二十二個目*罪と罰
ナデシコと共に鎖に縛り付けられたフクメは、俺たちに笑顔を見せていた。これで共に強制成仏されることを望んでいるが、それを必死でカナは止めようとする。
どうしてフクメはそんなことを思いだったのか?
羽交い締めとは、拘束や逮捕のときによく用いられており、格闘技を始め様々な場合に応用されている。鳥類の両羽の交わる部分から名称されたこの技は、相手の背後より、その両脇の下から腕を通して両手を後頭部において固めるものである。よく見られるのは、喧嘩の仲裁者が暴行を加えるであろう者の動きを止めるときであり、俺の周辺でも見たことがあるくらいだ。それは、今もそうである……
夜空の星たちはどんよりとした厚い雲に覆われているなか、このアスファルトに埋め尽くされた道路上で俺、麻生やなぎと霊のカナは、目の前で浴衣姿のフクメが、荒れ狂う悪霊のナデシコの後ろから羽交い締めのようにして動きを抑制している。地面からは黒光りする三本の鎖が、ナデシコに張られた三枚の御札の場所目掛けて飛び出しており、接触しているフクメもいっしょに、肩、お腹、膝の部分を巻いていた。
まったく身動きの取れなくなったナデシコは、真っ赤に光らせる目を大きく開けながらもがくようにしており、口からは粘りけの強いヨダレを垂らしている。
「はなヂェー!!ヂャまチュるなー!!」
怒りのナデシコが動く度に鎖の乾いた音が聞こえてくるが、ガッチリと固められた二匹の霊はそこから解放されずにいた。
隣で緊急事態だと言わんばかりのカナの気持ちがわかった俺は突如、強制成仏を始めようとした小清水千萩を止めて、少し歩けば触れられそうなナデシコを越して、無理をしているような笑顔を見せるフクメに目を向けていた。
「お前、いっしょに成仏されるつもりか?」
俺の言葉を聴いたフクメは、ニヤリと白い歯を見せていたが、俯いた様子に変わってしまう。
「……仕方ないんじゃない?こうしなきゃ、この子を捕まえられないと思ったし!」
妙に明るいトーンで話すフクメだったが、それは俺とカナには届いていないようだった。
「ま、まだ間に合うかもしれません!!この御札を剥がせば、きっと解かれるはずです!!」
焦りと恐怖を見せるカナはそう言っており、俺もすぐに彼女の言葉に賛成できた。この御札は屋上の地縛霊である湯沢純子を、鎖でぐるぐる巻きにしていたものと同じであり、屋上の入口に大量に貼られていた御札を剥がすと、湯沢は自身の地縛霊としての鎖のみとなって、ある意味解放されていた。それだったら、今ナデシコに付いている御札を剥がせば、きっとこの三本の鎖も無くなるに違いない。
俺が思考を進めるなか、隣で必死な表情のカナは前方に右手を伸ばしながら、御札を剥がそうとしてナデシコとフクメの方へと向かっていた。カナの右手は徐々にナデシコの肩の方へと進み、一枚の御札に触れようとしている。
「あれ!?ど、どうして!?」
驚きを隠せないカナは、ナデシコの肩に貼られた御札に触れていたが、まったく剥がせない様子が伺われた。何としてでも剥がそうとする彼女は、ついには両手で御札を取り払おうと試みるが結果は変わらない。
大きな焦燥に駆られるカナは続けるなか、ナデシコの後ろにいるフクメは鼻で笑って口を開ける。
「……無理だよ、カナお姉ちゃん。私たち霊では御札を剥がせない……純子ちゃんも言っていたよ……」
下を向きながら話したフクメの言葉には、俺はそのことを知らなかった身だが、長年霊として、また霊の相談役としても笹浦一高の屋上に存在する、湯沢純子という言葉が付くだけで説得力があった。あの熟練者が言うなら間違いない。いつもはひねくれている俺もここは素直に納得できた。
すると、フクメの言葉を聞いたカナはすぐに首を曲げて俺の顔を見ており、相変わらず焦りの表情を見せていた。
「だ、だったら麻生さんが剥がしてください!!人間である麻生さんなら、きっと剥がせます!!」
目の前にいるカナからの必死な叫びは俺に充分届いており、俺はすぐに頷いた。屋上の入口扉の内側から、湯沢を鎖付けにするために貼られていた御札は恐らく小清水によって剥がされていたことから、どうやら人間には剥がせるようだと考察できる。まだ予想の段階ではあるが、俺はカナに言われたとおり動きだし、御札へと手を伸ばそうとした。
