二十七個目*チョコレート効果は、苦い
城を目前とした俺の目の前には、この世で最も嫌う存在である父母、麻生大樹と麻生冨美枝が出現した。
俺がコイツらをなぜ嫌うのか……それは全て妹の死が関係している。
そう、死なせたのは、コイツらである。
どんなに願っても絶ち切れない、目には見えないものとはなにか。
それは、親子の血縁である。
たとえどんな嫌がらせをされたとしても、どんな虐待を受けようとも、残念ながらこの繋がりを絶つことは、俺たち人間には不可能である。儚くも、このような状況に追いやられるのは、家から巣立つのに適していない学生がほとんどであり、自立する経済力を持たない彼らは呪縛から解き放たれない。このような少年少女たちを考慮して、地方では保健所が設けられていたり、里親と名乗って面倒を見てくれる大人などもおり、そこで暮らすという選択肢もある。が、実際のところ、そこへ自ら行こうとする学生は皆無と言っていいだろう。なぜなら、今までの生活で心の拠り所としてきた、唯一外に出向く学校に、遠くて通えなくなってしまうからである。大好きな友だちとおしゃべりをして、心を許せる大人の先生に囲まれた教室は、ある意味楽園のようにも感じることがあり、あまりの快楽に非行を起こすときだってある。そんなパラダイスゾーンに行けなくなると考えてしまうと、常に欲を満たそうと生きる人間は、自然と足がすくんでしまう。結局は、学校と自宅の行き来を止められない悪循環は続いていくのだ。
しかし、恐ろしいのここからである。毎日が楽しくて仕方なかった学校で、いつも元気に走り回っていると、次第に周りからの視線が冷たいものに変わっていく。
あの人は、おかしい。
アイツは、私たちとどこか違う。
個性を重ずるはずの学校内では、異端者を嫌う習慣は今でも続いており、それは次第に独りにさせて虐めへと繋がっていくのだ。今までおしゃべりしていた友だちからは無視されて、話をよく聴いてくれていた先生の態度も徐々に質を失い、気づけばそこは、廃墟ビルのような、冷徹で暗い空間が拡がっていく。
こうして心の拠り所を失った者たちは、やがて夜這いを始める。新たな家を求めたいがために、夜通し徘徊はもちろん、金銭目的も含めて援助交際にすら手を付けようと考える。だが、世の中そんなに簡単なものではない。すぐに警察に通報されるのがオチで、無情にも再び自宅へと強制送還されてしまうのだ。そして家の中でどうなるかは、最早言うまでもないだろう。
こうした悪循環は収まることなく、徐々にエスカレートしていき、終いには逮捕、最悪の場合は自殺の未来へと向かっていくのだ。
とても単純明解なメソッドであるが、これが現実である。全ては親から、家族から始まる少年少女たちには、非常に残酷的なシナリオであろう。そんなヤツラには、俺はこう言いたい。
たった二本の脚で立つ独りこそが、一番強いんだ。常に独りでいる自分に、自信と誇りを持て……
そんな呪いのような鎖に絡まれた俺、麻生やなぎ は、現在独り暮らしで住み込むアパートの駐車場で、望まない再会をした二人の親を睨み付けている。 普段は愛してきた夕日が射し込むこの空間も、今日だけは憎しみだけが勝りながら迎えており、素直に夕方の一時を嬉しく思わずにいた。
「なんのつもりだよ?」
スーパーで買ってきたシャンプーや生鮮食品が入っているレジ袋を力強く握りしめる俺は、相手を決して寄せ付けない鋭い目付きを向けていた。
四十を過ぎて、仕事疲れのせいかより老けて見える二人が目の前にいるなか、まずは父である麻生大樹の口がため息と共に開けられる。
「今日はわたしも、冨美枝も仕事が休みだからな。やなぎが元気でいるか、見に来たんだよ」
「お前らに心配される筋合いはない……」
母である麻生冨美枝にも視線を浴びる俺は、あたかも身分が上のように発言していた。父の麻生大樹は、現在有名国立大学の工学部教授であり、数々の研究が表彰されるほど名高い名誉を持っている。
一方で、母の冨美枝は大手企業の薬剤研究に務めている。こちらも同じく研究に費やす毎日だが、十年前に作り上げた新薬で一躍有名になり、現在は研究所の所長を務めているぐらいだ。
互いに研究職に身を投じた二人ではあるが、皮肉にもコイツらと同じ理系の俺は、悔いても悔やみ切れない気持ちでいっぱいだ。こんな気持ちになるくらいだったら、いっそのこと文系クラスに編入でもしたいが、俺の国語の点数はいつも壊滅的だ。こればかりは致し方ない。
少しでも共通点など持ちたくない二人を目の前にする俺は、黙りこむ夫婦へさらに追い討ちをかける。
