話でした」
「SF関係やないか~い……」
俺の興味アンテナが、間違いなく折れた瞬間だった。
***
県立笹浦第一高等学校。俺の県では一番偏差値の高い高校――いわゆる歴とした進学校だ。
「おー!! 着きましたね!!」
「ああ、着いちまった……」
校門の前でキラキラしているカナの瞳と、曇りに曇っている俺の目は、正に陽と陰を描いていた。
「頼むから、目立たないようにしてくれよ……?」
「はい。任せてください!!」
「……」
俺は全く信じられぬまま歩み出し、とりあえず自分の教室に向かうことにした。
俺の教室は特別進学クラスという、優れた頭脳を持ち併せる集団だ。難関私立を始め国立大学を目指して勉学に励む、正に学生にとっては煉獄否めない環境と言える。
しかも特進教室は普通クラスと棟が異なり、正門からかなり離れている。その長距離の中、重い教科書らを運ばなくてはいけないため、いつも脚と肩に悩まされるの現実だ。
「おー!! ここが教室ですね!! すご~い! 生徒がいっぱいです~!!」
精神的にもヘトヘトな俺は教室にたどり着き、カナも同時に入室する。
どうやらカナのことは、誰にも視えてないようだ。
一先ず安心できた俺だが、すると教室にいたヤツらは俺の顔を一度見た瞬間、少しの沈黙を起こす。しかしすぐに元通りに友人同士の会話を再開していた。
「今、やなぎさんみんなに見られてましたよ。もしかして、やなぎさん有名人なんですか?」
「……まぁ、ある意味な」
窓際 最後尾の自席にバッグを置いた俺は、自分のことのように嬉しがるカナに小さく囁いた。もちろん周囲に幽霊との会話を気づかれないためもあったが、実際のところは別の理由だ。
「――おはよう。麻生くん」
すると席に腰掛けた俺の元に、一人の女子が訪れた。艶のある長い黒髪を後頭部で一つに結び、キチンと制服を着こなした優美なクラスメイトだ。
「水嶋……なに……?」
バッグから教科書を取り出す俺は笑顔を作らず、そして目も合わせないまま返していた。
彼女の名前は、水嶋麗那。俺のクラスの委員長を務めながら、一年生ながらにして生徒会長も任されている一人である。校外活動もひた向きに行う人格者で、しかも学業成績ナンバーワンの優秀者だ。ちなみに俺は二位だがな。
それにしても委員長兼生徒会長の水嶋が、どんな用件で俺に声を掛けたのだろうか?
目を合わそうとしない俺は、意図的に教科書をゆっくり机に入れながら考えてると、水嶋は嫌な顔一つ現さず口を開く。
「麻生くん。今日、わたしたち掃除当番なんだけどさ、わたし、生徒会の仕事ができちゃったの……。申し訳ないんだけど、帰りの掃除、お願いしていいかな?」
何かと思えば生徒会絡みか。ダブルワークとはたいへんで、是非とも真似したくないものだ。
「りょーかい……」
予習として教科書を開いた俺はついため息混じりの返答となってしまうが、それでも水嶋からは満面の笑みを浮かべた様子が視界に入ってきた。
「ありがと。いつも迷惑かけてしまって、本当にゴメンね」
「気にすんな……いつものことだろ?」
「ありがと、麻生くん」
すると水嶋は踵を返し、静かに揺れるポニーテールと共に俺から去っていった。まったく、面倒事を増やしてくれる存在だ。
「素敵な方ですね……もしかして! やなぎさんの彼女様ですか!?」
一方でカナは目を覚ましたように驚く顔を近づけたが、微動だにしない俺は教科書の文から目を逸らさなかった。
「俺には彼女いねぇし、友達もいねぇよ……」
それに欲しいとも思わないし、独りの時間が好きだからだ。
「そんなことないんじゃないんですか? だって周りのみんな、やなぎさんの話ばかりしてますよ」
「……ん? なんだ、お前聞こえるのか」