「やなぎやめて……」
早口ながらも言い聞かせるような、フクメの静かな声は俺の歩みを止めてしまう。ハッと見開かれた俺の目には、狂うナデシコの後ろで小さく微笑むフクメが映っていた。
「お願いだからさ……剥がさないで」
最後にニコッと笑ったフクメだが、俺にはその心境が理解できなかった。
「どうしてだよ!?お前、このままじゃ魂が消されちまうんだぞ!」
「そうですよフクメさん!!それでは、今までずっと苦労して言霊を集めた意味が無いじゃないですか!!」
感情的になる俺に続いてカナも叫んでいたが、フクメは表情を変えずに首をゆっくり左右に振っていた。
「私は、これが一番の策だと思ったから気にしていない。それに、ここで御札を剥がしちゃったら、またナデシコが逃げちゃうかもしれないでしょ……だから、このままにして」
俺たちよりも歳上ではないかと思わせるナデシコの、優しさが満ちる落ち着いた言葉には、俺は彼女に返す言葉が見つからなかった。それでも考えを改めてもらおうと必死に説得するカナがいるが、フクメは固めた意志を変えず首を振っている。次第にカナの声は泣き叫ぶ物へと変わっており、ふと顔を覗くとその瞳は潤んでいた。
「それじゃあ……それじゃあ、フクメさんが目標としていた、無事に成仏されて天国に逝くことは、どうなってしまうんですか!?」
カナの悲壮な叫びに、フクメは目を閉じて少し悲しんだ様子をしていた。
「いいの、カナお姉ちゃん……これで……私が出した結論だから……」
凶悪犯罪者のように乱れるナデシコの声に負ける、フクメの静かな声が俺の耳に届いていた。カナが言った、フクメの目標としている成仏については俺も知っている。当時は天童彩としてこの世を生きていたフクメには、今から五十年前に恋人がいた。神崎透と名乗る恋人は今も生きており年齢は今のフクメにちょうど五十を足したものである。笹浦市の伝統的なお祭りのなか、雨のぬかるみのせいで崖から転落死してしまったフクメは当時の中学生の姿をしているため、この二人が当時は同い年だったとは想像することが難しい。そんな二人は、俺を経由して五十年来の会話をすることができたのだが、花火を見て思い出に耽る神崎の隣で、鬼の覆面を付けたフクメは号泣していた。それは、神崎が今も自分のことを忘れず愛していることがわかったことにより、彼の心に対するうれしさがあった。だがそれよりも、彼がこの世にいる限り私とは生きていたときのように会話もできず、姿も見てもらえないという悲しさが勝ってしまったからであろう。だからこそ彼女は、無事に成仏されて天国で神崎透と再会する、という目標を掲げていた。
しかしその目標は今、俺の目の前で無くなろうとしていた。微笑みを見せながらもどこか悲しみの念を感じさせるフクメは、暴れるナデシコをくい止めながら顔をカナに向ける。
「カナお姉ちゃん……短い間だったけど、いっしょに言霊集めに協力してくれて、ありがとう」
「ど、どうして、そんな別れの挨拶みたいに言うんですか!?」
悲しみのあまり、ついに瞳から涙を溢したカナは唇を噛み締めて見ており、眉間に皺を寄せていた。
「私さ、生きていたとき一人っ娘だったから、妹のようなナデシコもそうだけど、優しいカナお姉ちゃんといっしょにいれたことが、とってもうれしかったんだよ……カナお姉ちゃんと共に過ごした日々は、私にとっての宝物だよ」
「……そんな……」
ニコッと笑顔を見せるフクメに対して、大きな悲しみに駆られ絶望したようなカナは、崩れて地面に膝をつけてしまい、その勢いで地面には涙が落とされていた。
悲壮な表情に満ちたカナに笑顔を送っていたフクメは、少し顔を動かして、今度は俺と目を合わせ始める。
「やなぎ……」
「俺は認めねぇぞ。バカなお前の独断なんて……」
微笑むフクメに、怒りで声を震わせる俺は睨み付けるように立っていた。冗談じゃない……人に通訳とか手伝いとかさせておいて、最後は自分から成仏えていくなんて勝手過ぎる。確かにお前からは何の借りもない。だが、俺がお前に与えた貸しはいくらでもあるはずだ。御恩があれば奉公するのが日本の伝統的な思想だろ。中学生のお前だって習っているはずだ。