「……突然現れやがって……これじゃあマナーの悪い訪問販売と同じだ!」
「だったら、電話に出なさいよ!!」
「おい、冨美枝……」
突如声を突きだした母の右肩を、冷静でいた父が隣から右手で掴んで抑える。情緒不安定を思わせる母親には、俺も呆れており、また始まったと言わんばかりの冷徹な視線を送っていた。
「こっちから近づこうとしているのに、どうしてわかってくれないの!?」
今にも泣き出しそうな顔で叫ぶ母親だが、俺は同情しようとも思わず、深々とため息を漏らす。
「本当にお前らはムカつく。そうやって、どんどん口を開ければ、相手の方が悪いと蔑んで、結局自分は被害者面して、いつまで経っても謝らないんだからな……」
前方で頭に血を上らせる母親を見て、怒りがどれほど醜く滑稽なことかと感じた俺は、次第に落ち着きを取り戻して、冷たく淡々と言葉を放っていた。コイツらの心中をありのままに語る俺には、二人は苦い顔を浮かべるだけで言葉を返さず、完全に俺が論破している状況が続く。
何か言いたげだが言葉が見つからず唇を噛む母親、悔しそうに下を向きながら話を聴く父親が黙るなか、すでにうんざりの俺は再びため息をついて、ここでずっと抱えてきた核兵器を投入した。
「マジでさ、お前らも早く、死んでくんねぇかな?」
流石の俺からの一言に、目の前の二人は大きく目を開けていた。まあ感情的になっても無理ないだろう、息子にこんな言葉をぶつけられたんではな。むしろ、俺としては想定の範囲内である。コイツらがより醜い姿となって怒鳴ってでもくれれば、冷静な俺こそが正しく見えるわけだからな。
親を蔑むことを止めない俺だが、案の定母親の冨美枝はすぐに、俺に鬼の形相を見せつける。
「アンタ!!親に対して、その口の聞き方はなによ!!」
「いいんだ、冨美枝……」
エキサイトする母である一方、なかなか本性を表さない父の大樹は冨美枝を後ろから抑え、しんみりとした顔を俺に向かわせた。
「やなぎ、すまなかった……」
俺にとって父親から初めて受けた謝罪の言葉だったが、素直に飲み込めなかった。歯を噛み締めながら言うコイツからは、どこか我慢しているようにも見えてしまい、恐らく心の中ではそう思っていないだろう。
「……お前が、非現実的な霊が視えると聴いたとき、正直私も信じられなかったし、気味悪くすら思えてしまった。お前が気にしているのは、この事なんだろ?」
理系学者特有の、仮定を持ち出す特徴を見せる父には、俺は目を逸らすことで返答していた。
「実の息子であるお前の気持ちもわからず、本当に申し訳ない。だからまた、三人で仲良くしよう」
ふと二人をもう一度見てみると、父親からは悩ましい表情が浮かぶなか、隣の母親はそっぽを向いてふて腐れた様子が伺えた。自分の意見を曲げない辺りは、確かに立派な研究者である母だが、どうやら性根はまだまだガキのままのようだ。一方で俺を説得しようと試みる父からは、研究だけでなく学生にも教える立場としているためか、ドングリの背比べだが、まだ大樹の方が大人として受け入れられる。
三人で仲良くしよう、か……
それは、俺が中学生として過ごしていたときから、よく言われる言葉だった。なぜだか、中学生の十四歳のときである。
「フッ……」
ふと鼻で笑った俺に、二人の親から視線が向けられる。やっぱり、お前らは何もわかっちゃいない。こういう場面を待っていたよ。
この状況を待ち焦がれていた俺は、変な愉快さすらも感じながら顔を二人に向けて、思わず不敵な笑みを浮かべながら口を開ける。
「俺が気にしてんのは、そこじゃねぇよ。このクソ教授が……」
俺からの一言に、再び二人は絶句して固まっていた。俺が霊を視ることができると発言したのは、俺が小学三年生のときだ。あの日を境に、この二人からの対応はなぜだか冷たいものと変わってしまい、まだまだ子どもだった俺を自宅には入れず、よく親戚に預けて面倒を見てもらっていた。二人が仕事で家にいないという理由なら、まだ飲み込むことができる。しかし、それは二人が休日のときも親戚に送られる毎日であり、まるで俺を家から遠ざけるようにしていた。疑問が募る一方、次第に成長していった俺が中学校に入学したときも、家に入れてもらえない日々は続き、ついには中学一年で、こうして独り暮らし向けのアパートに住み込むことになったのだ。つまり、俺は小学生のときから、自宅という故郷に足を踏み込んでいないのである。
未だに驚いた表情で、二人がとても滑稽で愚かに見えるなか、俺はニヤリと笑いながら言葉を続ける。