ふと反応した俺は顔を上げ、室内でも浮いているカナへ視線を投じる。
「だったらしっかり聞いておけ。俺がどれだけ有名人かわかるぞ」
思わずにやついたまま教科書に目を戻してまうが、カナも、
「はい!」
と、高らかに返事をして室内を観察し始める。
「じゃあ聞いてみま、す……え?」
するとカナの明るい笑顔は、言葉と共に衰退していった。
どうやらカナも気づいたようだ。俺に対する、周囲の見方を。
――「おい、麻生また来たぞ?」
――「チッ、なんでアイツが同じクラスなんだよ。災難だわー……」
――「マジ気持ち悪い……」
――「近づきたくねぇ……」
「やなぎさんの……悪口?」
ボソッと呟いたカナは俺に振り向き、険しい表情のまま目を合わせようとしてきた。
「やなぎさん……一体何があったんですか……?」
やはりそう聞いてくるよな。
独り教科書を読み進めていながらもカナの質問を予想していた俺は、決してコイツには目を向けず、印刷された文字たちにため息を当てる。
「わりぃ……今は話したくねぇ……」
俺が周囲から嫌われている理由は、言うまでもなく存在している。そしてその根拠だって、当事者の俺は無論わかっている。
ただ、嫌われている内容に関しては、いくら幽霊のカナであっても、あまり口にしたくはない。真実を思い出したって、ひたすらに後悔をして、一方的に頭が痛むだけだから。
憂鬱さが募る俺は、いつしか目線が下がり切り、机の表面を眺めていた。立てている教科書がもはや、自分自身の虚しい表情を隠すための防壁と化している。
「やなぎさん……ん?」
ふと俺から目を逸らしたカナは、何かに気づいたように教室の前入り口を向いていた。
幽霊が何を見ているのだろうか?
そう気になった俺はゆっくりと顔を上げてみると、まずカナの横顔が目に映る。しかしさっきまでの心配した表情はどこかに消え去り、いつの間にか優しく穏やかな微笑みに変わっていた。
「――でも、みんながそうおっしゃってる訳ではないみたいですよ? だってさっきの方……水嶋さんは、やなぎさんのこと褒めてるみたいですもの」
「え……?」
瞬きを繰り返した俺は、シャットアウトしてた教室に改めて耳を澄ましてみた。もちろん大半は俺の悪口ばかりだ。が、その中からは確かに水嶋の声が聞こえる。ふと目を向けてみると、着席しているクラスメイトの一人と嬉しそうに話している正面が飛び込んだ。
「また麻生くんに助けられたんだぁ! ホントに、頼りになる人なんだよ」
「そうなんだ。よかったね、麗那ちゃん。麻生、やなぎくんかぁ……」
「フフ、碧ちゃんも、勇気を出して話しかけてみれば?」
「へ、変なこと言わないでよ~!」
俺に背を向けている小柄な女子は、決して後ろを振り向きはしなかった。首もとをギリギリ隠した短髪が焦りで揺れ、正面の水嶋に困っている様子がわかるが。
「水嶋……嘘くせぇ……」
頬杖をついて視線を窓の外に向けた俺は、目も耳もシャットアウトをしてしまう。
もちろん水嶋に心を許すつもりなどない。褒めてくれたことに感謝の意も生まれなかった。どうせ建前に決まっているからだ。厳しい世の中を生きる人間が自身を善く見せるためには、いかに建前という塗装を上手く繰り返すかがポイントだからな。票を得る経験をしたクラス委員長兼生徒会長の水嶋麗那なら、そう考えて当然だろう。
「でも水嶋さんは、ホントにそう思ってるみたいですよ」
まるで俺の批判的思考を覗き込んだかのように、カナは水嶋を擁護した。
「なんで、そう言えるんだよ?」
窓の外から見える、下駄箱に向かう生徒と桜の花びらたち。しかし共にうっすらと映ったのは、背後から温かく見つめるカナの姿だった。
