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二十九個目*カレーライスの温度

大家さんの部屋へと誘われたやなぎにはやはり昨日会った家族の話が起こる。


 カレーライスとは素晴らしいエネルギー源である。

 数多くのスパイスが組み込まれたカレーには更にニンジン、ジャガイモ、タマネギ、そして豚肉と様々な食材が加えられている。その栄養バランスはとても安定しており、とある一流アスリートは毎日食べているほど重要視されている。一日の元気の源になると言っても過言ではない、そんなカレーライスは人間にとっての必需品とも言えるだろう。

 そんなカレーライスを食べている俺、麻生(あそう)やなぎは、現在隣に住むアパートの大家さんの部屋へとおじゃましている。俺の同じ広さであるワンルーム八畳の空間には、バルコニー側の隅には本棚と衣服をしまうカラーボックスがそれぞれ滞在している。一方で壁には、おばさんが描いたらしき様々な絵画が並んでおり、まるで美術館と思わせる錯覚を引き起こしていた。また中央には木材の四角い高テーブルが置かれており、三つの椅子と液晶テレビが取り囲んでいるなか、俺と大家のおばさんは向かい合って椅子に座っていた。

「ふぅ、ゴチになります」

「早いねぇ。もう食べ終わったのかい!」

  前方のおばさんが嬉しそうに見守るなか、俺は卓上にカレーが盛られていた皿を空にして置き、代わりにコップを手に持って、汲まれた水をガブガブと飲み干す。よく考えれば、昨日の朝から僅かな水分くらいしか口にしていなかった。 こんな炎天下の真夏日に、俺は無意識に死のうとしていたのだろうか。夏の暑さとは、人間の生理的欲求心すら混乱させる、たいへん恐ろしいものだ。

 渇ききった喉を潤した俺はコップを皿の隣に置いてもう一度一呼吸漏らす。

「やっぱ、おばさんのカレーは最高だな」

「何言ってるんだい?そんなに年寄を棚に上げても、御年玉なんてあげないよぉ!」

「とか言って、去年もくれたくせに」

 空腹を満たした俺は珍しい明るさを面に出しており、おばさんも嬉しそうに笑顔を見せていた。おばさんには、よくこうやって食事を何度もご馳走になっている。隣の部屋だからって、俺の部屋に突然入って余り物を鍋ごと置いていくことが最近もあった。プライバシー的には迷惑だが、その苦味を上回るおばさんの余り物はとても美味しいものである。

 今回は珍しく大家さんの部屋へと招かれた俺だが、おばさんとの会話で場の和みを感じながら椅子に腰かけていた。

「ていうか、なんでこんなに作ったんだよ?ルーはまだ余ってるし、一人じゃ食べきれねぇだろ」

「なんでだろうねぇ……更年期が来ちゃったのかねぇ」

「そんなの来てたら、こんな旨いカレーは作れねぇよ」

 白髪混じりで皺の多いおばさんはもう六十を過ぎて還暦を迎えているが、歳不相応の明るさをいつも放っている。俺が登校するときも、見かけられたときには毎回、行ってらっしゃいと大声で叫ばれており、朝から怒号のようなものをぶつけられる日々である。

「ったく、こんなに作ったんならアイ……アンタの娘でも呼んで食わせたらいいのに」

 途中で言い直した俺だったが、おばさんは気にしていないように笑って返していた。

「あの娘は今忙しいみたいでねぇ。やなぎくんと食事どう?って聴いたんだけど、今パチンコで確変になったから無理だー!!って怒鳴られちゃってさぁ」

「そ、そう……」

 おばさんと同じく苦笑いをしてしまった俺だったが、正直俺一人であったことに幸福を感じていた。おばさんの娘であるアイツには極力会いたくない存在だ。ていうかアイツ、ギャンブルに走ってたんだな……

 安堵のため息を漏らした俺だったが、ふと前から視線を感じて顔を上げる。すると目の前でおばさんが、机に両肘を置いて、微笑みで皺が増えた顔を両手で支えているのが目に映った。

