二十八個目*この一勝は東京ドームより重い
父母ととの喧嘩から一夜が明けて夕暮れ、アルバイトを始めることにしたやなぎはまず小清水神社へと向かう。
小清水ごなかなか認めないなか、やなぎには救いの手が伸ばされる。
アルバイトをしている高校生には、頭が上がらない。
労働を強いられる、教育という枠から離れた社会へと踏み込むことは、とても辛いことだろう。その理由が家庭のためであれ、はたまた自身の小遣い稼ぎのためであれ、自分の一生に一度しか訪れない大切な青春時間を削ってまで、社会に出向くその姿は、とても輝かしく見える。
相手は客だけだと思われがちだが、実際は客よりも厄介なヤツらがすぐそばにいる。偉そうに無理な指示を出してくる歳上のアルバイター、未成年なのに平気で下ネタを振ってくる上司など、同じ店内には数多くの敵がいるはずだ。
そんな過酷な現場で汗を流し努力する者たちには、俺から一人一人に国民栄誉賞を授けたいぐらいだ。
まぁ、頑張れよ。俺は絶対無理だがな……
そんなことを考える俺、麻生やなぎは、今アルバイトに足を踏み入れようとしていた。
「頼む!」
「嫌だ……」
俺の住み込む城から歩いて十分でたどり着くほど近い、この小清水神社では、頭を下げる俺と、袴姿で見下す小清水千萩が向かいあっている。
八月の夕暮れであるこの時間では、特に蜩たちが一日の終わりを告げるように鳴いており、俺たちの声は無情にも無かったもののように思わせるほどだった。
赤い鳥居が頭上に浮かぶなか、俺は頭を下げ続けていると、目の前の小清水から苛立ちの言葉が送られる。
「また突然来て、今度は、ここでバイトさせてくれ、だと?そう簡単に神職を任せられると思ってるのかッ!!」
「そこを何とか……仕送りを止められちまうと、金がなくなって生活できねぇんだよ」
お辞儀をしながら後頭部で両手を合わせる俺は、小清水から厳しい視線を感じていた。
小清水としては、確かに迷惑なのかもしれない。しかし、昨晩からずっと考えていたが、この俺がいきなり社会に出向いてアルバイトをするなど、考えられない。高校生である俺は、バイトの給料である時給が、どれほどがんばっても一般よりも低く扱われてしまい、一時間で八百円を切ってしまうなど割に合わない。まぁ、頑張る気など更々ないのだが……
また、アルバイトをするということは、その店内の俺にとって見たことのないフロンティアに踏み入れるということだ。何をされるかわからない、そんな危険地帯には、俺は絶対に身を投じたくなどない。だって、辛いのは嫌だもん……
それに、俺が通っている笹浦一高は、この茨城県の中でもトップクラスの県立進学校である。校則では、生徒のアルバイトは基本的に認められないとも書いてあることから、生徒が無断で働くことは許されない。仮に俺が働いたとして、お店のレジなどで学校関係者にでも見つかったら、その噂は水面の如く広まっていき、終いには担任の九条満の耳に届いて殺されるに違いない。あの女なら絶対そうするはずだ。
ということで、俺が導きだした結論は、知り合いのもとで、手伝いの体で働くということだ。
これなら、俺に梨農園の手伝いを強制的にさせた九条にだって言い訳は効きそうだし、働く環境としても、幼い頃から馴染みのある場所であり居心地が良い。しかも神社となったら、それほど人間と対面することも無さそうだし、世間の目から少し離れられるはずだ。
そんな完璧なまでの結論を見いだした俺だったが、目の前の小清水はさっきから全く聞き入れてくれず、腕組みをして蔑むように見下ろしている。全く酷いヤツだ。この俺がここまで頭を下げてやっているというのに……
俺の意見を全面否定的な小清水は、ふと大きなため息を漏らし始め、悩ましい顔をして頭を掻いていた。
「だったら素直に、親に謝ればいいじゃないか」
「それは、どうしても嫌なんだ……」
「現実を視ろ。俺たち高校生が、親の力無しで生活できるわけないだろ?」