「何が、三人で仲良くしようだ?そこに、はなは入ってねぇのかよ?」
俺の妹である麻生はなの名前を持ち出した途端、二人の表情は明らかに変化を見せており、初めて『チョコレート効果』を口にした子どものように映り始める。夏の夕暮れどきには珍しく大汗をかく父は、知られてはいけないと言わんばかりの顔をしており、ぶら下げる左手を拳に変えていた。
「へっ、意外だって顔だな……」
「お前、はなのことを、覚えていたのか?」
拳と共に震える声を出した父に、俺は下に見るように話し続ける。
「当たり前だ。はなのことは今まで表に出さなかったが、俺の中でずっと隠し持ってたよ」
あたかも確信を持ったように言う俺だが、正直、麻生はなという存在がいたことは、俺にも不確かなものだった。残っている記憶は、まだ歩きはじめて間もない赤ん坊が俺に向かってくるシーンだけであり、妹はいたと断言できるほどの証拠ではない。はなという名前だって、時おり夢に出てくる赤ん坊が言っていただけで、ただの予想でしかなかった。
しかし、その予想は、今確かに立証された。
昔から共にいる小清水千萩や、俺が異能者であることを知っている水嶋麗那や篠塚碧にも言ったことがない、麻生はなという妹は、確かに存在して、消されるかの如く亡くなった。
どうやら、俺の予想は当たっていたようだ。
再び鼻で笑う俺は、前で意外そうな顔をして黙りこむ二人に怒りを促す言葉を送る。
「やっぱり、お前らは妹の存在を消そうとしてるよなぁ?」
「「……」」
「なに、もしかして、殺したの?」
「それは、違う……」
下を向きながらも何とか声を出した父だが、俺は怯まず続ける。
「本当かぁ?じゃあなんで、今まで俺に一言も、はなについて教えてくれなかったんだよ?」
「そ、それは……必要ないと感じたからだ……」
「へぇ~」
まるで警察と容疑者の尋問を思わせるやり取りが続くなか、俺は父親の言動からある結論を見いだした。
「やっぱり、そうだよな。てめぇら、はなの存在を消そうとしてるよな?」
俺の述べた見解を無視するように、二人は俺から顔を背け始める。
どうやら、図星のようだ。
これこそがコイツらの弱味だと感じた俺は空かさず、思いつきではあるが、槍のように尖った言葉を投じる。
「それって、つまりは、はなの存在があると、何かマズイってことだよなぁ?」
「「……」」
「じゃなかったら、墓も造らず火葬して、葬式を開かないなんて、ふざけた真似しねぇよなぁ?」
「「……」」
依然として黙りこむ二人だが、俺にとっては反って場が暖まったように感じると、怒りのボルテージを有頂天に昇らせる。
「じゃなかったら、お盆の今日とかぐらい、思い出して、線香の一本や二本ぐらい焚くよなぁ!?」
「仕方ないじゃないっ!!」
蜩が鳴き続けていたこの空間で、ふと母の冨美枝による叫びが起こる。怒りからなのか、それとも悲しみからなのかはわからないが、目を潤ませる母から視線を送られる俺は、片足に重心を乗せて言葉を渋々待っていた。さぁ、どんな反論が返ってくるかな。今俺が言ったのは全部インチキな言葉だったが、これで真実を吐いてくれればこっちのもんだ。
俺に対して声をぶつけてきたくせに、母はすぐに目線を落としており、苦し紛れに声を鳴らす。
「全部、あの娘が悪いのよ……勝手に飲み込んだりするから……」
「ふ、冨美枝!」
混乱しかけているように見える母を、隣で父は黙らせるように横槍を投げ入れる。しかし、有力な新情報を得たと感じた俺は思わず笑みを溢してしまい、更にこいつの口から極秘情報を漏らそうと追い討ちをかける。
「へぇ。飲み込んだ……飲み込ませたんじゃなくて?」
「あ、当たり前でしょ!?あんな薬を飲ませるわけないじゃない!!」
再び顔を上げた母は感情的な状態が続いており、より口が軽くなっているのを感じた。どうやら、はなは薬品関係の物を飲み込んで亡くなったらしい。恐らく、コイツの仕事先から家に持って帰ってきた薬品なんだろう。そんな訳のわからない薬を、赤ん坊の手に届くところに置いておくなんて、やはりこの母親は愚かである。
妹のはなの死因は薬物によるものだと推測した俺は、我を失いかけている母に更に攻め立てる。
「なんで?飲ませたから、わざと存在を消して、自分が殺人犯にならないように仕向けたんじゃねぇの?そりゃあ葬式だって開かないし、墓も造らないわけだよなぁ」
「わ、私は殺人なんてしてない!!あの子がバッグをあさって、飲み込んだ事故よ!!私は悪くない!!」
「冨美枝、落ち着け!」