「……なに?」

「なんだか、懐かしいねぇ」

「へ?」

 にっこりと笑うおばさんは俺を見ているのかわからないほど細めた目を向けていたが、徐々に笑顔が優しい微笑みへと変わり目を会わせる。

「やなぎくんが初めてここに来たときも、こうしてカレーを食べていたなぁと思ってさ」

「初めて来たとき、か……」

 茫然とおばさんを眺めていた俺は一度鼻で笑うと、次第に緩んだ顔を下げてしまい、テーブルに置かれたカレー色の皿に目をやる。おばさんの言う通り、そういえばあのときもカレーだったな……

 身体を微動させて、自嘲気味に笑った俺は気だるそうに口を開ける。


「……そうだっけな。アンタは親戚のおばさんだもんな」


 俯きながらの発言をしてしまった俺だったが、前方からおばさんの笑い声を耳に入れることができた。 実はこの老婆は、俺にとってただの大家さんというだけではない。俺が幼いときの面倒まで見てくれた、親戚のおばさんなのだ。

 全くと言っていいほど親から教育を受けてこなかった俺は、親戚のおばさんに預けられることで育てられた。初めて来たときは寡黙な俺だったが、今じゃこの人にだけは心迷いなく微笑みを見せることができる。

 当時から絵を描くことを好むおばさんはよく、表情の暗い俺にクレヨンと白いプリントを渡して絵を描かせていた。様々なアドバイスを送ってくれたおかげで、俺をお絵描き上手にさせていき、完成したときは先に喜んでくれて、次第に俺もよく笑うように変化させてくれた。現在俺の部屋に飾ってある、死んだ妹の仮想似顔絵だって、あそこまで描けたのはおばさんから伝授された技術があったからである。

 本当の親のように温かく接してれて、本当の親のように話を聞いてくれるおばさんのもとで日々を送り、俺は現在の人生十七年目を迎える。

 俺が中学一年のとき、独り暮らしをするアパートを決めた要因はいくつかあったが、最大の決め手はこの人の存在だった。ある意味預けられていたときと変わらないのかもしれないが、個人的には、これはこれでいいと思っている。おかげで俺は独りでご飯を作ることができるようになったわけだし、ネットゲームに課金するときもじっくり考えるようになった。

 そんな、真の親とも呼びたいおばさんの近くで、自立精神を磨いた俺は大家さんを心から慕っている。本当に頭が上がらない……それに比べて、アイツらは……

「……チッ……」

 舌打ちをしてしまった俺の頭には、この世で最も憎き存在である、二人の顔が浮かんでいた。あのクソ親たちには心から頭にきている。何が、また三人で仲良くだ?はなを意図的に忘れさせようとするテメェらとなんて、こっちから御免だ。

「やなぎくん……」

「ん?」

 我に返ったように顔を上げた俺は、水が入ったコップを一口飲んで机に置いたおばさんと、不審に目を会わせる。大家さんが少し微笑みを消しているのを見て変な緊張感を覚えながら、固唾を飲んでじっと言葉を待っていた。

 すると、怖い顔つきになっていたおばさんはふと笑みを再現し、緩んだ口許が動かされる。


「……お父さんたちと、何かあったの?」


 突如この世界の時間が止まったように感じた俺は、便乗して黙り下を向く。やっぱり、それを聞かれると思った……だって、昨日おばさん、俺が殴られたところも見てるんだもんな……

 微笑みを失っていつもの陰鬱な顔に戻った俺は、下がった目線を横に逸らす。

「……なんで、さっきは知らばっくれたんだよ?」

「出来立てで美味しいカレーが冷めちゃったら良くないでしょぉ?やなぎくんには、すぐに食べて欲しかったんだよぉ」

 いつもみたいに陽気で話すおばさんからは、俺は目を会わせることができず、横に目をやり一つの絵画が目に映る。その絵には仲良さそうに話しながらご飯を食べている家族が描かれていた。笑顔でテーブルにカレーライスを運ぶ母、それをにこやかに手伝う二人の女子、そして待ち構える優しげな父が写っている。が、まるで俺と真反対の情景だった。

「今の時代、レンジにでも入れて温めれば充分旨いっつうの」

「レンジやガスじゃ、真心までは温められないよぉ?」

「……そういうの、嫌いだ……」

「あらあら、理系の子は相変わらず冷たいのねぇ」

 暗い顔の俺には明るい言葉が心に射し込んでくるが、今おばさんに顔を向けるのが、なんだか怖い。太陽のような輝きを感じる大家さんを直視したら、一気に失明してしまいそうだ。