「わかってる、わかってるけどよ……でも、アイツらのいいなりになるくらいなら、俺は死んだ方がマシだ」
再び小清水から呆れ返った視線を受ける俺だが、前日のこともあって親に謝罪などするつもりは全くない。むしろ、こちらから謝罪を求めたいくらいだ。
昨日の夕方、俺は父母に遭遇してしまったが、やはりヤツらは取り返しのつかない罪を犯した罪人であると知った。俺の妹である、麻生はなの存在を無かったことにしようとするヤツらの企みは、俺が裁判員だったら無期懲役、若しくは死刑を求刑させるものだろう。
いくら会社の名誉のため、自身の成績のために、大切な妹を忘れさせようとすることは、決して許してはいけないことだ。少なくとも、俺にはそう思う。
そんな二人に、俺は頭を下げる真似は絶対にしたくはない。それが例え、俺の人生が脅かされようとも、挫けず反抗し続けてやる。
俺と俺の家族との関係は、小学生のときからいっしょであり、時には共に遊んでいた小清水も知っているはずだ。遊びの帰りはいつも親戚の家へと向かうことを伝えていたため、俺が家族と疎遠になっていることは、コイツにだって自然と見えてくるに違いない。
しかし、俺の気持ちとは裏腹に、小清水からは再び大きな息が放たれる。
顔を上げた俺には、小清水が片手を腰に添えながら目を閉じており、眉間に皺を寄せているのが見えた。すると、彼の目がゆっくりと開けられいき、俺に鋭い目付きで睨み付ける。
「なぁ、やなぎ……」
先ほどよりもずっと低いトーンで話していることから、小清水の怒りゲージが高まっているのを感じる。
「……なぜお前が、そこまで親を嫌うのかはわからんが、正直俺は、今のお前が本当にムカつくよ」
正義感の強い小清水からの視線に苦しさを覚えた俺は、黙ってそっぽを向いてしまう。
「なぜ、お前は、親のありがたみに気づかないのかと思ってな……」
「……」
再び小清水の前で黙りこむ俺は、彼に返す言葉が浮かばなかった。なぜなら、コイツこそが親のありがたみを誰よりも理解していると感じてしまったからだ。
小清水の両親は、ずいぶん前に亡くなっている。
親を亡くした小清水のことは、祖父でありこの神社の経営者であった小清水一苳が面倒を見ていた。一苳のじいさんのことは、俺もよく会ったことがあるため、その人柄の良さはよく覚えている。
しかしこの前、そんな一苳のじいさんまで亡くなってしまった。
学校の七不思議を探っていたときに小清水から話を聴いたところ、コイツの家族は全て悪霊によって命を奪われたらしく、俺のように独りになってしまった。孤独に追いやられた彼とは、そのおかげで再び俺と和解できたかどうかは定かではない。が、あのときの小清水千萩の顔つきは、家族のためへの復讐で染まっており、屋上の地縛霊である湯沢純子を強制成仏しようとしていたときは、とても恐ろしく見えてしまった。
俺と違って、小清水は家族のことを決して嫌いではないのだろうが、そんな彼から言われてしまうと、さすがの俺もぐうの音が出ない。
俺が何も言わず俯いていると、小清水は一度舌打ちをして天を見上げていた。
「小学生のときみたいに、素直に会いたいと思えないのか?親戚のところよりも、自分の家に帰りたいと言ってたじゃないか」
怒りというよりも、俺のためを思って発言している様子の小清水は、お互い上下真逆に顔を向けたまま静かな言葉を紡ぐ。
「いなくなってから気づいても遅いんだぞ……親のありがたみは……」
悲しみが込められた小清水の声は、夕日で橙色に染められた空へと溶け込んでいく。
小清水がそこまで、親のありがたみを強調したがるのは、実際にコイツが両親を亡くして味わったからだろう。そりゃあそうだ。ほとんどの人間は、親孝行という言葉のように、親には感謝の心を忘れていはいけない心構えを得ている。俺のような人間はごく一部に過ぎないから、世間からは親不孝などと蔑まれ見過ごされてしまうんだ。