父の抑える言葉も耳に届いていない様子の母からは、禍々しき眼光を浴びる俺だが、決して怯まず、むしろ楽しさすら覚えてしまい、俺流の誘導尋問を続ける。
「どうせ、はなや俺を使って、人体実験でもしようとしてたんだろ?それで殺害しようとするなんて、なんと末恐ろしいマッドサイエンティストなんだ」
「だから違う!!あの新薬はまだ未完成で、私が実験室から無断で持ち出し……は……」
突如言葉を切らして目を大きく開けた母親からのリアクションで、俺はコイツの真相心理が露になったと認識した。
「なるほど……」
ニヤリと頬を緩めた俺は、暴走状態だった富美枝からの言葉で結論を見出だすことができた。それは、まだ幼いはなが、冨美枝が実験室から無断で持ってきた、未完成の新薬を飲み込んでしまい亡くなった。しかし、これで普通に葬式など開いてしまえば、周りからはどうしてはなが亡くなったのか、と疑問を沸かせて注目を浴びてしまうだろう。
じゃあ、どうしてそれを拒んだのか……それは、冨美枝が大手企業の研究員であり、有能な成績を叩き出していたことが証拠である。亡くなった原因を探ろうとすると、まずは遺体解剖から始まるのが世の常だ。亡くなったはなの遺体を解剖してしまえば、恐らくその薬品はすぐに検出されるに違いない。それが明るみになれば、持ち出した母は薬品の盗難者扱いされるのは言うまでもないが、その会社にすら、あの会社は人殺しの薬を作っているブラック企業だなどと、世間から見られて泥を塗るはめになるのだ。ましてや、母が日々の努力を重ねてきた研究だって、蔑ろにされて白紙にされるのがオチで、今こうして研究所の所長など務めていないだろう。だからこそ、はながそれ相当な病死と診断された刹那、こいつらはすぐに火葬することを決め、遺体解剖をさせないように仕向けた。本人の身体さえ無くなってしまえば、残る証拠はコイツらの記憶にしか存在しない。そんなの黙っていれば、いづれ時効という逃げ道があり、きっとそれを目指して口を閉じていたのだろう。
時効は、その事件の内容によって変化するものであるが、恐らくこの母親は過失致死罪に値するもので、十年の時効が設けられるはずだ。
俺が霊を視ることができると聴いて気味悪がっていたのは、もしもこの十年の間に、死んだ妹と会話でもしていたらどうしようと考えたからに違いない。だからこそ、俺に対して全く会話をしなく、家にすら上がらせないようにしたわけだし、こうやって独り暮らしをさせたのだろう。
中学一年の俺が独り暮らしを初めてから僅かな一年経って、十四歳になったころだろうか、そのときから突然、今日のように電話が来て、今のように、また共に暮らそうなどと言われるようになった。だがそれが始まったのは、俺が三か四歳のときに、はなが亡くなったときから約十年後だ。ほら、時効の年数と一致しているじゃないか。
こうして、コイツら二人は手を組んで秘密がバレないように過ごし、周りにも、そして俺にも妹の存在を消すように、墓は造らず、仏壇すら設けず、少しでも写っている写真をも捨てるなどして、何とか妹の死因を誤魔化そうとしていたんだ。
妹の命よりも、自分が勤める会社の名誉を優先した冨美枝を、そしてその意見に賛成した大樹を、俺はもう母親と父親とは呼ぶ気が起こらなかった。
「やっぱ、お前らクズだ……それも救いようのない、ゲスの極みだよ」
俺のため息混じりの言葉に、二人は黙って下を向いていた。
「全部わかったよ、テメェらが考えてること。話してやろうか?」
「「……」」
「黙秘権の行使は、ここでは無意味だよ。まず、はなは確かに事故死だ。持ち出した薬を飲み込んでしまったのは、他殺ではない」
「「……」」
「しかし、それすらもバレたくなかったのは、テメェらの名誉のためだ。薬品を勝手に持ち出したなんて知られたら、研究員としてはクビ、有名大学教授だって、皆から変な目で見られるしよ」
「「……」」
再び黙り続ける二人に、俺は完全に主導権を握っていると感じ不敵な笑みを溢す。このまま全部喋ってやろう。コイツらの最後の顔が楽しみだ。
悪役気分に酔いしれる俺は、偉く身分を上げたようにどんどん言葉を紡いでいく。追い込まれたように徐々に肩を落としていく冨美枝の表情と言ったら、なんと滑稽なものか。念願であった、親への復讐を間近に迫った俺は声のトーンを上げていく。
「……つまり、テメェらは時効を果たすべく黙ってたんだよなぁ?」
「「……」」
これで止めだ。
「テメェらクソは、こうして、はなを消そうと……!?」
ボゴッ!!