「私わかるんです! あの人が嘘をついてるかついてないか。これといって理由はありませんが、わかるのは確かなんです」
「そらまた変わった特技だこと……」
窓に反射されたカナに言い返した俺は無意識に、いつの間にか外の景色ではなく、アホ霊の笑顔を目に映していた。
――ガラガラ……。
すると教室とスライド式扉の開けられる音が耳に入る。どうやら担任のヤツが来たようだ。
また今日も退屈な授業が始まるのだと、俺はため息を窓にぶつけてから、気怠くゆっくりと黒板の方へ身体を向ける。
「……? なあカナ?」
「はい! なんでしょう?」
ふと嫌な悪寒を感じた俺は、周囲に聞こえない程度の声でカナを呼ぶ。
「お前まさか、ずっとそうしてるつもりか?」
「はい。もちろんです!」
カナは俺の席の後ろで起立したままだったのだ。
「……すごく気が散るんだが……」
「え!? ここじゃダメですか?」
まるで授業参観ではないか。最後尾の者による公開処刑だということを知らないのだろうか。
「できれば、俺の隣にいてくれ……」
「はい!! わかりました!」
すると変に大声を鳴らしたカナは、俺の指示通り隣に歩み寄ってきた。が、宙に浮いたまま脚を畳み、空中正座という超能力を視せ始める。
「これでいいでしょうか?」
女子高校生の制服を纏うだけに、より子ども染みたカナの笑みが、寄りにもよって目の前で視せられる。もはや隣の席などという距離はなく、満員電車で隣合った状況に近かった。
先が思いやられる……。
こめかみを摘まみながら思った俺だが、無情な時間はついに朝のホームルームを開始させた。
***
ホームルームの後はもちろん授業が始まった訳だが、それはそれは恐ろしい時間だった。決して授業内容が難しかったからではない。むしろ予習をこなしている俺――麻生やなぎにとっては、教員によるほとんどの説明が不要なくらいだった。
では、なぜ恐ろしい時間だったのか?
理由を述べるのであれば、退屈なはずの授業が退屈ではなくなったからであろう。
そう、コイツのせいで……。
一限目、現代国語。
「グズッ……うう……」
「なんで泣いてんだよ?」
「だって……この主人公は、自分の想いが伝わらずに亡くなるなんて……あんまりですよ……」
「感情移入しすぎだろ」
すぐ隣で、悪霊が泣いていた。
二限目、数学。
「おー、なるほどー! そこで代入するんだぁ。関数は奥が深いんですねぇ!」
「数学なんかに感動するヤツ、初めて視たよ……」
「だってすごくないですか!? 絶望的な状況のなか、一つのひねりで解決までの道を開くことができるんですよ!! 数学ではなく、形勢逆転という授業にするべきです!! 略して形逆ですね!!」
「数字関係なくなってるじゃねぇかよ……」
すぐ隣で、悪霊が熱弁していた。
三限目、英語。
「アイドント……ネベル……ギベウプ……ほう! これで、私は諦めないって意味なんですね!! 他にも読んでみましょう!!」
「……」
「アイドント……フォアギブユー」
「スペルあまり変わってないのに、なんでそっちは正確に読めるんだよ……」
すぐ隣で、悪霊が英語を発音していた。
――勘弁してくれよ……。
「や、やなぎさん!? どうされました!?」
緊急を要するかのように叫んだカナの前で、授業中に俺は机でうつ伏せになってしまう。もちろん眠気が襲ってきたからではない。
「……パターン青……」
「へ? 何か言いましたか?」
「うるせぇ、ポルターガウスト……」
そう、隣に襲来した悪霊――いや、アホ霊のカナに、とてつもない嫌気が襲っていたのだ。
***
「あ゛あ~終わったぁ……」