 しかし、これはおばさんがよくやる手法の一つだ。

 しんみりとした場に和みを生ませて俺の口を開けやすくするという、俺が幼い頃から受けてきた伝統的手口である。そのおかげで、あまり人と会話をしない俺は難なく声を出すことができ、その度に大家さんにはいつも聞いてもらっていた。


 そして、今日も同じだ。


「……おばさん……」

「なんだい?」

 一度大きな息を吐いた俺は、包み込むような声で迎えたおばさんに、ゆっくりと目線をカレーが盛られていた皿まで持っていく。

「……俺たち学生や子どもはさ、どんなに憎む親にでも、奴隷のように、すがらなきゃ生きていけねぇのかな?」

 いきなりこんなこと言ったら、おばさん怒るかな?

 下を向いて答えた俺はやっと目線を上げると、おばさんの顔が徐々に現れていく。しかし、俺の言葉を聞いて少しは驚くと思っていたが、大家さんの顔は微笑んでいるのが見えた。

 逆に驚かされた俺の前で、おばさんは笑顔を絶やさずに言葉を返す。

「じゃあ、やなぎくんはどうしたいの?」

 いつものトーンとは違うおばさんの落ち着いた声と妙な質問で、俺は顔をしかめて考え込む。言われてみれば、俺がどうしたいかなんて考えたことがなかった。とりあえずアイツらと距離を置ければ、それ一人でいられて良かったわけだし……

 俺がどうしたい、か……たぶん、これだな。

 しばらく考えて結論を見出だした俺は、優しい微笑みのおばさんと目を会わせて、真剣な顔にある口を開ける。


「アイツらとは、縁を切りたい」


 家族でありながら、あの二人の親を許すわけにはいかない俺は、もはや家族ごっこをやめて、一人の人間として独立しようと考えた。

 そのためには、血縁関係であるヤツらから解放されることが第一だ。世間の人間には、それぞれ戸籍という概念が与えられており、それは家族である証拠となる非物体的判断材料だ。それを今ある麻生家から抜け出し個人としての戸籍を作ってしまえば、俺はまた別の麻生家を生み出すことができるわけだ。

 そうすれば、もうアイツらを家族として判断することもなくなり、罪人の息子であることを辞められ、もう関わることもなくなるだろう。

 そんな理想郷を考案した俺には、おばさんからは表情一つ変えていない笑顔が向けられる。

「縁を、切りたい?」

「ああ。今すぐにでも、だ!」

 声を大にした俺だったが、おばさんは少し呆れ気味な視線を送り始める。

「今すぐにって言ったら、まずは働かなきゃねぇ。生活費を稼ぐのは、そう簡単なことではないと思うよぉ?仕事先を見つけるのだって一苦労なんだからぁ」

「心配御無用!バイト先ならすでに見つけてある。日給六千円の清掃作業だ。毎日行けば難なく生活できるぜ」

「毎日、ねぇ……」

 得意気に言葉を進めた俺のあと、おばさんからはついに微笑みが無くなってしまい、大きなため息が出される。一度俯いた大家さんは再び目を向けるが、その瞳からは娘同様の厳しい目付きを見せつけた。

「今はいいのかもしれない。でも、夏休みが終わったら、どうするつもりだい?」

「……それは……時間をずらすさ。夜にシフトさえすれば……」

「……残念だけど、高校生は夜の十時以降は働いてはいけないルールだよ」

「うぅ……」

 俺の話途中に投げやりを入れたおばさんに、俺の口はついに止まってしまう。

 見下すような目を向けるおばさんは、黙りこんだ俺に追い討ちをかけるように、皺が多い口を動かす。

「日給となれば、一日に何時間も働かなくてはいけないから、まず平日は無理だろうね。たとえ時給に変更されたとして、四時に下校したやなぎくんに与えられる時間は、多くても精々五時間弱。もしかしたらそれ以下かもしれない。それに、雨や雪で天気の悪い日なんかはきっと中止だよ。また、やなぎくんが風邪を引いてしまうときだって有りうる。そんな不安定な外仕事を毎日できるわけがない……」