突如俺の顔面に一つの拳が飛び込んでくる。じかに当たってしまった俺は、その勢いに押されるようにして、レジ袋と共にアスファルトの地面へと叩きつけられた。何とか両手をついて倒れたが、口許に違和感を感じてしまい、一度腕で拭ってみると、そこには赤い液体が付着しており、唇が切れてしまっていることを知らせる。
「テメェ、なにしやが……」
「……いい加減にしろッ!!このクソ息子がッ!!」
寝転ぶ俺の言葉尻は、大樹からの叫びによって覆われてしまい、彼からは先ほどまで見せていなかった恐ろしい眼光を向けられていた。どこか病んでいるようにも映っていた彼の姿はもう消え去り、俺のなかで見覚えがある、暴力団のような風貌を出している。
「誰のおかげで生活できてると思うッ!!誰のおかげで高校に通えていると思うッ!!そこらをわかっていないとは、とんだバカ息子めッ!!」
「テ、メェ……」
誰がクソだ、誰がバカだって?お前ら非道殺人者と比べれば、まだ俺の方がまともだぞッ!!
上から目線で言葉をぶつけてきた大樹に、俺は立ち上がって仕返ししようと試みた、そのときだった。
「ちょっとー、どうかしたんですかー?」
俺たち三人が一斉に顔を向けた先には、このアパートの大家さんが二階のベランダから、場違いな微笑みを見せて立っていた。背は俺よりも頭ひとつ分低く、白髪混じりで小太りの女性である大家さんから視線を受ける俺たちだが、ふと俺の前方から舌打ちの音が響く。
「……冨美枝、帰るぞ」
「は、はい……」
「テメェ、逃げんのかよ?」
「やなぎ……」
まるでヤクザのようにも見える大樹からは、口から血を垂らす俺を凍りつかせるように睨んでおり、俺は倒れながら見上げているままだ。
「来月からはお前に仕送りはしない。精々バイトでもして、自分の力で生活するんだな」
「へっ……今度は俺を殺す気かい?」
苦しくも蔑む笑みを出した俺だが、目の前の殺人者たちは踵を返して背中を向ける。すぐに高級車に乗り込んだマッドサイエンティストたちはエンジンを始動させて、アクセルを強く踏んだように走り去っていってしまい、まるでさっきまでの乱闘騒ぎは嘘のように夕日が照らしていた。
一時の嵐が過ぎ去ったこの駐車場で、唯ー存在していた俺はやっと、落ちた買い物袋を拾い、鬱々とした想いを抱きながら、俺の部屋がある二階へと向かうため、アパートの錆びれた階段をゆっくり上っていった。
ガチャ……
差し込んだ鍵を一回転させ、俺の城である入り口が開けられると、正面の開けっぱなしにしていた窓から生暖かい風がカーテンを揺らしていた。サンダルを脱いで、全身汗にまみれた俺は、少しひんやりとした床に裸足を着けて歩いてくと、すぐにパソコンやテレビの配線が入り乱れる部屋へとたどり着く。
誰もいない、俺一人だけがいる、この薄暗い空間では、外から聞こえてくる蜩の声だけが時を進めているようで、壁にかけられた丸時計の秒針を動かしていた。
西陽が差し込む八月の夕方は、すでに六時を回るところであり、一秒一秒刻々と流れている。
「……クソッ……」
バンッ!!