それでも、俺は……
大切な妹の存在を消そうとした親たちへの憎悪が止まない俺は、小清水の言い聞かせる優しい言葉には頷きもせず、顔すらも会わせずにおり、西陽で延びた自分の黒い影を黙って眺めていた。
「おや?麻生やなぎくん……」
突然男の柔らかい声に名前を呼ばれた俺は顔を上げて、小清水の後方にある社へと続く階段に視線を送る。
気づいた小清水も踵を返して俺と同じ方向に顔を向けると、そこには昨日出会った男、橋和管拓麿が、笑顔を浮かべながらこちらに向かってくるのが目に映った。
昨日と同じように、袴姿で現れた橋和管は、心が引き込まれそうな優しい顔をしており、夕日による反射で眼鏡を輝かせながら俺たちのもとへとたどり着く。
「おぼっちゃま、どうかなさいましたか?」
「いや、それがですね……」
神職の中でも上級クラスの橋和管からおぼっちゃま呼ばわりされている小清水は、困ったような顔をしながら話を始め、案の定俺がここでバイトをする件について伝えていた。
「……なるほど。なら、麻生やなぎくんの意見を尊重してもよろしいのではないでしょうか?」
「いや、しかし……」
「……ありがとうございます!」
笑顔でオッケーサインを見せた橋和管に、俺は小清水の言葉尻を被せるように叫んで一礼した。なんと懐の深い男だろうか。ありがとう、橋和管。将来、俺が職を失った際は、ここでまた働かせていただこう。
未来の安住地を見つけた俺はふとにやけてしまうが、橋和管は反対する小清水を説得するように言葉を続ける。
「まだ先の話ではありますが、これから年末に向けて忙しくなるでしょうし。早めに働き手を見つけることに問題はないかと」
「そ、そうですが……」
橋和管の言葉が終わっても納得しきれていない顔の小清水は、横目で俺を見下しながら腕組みをしていた。
「ちなみに、麻生くん?」
「はい!」
橋和管の安らかな声に対して、俺は顔を上げて近年に希に見せる、ハキハキとした返事をしてみせた。
「いつから、始めるおつもりですか?」
「明日から、いや、今日からでも結構です!」
終始笑顔の橋和管は俺の真摯な受け答えを聞くと、声を出して上品に笑っていた。まるで会社面接のようにも思えてしまう雰囲気だが、これは俺にとっての最大のチャンスに違いない。
この一勝は東京ドームより重い。絶対に物にしてやろう。
凛とした顔を見せる俺の前で、笑っていた橋和管は小さく咳き込むことで整えると、もとの優しい表情に戻る。
「でしたら、今日はもう遅いので、明日の朝九時ごろにでも来ていただけますでしょうか?」
「イエス、ボス!」
橋和管の前で、敬礼のポーズで返した俺だったが、どうも小清水のヤツは納得していない様子だった。得意の冷たい視線を俺に向けるなか、彼は隣の橋和管へと目を会わせる。
「や、やっぱり……コイツに神職関係の仕事は向いていないと思うんですが……」
俺のアルバイト計画を拒もうとする小清水には、俺は声を大にして叫びたいほど苛立ちを覚えていた。なんでお前にそこまで否定されなきゃいけねぇんだよ?お前、俺にそんなことしていいとでも思ってんのか?だったら、バラすぞ、お前の秘密。小学生のとき、捨て犬だと勘違いして神社に持って帰ってきた翌日、それは近所の盲導犬だったがために甚大な迷惑をかけたことを……
この類いの弱みならいくらでも所有している俺は、断固反対の姿勢を崩さない小清水をじっと睨んでいた。
そんな小清水から見上げられている橋和管は、優しい笑顔を変えぬまま一度頷く。
「もちろん、麻生くんには社内の清掃を主にやっていただこうと思います。そこらの業者を雇うよりも、ずっと経済的だと思いますしね」
「そ、そうですか……」
橋和管に論破されたといっても過言ではない小清水は、悩ましい表情を地面に向かわせていた。
ざまぁみろ、小清水。この橋和管という強大な存在は、どうやら俺の味方のようだ。チェックメイトだぜ!