六限目が終わり、ホームルームまで終了した夕方。俺は例のポルターガウストのせいで疲れきっていた。寝そべっている固い机がこんなにも心地よいと感じたのは、学生生活始まって以来かもしれない。
「いや~、やはり楽しい時間はあっという間ですね!」
一方でカナは俺とは逆に、まだ授業をやりたいと思わせる様子だ。
「授業の何がいいんだよ……?」
「そうですか? 私は楽しく受けてますよ。三度の飯より勉学です!」
今世紀中では、コイツとはわかりあえないだろう。いや、わかろうとする気など更々無かった。
教室内も次第に生徒数が減っていき、皆下校や部活に出向き始めていた。いつにも増して早出する様子からは、嫌われ者の俺に掃除を押し付けるような印象を得たが、むしろ誰もいない方が反ってやりやすく助かるものだ。
「さて、掃除するか」
「掃除当番、ガンバってください!!」
カナに声援を受けた俺は僅かに残った力で立ち上がり、教室の後ろにある物入れからホウキとチリトリを取り出す。テキトーに済ませて早く帰りたい気持ちはあったが、微量の埃すら忌み嫌う俺、それにここの担任は地獄の番人のようなヤツでもあるため、サボる理由など皆目見当たらなかった。
ただ早いことに越したことはないと、俺はすぐに室内の床をホウキで掃き始め、消しカスやシャー芯、外の風に乗ってきた砂埃、どこの誰の物なのかわからないシャーペン先端の小さな消しゴムなども含め、ひたすらにチリトリの前で集めていた。
そんな、孤独なはずの空間だったが。
――「麻生くん」
突如呼ばれた俺はつい横目を送ると、教室の入り口で立つ女子生徒――水嶋麗那の姿が目に入った。
「水嶋か……まだ生徒会行ってなかったのか? 早く行けよ」
俺は俺らしく、相手を引き寄せない冷徹さを込めて放ち、ホウキの動きを止めなかった。
「一人でやらせてしまって、ホントにごめんなさい。でも、とても助かるわ……」
謝りながらも恩を示した水嶋。何ともクラス委員長らしい礼儀正しさを抱いている。しかし俺は気にもせず、ゴミ共をチリトリに乗せ、前黒板にあるゴミ箱に葬ろうと進んでいた。
徐々に水嶋との距離が縮まっていくのだが、俺はその状況にとある違和感を覚える。
……水嶋、いつまでそこにいるつまりだ?
俺としては早く去ってほしい想いなのだが、どうも水嶋はなかなか動こうとせず、制服のスカート裾を握りながら立ち竦んでいたのだ。スカートが持ち上がっている分、どれだけ強く握っているのかが伝わってくる。
「……あの……麻生く……」
「……いいから、早く行けよ」
俺は冷たく短く冷淡に言葉尻を被せると、ハッと気づいた様子の水嶋は自身のスカートから手を離していた。
「う、うん……そうだよね。じゃあ、よろしくね」
どこか暗さが窺えたが、最後に水嶋はアイドルに比毛を取らないウィンクを放ち、やっと教室から姿を消した。走る足音が聞こえてくるだけに、結構ギリギリまでここにいたらしい。
「ふぅ……やれやれだぜぇ」
俺はチリトリとホウキをしまいながら、大きなため息を漏らしていた。あのまま突き放さなければ、きっとアイツは遅刻するはめになっていたはずだ。それでは生徒会長として面目は立たないどころか、掃除当番を俺に任せた意味だってなくなってしまうではないか。まったく、面倒だらけな女だ。
「良かったんですか? 何か言おうとしてましたけど……」
ゴミ箱の袋を新しく取り替えている最中、浮遊しながら囁いたカナは水嶋の心情を捉えていたようが、それは理系の俺でもわかっていたが。
「何か言おうとしてたから、俺は突き放したんだ」
「え? なぜですか?」
「見ての通り、俺は周りから避けられてる……そんなの今日一日見ただけでわかるだろ?」