そうやって自分自身に言い聞かせていた俺の前で、悪霊を捕らえ続けているフクメはそっと口を動かす。
「最初に出会ったときは、なかなか怖がらなくて気持ち悪いやつだなって思ってた。しかも最後まで驚いてくれないんだもん……まったく~酷いよ……」
笑いながら呆れたように言葉を紡ぐフクメは、一度目を閉じてため息を漏らしていた。カナと同じように、人間に憑依して驚かせるのがこのフクメの特徴であるが、その対象の人間を驚かさない限りは、人間を中心とした結界からは出られない。実際にその結界に顔をぶつけて見せたフクメであり、恐怖などまったく感じていなかった俺は、暗にこいつを束縛していたのだと気付いた。だがそんなことを言われても、怖がれと言われて怖がるほど、俺は役者ではないし芸人でもない。
そんな無理難題を突きつけてきたフクメは、再びパッチリとした目を開けて俺を見つめる。
「……でも昨晩、カナお姉ちゃんだけじゃなくて、私の言霊集めを見届けてやるって言ってくれたときは、とてもうれしかったよ」
心から微笑んだ様子のフクメの言葉は、昨晩俺とカナが初めて共に布団に入ったときの会話を思い出した。
「お前、あのとき起きてたのか……」
「ゴメン……実は、カナお姉ちゃんにオンブされたときから起きてたんだ……」
エヘヘと困った顔を見せるフクメは、目線を下げてナデシコを見ていた。フクメの話は確かに真実だ。俺は昨日の夜カナに、言霊集めを見届けてやると言ったが、まさかお前まで聴いていたとは……それに外に出たときから起きてたってことは、俺たちがナデシコを見たときも聴いていたのか。だったらどうして目を開けなかったんだ?ナデシコに一番会いたがっていたお前がどうして……
俺の頭に疑問が浮かび上がるなか、フクメは目を閉じて言葉を続ける。
「……もちろん、夜中にナデシコがいたことも知ってる。だけど、カナお姉ちゃんの暗い話し方を聴いてたら、嫌な予感がしちゃってさ……あのナデシコが本当の意味で悪霊かもしれないって……だから恐くて起きずに黙ってたんだ……」
そう言いながらもナデシコを強く抱き締めるフクメからは、俺の頭にふと彼女の気持ちが過った。
「じゃあお前は、こうなることを予想していたのかよ……」
厳しい表情を見せながら答える俺に、再び目を閉じたフクメは小さく頷く。
「もしもナデシコが悪いことをしていたら、私が率先して止めてあげようと思ったの。どんな形になるかはわからなかったけど、まさかこんな風になっちゃうとはね……予想外って言ったら確かにそうだけど、でも、覚悟はできてるよ」
最後に強気の表情を見せたフクメからは、彼女の覚悟は確かに固まっていると感じた。そうか……お前はナデシコの豹変した姿に絶望していただけじゃなかったのか。彼女が予想を上回った犯罪者であることを知って、止めようとする決意が揺らいでいたんだな。そんな恐怖に打ち克てたからこそ、この場で一瞬の隙を見せたナデシコに飛び付いたんだ……
ナデシコを止めようとしていたフクメの気持ちを察した俺だが、正直彼女の意見には賛成できずにいる。もっと他に手段があるはずだ。そう思うなか、顔を下げていたフクメは、ふと目線を上げて俺と目を合わせた。
「……でも、正直言うと、これはこれで良かったって感じるんだ。やなぎには相当迷惑を掛けたと思うから、最後に御礼だけは言わせてね……」
微笑むフクメからの礼を聴いた俺は、ただ黙って思考していた。こいつをどうにかして強制成仏から逃れさせたい。正直、ナデシコはどうなってもいい……どうかフクメだけ助かる方法はないのか。
「ねぇ、やなぎ……こう言っててアレなんだけどさ……私の最後の願い、聴いてくれる?」
ああ、わかってる。お前が助かる道を必死で探すから少し黙っててくれ……そうか、どうにかしてナデシコを気絶させれば良いんだ。アイツが動かなくなればフクメも取り押さえる必要も無くなるじゃないか。興奮状態の悪霊とはいってもやってみる価値はあるはずだ。
「よしっ、わかった!」
意気込んで口にした俺の次に、浴衣姿のフクメはゆっくりと声を響かせる。