ふと、敬礼しながらにやついてしまう俺には、再び小清水から疑わしい視線を浴びることとなり、彼の口がゆっくりと開けられる。
「……仕事中に、携帯ゲームのスタミナを消費していたら、即刻クビにするからな」
「消費しません、終わるまでは!」
「……まあ、昼の弁当ぐらいは出してやるが、少しでもケチつけたら、その日の給料没収するからな」
「贅沢は、敵です!」
数々の公約を求めてくる小清水だが、俺はその全てをテキトーに演じながら答えいた。
すると、小清水からは呆れたように大きなため息が出されると、横の橋和管へと身体を向ける。
「……わかりました。じゃあ、コイツを明日からバイトさせてあげましょう」
ため息混じりの言葉で放った小清水からは、未だに納得していない様子が伺われるが、一方で橋和管は草履を鳴らして俺に笑顔を向ける。
「良かったね、麻生くん」
「ありがとうございます、ボス!」
何度も敬礼して答える俺だったが、このときは久しぶりの嬉しさから興奮を覚えてしまい、頬の緩みと共に鼻息を荒くしていた。
その後は、橋和管から直々に、明日から行うアルバイトの仕事内容、ここに来る際の持ち物、そして何よりも気になる給料の話をされた。
まず仕事内容については、俺は社内の清掃を任されることとなった。小清水が日々欠かさない、上り階段や鳥居付近の掃き掃除、他に勤務している神職たちの袴を洗濯すること、また小清水神社の中で雑巾がけなどを決められる。清掃に関しては、俺は外ではあまり行った試しはなく、せいぜい学校生活ぐらいしかない。しかし、こう見えて俺は、清掃をやろうと思えば黙々と取り組むことができる人間で、他者と会話することよりもずっと気軽に感じるのだ。幼いころはよく、担任の先生から褒められることもあったため、清掃については悪い印象をあまり持っていない。まあ悪い印象を強いて言うならば、今通っている高校での掃除の時間ぐらいだ。行う内容は、小中学校とほぼ変わらず、主に自分たちの教室内の掃除なのだが、そこでは、俺が所属するクラスの担任、九条満からの禍々しい視線が送られることで、非常に窮屈感を覚え苦しさを感じる。ヤツの監督姿というものは、言葉で表せないほど恐ろしいもので、あれならどんな罪人たちでも指示に従ってしまうに違いない。
また、明日から始めるにあたって、持ってきてほしい持ち物の件だが、この炎天下で行う仕事だけあって、こまめに補給できる水分、気になるようであれば着替えを持ち込むことを告げられた。清掃活動時には、神社から作業服を貸してくれるようで、汗まみれになったときのための着替えという意味だろう。昼食を持ち込まなくても良いのかと思ったが、先ほど小清水からも言われた通り、昼食は神社から出してくれるそうなので、一日の食費削減だけでなく持ち物が軽くなってくれて大助かりだ。
そして、今か今かと待ち望んでいた給料。
「日給、六千円……」
驚きのあまり固まってしまう俺の前で、橋和管は笑顔で頷く。
「夏休み中は、まず朝の九時から正午までの三時間。一時間の昼休憩を挟んで、今度は一時から四時までの三時間。笹浦一高に通っている麻生くんには、それなりに勉強時間も確保しないとね」
要するに、一日の実働時間は六時間。単純計算をすれば、時給千円に等しい。なんといい人なんだ、この橋和管拓麿という男は……労働だけでなく、俺の私生活まで考慮してくれるとは度肝を抜かれた。どうやら俺は、素晴らしき就職先を見つけてしまったようだ。
「よろしくお願いいたします!」
勢いよく頭を下げた俺は、嬉しさのあまり頭をなかなか上げずにいる。
「そんな深々としなくてもよいではありませんか。とりあえず、夏休み期間中はこの時間で、来たいときに来ていただければ結構ですから」
「いえ、毎日行かせてもらいます。家では何もすることがないので」
橋和管の苦笑いが夕空に響くなか、俺は自信を持ってゆっくりと顔を上げる。