 説教染みたおばさんの声は低く、俺の気持ちを圧迫させていた。言い返して論破したいところだが、この人の言葉は全てその通りで、異議を申し立てる隙間すらない。

 悔しさが込み上げるなか徐々に肩を落としていく俺に、おばさんは更に目を細める。

「……それに、やなぎくんは笹浦一高生だ。県でも有名な進学校に通う、まだ二年生のやなぎくんには、勉学と労働の両立はとても過酷なものだと思うけどね」

「そんなのわかってる!わかってるけどさ……」

 ついに声を荒げてしまった俺だが、続く言葉が浮かばず目線を落とす。現実世界がいかに理不尽な渦を巻いているかなんて、まだまだガキの俺にだってわかる。生活費を自力で稼ぎながら学生生活を営むなんて、国公立大学の生徒、通信制や定時制の高校生くらいしかいないはずだ。それに比べて俺はただの県立高校生。部活もやったことがない俺は体力に自信も無ければ根性だって皆無だ。成績はそれなりなのかもしれないが、仕事が始まれば落ち込んでいくことは安易に予想がつく。

 それでも、俺は……

 しかめた顔をしている俺は、壁に飾られた家族団らんの絵を眺めながらも、親に対する憎悪を払拭できずにいる。それでも、俺はアイツらに着いて生きていきたくはない。最悪の場合、高校だって辞めたっていい。どんな人生経験になるかはわからないが、もう麻生家として生きるのは嫌だ。

「お父さんたちには、謝らないのかい?」

 おばさんの柔らかな声を受けた俺は、静かに首を縦に振る。俺にだって曲げたくない信念はあるんだ。ここで謝るわけにはいかない。

「それってさ……」

 おばさんはため息混じり言葉を続けていくが、俺は見向きもせずに耳だけを傾けていた。だが次の瞬間、俺は自分の聴覚を疑うことになる。


「……妹さんが、関係しているから?」


「んなっ!?」

 目を大きく見開いた俺は突如立ち上がり、目の前のおばさんを見下ろして驚いてしまった。なぜ大家さんが、はなのことを知っているんだ?妹のことなんて、いくら親戚関係の彼女にも言ったことがないのに……

「なんで知ってんだよ、って顔だねぇ」

 言葉を発することができない俺に、おばさんからはもとの優しい微笑みが向けられており、口を覆いながらフフフと笑っていた。

「やっぱり、あの部屋にある似顔絵は、やなぎくんの妹さんだったんだね。麻生はなちゃん、か。なかなか上手に描けていたじゃないかい」

「……み、見てたのかよ?」

 やっとの思いで喉を鳴らした俺に、おばさんは微笑みの目を閉じて頷く。

「やなぎくんの部屋に入る度にね。玄関からでもよく見えるところにあるからねぇ」

 笑顔で語るおばさんの言葉は決して間違っていなかった。俺が誠意を込めて描いたはなの似顔絵は、玄関と直線上に並ぶバルコニー窓のすぐそばに、小さな机の上に置いてある。玄関を開ければ自然と彼女の笑顔が見えるようにしたのは、帰宅直後に妹の顔を見たいという俺の意図的な配置でもあり、帰った俺の気分を毎日癒してくれていた。

 いくら自分が描いた似顔絵といっても、そこには、はながいるという、自身に無理矢理な錯覚を起こしている俺には、妹の笑った絵は大切な存在である。むしろ今にでも現れてほしいほどの愛おしい存在であり、この世でもっとも会いたい人間だ。


 だが、はなはもう死んでいる……


 幻想的で非科学的なことを嫌う理系の俺にだって、もうはなに会うことができないのは承知している。でも、それでも会いたいという気持ちを消すことができない。霊のフクメやナデシコ、水嶋の兄貴や湯沢純子、そしてカナのように突然姿を現してほしいと、バカな霊たちに遭遇してから、ひょっとしたら俺もはなに会えるのではないかと、いつも思ってしまうようになったからだ。


 どうか、妹のはなに会いたい。


 これは俺が一生背負っていく夢であるが、恐らく世間の誰もが認めてはくれない野望であろう。それに、彼女のことを詳しく覚えていない俺を、はなだって兄貴とは認めてくれない気もする。むしろ妹からしたら、共にいた記憶もほとんどない俺のことなんて、きっと他人と勘違いしてしまうだろう。

 考えることでより陰鬱な顔をする俺は足に力が入らなくなり、椅子に腰を添えることでもとの状態に戻る。俯いて自分の足元を見ながら、この叶いもしない夢を儚い妄想だと感じていた。