「ナデシコを、嫌いにならないで、あげて……」
必死に考えていて起こした血の廻りで、活性化していた俺の頭は一気に思考停止する。まるで自分の頭の中身を見られたように感じた俺は、微笑するフクメに目を見開いていた。ど、どうしてなんだよ……実の妹でもないし知り合いでもない、二日前に突然遭遇したそんな化け物に、どうしてそこまで想いを寄せているんだ。いくら一人っ娘だったからって、寄りにも寄ってそんなヤツに心を許すのか。お前はどこまでバカを突き通すつもりだよ。動物によって育てられた野生児の方がよっぽど頭が良いぞ。
フクメの気持ちなどまったくわからない俺が視線を送っていると、浴衣の霊は捕まえているナデシコを見ながら言葉を続ける。
「罪を憎んで、人を憎まず……やなぎが教えてくれたんだよ。確かに、ナデシコがこんな恐ろしい姿になっちゃうなんて、私は思ってなかったし、誰も思ってなかったよね。もう元には戻らないって聴いたときは本当にショックだった……だからね、私はこの娘の、義理の姉としてかな……この娘が元に戻るまでいっしょにいてあげようって思ったの……だって、私はナデシコが大好きだからさ」
依然としてもがいてるナデシコに優しく問いかけるように話したフクメは、取り押さえているのではなく、優しく抱き締めているように見えていた。片方の頭頂部で結んで同じ髪型でいる二匹の様子から、それはあたかも実の姉のようにも見え、瞳を閉じた顔をナデシコの肩に乗せて離そうとしない。
その姿を見ているのが辛く感じた俺は、ふとフクメから視線をそらして下を向いてしまう。要するに、私が犠牲になることでナデシコをどうか嫌わないでと言いたいのか……確かに俺はあのとき、お前にその言葉を送った……だがそれは人を憎まずであって、化け物を憎まずではない……人の姿をした化け物のナデシコが、元に戻る保証なんて無いのに……どうしてそこまでしていっしょにいてやろうとするんだ。
歯を噛み締める俺は、一気に顔をあげてフクメに言葉をぶつけようとした。
「だからって、お前が成仏されなくても良いじゃ……」
「やなぎっ!!」
俺の言葉尻に乗っかるようにフクメが突然吠える。ここにきてキレだした様子の彼女に驚いていたが、鬼のお面を後頭部に着ける女子中学生は、潤んだ目で笑顔を俺に見せていた。
「……これは今まで、やなぎが怖がらなかった罰なんだからね……」
目を細めた瞬間涙を一滴流したフクメに、ハッとした俺は背中を向けて再び下を向く。目線はすぐ下の地面におきながら、俺は僅かに喉を鳴らす。
「小清水……始めてくれ……」
「へ……」
傍で絶望していたカナの、弱々しい高音が先に聞こえると、その次に小清水のため息が耳に届いた。
「なんだ?突然止めろとは言うし、今度は……」
「いいから早くっ!!」
「お、おう……了解した」
小清水の顔を見ずに声を荒げた俺には、彼が驚いていることが伝わってくる。
「やなぎ、ありがとう……」
「ちょ、麻生さん!?どうして、どうしてですか!?」
落ちていたような言葉を言ったフクメのあと、泣き叫ぶような口調で話すカナは、膝で歩いて俺のシャツを掴みすがり付いていたが、俺はずっと俯いたまま振り向きもせず黙っていた。
止めてくれと嘆くカナの声が聞こえるなか、すぐに小清水から数珠が振られた音がし、呪文のような言葉が紡がれ始める。
「南無大慈悲救 苦救 難広大霊 感白衣観世音菩薩……」
彼が白衣観音経を放っている間、俺の後方からはフクメのため息が聞こえてくる。
「あ~あ。楽しかったなぁ……いろんな思い出ができて、充実した悪霊生活だったなー!いろんなことがあったけど、あったけどさ……グッ……グズッ……本当に……楽しがっだ……」
最後に完全に泣いているのがわかるフクメの声に、俺は辛くて見向きもしなかったが、俺のすぐ傍でカナは唖然として見ていた。
「フクメさーん!!」
「バカッ待てっ!」
突如フクメへと駆け出したカナに、俺は左手を伸ばしていた。すると、俺の手のひらはカナの左肩に載せることができ、外気温と変わらない温度が感じる。そのままカナの両肩を掴んだ俺は、彼女がフクメのもとに行こうとすることを阻止していた。
「やめろカナ!近づいたら、お前まで成仏されかねない!」