ふと視線を感じた小清水へと目を向けると、彼はまだ嫌そうな顔をしており、やはりため息を漏らしていた。
「遅刻厳禁、だからな?」
怒りを表した小清水はそう告げると、踵を返して神社の階段へと向かっていく。
俺と橋和管の二人きりとなった鳥居の下、俺は小清水の挑発的な態度など全く気にせず、彼の姿が消えていくの眺めていた。
これで夏休み中は存分に生活できそうだ。時給千円という、この最高の環境で働けるんだ。何も文句はない。
高い階段を上りきった小清水の姿が見えなくなると、俺もこの場を去ろうと橋和管に顔を向ける。
「じゃあ、明日からよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
最後まで笑顔の橋和管に、俺は安心して背中を向けることができ、歩きだして鳥居から離れていく。
久々に味わった充実感は、俺の顔を自然と上げさせており、前向きな顔つきで鳥居前の公道へと踏み出そうとした。
「麻生くん?」
「はい?」
俺を呼び止めるように名前を呼んだ橋和管に、俺は生き生きとした顔を向ける。
変わらず笑顔を見せている橋和管からは、もう俺は彼に好かれているのではないかと錯覚させるほどであり、俺はいつもの陰鬱な表情を消して目を会わした。
「一つ、君に聴きたいことがあったんだ」
「なんすか?配偶者なら、きっとこれからもいませんよ」
「ハハハ。麻生くん……」
苦笑いではなく、素直な笑いをした橋和管のメガネからは、優しさを秘めた瞳が俺に向けられており、完全に引き込まれていた。心さえ許せるような彼の口は横に伸びており、前向きな俺に言葉を放つ。
「君は、悪霊に価値があると思うかい?」
「えっ?」
思いもしていなかった問いに、俺からはいつもの無表情の顔が戻ってしまった。驚きで言葉が出ない俺は、自然と身体を橋和管へと再び向けており、彼の優雅な袴姿と笑顔が目に焼き付く。
「ねぇ、悪霊をどう思うかな?」
「い、いや、どうって……」
橋和管の口から初めて聴いた悪霊という言葉は、俺を予想以上に混乱させていた。
考え込む俺だったが、ふと頭には、やはり強制成仏で消えてしまったナデシコの顔が浮かぶ。梨農園の神様とまで言われたあの幼女が消えてしまったときは、フクメが巻き込まれた分、俺は正直辛かった。だが、アイツが犯してきた罪はそれなりに重いものだと思う。フクメにも伝えた、罪を憎んで人を憎まずという言葉があるが、大きな罪があの小さな存在を覆い尽くしているようで、今思えば、ナデシコを憎まずにいられるか不安だ。
そんな悪霊に、価値があるのか?
言霊を得るためには、人殺しまで手を染めてしまうのが悪霊だ。一般人からしてみれば、そんな視えない存在がいるとしたら、恐怖でまともに生活などできないだろう。
ここは一般的な見解を述べるべきなのかとも思ったが、今度は俺に初めてとり憑いた霊を思い出す。
カナ……
四月の真っ暗な夜中の部屋で、寝ていた俺はカナに金縛りを懸けられていた。あのとき彼女は自分のことを悪霊だと告げていたが、緊張なのかどうかは知らないが、あの震えて強張った姿からは、カナを悪霊とは結びつけ難い。
湯沢からも聴いたが、霊になってしまった魂が、無事に天国へと逝ける手段はただ一つ。
それは、四十四個の言霊を集めること。
その目標を達成するためには、人間を脅かして、あるいは殺害して言霊を手に入れなければならない。要は、全ての霊は、過程はどうであれ、結果としては悪霊と同じことをしているのだ。
一人の人間には、活力である言霊が十個あるらしく、それが全て吐き出されてしまえば死んでしまう。直接的ではないにしろ、カナやフクメだって、天国に逝くためには、人間を危険に晒さなければいけない。この点を考えてしまうと、アイツらが自分のことを悪霊と言っていたことにも納得ができる。
それを考慮した上で、悪霊に価値があるのか?