俺は取り出したゴミ袋を結びながら呟くと、カナは辺りを見渡し始めた。もちろん教室には誰もいなし、廊下にすら人影一つない。普段教室で自習するため残るヤツらですら、今日は校内図書館で勉強しているようだ。
「避けられてる、ですね……。でも、水嶋さんは避けていないように見られましたが……」
「そこだよ」
「はい?」
ゴミ袋を結び終わったと同時に、俺はカナに振り向き持論を放つ。
「みんなに避けられてる俺に近づけば、そのうち水嶋も俺と同類と見られる。そうなれば、アイツも俺のように避けられてしまうだろ?」
類は友を呼ぶ。
しかし友でないヤツが近寄れば、ソイツは無理矢理にでも同色に染められてしまうのだ。その大半は悪い意味がほとんどで、何の利益にもならないだろう。人間のネガティブ思考がもたらす、儚い現実だ。
「そんなことになるくらいなら、俺はアイツを突き放して、関係性を絶ちきってやるっていう訳だ。元より俺は、仲間なんて必要ないしな……」
「……」
俺の自己犠牲論に、カナは一度も頷きはしなかった。しかしその分だけ、悪霊の表情が悲哀に満ちていることがよく視える。
「やなぎさん……」
俺に心配りをするなど、反って大きな御世話だ。心無き者として、他者の想いなどどうでもよいからな。
俺は自嘲気味な笑いを溢し、口を結んだゴミ袋に目を逸らそうとした。が、ふとカナの柔らかい笑い声に止められてしまう。
「やなぎさんは、やはり優しい方なんですね」
「はぁ?」
想像もしていなかった言葉に、俺は再びカナに顔向けしてしまう。このアホ霊は、突き放した俺のどこに優しさを感じたというのだろうか。国語ならばコメント入りの不正解になるだろう。
俺は首を傾げて待ち構えていたが、宙から見下ろすカナは頬を緩ませる。
「――要するに、やなぎさんは彼女を守ったわけですよ。ううん、守っているが、適切ですね!」
「……う、うるせぇよ……き、嫌われ者は、俺一人で十分だし……」
片言となった俺は咄嗟にカナへ背を向け、焼却炉へ運ぶためすぐにゴミ袋を握る。もう嫌いな教室には戻らぬよう、共にスクールバッグも肩に掛け、施錠を済ませて廊下を進んでいった。
いつもなら重たいと感じるゴミ袋。しかし今日はあまり質量を感じられず、片手だけで運ぶことができていた。それは中身が少ないからではない。六限まであった本日では、コンビニ弁当の箱やプリントなどで敷き詰められているほど膨らんでいる。
ならば一体どうして軽く感じてるかと思えば、答えは俺の片手が全てだった。
――無意識に、強く握っていたからである。
まるで水嶋がスカートを握っていたかのように、甲で延びる血管を顕にしながら。
人数の少ない廊下を進んでいる俺。ふと、本日の水嶋の姿が脳裏を廻り始めた。
“「ありがと、麻生くん」”
感謝を述べた、水嶋からの御礼。
“「一人でやらせてしまって、ホントにごめんなさい。でも、とても助かるわ……」”
丁寧に謝ってみせた、水嶋の礼儀。
“「う、うん……そうだよね。じゃあ、よろしくね」”
そして、何かを言おうとしていたもどかしい仕草まで。
俺は初めてだった。水嶋のことを、こんなに考えたことは。
決して好きとかいう恋愛心を抱いた訳ではない。しかし何度も頭の中で水嶋麗那の柔らかな表情が写し出されてしまい、呪縛の如く離れずにいた。
だがそれも、訳のわからないことを言ってきた、この悪霊のせいだ。アイツを守ってなんかいねぇし、守ろうとした覚えもねぇのに。
「カナ……」
突然歩みを止めた俺は、カナに背を向けながら俯く。
「……頼むから、もう変なこと言わないでくれ。気が散る……」
「やなぎさん……はい。わかりました」
妙な間を空けたカナだったが、振り向かなくても機嫌の良さがわかる高音だった。無論俺には気にならなかった音色だが、再び焼却炉へと歩み出し、抱いたゴミ袋等を捨てにいった。