「離してください!!フクメさん!!フクメさーん!!」
パチッパチッパチッ……
俺の目の前で泣き叫ぶカナがいるなか、後方からは手のひらを叩いて三拝する音が聞こえた。その音が夜の静けさに溶け込むと、フクメとナデシコの足下に白い円が浮かび上がる。すると、その円からは白い光が放たれ始め、雲がかる夜空へと白い円柱が延びていく。その円内にいる二匹を取り囲むようにしながら、俺とカナの瞳を輝かせていた。
「う゛、う゛う゛……」
「はなヂぇ~!!は~な~ヂぇ~!!」
俺とカナの目の前で、壁を見せる白く円型の結界の中にいる始める二匹たちは苦しそうに顔をしかめている。地面から上空へと風が吹いているようで、二匹の髪の毛は逆立っているのがわかり、次の瞬間、ナデシコに貼られていた御札が飛び去ってしまい、黒い鎖が消えていた。だがそれは、まるで存在その物を昇華させてしまうような、物質を蒸発させてしまうような恐ろしい風であり、なお内部の二匹を苦しめている。それを目の前で見る俺は、想像するだけでも恐ろしいものに感じており、ぎょっとして固まっていた。
「南無仏 南無法 南無僧 南無救 苦救 難観世音菩薩 ……」
俺たちの後ろで小清水による御経が唱えれられるなか、それでもなお、フクメたちに近づいて白い結界に触れようとするカナは、泣きながらもがいている。
「離してください!!このままでは、フクメさんがーー!!」
あまりにも暴れるカナに、両手では抑えきれなくなった俺は、今度は俺が彼女を羽交い締めしていた。上半身を前後左右に振って暴れ狂うカナだったが、ふと彼女の制服にある胸ポケットからあるものが地面に落ちる。ポトッと小さな音を立てて落ちたのは、本日梨農園の手伝いが終わった頃に、フクメがカナに手渡した淡い赤色の巾着袋だった。落下した影響で口が開いた袋は、何やらチラチラと輝く中身が見えたため、気になった俺とカナはその巾着袋の中身を覗く。
「こ、これは……」
「お前、マジかよ……」
「怛只他奄 (とーじーとーおん) 伽羅伐多 伽羅伐多 伽訶伐多 羅伽伐多 羅伽伐多 娑婆訶 ……」
小清水の呪文が響くなか、カナのあとに驚いた俺に見えたのは、小さな袋の中で鮮やかに輝く三つの言霊だった。それは、今までフクメが集めた言霊の数と一致しており、コイツがカナにあげたのは匂袋ではなく言霊袋だったのかと気づいてしまう。
「あ~あ……カナお姉ちゃんのおバカさん。悲しいときに開けてって言ったのに……」
声を震わせながらも泣くことを堪えようとするフクメが呟くなか、三つの言霊から視点を換えたカナは、フクメに心からの泣き顔を見せ始める。
「もう、充分悲しいでずよ……」
二匹の顔が悲しみによって嗄れていくのがわかるが、フクメは口許を震わせながら笑顔を見せる。
「カナお姉ちゃん、あと四十一個だよ……まだまだたくさん集めなきゃだけど、どうか私の分まで……頑張ってね!!」
「フクメ、さん……」
最後に満面の笑みを見せたフクメだが、それは泣いているカナをより悲しませているのが伺えた。
「天羅神 地羅神 人離難 難離身 一切災殃化為塵 (いっさいさいおうかいじん)……」
小清水の起きてたは何回も復唱されているが、俺たちの目の前で目を見開かせる現象が起きる。笑顔を見せているフクメと赤目のままであるナデシコを取り囲む、白き円柱から風が吹き荒れ始め、徐々にその白さは増していき層が厚くなっていく。中に二匹の姿は次第にうっすらと見えづらくなっていくのがわかり、俺はただ黙って眺めていた。
「フクメさん……」
「カナお姉ちゃん……やなぎ……またねって言いたいけど、たぶん無理だから……さようなら……エヘヘ……」
「フクメさーーーーんっ!!」
フクメの涙を浮かべる無邪気な笑顔は白の光に包まれていくなか、赤色の瞳はまだ荒れ狂うように、後ろから抱き締めるフクメから逃れようとしていた。
「はなヂぇー!!はなヂぇよー!!」
内部から手を伸ばして脱走しようとするナデシコだったが、結界はガラスのようになっているのか、化け物の手を決して外に出さず張っていた。ドンドンと狭い結界を叩くナデシコがさらにもがくなか、涙を残すフクメの表情は凛としたものに変わっていた。次の瞬間、鎖から解かれたフクメはナデシコの肩を回して体面させる。