静かな空間に立ちすくんでいた俺は突如、持っていた レジ袋を壁に投げつけてしまい、中からは、買ってきた野菜や豚肉、そしてシャンプーが飛び出して床に転がる。
「……クッソッ……っざけんなよッ!!」
ドンッ!!
あの大樹に負けた悔しさと、あの冨美枝が企てた計画への憎しみが込み上げてくる俺は、部屋の中央に置かれたテーブルを右手を拳に固めて殴っていた。思い出したくもない、あの二人のムカつく顔が浮かぶなか、今度は左手もグーにしてしまう。
「クソッ……クソクソクソクソクソクソッ!!……クソッ……」
両手でテーブルを殴り続けて、大きな音を出していた俺は、拳から生じた痛みによって、徐々に冷静さを取り戻して静止していた。ふと、両手を広げて甲を眺めると、どちらも赤を超えて青く痛々しい姿をしており、右に関しては皮が抉られて出血しているのが目に映る。
再び静まり返ったこの部屋で、俺は手をぶら下げながら下を向いて、憎悪を抱かせる父母の存在を頭に浮かばせていた。
下手したら高校に通えなくなる……いや、それだけじゃない。このままだと、この城の家賃も払えず、ホームレス生活をすることになるし、大好きなネットゲームすらできなくなる……結局、俺はアイツらの奴隷なのかよ。豚小屋の家畜のように、ただ従って生きていくしかねぇのかよ。
悔しさで下唇を噛む俺には、この先の未来は絶望に染まったように感じてしまい、膝を折ってフローリングの床に座り込む。
親に、子は勝てない。たとえ親がどんなに悪かろうと、子はそれを受け入れなければいけなく、『親子』という漢字の姿通り、あたかも寄り添っているように見せて、後ろからついていかなければならないんだんだろう。それが出来ないのならば、死ぬしかない。社会的に無力な子の人生なんてそんなもんだ。弱い自分は、強い者の後ろで金魚の糞のようにして生きるしかないんだ。なんと単純でわかりやすい仕組みだろうか。
バタッ……
蜩の悲しげな鳴き声しか聞こえなかった俺の部屋で、ふと何か固い物が倒れた音が響く。気になって鬱顔を上げてみると、部屋の端に置いてある小さく低い正方形のテーブル上で、フクメが着けていた鬼の覆面と、ナデシコが大切にしていたヘアゴムと共に置かれていた、俺が似顔絵として描いた麻生はなの写真立てが倒れていたことに気づく。
「はな……」
ゆっくりと立ち上がった俺は歩きだし、仮想、麻生はなの似顔絵が描かれた写真立てへと、ボロボロで痙攣している手を伸ばす。その顔を覗くと、今にも動き出しそうに笑っているが、その明るさは逆に、今の俺を追い込んでいるようにも感じた。
憂鬱な表情を変えられない俺は、妹であったはなの笑顔を静かに眺めながら、独り言を漏らす。
「……お前だったら、どうするんだろうな?」
もうこの世界にはいない妹に質問する、そんな解決できるはずのない言葉を投げた俺は、最後に小さなため息をついて、フクメとナデシコの遺品の間へとゆっくり戻すことにした。
思い返せば、長くて、ある意味充実した一日だったのかもしれない。様々な人間や霊と遭遇したこの日は、しばらくは忘れられない一日になろう。だが……やっぱり、お前は今日も帰ってこないんだな……カナ……
フクメ、ナデシコ、そして妹のはなたちの遺品を上から見下ろしている俺は、そこにもいないカナの存在を考えていた。
部屋に差し込んでいた西陽もいつの間にか消えてしまい、部屋中が闇に包まれていく。気づけば蜩の鳴き声も止んでおり、今日も静かな独りの夜を迎えることとなったのだ。
皆様こんにちは。
昨日のハロウィンは、仕事先の先輩に代わって働いて過ごした田村です。正直、ハロウィン自体はあまり気にしていませんでしたが、それ以上にプリキュアの映画を観たかったです……
さて、今回もありがとうございました。なかなか重い話でしたね。書いてるこっちも辛いです。
しかし、これも物語に必要不可欠な要素です。どうか頭に入れておいてください。
次回はお盆二日目です。仕送りをしないと言われたやなぎは、今後どうやって生活していくのか?そして、カナはまだ帰ってこないのか?
また、来週お会いしましょう。