「ごめんねぇ、やなぎくん……」

 ふと声を鳴らしたおばさんに顔を上げた俺は、大家さんの、本当の母親であるような優しい微笑みを見せられる。

「……アタシもさ、やなぎくんの妹のことは全く知らないのよね……」

 苦笑をしてしまうおばさんは一度言葉を置くと、俺に見られながら再び優しい顔を取り戻す。


「……でも、親子については、知ってるつもりだよ」


 包み込まれそうになった俺はまた顔を下げてしまい、机上にある汚れた皿が目に映る。しかし、その皿はおばさんの手によってすぐに移動を開始し、代わりに一本の鉛筆と一枚の白い広告紙が出現した。

「なにこれ?」

「やなぎくん、そこに、親子って、書いてみて」

「なんでだよ?」

「いいからいいからぁ。とりあえず書いてみなさいなぁ」

 笑顔のおばさんの意図が全く読めない俺は、利き手である左手で鉛筆を握り、大きな広告紙に『親子』の二文字を書いていく。いつもは細く狭い間隔のルーズリーフで書いている俺にとって、線一本もない大きな広告紙では手が思うように動かない。ただでさえ上手くない俺の字が更にイビツなものになると察し、少しでも誤魔化そうと小さく書き込んだ。

「はい……」

「あらあらぁ、ほとんど余白じゃないかい」

「別にいいだろ?俺は小さい文字で慣れてるんだだからさ」

「フフフ、まぁそうだねぇ。親子、かぁ……」

 俺が差し出した小さな二文字を眺めながらおばさんは呟くと、自身の皺ついた頬を緩ませていた。なぜだか嬉しそうに目をやりながら、大家さんの口はゆっくりと開けられる。

「親子って、不思議だと思わないかい?」

「え?」

 どこが不思議であると感じたのか理解できない俺が眉間に皺を寄せている一方で、おばさんは『親子』の二文字を手で触りながら声を鳴らす。

「だってぇ、子の方が小さいはずなのに、大きな親と同じ大きさになってるからさぁ。なんでだろうねぇ~……」

 俺のことも考えさせるように言ったおばさんは、何度も『親子』の二文字を人差し指で擦っている。なぜ大きさが同じかと言われても、それは漢字であって記号に過ぎないからではないのか。

 一時の沈黙が訪ずれ、俺は思ったことをそのまま言おうするが、指を止めて『親子』を眺めるおばさんは小さな声で囁く。


「アタシはね、これは遠近法を使ってると思うんだ」


「遠近、法?」

 絵好きのおばさんであることを考えると、おばさんらしい言葉が飛び出してきたが、あまりにも予想外の言葉だった。遠近法なんて中学の美術の授業以来にしか耳にしてない俺は尋ねるように顔を向けると、おばさんの温かな微笑みは縦に揺れる。

「正面から見て、一方は近く、もう一方は遠いところにあることで、二つの対象の大きさが実際のものよりも異なった大きさに見える。小さな子が前に立つことによって、大きな親と同じサイズに思わせる立ち位置ね」

「そ、それがどうかしたか?」

 遠近法の意味を理解できたが、それを『親子』で表したおばさんの意図が俺にはわからなかった。再び疑問を投げると、大家さんは和やかな声でフフフと笑い、俺に口を横に伸ばした微笑みと輝くつぶらな瞳を向ける。

「要するに、子は親より前に立って歩き、その正しき姿を、後ろの親に見せてあげるってことよ。だいたいの親っていうのは、良かれと思いながら家庭を築いていくの。汗水流して稼いだお金で、自分たちの信念に基づいてね。でも世間からしたら、それは良いこともあるけれど、時には悪いことだって見られるの……」

 言い聞かせるようにゆっくりと進めるおばさんは、俺から全く目を背けずに話しており、自然と俺の気持ちを惹き付けている。

 何も音を出さず、ただ呼吸だけを繰り返す俺は、スローモーションな老婆の口が動くのを待っていた。

「……じゃあこれを判断し、伝えるのは誰か……それが、一番近くにいる家庭の子。親の家庭に対する取り組みは、間違いなく子へと影響するものよ。恐らく、やなぎくんのようにね……」

 おばさんの言葉が図星だった俺は、優しい言葉であるはずなのに、精神に痛みらしきものが走ったのを感じて背筋を伸ばす。おばさんの言う通り、アイツらが妹の存在を消そうとした取り組みは、今までの俺に影響している。結果この有り様だし、家族の縁を切りたいほどだ。