「ナデシコ!!もうやめて!!」
そう叫んだフクメは目の前の化け物を正面から抱き締める。赤色の目を持つ顔は浴衣の胸部分へと埋まるが、その刹那、二匹の霊は白い光の中に溶け込んでしまい、ついに俺たちからは彼女たちの姿が確認できなくなってしまった。そっぽを向いて顔をしかめる俺は、フクメの名前を叫び続けるカナを取り抑えながらいる。円柱から出てくる風は彼女の長い髪を揺らすだけでなく、流し続ける涙をも吹き飛ばそうとしていた。
「南無魔訶般若波羅蜜 」
小清水の御経が続くに連れて強さを増す風が、未だに俺たちの正面から吹き荒れるなか、その風はあるものを耳に運んでいた。
「はな……ヂて……」
「ナデシコ……思い出して、私、フクメだよ。アンタといっしょに遊んだお姉ちゃんだよ」
風は円柱の中にいる、フクメとナデシコの声を届かせている。それに反応する俺とカナは、目の前の真っ白な円柱を茫然と眺めていた。
「お姉……ちゃん……」
「……あーあ……終わっちゃったなぁ……」
姿や表情までは見えないが、フクメの諦めながらも明るく吹っ切れた言葉が聞こえる。そんな一言を聴いた俺には、今までのフクメとの生活がフラッシュバックしていた。最初は朝の登校で遭遇し、鬼の覆面を付けて俺を驚かそうとしていたっけな……
『誰か……助けて……』
それは全然怖くなくて、そこらの学園祭で催されるおばけ屋敷の方が、よほど出来上がっているとさえ感じさせた。そこからお前は、結界とやらに阻まれて俺たちと学校に行くが、正直煩くて授業に集中できなかった。水嶋からによる、お祭りの手伝いもお前を筆頭にしてやらされた。人助けなんてやりたくない俺をさ……でも、その手伝いを通してお前は記憶を取り戻したよな。神崎透と、対面とは言いがたいが、再会することができて……これで一件落着かと思ったら、今度はお前はこう言った。
『私、成仏は嫌だ!!』
正直俺は、コイツと今後の付き合いはお断りだった。またこのポルターガウストに苦しめられると思うと、俺の精神がストレスで崩壊してしまうと悟ったからだ。それからも俺たちといっしょに暮らしたお前は、いつも煩くて、いつも子どもっぽくて、手のつけようがないガキにしか見えなかった。
『この学校の七不思議調べようぜ!!』
湯沢純子に会うときだってそうだ。お前が、行きたいと、聞かないばかりに俺たちを七不思議にはめたよな。あのときは学校中を歩き回って、俺を過労死させようとしていな……
『純子ちゃん!!』
でも、そのおかげなのか、俺たちは湯沢純子を強制成仏から救うことができて、俺に関しては小清水千萩と、小学生来の話し相手に戻った。お前のワガママは恐ろしいくらい俺の生活を変えやがった……
『うわぁ!!ひろーい!!』
そして、梨農園の手伝い……これを手伝うことになったのも、確かお前のせいだ。おかげでこのザマだ……
『ナデ……シコかぁ。かわいい名前だな!!私はフクメ。よろしくな!!』
ナデシコと遭遇した俺たちだったが、お前はなんだかいつもとは違う、姉のような大人っぽい振る舞いが多く見られた。それは確かにナデシコの心も掴んでいるようだった。本当の姉ではない、お前にさ……
中身などもうまったく見えない円柱は、依然として俺とカナの前に立っており、そこから強い風が吹いている。夏の湿り気を含む強風からは、他にも湿っぽさを持ちながら俺の顔、そして俺の耳にも届いていた。
「はぁ……ゴメン、透……もうアンタとは会えそうにないや。勝手に約束破ってゴメンね……だからさ、これからはさ……アンタの記憶の中で存在きさせてね……」
弱々しい独り言は最愛の男の名前を呼んでおり、その本人がこの現場にいない分より儚さを生んでいた。
「お姉、ちゃん?……いい匂いの、お姉ちゃん……」
「ナデシコ……戻ってる……」
静かに告げるフクメの声はどこか驚いているようにも聴こえた俺たちは、見えない円柱の内部状況に察しがつく。ナデシコが、もとに戻った……きっとそれは、初めてフクメに抱きついたときに嗅いだ匂いで……
驚きで声も出ない俺は、涙を抑えきれないカナを抱き締めて耳を傾ける。