最初から、何も無かったようにするために。
***
無事に焼却炉へと運んだ俺は、一度校内図書館で本を借りてから下校を始めた。
本を借りる際にも、やはり隣のポルターガウストは顕在だった。たくさん並ぶ本に対してイチイチ感心を言葉に出し、まるで外国人観光客の如く瞳を輝かせていた。一応コイツは日本人のはずなのだが。
そんな喧しい悪霊と廊下を歩いている俺。もうじき下駄箱に着く頃である。
「いや~! 図書室があんなでかいとは思いませんでした! あれだけ本があれば、書物に苦しむことはありませんし、とても便利ですね!」
今後は自分も本を借りようとしている様子がわかるが、俺は絶対に手を貸すつもりはなかった。
「……てか、お前は本とか読むのか?」
「はい。悪霊になってからは、道に落ちている本を読んでました。大体は新聞紙なので、読もうとしても字が消えてしまってるのがほとんどなんですよね」
「そ、そうか……」
俺は初めて、カナが可哀想に思ってしまった。それなら本の一冊や二冊借りたくなるのも無理はない。俺が好きで借りた物ぐらいは読ませてやろう。できれば仲介手数料等をいただきたいところだが。
カナの悲しい幽霊生活を想像しながら廊下を曲がると、ついに下駄箱が姿を現す。しかし、スンナリと帰ることができなかった。
「あれ? やなぎさん、あそこに水嶋さんがいますよ?」
下駄箱の近くでは、“生徒会長”と記されたバンドを腕に巻く水嶋麗那が立っていた。何やら見回りをしている様子だが、するとヤツも俺たちに気づいたらしく目を合わされる。
「あ、麻生くん。今日はありがとう。おかげで助かったわ」
すぐに目を逸らした俺は下駄箱にはたどり着くが、無視するのも気不味かったため、テキトーな言葉を返す。
「生徒会長さんがこんなところでどうしたんだ?」
「うん、今学校の中を回って、異常がないか見てたところなの」
「そんなの、他の生徒会役員にやらせればいいじゃねぇか? 雑用作業だろ……」
「ううん。上に立つ者こそ、こういう基本的な作業をしっかりやらなきゃいけないとね」
「それは御愁傷様だこと……」
恐らく水嶋は将来、世のため人のために働いて過労死するタイプだ。
俺はそんなことを思いながら靴を取り出し脱いだ上履きをしまい入れた。
「あの……麻生くん……」
「じゃあ俺、帰るわ」
靴を履いた俺は立ち上がり、ソソクサとこの場を離れようと昇降口玄関に向かった。恐らく教室で言おうとしていたことを、改めて言葉にするつもりなのだろう。それはきっと面倒事に違いない。面倒事が起こる前に退くのが、人生安泰のポイントだ。さぁ帰ろ帰ろ。
背後に水嶋を置いていくように歩き去った俺は、小さな玄関を潜ろうとした。
が、そのときだった。
「ダーメーでーす~!!」
「う、なにすんだよ!?」
突然カナは俺の後ろから抱きつき、身動きできないよう襲ってきたのだ。
「水嶋さんの話聞きましょうよ!! 今なら周りに誰もいないんですから!!」
「だからって、なんでお前が止めるんだよ!? お前関係ないだろ!!」
俺は珍しく必死ながらもがき続けたが、カナの頑なに巻いた両腕から解放されない。冗談じゃない、なぜ自ら面倒事に飛び込まなければいけないのだ。
「水嶋さんの気持ちを無視しないであげてください!! 聞いてあげましょうよ!!」
「お前は知らぬが仏って言葉を知らねぇのか!? それでも幽霊かよ!?」
「悪霊です~!!」
暴れ叫ぶ俺と子どものように喚くカナ。
このときばかりは、カナが悪霊であることを素直に飲み込めた。しかし、共に別の悪寒が走り、俺の足掻きは急停止する。
あれ、これマズイんじゃね……?