 怒りが再び込み上げる俺だったが、おばさんの安らかな言葉が再開する。

「……でもね、ここで親を無視してはいけない。親に良いか悪いかを伝えた子は代わりに前を歩いてあげて、良いならそのまま連れていけばいいし、悪いなら親を正しき道へ誘導する。それが子の役目であり、親子にとって一番大切なやり取りよ。きっとそれが、この漢字に秘められたメッセージなんじゃないかなぁ」

 最後に目線を落としたおばさんは、先ほど俺が書いた『親子』の二文字を眺めていた。

 つられるようにして俺もその二文字を覗きこむ。


 親の間違いを正すのは、先に歩む子の存在……


「……でもさ、もしも親がついてこなかったら、意味ないだろ?」

 小さな『親子』が書かれた広告紙を見ながら静かに俺が聞くと、おばさんは二文字を眺めながら穏やかな言葉を紡ぐ。

「そんなことはないよぉ。親っていうのは、木のように大きく、立って、見ている生き物なんだからさぁ。だから昨日だって、二人がここに来たんじゃないのかな?離れた子である、やなぎくんを見るためにさ……」

 おばさんの言葉は全て当たっている。アイツらは確かにここに来て、これからは仲良く暮らそうなどと言っていた。

 しかし、正直半信半疑の想いは消えない。あの二人が家族の一人であるはなを蔑ろにしたことは、最大の問題点であると感じる。そんな親と仲良くなんて、できっこない。

 やはり親子という関係にマイナスイメージしか持てない俺は俯くと、おばさんは顔を上げて話す。

「……それに、親と子の間には家族の縁という

 視えないリードで繋がっている。子が歩けば、親は引っ張られるようにしてついてくるものさ。だからね……」

 おばさんの言葉が途中で止まったことに気づいた俺は、ふと顔を向けて確かめると、そこには大家さんの温かな笑顔が待っていた。


「……仲良くしろとは言わない。だけど、あの二人のことは、無視しないであげてね」


「……おば、さん……」

 頭が機能停止状態となった俺は、ただ驚くだけだった。実際に娘を持つ親サイドのおばさんだったら、家族を嫌うなぐらい言ってくると思ったが、まさかここまで子サイドに立った言葉が送られるとは……

 言葉が出なくなってしまった俺は、ただ目を開けるだけで、椅子の上で固まっていた。

 笑顔を絶やさずに見守るようにしている、温かな視線を送るおばさんは、一度ニコッと笑い、困惑した俺の瞳を覗く。

(やなぎ)(かぜ)()れなし……強い風が吹いても、柔らかくしなやかさを持つ柳の枝は折れたりしない。それに、人を取り巻くような、惹き付ける美しさを持つのもこの木の特徴。そんな、子どもでもわかるように平仮名にした名前の、麻生やなぎくん」

「……」

「君ならきっと、あの二人を良い人間に変えてあげられるだろうねぇ。だから、親子の縁を切るなんて、しないであげてねぇ」

「……おばさん……」

 決して、家族のことを蔑ろにしてはいけない。

 そんなことは誰にでも言える、ごく当たり前な決まり文句だ。しかしおばさんは、親が嫌いで仕方ない俺の気持ちを汲み取った上で、この言葉を送ってくれた。

 俺が、あの二人を変えてやらなきゃいけないのか。それは果たして、高校生である俺にできることなのか。

 疑問は増す一方だが、おばさんからの温かな視線は、まるで俺のことを応援してくれているようで、無言で俺を鼓舞していた。

 謝る気は更々ない。しかし、仕送りを止められた以上は、ここは一旦見た目だけでの謝罪をした方がよいのか。でもそれじゃあ、あの二人は変わらない気がする。また同じことを繰り返しそうで、反ってしない方が良いとも感じた。