長々と考える俺の前で、橋和管は笑顔を絶やさず見守っており、俺の口が開けられるのを待っているようだ。確かに、普通に考えたら、悪霊なんて恐ろしい存在だ。しかし、水嶋の兄貴、湯沢やフクメ、そしてカナのことを考えるならば……
頭の整理ができた俺は、顔を上げて橋和管に目を会わせる。なかなか口を動かすことができないが、一度深呼吸をして喉を鳴らす。
「……根が悪くないなら、俺は認めてやってもいいと思います」
笑顔だった橋和管の顔は、意外だと思わせるように目を見開く。恐らくこれで、もう俺は一般人ではないことは察し付かれただろう。霊を視ることができるとは、この人にはまだ言ってなかったが、もう構わない。
目を会わせるのをやめた俺は、俯きながら僅かに口を動かす。
「実は俺、小さいときから霊を視ることができたんです」
「ほぉ~私と同じだったのですか?」
「えぇ。いつか知られるとは思ってましたが、今日言わせていただきます」
橋和管の驚きは、彼の高い声としゃべり方を聴けば、地面に顔を向けている俺でもわかる。
二人だけの空間だからこそ話せる内容を、俺はあまり気がのらなかったが、言葉を続けた。
「それで、今日までたくさんの霊を視てきました。まぁ、一部は恐ろしいヤツもいましたけど……でも、良いヤツもたくさんいたんです。妹想いの霊や、梨農園を繁栄させていた霊、霊を自分の妹のように可愛がっていた霊、それに霊を悪霊にさせないように相談役をしている霊、そして……いつも、笑顔で隣にいてくれて、大切な妹の存在を認めてくれた霊……」
たくさんの例を出した俺に追い討ちをかけるように、カナが笑っている情景がふと浮かび始める。その笑顔はとても優しく温かなものであり、見ているこっちまでが笑いそうになるくらいだ。
少し頬を緩ました俺は、カナのことを考えながら話し続ける。
「時には、憑かれることもあったんですよ。でも、ソイツは俺に決して悪さをしなかったんです。まぁ、脅かそうとはしてましたけど、それが全然怖くなくて……」
「ですよね。今私が視るところ、麻生くんには何もとり憑いてなどいませんね」
「えぇ。ついこの前までは憑かれていたんですけどね」
「この前、ですか?」
不思議そうに尋ねた橋和管に、俺は視線を落としたまま首を縦に振った。
「お盆が始まる前ですね。自分のことを悪霊っていうバカなヤツなんですけど、決して悪そうなヤツではなかったんです」
少し笑いながら言っていた俺はふと顔を上げると、橋和管も俺に合わせるように微笑んでいるのが見えた。
「それは、大層心良き霊だったのでしょうね」
「まぁ、突然いなくなっちまったんですけどね。どこにいるんだろうなぁ、あのバカは……」
淡いオレンジの夕空へと顔を向けた俺には、空には一つの輝く星が目に入った。小さくもハキハキと輝いており、しかしどこか儚く瞬いているようにも見え、俺に切ない気持ちが生まれていた。
「霊に、恋してるということですか?」
「それはないですよ。もう死んでるんだし、恋愛とか面倒なだけだし。ただ……」
小さな星から目を反らした俺は、ゆっくりと橋和管に顔を向ける。陰鬱な顔をやめて、珍しい微笑みを見せながら目を会わせる。
「……ただ、悪い存在じゃないってことぐらいは、認めてやってもいいと思います」
微笑みを見せていた橋和管は、さらに笑顔を重ねてニッコリとした表情を浮かべていた。
この人が悪霊をどう思っているのかなんて、俺は知ったこっちゃない。小清水のように神職として務めているならば、きっと価値などないと思っているだろう。
世間だってそうだ。魔除けとかなんかで自分の身を守ることをしているんだから、悪霊の存在なんか真っ平御免に違いない。
誰からも好かれない、誰からも受け入れ難い存在。
でも、責めて俺だけは認めてあげてたい。
それは水嶋の兄貴のことも、湯沢純子のことも、フクメのことも、ナデシコのことだって。そして、カナのことも……
だから、いるなら早く帰ってこいよ。お前が無事に天国に逝けるまで、見届けてやるって約束したんだからさ。
「そうですか。お答えいただき、誠にありがとうございます」
俺に一礼した橋和管は、まるで俺の意見を認めたかのように微笑んでいる。
「いや、別に……ところで、なんでこんなこと聴いたんですか?」
「いえいえ、お気になさらず。ただの愚問だと思ってください」
「は、はあ……」
不思議感が残ってしまった俺の前で、橋和管は草履を鳴らして背中を向ける。袴を揺らしながら徐々に離れていき、あっという間に階段を上っていき、小清水のように姿を消していった。
しかし、なぜ俺にそんなことを聴いたのだろうか?