「いい匂い……癒チャれる~」
ナデシコの声は先程までの恐ろしいトーンとはうって代わり、俺たちが知る幼女の声が聴こえてくる。
「ナデシコ……そうだよ、ナデシコの好きなお香の匂いだ……」
「フクメお姉ちゃん!!大チュき!!……あれ、ここはどこ!?」
「ゴメンね、ナデシコ……私たち、消えちゃうんだってさ……」
「消え、ちゃう?……やだ……ヤダヤダヤダヤダ!!そんなの恐いよー!!」
「大丈夫さ……私がずっと傍にいるから……ほら、さっきまでの苦しみも無くなってきたし、きっと大丈夫さ」
「フクメお姉ちゃん……」
声が震えて泣いている声のナデシコに、相変わらずフクメの優しい声が響く。見えなくてもあの二人が抱き合っている情景が浮かび上がる俺には、フクメが最後までナデシコの立派な姉であるような感じさえしていた。
「ねぇ、フクメお姉ちゃん……」
「ん?」
「もっと、ギュッて、抱きチめて……」
「ああ、もちろんさ!ホレッ!」
「……キャハハ!!フクメお姉ちゃん、だーいチュきっ!!」
「ああ……私も……ナデシコのことが、だーい好きだよ……」
「フフフ、うれチい!」
「なぁ、ナデシコ……」
「なに、フクメお姉ちゃん?」
「私はさ、ナデシコの本当のお姉ちゃんではないけど、それでも、これからはずっといっしょにいてくれるか?」
「もチろんだよ!!フクメお姉ちゃん!!大チュきなフクメお姉ちゃんといっチョなんて、チあわチェだよー!!」
「ありがとうナデシコ……これからも、ずっと……ずっとず~っと、二人でいっしょだ。だからよろしくな、ナデシコ……イヒヒ」
「……うんっ!!」
「悪霊退散!!」
パリーン!!
「いやぁぁぁぁああーーーーー!!」
小清水の叫びよりも大きい、今日一番の悲鳴をあげたカナが崩れるなか、俺たちの目の前にあった円柱が、突如としてガラスのような破片へと変わり、その内部にいた二匹の姿が消えていた。光輝くその破片は辺りを照らしていて一見美しくも見えるが、それは儚くも、フクメが嫌いだった花火のように輝き散っていた。
目の前の出来事に舌打ちをしてそっぽを向いた俺が立っていると、正面から胸ぐらを掴まれていた。
「どうしてよ……」
俺の胸ぐらを両手で握り締めるカナは、下を向きながら声を漏らしていたが、次の瞬間、彼女の怒りに満ちた顔が向けられる。
「どうして強制成仏したのよ!?天童彩は、悪霊ではなかったのにっ!!」
普段は誰に対しても敬語を主として話してきたカナだったが、このとき初めてコイツのため口が聞こえてくる。
涙を浮かべながら俺に恐ろしい表情を見せるカナには、言い返す準備はできていた。俺は、そっぽを向いたまま目を閉じて言葉を漏らす。
「俺にとっては、悪霊だからだよ……魂を粗末にするようなヤツは、悪い存在である証拠だ……」
俺の言葉が終わると、胸ぐらの締め付けは徐々に解かれていくのを感じるが、頭のなかはフクメのことで埋め尽くされていた。俺がお前を怖がらなかった罰……クソ……こんな想いするくらいなら、ホラー映画でも観て怖がりかたを学んでおくべきだった。罰がこんなに苦しいと、罪は相当重いものだったんだな……
ふと目を開けて正面を見た俺には、膝をついて両目から滝の涙を流すカナが声をあげていた。彼女から聞こえる悲痛の叫びは、徐々に俺の目線を下げていく。気づけば、俺は自分の足下へと目線を換えており、目の前のカナの姿すら見えなかった。
「麻生くん!!」
俺の後ろから二つ駆け足と共に、まずは水嶋の声が聴こえた。
「麻生くんが助けてくれたんだよね。小清水くんから聞いたけど、悪霊を成仏することができて良かったね!!ねぇ篠塚さん?」
「う、うん……麻生くん、助けてくれてありがとう」
「うっせぇよ……ゴミ共……」
二人の元気を取り戻したような声に対して、俺の心の叫びは口から出てしまっていた。だが、後悔はしてない……こんなヤツラ、今はどうでもいい。
「水嶋……篠塚……」
踵を返して背後にいた二人の方に体を向けた俺は、目線を下にしたまま、僅かに口だけを動かす。
「もう……俺とは関わんな……」
「ちょっと……それ、どういう意味かな?」
「み、水嶋さん!」