 だったら、俺は何をするべきなのか。


「まぁこれは、難関模試の問題より難しいだろうねぇ」

 黙り考えていた俺の脳内を見透かすように、おばさんは苦笑いを見せていた。

「何か、ヒントとかないのか?」

「フフフ……こういうのは、自分自身で考えてこそ意味があるものだよ。まぁ強いて言うならば、自分自身を見失わないことかなぁ」

「自分自身を、見失わない、か……」

「ゆっくり考えなさいな。時間はかかるだろうが、答えは自ずと出てくるものさぁ」

「どうだろうなぁ……」

 微笑みを続けるおばさんの前で、俺もついに頬を緩ましていた。自嘲気味に笑う俺にはやはり答えは見つからず、この問題を先に飛ばすことにした。


 ***


「……おばさん、ありがとう。なんか、気持ちが少し楽になった気がする」

 おばさんの部屋である『202室』の扉前で、俺はドアを支えている大家さんに顔を向けながら話していた。

「それは良かった。またカレー食べにおいでね。今度は娘もいっしょにさ!」

「いや、それはやめてくれ。アイ……あの人とはちょっと……」

「あら、そうかい?まぁ良い。じゃあ、おやすみ。夏風邪には気を付けてねぇ」

「んじゃ」

 扉が閉められると共に、おばさんの姿は俺の前から消える。本当に、頭が上がらないなぁ。この人にだけは……

 まだ結論は出ていないが、俺は今後あの親をどう扱っていくかを、この夏休みをかけて考えることにした。扉から立ち去ろうとしたが、ふと『202室』の表札を眺めて、俺はそこに囁きを飛ばす。


「ありがとな……九条(くじょう)のおばさん……」


 扉の前から立ち去った俺は、自分の部屋である隣の『201室』のドアの前に立つ。

「……少し、散歩でもするか」

 中に入らなかった俺はアパートの階段をゆっくり降りていき、少しでも結論を見いだすために、親たちにどう接したら良いか考えながら夜の道を進んでいく。夏休みはいいとしても、おばさんの言った通り、新学期が始まったら金が間に合わない。生活費はもちろん、下手したらアイツら学費すら払わなくなるのではないか。そんなことされたら、マジで学校行けなくなるなぁ……

 足元を見ながら悩み歩く俺だったが、すると前方には一人の少年の背中が目に映る。

 嬉しそうに肩を揺らす少年の年齢は恐らく十歳ぐらいで、運動することが好きそうなうるさいタイプのやつだ。

 ただ気になったのは、彼の服装だった。少年はこの夏である夜空の下、長袖長ズボンで、しかも上にダウンジャケットを着込んでいる。

 いくら夜といってもまだまだ暑さが残っている熱帯夜は、半袖半ズボンの俺ですら汗をかきそうなくらいだ。

 あの少年は、何かおかしい。

 そばにあった電柱に隠れるようにした俺は、少年の小さな背中を眺めていた。

 彼はやはりどこか嬉しそうで、さっきから独り言をブツブツと言っている。

「ヨッシャー!苦労した甲斐があったぜ!これでまた一つ増えた!」

 どうやら少年は手のひらにある物を持っているようで、それを見ながら騒ぎ立てている。

 彼の身体が邪魔していて俺には手のひらの中身は見えなかったが、すると少年はヨシッ!!と叫び歩出したときだった。


「この言霊、アカギお姉ちゃんに見せよっと!!」


 言霊!?アカギ!! 


 驚いてしまった俺は少年の歩く後ろ姿に目を大きく開ける。言霊ということは、あの子は霊なのか。

 いや、それだけじゃない。彼が言った、アカギという名前を聞いたことがある。

 徐々に遠ざかっていく少年を眺めながら、俺の頭の中にふと、物知りな地縛霊の湯沢の言葉が浮かぶ。


『……今後、アカギと名のる霊と出くわしたならば、悪いことは言わん……あまり関わりを持たぬべきじゃ……』


 あの少年は、あの湯沢が危険視していたアカギのもとに行くつもりなのか?

 少年を止めるべきなのか、でもアカギに対して親しみを抱いてるようにも見えたが……でも、彼が霊だとしたら……

 考えるじかんも束の間、少年が曲がり角を曲がろうとしたところで、俺は電柱から姿を現して歩き出す。


 もしかしたら、カナの情報を手に入れるチャンスかもしれない。


 大きな不安と少しばかりの期待を背負う俺は、今は親子の件を置いといて、少年の小さな後ろ姿を静かに追っていった。

 

皆様こんにちは。

エナジードリンク常飲の田村です。

やっとアカギを出すことができましたね。果たしてアカギはどんな霊なのか?

そしてやなぎは、カナの情報を手に入れることができるのか?

また来週もよろしくお願いします。

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