まあいい。折角、俺のことを雇ってくれる恩人だ。あまり気にしない方がいいのかもな。
未来の明るさを少し感じた俺は、公道へと足を踏み入れ、優しい夕日に照らされながら帰宅することにした。
夕日が消えかかり、もう薄暗くなってきた道中、そのなかでも俺には自分の城がはっきりと見えており、目的地へと足を運ぶ。
とりあえず、仕事は決まったことだし、この夏休み中は安心できる。飢えはなんとか凌げそうだし、一命をとりとめた気分だ。
仕送りを止められた俺にとって、とても良い出来事があったこの一日だが、なぜだか素直に喜べなかった。
これだと、カナのことを探せそうにないな……
今日になっても帰ってこないカナを思いだしながら、俺は俯いたまま歩いている。そういえば、今日は湯沢のもとにも行っていなかった。まあ、結果は同じだろうがな。あとはアイツが自分から帰ってくるのを待つしかないか。今後も窓を常時開けておこう。
駐車場の灯りが照らし始めたこの時間、アパート前にたどり着いた俺は、錆び付いた階段をゆっくりと上っていく。すぐ手前にある俺の部屋、『201室』の前に立ち、ズボンのポケットから鍵を取りだし、差し込もうとした、そのときだった。
「おや、麻生くーん!」
もうじき夜を迎える空の下、俺の隣部屋である扉から女の声が放たれる。横に顔を向けてみると、そこには昨日に見かけた、このアパートの大家さんの顔が飛び出していた。
「おばさん……」
「やあ!元気かい?」
サンダルを履いて扉から出てきた大家さんは、笑顔を向けながら俺に近づいてくる。背は俺よりも低く、丸っこい身体をピンクのエプロンで被せている大家さんのことは、俺はおばさんと慕うように呼んでいる。
会うたび、いつも元気しかない白髪のおばさんは、すぐに俺の傍へとたどり着き、見上げるようにして俺の顔を覗き込む。
「あの、昨日はお騒がせしました」
咄嗟に俺の口から出たのは、昨日、駐車場で父母ともめ事になっていた件だ。実際におばさんにも見られていたわけで、家族の内紛をこんなところで起こしてしまい申し訳なかった。
「おや?なんのことかい?」
「え?だから昨日……」
「……そんなことより、麻生くん!」
疑問に思う俺の言葉尻を覆ったおばさんは、ふと俺の左腕を掴みながら微笑んでいた。
「お腹空いてるだろ?実は今日、カレー作りすぎちゃってねぇ。アタシ一人じゃ食べきれそうにないんだよ~。良かったら、部屋に上がって食べてくれないかい?」
「いや、でもそれは悪いですよ。そんなに空いてねぇし。それに、アンタの娘にでも食わせれば……」
グゥ~~~……
焦る俺の口は、俺の体内に潜むお腹の虫が鳴いてしまうことで止められてしまった。よく考えれば、俺は昨日の朝から何も口にしていなかった。今後の生活をどうしようかと考えるばかりで、食欲すら沸かなかったのだ。昨日スーパーで買った野菜と豚肉だって、まだ床に転がっているに違いない。というか、この気温ではもはや捨てた方が身のためだ。
超絶空腹状態の俺は、鳴ってしまったお腹を両手で押さえながら、おばさんの前で顔を赤くしていた。
「ハッハッハ~!アタシの目は誤魔化せないよ~!」
あくまで、笑顔で突き通すおばさんは、無理矢理腕を引っ張ることによって、俺は渋々、大家さんの部屋、『202室』に誘われるのであった。
皆様こんにちは。
高校生でアルバイトをしている方々には頭が上がらない田村です。私も高校時代、私立学校の学費を少しでも払おうとして働いておりましたが、高校生である分、自給は低いし、回りからの目も厳しいものでした。あのときの辛さは、今になってもトラウマでしたねぇ~。だから今働いている皆様には、勝手ながら応援させていただきます。
さて、橋和管の愚問から、やなぎに人間的な温かさが生まれてきましたね。そして、やなぎと大家さんの関係は次回書いていきます。
果たして、年内に終わるのだろうか……
またよろしくお願いします。