恐る恐る踵を返した俺は、嫌な予想通り水嶋の正面が目に映る。
「あ、麻生くん? いきなりどうしたの?」
「へ……?」
あ~あ、やっぱマズイじゃ~ん……これ。
きっと変質者に思われているだろう。一人で叫んで動き回っていたように見られたのだから。
「……ゴホン!!」
冷や汗が出現し出した俺は変な誤解を招かれないよう、学年成績ナンバーツーの頭脳を駆使して言い訳を探した。
「……昨日、読んだ小説にこういうシーンがあってだな……その真似をしてみたんだが……悪い、忘れてくれ……」
ただの厨二病アピールになってしまったではないか。
自分がアドリブ苦手であることは認知していたが、俺は反って新しい誤解を生ませていた気がした。これでついに水嶋からも嫌われるのだろう。裏でアイツは厨二病とか広めるのだろうなぁ……。ああ、早く卒業したい。わざわざ夜の校舎で窓ガラス割ったりしないから……。
いつの間にかカナからは解放されていたが、己の失態のせいで貧しい表情になった俺は、肩をガックリ落としていたが。
「フフ、変な人」
「は……?」
すると水嶋からは小さく笑われてしまった。が、その笑いは俺を馬鹿にするものではなく、変な人である俺すらも受け止めてくれる、上の立場としての優しさを秘めた微笑に感じた。
「なんで、そん……」
「……ねぇ、麻生くん?」
今度は微笑みを残した水嶋に言葉尻を被され、ただでさえ運動不足な俺の口が止む。
「……あなたに、一つだけ聞きたいことがあるの……」
「……」
何も話す気などない俺は、もう一度帰ろうと玄関を覗いたが、そこにはカナが大の字になって出口を封鎖していた。
「はぁ……わかったよ。手短にな」
どうやら聞くまで帰してくれないようだと、俺は大きなため息を漏らしてしまったが、水嶋からは輝かしい笑顔を見せられ、ありがとうと一言添えられた。
「麻生くんはさ、その……」
ふと下を向いた水嶋からは、どうも言いづらそうな気持ちが伝わってくる。
手短にとは言ったが、話すスピードも考えてほしい。
俺はそう思いながら冷たい視線を送っていた。すると、水嶋は僅かに口許を動かし、小声を放つ。
「――霊が、視えるの?」
「……」
俺は言葉を失った。もちろん水嶋の言葉に驚いた訳でない。この期に及んで、わかりきった質問を繰り出してきたため、呆れ返っていたのだ。
「……今更そんなこと……みんな知ってるだろ」
「ホントに、視えるの?」
突如顔を上げた水嶋の表情からは微笑みが消えており、いかに真面目に問い質してきているのかがわかる。だが俺はそっぽを向き、これ以上答える気にはなれなかった。
「……答え、づらいよね? 周りの目とかも、あるもんね……」
確かにそれも一理ある。
しかし一番は、なぜ人として優秀な水嶋麗那が、そんな質問を投げてきたのか。
理解に苦しんだ。
「実はね私事なんだけど、お願いがあったの。……聞いてもらっても、いいかな……?」
それでは尚更わからない。誰かに聞けと言われた訳でもなく、水嶋本人からの質問だとは。
「……なんだよ?」
俺は水嶋に目は向けなかったが、つい聞き返してしまった。コイツがどういった想いで霊感について聞いてきたのか、少しばかり気になったからである。
「その、ね……」
再び間を空けた水嶋は、今度はさっきよりも長い沈黙を誕生させてしまい、表情が固くなっていた。
気の短い俺もふてぶてしいながらに、片足でリズムを踏んで待っていると、水嶋から珍しい凛とした素顔を放たれる。
「――死んでしまった兄さんに、会いたいの!」
「…………は?」
これはまた、大きな厄介事に巻き込まれたようだ……。