顔をひきつる水嶋を、篠塚は動きを止めるように生徒会長の片腕を掴む。
「そのままの意味だ……お前らは邪魔だ……消えろ」
下を向いていた俺には、水嶋の右手が拳となって震えているのが見えた。
「どうしてよ!?」
「水嶋さん!!落ち着いて!!」
水嶋の怒号を受けた俺だが、見えていた水嶋の拳は篠塚の後ろ姿に変わってしまい、彼女が正面から水嶋を止めていることが伺われる。
「どうしてそういう言い方しかできないのよ!?篠塚さんはね、麻生くんのこと、前からずっと好きだったのに!!」
「私のことはいいから!!水嶋さん帰ろう!!」
「酷すぎるよ!!麻生くんなんて、大ッ嫌い!!」
エキサイトする水嶋が目の前にいたが、俺はびくともせず聞き流していた。
ピトッ……ピトッ、ピトピトピトピト……ザー……
喧しい水嶋と篠塚の気配が消えると、夜空からは雨が降り注ぎ、なかなか大きな雨粒が俺を滴らせていた。晴れも嫌いだが雨も嫌悪する俺は、外で濡れるなんて考えられないほど嫌いだ。だが、今日だけは気にならなかった……いや、気にしてなどいられなかった。
夏の月が隠れて真っ暗になった空から雨が降るしきるなか、アスファルトの路上で泣き崩れたカナの瞳からも大量の雨が打ち付けられている。彼女何度も地面を叩きながら泣いていたが、ふとその泣き顔が前方に向けられていた。
「あ、あれは……」
小さな声で囁いたカナは、フラフラっと立ち上がり歩みだす。先程、フクメとナデシコたちを取り囲んでいた円柱の場所に向かうと、カナは膝を折って何かを両手で拾う動作をしていた。
それを目にした俺もカナの隣に行くと、彼女の手には、フクメが後頭部に着けていた鬼の覆面が包まれていた。
「フクメさん……ゴメンなさい……」
まるで遺品となった鬼の覆面を抱き締めるカナは、再び顔をくしゃくしゃにして涙を流していた。
夏の雨とカナの涙を浴びながら、その覆面も泣いているように見えた俺は、変な熱いものが込み上げてしまい、辛さのあまり目をそらす。すると、前方に向けられた俺の目には、地面にもう一つ落ちている、小さきものが見えた。片手で摘まんでゆっくりと拾い上げた俺は、その落とし物をまじまじと眺めていた。
「ナデシコの……ヘアゴム……」
俺はその茶色のヘアゴムを見ながら呟いていた。これはあのとき、フクメがナデシコにヘアゴムをあげたものであり、二匹が同じ髪型になったきっかけのものだ。フクメの覆面があるということは、これは恐らくナデシコのヘアゴムであろう。強制成仏によって遺品があるとすれば、ナデシコのものであるに違いない。
俺はそのヘアゴムを、最初は地面に落として捨てようとも考えたが、フクメに言われた言葉を思い出して強く握りしめた。ナデシコを嫌いにならないで、か……罪を憎んで、人を憎まず……でも今は、罪人を憎まずに、罪すら背負っていないお前を恨みそうだ……
フクメによって与えられたナデシコのヘアゴムを、俺は固く握りしめながら腕時計を見て、再び地面に顔を落としていた。
上空からの雨ですでにずぶ濡れになった俺は、ただ固まって下を向いていた。ザーザーと音をたてる雨のなか、後ろからは足音が聞こえてくる。
「やなぎ……水嶋に嫌われたんじゃないのか?どうしてあんな言い方しかできないんだ?」
ため息をついて呆れた様子の小清水が、俺の背中越しで話しかけていたが、俺は振り向かずに立っていた。黙ってろ、小清水……今、俺の頭のなかは、これでいっぱいいっぱいなんだよ……
八月某日、午後八時三十四分。天童彩通称フクメ、及び篠塚翠通称ナデシコ……それぞれ遺品を遺して……共に、消失。
皆様こんにちは。終わる終わると言いながらまだ終わらない、終わり詐欺師の田村です。
今回は一番労力を費やした回でした。個人的にフクメちゃんの存在はお気に入りでしたので、私が一番ショックを受けています。
余談ですが、私は物語を創る際、様々な歌をヒントにしています。今回の話は、whiteeeenという歌手が唄う『ポケット』という歌からヒントをもらいました。もしよかったら聴いてみてください。
では次週もよろしくお願いいたします。次回こそこの章を終わらせて新たな章に入ろうと思います。ちなみに、最終章です……




